神宮寺霊異探偵事務所 ─神に力を授けられた男─
あちゅ和尚
第1話 歌舞伎町のスナックで
新宿・歌舞伎町。
ネオンの光が、夜空を薄く染めていた。
呼び込みの声、タクシーのクラクション、どこかの店から漏れるカラオケ。
雑多でうるさいはずの音が、ここでは日常のBGMになっている。
その一角、細い路地に面した古い雑居ビルがある。
エレベーターは止まったきりで、「故障中」の紙がいつからか貼られたまま。
階段を上がった3階の奥に、小さなプレートがぶら下がっていた。
──神宮寺探偵事務所。
プレートの下には、小さく「霊的なご相談も可」と書き添えられている。
今夜、その事務所の明かりは落ちていた。
代わりに、同じビルの2階にあるスナックの扉が開いている。
「スナック 燈(あかり)」。
カウンターの奥から聞こえる女の笑い声と、氷の当たるグラスの音。
そのカウンターの端に、1人の男が腰掛けていた。
神宮寺篤志、50歳。
元・10tトラック運転手、現在は霊が見える探偵。
背広は着ているが、仕立てのいいものではない。
白いシャツの袖を少しまくり、指先でロックグラスを弄んでいる。
顔つきは穏やかだが、目だけは妙に冴えていた。
「神宮寺さん、そろそろ本当に看板出したら?」
カウンターの内側から、ママが声をかけてきた。
この店の女主人、東雲(しののめ)美咲。40代半ば。
歌舞伎町の裏も表も、ある程度は知っている女だ。
「看板なら出してますよ。階段の上ですけど」
「そういう意味じゃなくてさ。ほら、“霊が見える探偵やってます”って、もっとはっきり書いたらどうって話」
「……それ、怪しすぎませんか」
「もう十分に怪しいわよ。夜の歌舞伎町で、スーツ着た50歳の男が“霊の相談もどうぞ”なんて言ってる時点で」
ママは楽しそうに笑いながら、神宮寺のグラスにウイスキーを少し足した。
神宮寺は苦笑して、ほんのひと口だけ飲む。
アルコールが喉を温めていく感覚を確かめるように。
カウンターの上、誰にも見えない場所に、もう1つの気配が立っていた。
黒い着物姿の男。
長身で、髪は後ろでひとつに結ばれている。
表情は乏しいが、眼だけが鋭く光っていた。
神宮寺の守護霊、朧(おぼろ)。
子どもの頃に直した山の祠。
朽ちかけた木の柱に、幼い手で板を打ちつけ、屋根にブルーシートをかけた。
その祠に宿っていた神が、数十年後、トラック事故で死にかけた神宮寺にこの朧を送りつけた。
以来、神宮寺の背中には、常にこの男が張り付いている。
『そろそろ本気で宣伝してもいいと思うけどな』
朧の声が、神宮寺の耳ではなく、頭の内側に響いた。
『せっかく生き残ったんだし、仕事は多い方がいいだろ』
『ここで営業トークを始める気はないよ』
神宮寺は、グラスを口に運びながら心の中で返した。
『それに、あんまり大々的にやっても、変な奴まで来る』
『もう来てるじゃないか』
朧は、店内を一瞥した。
カウンター席とボックス席。
酔ったサラリーマン、ホスト風の男、キャバ嬢らしき若い女。
その間を、いくつかの薄い影がゆらゆらと漂っている。
肩に小さく乗る影。
足元にしがみついている影。
背中から覗き込むように張りついている影。
大半は、ここから動けない“弱い残り香”のような存在だ。
『あれは、まだ放っておける。問題を起こしていない』
『まあな』
朧は、退屈そうにカウンターの端に腰を下ろした。
その時、扉のベルがチリンと鳴った。
振り向くと、1人の女性が入ってきた。
黒いスーツに、白いブラウス。
年齢は20代後半か、30代の入り口くらい。
「いらっしゃい」
ママが笑顔で出迎える。
「こんばんは。……あ、やっぱりいた」
女性の視線が、神宮寺を捉えた。
「神宮寺さん、ですよね。名刺、もらったことあります」
近づいてきた女は、少し緊張した様子で頭を下げた。
「前に、ここでご一緒しました。村上沙耶です」
「ああ、不動産会社の」
神宮寺は、思い出して頷いた。
以前、この店で隣の席になった客だ。
歌舞伎町周辺の雑居ビルやマンションを扱っている会社に勤めていると聞いた。
「覚えていてくださって、よかったです」
村上は、空いている隣の席に腰を下ろした。
「ママ、生ビールください」
「はいよ」
ビールジョッキがカウンターに置かれ、村上はそれを片手に持つ。
けれど、すぐには口をつけなかった。
神宮寺は、その様子を黙って眺めていた。
言葉を探している人間の間合いだ。
「……相談、ですよね」
神宮寺が先に口を開いた。
「名刺を覚えているお客さんが、わざわざ1人で来る夜は、大体そうです」
村上は、一瞬驚いた顔をしたあと、苦笑した。
「噂通りなんですね。人の気持ちが読めるって」
「読めませんよ。ただの経験則です」
そう言いながらも、神宮寺はわざと視線をずらさずに、村上の目を見た。
反らされるかどうか、確認する。
村上は、逃げなかった。
ただ、少しだけ眉を寄せた。
「……笑わないで聞いてくれますか」
「仕事の話なら、笑いません」
そう答えると、ママが空気を読んだように、少し離れたボックス席の方へ移動していった。
カウンターのこの端だけ、周囲のざわめきから少し切り離されたような空間になる。
村上は、ジョッキに口をつけ、ほんの少しだけ飲んだ。
喉を潤してから、ゆっくりと言葉を選び始める。
「会社で管理しているビルのひとつに、最近空き部屋が出たんです。
歌舞伎町と職安通りの間にある、古い雑居ビルなんですけど」
神宮寺は、内心で位置関係を思い描いた。
あのあたりは、小さなバーやスナック、美容サロン、風俗店が入り混じっているエリアだ。
「そこの5階の一室を、うちの会社の若い子が内見に行ったんです。
そしたら、その日から様子がおかしくなって」
「体調を崩した?」
「体調もそうですけど、それより……“見える”って言い出して」
村上の声が、少し細くなる。
「白い女が、エレベーターの前に立ってる、とか。
誰もいないのに、廊下の奥から足音がついてくる、とか。
最初は、疲れてるだけだと思ったんです」
「その子は、元々そういうものが見えるタイプでは?」
「違います。普通の子です。
霊とか信じていないし、ホラーも苦手で」
村上は、両手でジョッキを包んだ。
「それで、2回目の内見のあと、とうとうエレベーターの中で倒れたんです。
目を開けたまま固まった感じで、しばらく反応がなくて、救急車を呼びました」
「検査の結果は?」
「異常なし、って。ストレスじゃないかって言われて終わりです」
神宮寺は、グラスの中の氷が音を立てるのを聞きながら、村上の話を追った。
「ビルの持ち主は、“そんな話は聞いたことがない”って言い張ってます。
でも、正直、内見に行く社員が怖がってて、このままだと仕事になりません」
「会社としては、どうするつもりなんですか」
「正直に言えば、“何でもいいから何とかしてほしい”って感じですね。
事故物件に認定されてしまうと、値段を落とさないといけませんし、
そうなるとオーナーと揉めるんで」
『人間の事情の方が、よっぽど複雑だな』
朧が、小さく嘆息した。
神宮寺は、村上に問う。
「その部屋、何か履歴は?」
「少し前に、長く住んでいた男性が亡くなっています。
病死って聞いていますけど、部屋の中で亡くなったので、
一応、社内では事故扱いにしています」
「事件性は?」
「警察も来たみたいですが、事件性なし。
近所の人の話だと、“少し変わった人だった”くらいで」
村上は、そこまで言ってから、言い淀んだ。
「もうひとつ、変な話があって」
「どうぞ」
「亡くなった男性の部屋の家賃の振り込みが、
死んだあとも、2か月分だけ続いていたそうなんです」
神宮寺は、思わずグラスを持つ手を止めた。
「誰が?」
「名義は本人のままです。
ただ、銀行口座はもう動いていなかったはずで……詳しいところは、まだ調べ切れていません」
『ほう』
朧の目が、興味を帯びる。
『生きてる人間の方も、なかなかややこしそうだ』
神宮寺は、意識的に呼吸を整えた。
霊がらみの話と、金の流れの話。
この組み合わせは、簡単には終わらないことが多い。
「それで、うちに?」
「はい」
村上は、小さく頷いた。
「ママに相談したら、“ここに変な探偵がいる”って言われて。
霊が見えるなら、本当にそういうものがいるのか、見てほしいんです」
神宮寺は、ママの方をちらりと見る。
東雲美咲は、知らん顔をして他の客と談笑している。
しかし、こちらの会話に耳を傾けているのは、表情で分かった。
「……仕事として依頼する、ということでいいですね」
「はい。もちろん、お金は会社からきちんとお支払いします」
村上は、鞄から名刺入れを取り出し、自分の名刺と、ビルの情報が書かれたメモを差し出した。
「明日の夜、ビルの鍵をお渡しできます。
神宮寺さんが見に行く時間に合わせて、現地でお待ちします」
神宮寺は、名刺とメモを受け取り、確認する。
住所。
ビル名。
部屋番号。
「承りました」
神宮寺は、グラスをテーブルに置いた。
「明日の21時に現地集合でどうですか。
その時間なら、周囲の店も動いているでしょうし、
“静かすぎる夜”になるよりはいい」
「分かりました。21時に」
村上は、少しだけ表情を緩めた。
「本当に、見えるんですよね」
「見えます」
神宮寺は、はっきりと言った。
「見えるし、聞こえます。
できる限り、その人の話も聞きます。
……その上で、部屋を“普通の部屋”に戻すのが、こちらの仕事です」
村上は、ゆっくりと息を吐いた。
「そんなふうに言い切る人、初めて見ました」
「トラックを運転していた頃は、こんな仕事をするとは思っていませんでしたけどね」
神宮寺は、自嘲ぎみに笑う。
高速道路での多重事故。
ぐしゃぐしゃになった運転席。
血と油と、焦げた匂い。
意識が途切れる直前、どこかで見覚えのある木の匂いがした。
あの山の祠の、雨に濡れた木の匂い。
目を覚ました時、病室の天井の隅に、朧が立っていた。
──今日から、お前の後ろにいる。
それが、最初に聞いた言葉だった。
『思い出話はあとにしろ』
朧が、軽く咳払いした。
『明日は、あのビルか。人の匂いと、別の何かが混じっている感じがするな』
『まだ行ってもいないだろ』
『お前が受けた時点で、だいたい想像はつく』
朧は、口の端だけを少し上げた。
『まあ、霊がいたら、俺が片づける。
お前は、話を聞いて、筋道をつけろ』
『分かってる』
神宮寺は、グラスの残りを飲み干した。
「ママ、お会計を」
「いいの? もう少し飲んでいけば?」
「明日、現場に行く前に、頭を冴えさせておきたいので」
ママは、少し寂しそうにしながらも頷いた。
「じゃあ、その代わり、ちゃんと生きて帰ってきてよ。
変なビルと変な霊に連れていかれました、なんてオチはやめてね」
「気をつけます」
神宮寺は、カウンターに代金を置き、村上に軽く会釈した。
「明日、現地で」
「はい。……お願いします」
店の扉を開けると、歌舞伎町の夜の空気が流れ込んできた。
酒とタバコと排気ガスが混ざった匂い。
階段を上がり、自分の事務所の前を通り過ぎる。
ドアに指を触れ、鍵がかかっているのを確かめるだけにして、そのまま階段を降りた。
『今日は、もう現場を見に行かないのか』
「行かない」
神宮寺は、小さな声で答えた。
「こういうのは、約束した時間に行った方がいい。
依頼人も、霊も。どちらに対しても」
『律儀だな』
「それが、まだ生きている側の礼儀だと思っているだけですよ」
街のざわめきの中を、神宮寺は歩き出した。
ネオンの光が路面に反射し、その上を車のライトが流れていく。
明日、5階の一室で、自分は何を見るのか。
生きている人間の事情と、死んだ人間の言い分。
どちらがどこまで絡み合っているのか。
答えは、あの部屋のドアの向こうにある。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます