第9話 「雨の中の真実」

1

 火曜日の朝、蓮は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。

 窓の外を見ると、空は灰色の雲に覆われている。今にも雨が降り出しそうな空模様だった。

 蓮は、ベッドから起き上がり、制服に着替えた。

 鏡の前で髪を整えながら、今日が運命の日だと改めて実感する。

 放課後、椿と話す。

 それが、どんな結末になるのか。

 蓮は、深呼吸をして、部屋を出た。

 リビングに降りると、母が朝食の支度をしていた。

「おはよう、蓮。今日は早いわね」

「うん……今日、椿と話すことになったんだ」

「そう」理沙は微笑んだ。「頑張ってね。お母さん、応援しているわ」

「ありがとう」

 蓮は、母の作ったトーストとコーヒーを急いで食べて、家を出た。

 駅に向かう道すがら、空を見上げる。

 雲は、どんどん濃くなっている。

 まるで、これから起こることの前兆のようだ。

 電車の中で、蓮は何度もスマホを確認した。

 椿からの新しいメッセージはない。

 彼女は、今、何を考えているのだろうか。

 学校に到着すると、既に多くの生徒が登校していた。

 昇降口で靴を履き替え、教室に向かう。

 教室のドアを開けた瞬間、蓮は息を呑んだ。

 椿がいた。

 彼女は、自分の席に座って、教科書を読んでいた。

 いつもと変わらない、普通の朝の風景。

 だが、蓮にとっては、何もかもが特別に見えた。

「おはよう、蓮」

 颯太が声をかけてきた。

「あ、おはよう……」

「天海さん、来てるな。良かったじゃん」

「うん……」

 蓮は、椿の方をチラリと見た。

 彼女も、こちらを見ていた。

 目が合う。

 椿は、小さく微笑んだ。

 その笑顔は、いつもの明るい笑顔ではなく、どこか寂しげだった。

 蓮は、自分の席に座った。

 心臓が激しく鼓動している。

 今日一日、どう過ごせばいいのか。

 放課後まで、この緊張に耐えられるだろうか。


2

 一時間目の授業が始まった。

 英語の授業で、教師が教科書を読み上げている。

 だが、蓮の頭には全く入ってこなかった。

 椅子に座っているだけで精一杯だった。

 休み時間になると、椿は友人たちと普通に話していた。

 笑顔を見せて、冗談を言い合っている。

 その様子を見て、蓮は少し安心した。

 椿は、立ち直りつつある。

 少なくとも、学校生活には戻ってきた。

 だが、同時に、不安も感じた。

 椿は、自分とはまだ普通に話せないのだろう。

 だから、友人たちといる時だけ、明るく振る舞っているのかもしれない。

 二時間目、三時間目と授業が続いた。

 蓮は、時計ばかり見ていた。

 時間が、異常に遅く感じられる。

 昼休みになった。

 蓮は、颯太と一緒に購買に向かった。

 パンを買って、教室に戻ろうとした時、廊下で椿とすれ違った。

「あ……」

 二人は、立ち止まった。

 椿は、サンドイッチの袋を持っている。

「こんにちは」椿が先に声をかけた。

「こんにちは……」

 気まずい沈黙が流れた。

 颯太は、空気を読んで先に教室に戻って行った。

「あの、椿……」

「放課後ね」椿は、蓮の言葉を遮った。「それまで、待っててくれる?」

「うん、わかった」

 椿は、小さく微笑んで、屋上に向かって行った。

 蓮は、その後ろ姿を見送った。

 放課後まで、あと数時間。

 だが、その数時間が、永遠のように感じられた。


3

 午後の授業も、蓮にとっては拷問のようだった。

 数学の公式も、歴史の年号も、全く頭に入らない。

 ただ、時計の針が進むのを待っているだけだった。

 窓の外では、雲がどんどん濃くなっている。

 雷の音が、遠くから聞こえてきた。

 午後三時を過ぎた頃、ついに雨が降り始めた。

 最初は小雨だったが、すぐに激しくなった。

 雨粒が窓ガラスを叩く音が、教室中に響く。

「すごい雨だね」

 クラスメイトたちが、窓の外を見ながら話している。

「傘持ってきてない……」

「私も。どうしよう」

 蓮は、鞄の中を確認した。

 幸い、折り畳み傘が入っている。

 だが、問題は屋上だ。

 この雨の中、屋上で話すことはできないだろう。

 どこか別の場所にしなければならない。

 蓮は、スマホで椿にメッセージを送ろうとした。

 だが、その前に、終業のチャイムが鳴った。

 ホームルームが終わり、生徒たちが帰り支度を始める。

「この雨じゃ、部活も中止かな」

「早く帰ろう」

 教室が、だんだん人が減っていく。

 蓮は、席に座ったまま、椿を待っていた。

 椿も、まだ席に座っている。

 友人たちが声をかけるが、彼女は「先に帰って」と言って断っていた。

 やがて、教室には蓮と椿、そして数人の生徒しか残っていなくなった。

 椿が立ち上がった。

 そして、蓮の方を見た。

「行こう」

「うん」

 二人は、教室を出た。

 廊下を並んで歩く。

 雨の音が、校舎全体に響いている。

「屋上、行けないね」椿が言った。

「うん……どこか他の場所にしよう」

「図書館は?」

「人がいるかもしれない」

「じゃあ……」椿は少し考えた。「音楽室は? 放課後は誰も使ってないはず」

「わかった」

 二人は、音楽室に向かった。

 階段を上り、廊下を進む。

 蓮の心臓は、激しく鼓動していた。

 音楽室のドアを開けると、中は誰もいなかった。

 グランドピアノが、部屋の中央に置かれている。

 窓からは、雨に打たれる校庭が見えた。

 二人は、ピアノの近くに立った。

 沈黙が流れる。

 外の雨の音だけが、部屋に響いている。


4

「蓮くん」

 椿が、口を開いた。

「手紙、ありがとう。何度も読み返したよ」

「うん……」

「正直に言うね」椿は、蓮の目を見つめた。「最初に真実を知った時、すごくショックだった」

 蓮は、黙って聞いていた。

「だって、ずっと憧れてた作家さんが、隣にいたなんて。それを教えてくれなかったなんて」

 椿の声は、少し震えていた。

「それに、私たちの関係を、小説にして、みんなに見せてたこと。それも、最初は許せなかった」

「ごめん……」

「待って」椿は、蓮の言葉を遮った。「最後まで聞いて」

 蓮は頷いた。

「でもね、手紙を読んで、蓮くんの気持ちがわかった。あなたが、どうして隠していたのか。どうして『桜月』として書いていたのか」

 椿は、ピアノの鍵盤に触れた。

 柔らかい音が、部屋に響く。

「あなたも、私と同じだったんだね。本当の自分を出せなくて、苦しんでいた」

「うん……」

「でも、私と一緒にいる時は、本当の自分でいられたって、手紙に書いてあった」

 椿は、蓮の方を向いた。

「それ、私も同じだった」

「椿……」

「私ね、ずっと明るく振る舞ってきたの。家が大変だって、お金がないって、そんなこと周りに悟られないように」

 椿の目に、涙が浮かんだ。

「でも、蓮くんと一緒にいる時は、そんなこと気にしなくて良かった。ありのままの自分でいられた」

「僕もだよ」蓮は言った。「椿と一緒にいる時が、一番楽だった」

 二人は、見つめ合った。

 雨の音が、二人を包み込んでいる。

「ねえ、蓮くん」椿は涙を拭いた。「私、最初は『桜月』さんに憧れてた。でも、今は違う」

「違う……?」

「うん。今は、桜庭蓮という人が好き」

 椿は、はっきりと言った。

「作家としてじゃなくて、一人の人間として。不器用で、臆病で、でも優しくて、真面目な蓮くんが好き」

 蓮の胸が、熱くなった。

「それに」椿は少し笑った。「蓮くんが『桜月』だったって知って、むしろ嬉しかった部分もあるの」

「嬉しかった……?」

「うん。だって、私たちの物語を、あんなに素敵に書いてくれたんだもん。私の気持ちを、あんなに丁寧に描いてくれたんだもん」

 椿は、蓮の手を取った。

「最初は、勝手に書かれて嫌だって思った。でも、読み返してみたら、蓮くんが私のことをどれだけ大切に思ってくれてるか、わかったの」

「椿……」

「だから、もう怒ってないよ。というか、怒れない」

 椿は、涙を流しながら笑った。

「好きな人が、私のことをあんなに美しく書いてくれるなんて、幸せなことだよね」

 蓮も、涙が溢れてきた。

「ありがとう、椿」

「こちらこそ、ありがとう」椿は言った。「私を、あんなに素敵に描いてくれて」

 二人は、抱き合った。

 雨の音の中で、互いの温もりを感じる。

 これが、本物の感情だ。

 演技でも、小説でもない。

 現実の、本物の愛情だ。


5

 しばらく抱き合った後、二人は離れた。

「これから、どうする?」椿が尋ねた。

「どうするって?」

「私たち、これからも一緒にいられる?」

「もちろん」蓮は強く頷いた。「もう、秘密はない。これからは、全部正直に話すから」

「私も」椿は微笑んだ。「もう、変な意地張らないようにする」

 二人は、笑い合った。

 その時、雷が鳴った。

 大きな音が、校舎を揺らす。

 椿は、驚いて蓮にしがみついた。

「怖い……」

「大丈夫、すぐ止むよ」

 蓮は、椿を抱きしめた。

 窓の外では、雨が激しく降っている。

 だが、音楽室の中は、二人だけの静かな空間だった。

「ねえ、蓮くん」

「ん?」

「これから、新しい物語を書く?」

「新しい物語……」

「うん。『偽りの距離』は終わったけど、私たちの物語はまだ続くでしょ?」

 椿は、蓮の目を見つめた。

「だから、これから起こることを、また小説にしてほしいな。もちろん、今度は私の許可をもらってからね」

 蓮は、椿の言葉に笑った。

「うん、約束する」

「タイトルは何にする?」

「そうだな……」蓮は少し考えた。「『本物の距離』はどう?」

「いいね!」椿は目を輝かせた。「偽物から本物へ。完璧だよ」

 二人は、また笑い合った。

 雨は、まだ降り続けている。

 だが、二人の心は、晴れやかだった。

 蓮は、窓の外を見つめた。

 雨に打たれる木々、流れる水たまり。

 全てが、新鮮に見えた。

 まるで、世界が生まれ変わったかのように。

「帰ろうか」椿が言った。「お母さん、心配してるかも」

「うん。送っていくよ」

「ありがとう」

 二人は、音楽室を出た。

 廊下を並んで歩く。

 雨の音が、まだ響いている。

 昇降口で、蓮は傘を開いた。

「一緒に入って」

「いいの?」

「もちろん」

 二人は、一つの傘の下に入った。

 肩が触れ合う距離。

 互いの温もりを感じながら、雨の中を歩く。


6

 駅までの道を、二人はゆっくりと歩いた。

 雨は相変わらず激しかったが、二人にとっては心地よい雨だった。

「ねえ、蓮くん」

「ん?」

「今度、私の家に来ない? お母さんに紹介したいんだ」

「本当に?」

「うん。偽物の恋人じゃなくて、本物の恋人として」

 蓮は、嬉しくなった。

「喜んで。僕も、椿のお母さんに会いたい」

「お母さん、きっと喜ぶよ。私が誰かを家に連れてくるなんて、初めてだから」

 椿は、少し照れくさそうに笑った。

 駅に着いた時、雨は少し弱まっていた。

「じゃあ、また明日」椿が言った。

「うん、また明日」

 椿は、改札に向かおうとして、立ち止まった。

 そして、振り返った。

「蓮くん」

「ん?」

「大好きだよ」

 椿は、満面の笑みでそう言った。

 蓮も、笑顔で答えた。

「僕も、大好きだよ」

 椿は、改札を通って、ホームへと向かった。

 蓮は、その後ろ姿を見送った。

 雨はまだ降っているが、空の一部が明るくなり始めている。

 もうすぐ、雨は上がるだろう。

 そして、虹が出るかもしれない。

 蓮は、スマホを取り出し、メモアプリを開いた。

 そして、新しいタイトルを打ち込む。

『本物の距離』

 これから、新しい物語を書こう。

 椿との、本物の物語を。

 偽りではない、真実の物語を。

 蓮は、駅を後にして、家路についた。

 心は、希望で満たされていた。


7

 家に帰ると、母がリビングで待っていた。

「おかえりなさい。ずぶ濡れじゃない」

「傘、持ってたんだけど、雨が強くて」

 蓮は、タオルで髪を拭きながら答えた。

「天海さんとは、話せたの?」

「うん」蓮は微笑んだ。「全部、話せた」

「そう。良かったわね」

 理沙は、息子の表情を見て、全てを察したようだった。

「お母さん、椿のお母さんに会いに行ってもいい?」

「もちろん。いつ?」

「来週末、予定を聞いてみる」

「じゃあ、お母さんも一緒に行こうかしら。ご挨拶したいし」

「ありがとう、母さん」

 蓮は、部屋に戻った。

 窓を開けると、雨は上がっていた。

 空には、薄く虹がかかっている。

 蓮は、その虹を見ながら、ノートパソコンを開いた。

 小説投稿サイトにログインする。

 そして、新しいページを作成した。

『本物の距離 ―― 第一話』

 蓮は、キーボードに指を置いた。

 そして、文章を書き始める。

『雨が上がった後、空には虹がかかっていた。

僕と彼女は、その虹を見上げながら、笑い合った。

これから、どんな物語が待っているのか。

まだ、僕たちにはわからない。

でも、一つだけ確かなことがある。

もう、嘘も秘密もない。

これからは、本物の感情だけで、生きていく。

それが、どれだけ素晴らしいことか。

僕たちは、ようやく知ったのだ』

 蓮は、最初の一話を書き終えた。

 そして、投稿ボタンをクリックする。

 新しい物語の始まりだ。

 椿との、本物の物語。

 蓮は、窓の外の虹を見つめた。

 虹は、だんだん薄くなり、やがて消えていった。

 だが、蓮の心には、希望の光が灯っていた。

 これから、どんな困難が待っていても、椿と一緒なら乗り越えられる。

 そう信じて、蓮は新しい一日を迎える準備をした。


第9章 完

(次章へ続く――半年後。蓮と椿の関係は、周囲に認められ、深まっていく。蓮は、初めて本名で小説を発表する決意をする。そして、新しい物語の始まりが待っている……)

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