部屋とウンコと僕と女

いぬがみとうま

『部屋とウンコと僕と女』


  一


 僕の結婚生活は、スタートアップ企業の寿命よりも短かった。

 三十歳を迎えた直後の離婚。世間的には「バツイチ」というレッテルを貼られる事態だが、僕の心境は違った。ダメージなどない。むしろ、目の前に広がる広大な「独身市場」というブルーオーシャンに、歴戦のノウハウを持って再エントリーできることに武者震いすら覚えたのだ。


 「強くてニューゲーム」だ。


 ふとした瞬間に訪れる寂しさは、あくまで脳内の化学物質の欠乏によるエラー信号に過ぎない。僕はそのエラーを修正すべく、ひたすら「女子を抱く」というプロジェクトに精を出した。


 これは遊びではない。ビジネスだ。


 合コンは「仕入れ」の場である。その日のうちに成果(持ち帰り)が出なくとも、僕は淡々と見込み客のリスト、すなわち「リード」をジェネレートし続ける。

 ナンパは飛び込み営業(コールドコール)。断られるのがデフォルトだが、数打てば当たる確率論の世界だ。

 LINEはメルマガ配信(ナーチャリング)。定期的な接触で顧客の温度感を高める。

 マッチングアプリは大規模な展示会。プロフ画像というポスターの前で、自社製品のスペックをプレゼンする。

 そしてキャバクラは異業種交流会。ここでは即決を求めず、人脈と会話のスキルを磨く。


 僕のPDCAサイクルは高速で回転していた。全ては、夜のコンバージョンを達成するために。


  二


 しかし、都内の恋愛市場には深刻なインフレの波が押し寄せていた。

 「野生の女子」一人と深い関係になるまでのプロセス――お茶、映画、食事、バー、そしてホテル――これらを正攻法で踏破すると、CPA(顧客獲得単価)は優に五、六万円に達する。

 三十歳の男にとって、これは持続可能なビジネスモデルではない。ROI(投資対効果)が悪すぎるのだ。


 コストカットのためには、プロセスを劇的に短縮するしかない。

 レストランもバーもホテルもショートカットし、最初から自宅というゴール地点へ誘導する。これこそが最強のソリューションだ。


 だが、警戒心の強い現代女性をどうやってマンションへ誘引するか。


 僕は徹底的な市場調査を行った。知り合いの女子会へ参加もしたし、自ら座談会も開催した。リサーチに金の糸目をつけてはいけない。

 結果、ペットという「撒き餌」が有効であることは明白だった。


 犬や猫? あざとい上に維持費がかかる。

 熱帯魚? 情熱が伝わらない。

 爬虫類? ニッチすぎて市場が狭まる。


 消去法で残った最適解、それが「ウサギ」だった。

 僕はすぐさまペットショップへ向かい、五千円の仔ウサギを購入した。茶色くて、 少しお腹が緩いその個体に、僕は「ウンコ」と名付けた。


 ふざけているわけではない。愛おしい排泄物という哲学的なメタファーであり、このネーミングこそが後のマーケティング戦略の核となる。

 ケージや給水器などの初期投資二万円は、未来への必要経費として計上した。


  三


 舞台は整った。

 初デートの際、アルコールが適度に回り始めたタイミングで、僕はスマホを取り出す。

 待ち受け画面には、奇跡的なライティングで撮影された愛くるしい仔ウサギ。


「わあ、かわいー! 飼ってるの?」


 食いつきは上々だ。ここで僕は、少し困ったような顔で告げる。


「うん。名前は『ウンコ』っていうんだけどね」


「ええー! なにそれ、かわいそう(笑)」


 女子たちの間に、「可愛いものへの愛着」と「下品な単語への背徳的な笑い」が同時に巻き起こる。この感情の揺さぶりこそが狙いだ。


 そして、畳み掛けるように僕は時計を見る。


「実は今日まで出張でさ。早く帰って水と餌をやらないと、あいつ死んになっちゃうんだよ」


 緊急性の演出。弱き命を救うという大義名分。

 僕は帰り支度を始め、最後に捨て台詞のように提案する。


「家、ここから近いんだけど……ウサギ、見る?」


 この問いかけに対し、彼女たちは無意識のうちに僕の敷いたレールの上を走らされることになる。


「えー、どうしようかな……でも」


 迷う彼女は自分の背中を押す。先ほどのインパクトあるネーミングだ。


「ウンコ見たいー」


 可憐な唇から紡ぎ出される「ウンコ見たい」というフレーズ。そこには、日常ではあり得ない言葉を発することへの高揚感と、深夜のテンションが混在している。


 僕はその言葉を聞くたび、腹の底で黒い優越感が渦巻くのを感じながら、涼しい顔でタクシーを止めるのだ。


  四


 自宅のドアを開けると、リビングへ続く廊下には、あえて不自然に積み上げられた百セットのトランプが鎮座している。


「うわ、トランプ多っ! なんで?」


 当然の反応だ。ここで僕は、哀愁を帯びた声色でストーリーを語る。


「離婚して一人になったばっかで、夜が長すぎてさ。誰に見せるわけでもないけど、手品の練習をしてるんだ」


 孤独な男の、無害な趣味。彼女の警戒心は、同情心へと書き換えられる。


「めっちゃすごいよ!」


「えー、見たい!」


 見たくなくても「見たい」というのが日本人のいいところだ。

 僕はトランプを取り出し、彼女にサインを求め、それを小さく四つ折りにする。


「口を開けて」


 彼女は素直に従う。僕はサインされたカードを彼女の口内に含ませる。

 僕もまた、自分のサイン入りカードを口に含む。


「キスをすると、カードが入れ替わるのよ」

「うそだー!」

「マジなの! だから、入れ替わらないように、歯を閉じててね!」


 リビングの間接照明とダウンライトが、彼女の潤んだ瞳を照らし出す。

 二人の距離は三十センチ、二十センチ、そしてゼロになる。

 マジックを成立させるための、あくまで論理的で必然性のある接触。

 唇が触れ合う。

 

 それはキスであって、キスではない。あくまでカードを入れ替えるための作業だ。しかし、その「作業」の間に流れる数秒間、互いの鼓動の音と、微かな吐息の熱交換だけが世界を支配する。


 身体を離し、僕が彼女の口からカードを取り出すと、そこには僕のサインがある。僕の口からは彼女のサイン。


 マジックは成功だ。だが、そんなことはどうでもいい。


 大切なのは「キスをした」という既成事実。


 沈黙が落ちるリビングで、彼女は思い出したように言う。


「そうだ!……ウンコ、見たい」


  五


 ベッドルームのドアを開けると、そこには僕の最強のソリューション、ウサギのウンコがいた。


 彼は期待通り、ケージの中で藁をモシャモシャと食べている。


「わあ、ほんとにいた。ウンコかわいいー」


 彼女はベッドに腰掛け、ケージを覗き込む。


「抱っこしていい?」


 ここが最終関門だ。僕は即座に却下する。


「やめたほうがいい。噛むから」

「えー」


 抱っこ出来なくて残念がる彼女を、すかさず僕が抱っこする。


 論理の飛躍も甚だしい行動だが、もはや彼女にそれを拒む理由は残されていない。

 僕のスマホの待受画面に食いついてしまった時点で、すでに術中にハマっておったのだよ。


 そこから先は、いつもの業務フローだ。


   *


 翌朝。

 彼女は手際よく化粧を直し、また一つ、僕の「リード」から「既存顧客」へとステータスを変えようとしていた。


 玄関先でヒールを履き、彼女は振り返る。

 その表情は、満足げでもあり、どこか騙されたような不服さも含んでいた。


 そして、鋭利な刃物のような一言を僕に突き刺して出て行った。


「ウンコ見せてくれるって言ったのに、チンコ見せられた」


 ドアが閉まる音と共に、静寂が戻る。

 僕は一人、廊下で立ち尽くした。



 今月、ウサギのウンコが亡くなって五年が経った。

 結局、ずっと僕のそばにいてくれたのは君だったね。本当にありがとう。

 僕の大切な友達だったウンコにこのエッセイを捧ぐ。



――お楽しみいただけたでしょうか?

率直なご評価をいただければ幸いです。

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