第2話 優雅なるステータス極振り
聖女エヴァンジェリンとしての生活が始まって数時間。俺は早くもこの世界――いや、この「クソゲー」の洗礼を浴びていた。敵は魔物ではない。装備品だ。
「……重い。鉛でも仕込んであるのか、このドレスは」
鏡の前で俺は独りごちた。聖女の正装である純白のドレス。幾重にも重なったレース、金糸の刺繍、そして何より内側に仕込まれたコルセットとパニエ。これらを合計した重量は優に十キロを超えている。対するエヴァンジェリンの肉体スペックは、筋力(STR)3。これは一般的な成人男性の平均を10とするなら、幼児か小動物レベルの数値だ。歩くだけでスタミナゲージがゴリゴリ削れていくのが体感できる。
「なるほどな。聖女が塔から出られないのは幽閉されているからだけじゃない。この『呪いの装備(ドレス)』のせいで物理的に動けないようにデバフをかけられているんだ」
俺はため息をついた。ゲーム画面越しには「ふーん、豪華な衣装だな」くらいにしか思っていなかったが、いざ自分が着るとなると話は別だ。これは拘束具だ。可憐な鳥を籠の中に閉じ込めておくための、美しい鎖。
だが、俺のゲーマー魂が逆に燃え上がった。初期装備がゴミ?移動速度にペナルティ?上等だ。そんな縛りプレイ(制限プレイ)、RTAでは日常茶飯事だ。装備が重くて動けないなら、装備の重量を誤差だと感じるくらいまで、本体(素体)のスペックを上げればいいだけの話。
俺は再び、脳内にステータスウィンドウを展開した。
【MP:9999(限界突破)】
【スキル:聖女の祈り(極大回復)、浄化の光、聖なる結界……】
攻撃魔法は一つもない。清々しいまでの完全サポート特化型だ。だが、このMP量は異常だ。ラスボスですらMP5000程度という設定だったはず。やはり聖女という存在は、世界システムにおける「魔力タンク」なのだろう。
「この無尽蔵の燃料(MP)を、すべて筋肉(エンジン)の出力変換に回す」
俺はドレスの裾をまくり上げ、太ももに装着されていたガーターベルトの位置を直した。これから行うのはこの世界の常識を冒涜する禁断のレベリングだ。
◇
「……くっ、ぐぐぐ……ッ!」
広い自室の絨毯の上。俺は今、プルプルと小刻みに震えていた。ポーズは「平伏」。額を床に擦り付け、両手とおでこだけで身体を支える姿勢だ。傍から見れば、敬虔な信徒が神に五体投地して祈りを捧げているように見えるだろう。だが、その実態は違う。俺が行っているのは体幹トレーニングの王道「プランク」の変形版だ。
華奢な腕が悲鳴を上げる。腹筋が熱を持ち、千切れそうになる。STR3の肉体にとって、自重トレーニングすら高負荷のウェイトトレーニングに等しい。開始からわずか三十秒。限界が訪れる。筋肉の繊維がプツプツと断裂し、乳酸が爆発的に蓄積する激痛。
――今だ。
「……『ヒール(回復)』」
歯を食いしばりながら無詠唱で魔法を発動させる。瞬間、全身を淡い緑色の光が包み込んだ。灼熱のような筋肉の痛みが嘘のように消え去る。断裂した繊維が瞬時に結びつき、以前よりも強固な結合となって再生する。
「……ふぅ。よし、セット2、開始だ」
間髪入れずに再び筋肉に負荷をかける。通常、筋力トレーニングによる筋肥大(超回復)には四十八時間から七十二時間の休息が必要とされる。破壊された筋肉が修復される過程でより太く強くなるからだ。だが、俺には魔法がある。破壊、即、再生。破壊、即、再生。休息時間(インターバル)ゼロ秒の無限ループ。これを一日に数千回繰り返せばどうなるか?
一晩で数年分のトレーニング効果を得られる。これぞ回復魔法持ちだけが許された裏技(グリッチ)、『無限ビルドアップ』だ。
汗が滴り落ち、絨毯に染みを作る。呼吸が荒くなる。肺が酸素を求めて喘ぐ。だが、それすらもヒールで強制的にリセットする。苦痛はない。あるのは、確実に強くなっているという快感(スコア)だけ。
「聖女様、失礼いたします」
その時、ガチャリと扉が開いた。監視役のシスター・アンナだ。食事を運んできたらしい。俺はコンマ一秒の反応速度で体勢を変える。筋肉を限界まで収縮させたプランクの状態から、流れるような動作で正座へと移行し、胸の前で手を組む。
「……おお、聖女様……」
アンナが感嘆の声を漏らした。彼女の目には汗だくになりながら、一心不乱に床に額を擦り付けて祈っていた聖女の姿が映っているはずだ。滴る汗は祈りの熱誠によるもの。荒い呼吸は神との対話による消耗。そう解釈されるように俺は計算して演出している。
「シスター・アンナ……。申し訳ありません、祈りに没頭しておりましたわ」
俺――私(わたくし)は、肩で息をしながらも、聖母のような微笑みを向けた。 汗で濡れたプラチナブロンドが頬に張り付き、それが逆に艶めかしいほどの神聖さを醸し出している(はずだ)。
「なんと尊いお姿……。聖女様がそれほどまでに世界の安寧を願っておられるとは。それに比べて私など……」
「いいえ、アンナ。食事を運んでくれるあなたの働きもまた、神の御心に叶うものですわ。……置いておいてくださる?」
「は、はい!すぐに!」
アンナは感動に目を潤ませながら、ワゴンを置いて足早に退室していった。扉が閉まる音を確認し、私は「ふぅ」と息を吐く。
「チョロいな、アンナ」
まあ、まさか聖女がドレスの下で、海兵隊のブートキャンプ並みの筋トレをしているとは夢にも思うまい。私はワゴンからローストチキンを鷲掴みにし、行儀悪くかぶりついた。トレーニングにはタンパク質が必要だ。教会の食事は豪華で栄養バランスもいい。これも利用させてもらおう。
◇
夜が更けた。月明かりだけが照らす部屋で、私はコルセットを脱ぎ捨て、本格的な追い込みに入っていた。日中は「祈りのポーズ」に見える地味なトレーニングしかできなかったが、今は自由だ。
「オラオラオラオラァッ!!」
もはや声を作る必要もない。私は逆立ち状態で、高速腕立て伏せを繰り返していた。細い腕がモーターのように伸縮する。一回ごとに筋肉が千切れ、一回ごとに魔法で繋ぐ。STRの数値が視界の隅でカウントアップしていく。
3……4……5……。10……15……。
まだ足りない。教皇をぶん殴るには最低でもSTR50は必要だ。聖騎士団の鎧を素手で貫通するにはSTR100が安全圏(ボーダーライン)。教会の扉を蝶番ごと吹き飛ばすにはSTR200。
「ターン短縮だ。もっと負荷を上げろ」
私は片手になった。指二本になった。バランス感覚と体幹。VIT(耐久)も同時に上がっていく。ドレスが汗で透け、肌に張り付くが気にならない。鏡に映るエヴァンジェリンの肉体は見た目こそ変化はない――ヒールで修復しているため筋肉が肥大化してムキムキになることはないのだ――が、その中身は鋼鉄のワイヤーのように強靭な繊維へと置き換わっている。いわゆる「細マッチョ」の究極系。見た目は深窓の令嬢。中身は範馬(ハンマ)の血統。そのギャップこそが俺の最大の武器になる。
朝日が昇る頃、俺は満足感と共に床に大の字になっていた。心地よい疲労感すらない。ヒールで全回復しているからだ。俺は起き上がりサイドテーブルに置かれた銀の水差し(ピッチャー)を手に取った。水を飲もうとして取っ手を軽く握った瞬間。
グシャッ。
鈍い音が響いた。硬い銀製の取っ手が、まるで粘土細工のように俺の指の形にひしゃげていた。
「……あーあ」
俺は苦笑した。ステータスウィンドウを確認する。
【STR:258】
【VIT:310】
【備考:ゴリラ(推定)】
一晩で、レベル50の重戦士クラスのステータスを叩き出してしまった。これならいける。あの重かったドレスが今は羽毛のように軽い。俺はひしゃげた水差しを指先の力だけで元の形――よりも少し芸術的な形――に整えながら口角を吊り上げた。
今日は、教皇ベネディクトゥスが直々に「説教(洗脳)」に来る日だ。チュートリアルの最終イベント。本来なら、ここで聖女は絶望し、心を閉ざすことになる。
「待ってろよ、クソメガネ」
俺は姿見に向かって、最高の「聖女スマイル」を練習した。慈悲深く、優雅で、そして一片の容赦もない笑顔を。準備運動(レベリング)は終わった。さあ、リベリオンの始まりだ。
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