第二章:理解不能の価値

(ディア視点)



「あの男は……何なのですか」



自室に戻ったわたくしは、胸の内に渦巻く感情を、どう処理すればいいのかわからなかった。

濡れた傘や泥の跳ねた靴がカーペットを汚さぬよう、使用人が慌ただしく出入りするのをぼんやりと見ていたが、彼らの不手際さえ、今日はなぜか頭に入ってこない。



完璧なはずの一日だった。豪雨さえも予定通りの舞台装置のはずだった。

ところがあの夜道で、わたくしの人生に泥が跳ねた。

その発端は、役立たずのSPたちでもなく、バーストしたタイヤでもない。



あの男──庶民の、泥と油の臭いがしそうな、得体の知れない男。

彼が、わたくしの世界に、予期せぬひび割れを入れたのだ。


許せない、屈辱だ、なぜわたくしが。


「執事。先ほどの男の身元、至急調査を」


「はっ、かしこまりました。数時間お待ちくださいませ」


わたくしは寝台に身を沈め、静かに瞳を閉じた。

氷のように冷たいまなざしを、そのまま記憶の中でなぞる。

あの男は、恐れも躊躇もなく、むしろ退屈そうにわたくしの車へ声をかけてきた。

その無関心さ──いや、あれは無関心ではない。

値踏みすらしない「対等」の距離感。


まるで、わたくしがダイヤモンドであることなど、どうでもいいと言わんばかりだった。



あの視線が──許せなかった。


(不純物が、ダイヤモンドのわたくしを見下ろすなど……)



そう思い込もうとするのに、どこか胸の奥に引っかかりが残った。



~~~



数時間後、執事が調査報告書を手に戻ってきた。


「お嬢様、先ほどの青年についての情報でございます」


厚みのある紙束。そこには、わたくしが価値がないと一蹴してきたものばかりが並んでいた。


ラーメンのチェーン店、百円ショップ、立ち食いそば、ボロアパート、深夜バイト、学費ローンの残高まで。どれも値札にすらならない泥だらけの世界。

読むほどに吐き気を覚えた。



だが、ページをめくる手が止まらなかった。


安物のラーメンで友人と笑い、百均で必要最低限のものを買い、終電ギリギリまでコンビニで働き続ける日々。

わたくしなら一秒も耐えられない生活。

そこには、わたくしの価値観では測れない『何か』が確かに存在していた。


「……くだらない。これの、どこが価値ですの?」


小さく呟きながらも、心のどこかで認めざるを得なかった。



わたくしの知る世界──完璧で、隙がなく、価格が全ての世界。

その外には、無数の不純物が息づいている。

そこでは、価格にできない絆とか努力とか共感といった、理解不能な通貨が流通している。


(価値とは……価格だけじゃない?)


否定しようとした。

だが、彼のあの無造作な手つき、どこか優しげだった声色、あれがなければ、わたくしもあの土砂降りの中で車ごと孤立していたに違いない。



『あそこの角を曲がった先に、ガソスタがある』



たったそれだけの言葉に、どれだけ救われたか。認めるのが屈辱でならない。


(救いとは、価格で買えないもの?)


その疑念が、完璧なはずの世界を、じわじわと蝕んでいく。


「……確かめなくてはなりませんわ。あの男が持つ理解不能の価値とやらを」


わたくしは立ち上がる。鏡に映る自分──光を跳ね返すプラチナブロンド、寸分の乱れもない縦ロール。

完璧な衣装。そこに、ほんの僅かな焦燥の色が混じっているのを、自分自身が一番よく知っていた。


「執事。あの男にお礼を伝える場を設けなさい」


「かしこまりました、お嬢様。ご希望は?」


「最高級のフレンチ。パリから新しく招いたシェフの店ですわ。──価値の本質が何か、きっちり思い知らせて差し上げますの」



完璧なショーケースの中へ、あの男を引きずり込む。



それが、わたくしの新しい実験の始まりだった。

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