沈黙する羊たちと、プラスチックの玉座
2025年、春。
『世界政府(パンゲア)樹立記念式典』の前日。
ネオ・トウキョウの中心に新設された『G20宮殿』。その最深部にある「玉座の間」は、新築特有の刺激臭で満たされていた。
接着剤の揮発した酸っぱい匂い、真新しい絨毯の化学繊維の匂い、そして壁面に塗られた金粉塗料の金属臭。
それらが、強力な空調によって循環し、冷たく乾燥した空気となって私の肺を満たしている。
私は、ホールの中央に鎮座する「玉座」を見上げていた。
高さ三メートル。背もたれには、地球(円盤型)を鷲掴みにする黄金の鷲の彫刻が施されている。座面には深紅のベルベットが張られ、肘掛けには拳ほどの大きさのダイヤモンド(人工ダイヤだが)が埋め込まれている。
悪趣味だ。
まるで、一昔前のRPGのラスボスが座る椅子だ。
あるいは、パチンコ屋の新装開店の花輪のような、安っぽい豪華さ。
「……座り心地はどうだ、阿久津」
背後から、革靴の音が近づいてきた。
権藤だ。
彼は仕立て下ろしのモーニングコートを着て、満足げにホールを見回している。
「最悪だよ」
私は玉座の肘掛けを撫でた。ひんやりとしていて、どこかプラスチックのような感触がする。
「硬いし、冷たい。長時間座ってたら痔になりそうだ」
「我慢しろ。これは『権威』の象徴なんだ」
権藤は笑い、玉座の隣に立った。
「明日、全世界の指導者たちがここにひれ伏す。その光景を見れば、痔の痛みなんて忘れるさ」
私はため息をつき、どっかと玉座に腰を下ろした。
視線が高くなる。
ホールの入り口まで続く、長さ100メートルのレッドカーペット。その両脇には、明日参列する各国の代表者たちが座るパイプ椅子が、定規で測ったように整然と並べられている。
静かだ。
あまりにも静かすぎる。
明日は10万人が集まる式典だというのに、前日の準備特有の「熱気」や「喧騒」が全くない。
「なぁ、権藤」
私は聞いた。
「スタッフはどこだ? リハーサルはやらないのか?」
「やっているさ。……見ろ」
権藤が指差した先、ホールの隅で、数人の清掃スタッフが働いていた。
彼らはモップを持ち、床を磨いている。
だが、その動きがおかしい。
キュッ、キュッ、キュッ。
全員が、全く同じリズム、全く同じ角度、全く同じ歩幅でモップを動かしている。
まるで、コピー&ペーストされた動画を見ているようだ。
汗もかいていない。雑談もしない。表情筋一つ動かさず、ただ機械的に「床を磨く」というタスクを処理している。
「……なんだあれ」
私は背筋が薄寒くなった。
「『最適化』された労働者だよ」
権藤は事もなげに言った。
「博士が開発した『労働支援チップ』を埋め込んで、脳波を同期させている。無駄な動きがないだろう? 休憩もいらない、文句も言わない。最高のスタッフだ」
私は清掃員の一人を凝視した。
若い男性だ。目は開いているが、瞳孔が開いたままで、瞬きをしていない。
時折、彼の動きが一瞬止まり、また同じ動作を繰り返す。
カクッ、カクッ。
処理落ちだ。
この世界のCPUリソースが限界に達し、モブキャラのモーション演算を省略しているのだ。
「……人間じゃねえな」
私は呟いた。
「ただの背景オブジェクトだ」
「人間だよ。戸籍もあるし、家族もいる」
権藤は冷淡に言った。
「ただ、彼らは『思考』を放棄しただけだ。……我々が与えた『安楽な生活』と引き換えにな」
権藤はタブレットを取り出し、私に見せた。
そこには、最新の世論調査の結果が表示されていた。
『G20世界政府への支持率:99.8%』
「見てみろ、この数字。圧倒的だ」
権藤の声には、達成感よりも、どこか退屈そうな響きがあった。
「反対派はゼロだ。デモも起きない。暴動もない。……あまりにも簡単すぎた」
私は数字を見つめた。
99.8%。
独裁国家の不正選挙でも、もう少し謙虚な数字を出すだろう。
だが、これは不正ではない。事実なのだ。
花子の宗教による洗脳、金田の経済支配、鬼瓦の恐怖政治。
それらが完全に機能し、人類は思考停止の羊(シープ)へと成り下がった。
私は立ち上がり、ホールの窓際に歩み寄った。
防弾ガラスの向こうに、ネオ・トウキョウの街並みが広がっている。
高層ビル群。空中を行き交うドローン便。整備された道路。
美しい未来都市だ。
だが、そこには「生活の匂い」がなかった。
通りを歩く人々が見える。
彼らは皆、同じような服を着て、同じような速度で歩き、同じような店に入っていく。
喧嘩をしている者もいない。酔っ払って寝ている者もいない。
整然として、清潔で、そして死んでいる。
「俺が描きたかったのは、こんな世界だったのか?」
私はガラスに映る自分の顔に問いかけた。
二八歳の若々しい肉体。だが、その目は五〇歳の疲れた男のままだ。
漫画『海賊王』で、私は「壁をぶっ壊せ」と煽った。
「自由を掴み取れ」と叫ばせた。
だが、その結果生まれたのは、自由を放棄し、壁の中で飼われることを選んだ家畜たちの楽園だった。
「……なあ、権藤」
「なんだ?」
「俺たち、やりすぎたんじゃないか?」
私が言うと、権藤は肩をすくめた。
「今更なにを言う。……それに、もう止まれない」
彼は天井を指差した。
「博士が言っていた。この世界の『容量』がいっぱいだと」
「容量?」
「ああ。俺たちが歴史を変え、技術を進歩させすぎたせいで、このシミュレーション世界のメモリを食いつぶしているらしい。……住人たちがNPCみたいになってるのは、彼らの『自我』を維持するだけのリソースが残っていないからだ」
ぞっとした。
あの清掃員の動きがおかしいのは、チップのせいだけじゃない。
世界そのものが、彼らを「人間として描画すること」を諦め始めているのだ。
「じゃあ、このままだと……」
「いずれフリーズするか、強制終了(クラッシュ)するだろうな」
権藤はポケットから葉巻を取り出し、火をつけた。
紫煙が、空調の流れに乗って吸い込まれていく。
「だが、それまでは俺たちの天下だ。……明日、世界皇帝として即位し、歴史に名を刻む。その直後に世界が消滅したとしても、俺たちは『勝者』として終わるんだ」
刹那的だ。
だが、それが我々G20の本質だった。
未来なんてどうでもいい。老後の安泰さえ確保できれば、その後の世界がどうなろうと知ったことではない。
典型的な「焼畑農業」的な生き方。
私は玉座に戻った。
深紅のベルベットに背中を預ける。
やはり、座り心地は最悪だった。
背中の鷲の彫刻が、背骨に当たって痛い。
シーン……。
ホールには、空調の音と、清掃員のモップの音だけが響いている。
キュッ、キュッ、キュッ。
その規則的なリズムは、壊れかけた時計の秒針のように、世界の終わりを刻んでいた。
私は目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、あの薄汚れた居酒屋『酔いどれ天国』の光景だった。
安酒の匂い。煙草の煙。同級生たちの愚痴。
あそこには「不満」があった。「後悔」があった。
だが、今のこの世界には、それすらない。
あるのは、バグったプログラムが吐き出す、肯定と服従の文字列だけ。
「……つまんねえな」
私は独りごちた。
世界を手に入れた感想が「つまらない」だなんて、なんて贅沢で、なんて空虚なんだろう。
その時、ホールの巨大な扉が開き、金田と麗子が入ってきた。
彼らは明日の衣装の試着を終えたらしい。
金田はダイヤまみれのマントを、麗子は胸元の開いたきらびやかなドレスを着ている。
「見てよ阿久津! この王冠、重すぎて首が折れそう!」
金田が嬉しそうに悲鳴を上げる。
「私はどう? マリー・アントワネットも裸足で逃げ出すでしょ?」
麗子がくるりと回る。
彼らの笑顔は、底抜けに明るかった。
この世界の破綻なんて、気にしていない。
今、この瞬間の快楽だけを貪っている。
私は苦笑いした。
そうだ。これでいい。
俺たちは所詮、そういう生き物だ。
沈没寸前の豪華客船で、最後までシャンパンを飲み続ける三等客室の成金たち。
「似合ってるよ。……二人とも、最高のピエロだ」
私は玉座から立ち上がり、彼らの方へ歩き出した。
明日は式典だ。
最後の大芝居。
このプラスチックでできた偽物の世界で、最高のエンディングを演じてやろうじゃないか。
窓の外で、一瞬、空の色が緑色に変わったような気がした。
だが、私はもう見なかったことにした。
バグ上等。
俺たちは、エラーの中で踊るのだ。
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