夜散歩 Night Walk

紙の妖精さん

1

舗装のひび割れを足音が埋め、街灯は途切れ途切れで、光と影が伸び曲がり角で、また分かれて消えた。空気は湿り気を帯びて肌をかすめる冷たさがわずかで、ほとんど無色透明。


歩道の縁に落ちた枯葉や、風に揺れる枝や、遠くの自販機の赤い光が、舗装上の水たまりに歪んだ残像を写して、足を止めずに進むたび、影は細く長く短く伸びていく。


外灯光は軒先の影、曲がり角、低樹の代わりに、その存在を、表す空厚の夜深。雲が流れ、月光を遮る道は暗い。その落影で猫が低く鳴き、電柱に止まった鳥が瞬間的に翼を広げる。


道の先で角を曲がる、人の気配はなく窓に灯りは滅多にない。


変わる音と光。変わる影と空気。


延々と続く舗道、曲がり角、建物の影。





*************





学校のクラスメイトは同級生から偽の噂を立てられて最後は死んでしまった。噂の内容はこの世の全ての悪意を詰め込んだ凄惨な内容だったし、彼女が死んでしまったことによってその噂を立てた連中はことごとく、沈黙していた。彼らに良心の呵責があったわけではない、彼らは、ただ自己保身のために口をつぐんだだけだった。

暴言や嘘の彼ら彼女らの言動や行動がクラスメイトの死に繋がったことは明白であったのだから、学校はその彼ら、彼女らを処分すべき、警察が動かないということに対して、私は、ある意味、意味不全感を感じていた。クラスメイトが全く偽りの噂で自殺に追い込まれたのは事実であったし、学校や教育委員会や学校の親達も嘘の噂を立てた、その同級生たちを名指しで非難したが……彼ら彼女らは、ただ沈黙するだけだった。

そして数ヶ月後、彼ら彼女らは口を閉ざしたまま、学校を去った。

それからというもの私は夜中に歩くことが日課になった。夜中、歩き続け、学校に行く、と教室で寝るという日々が 夏の始まりから冬にかけて続いた。それは今、思えば、クラスメイトの名誉回復のための私の非力な絶望と強恨怨だったかもしれない……。




*************




夜闇は、どこまでも無情に広がっていた。

街灯の輪が途切れる道を歩きながら、私はあの夏の出来事を思い返す。クラスメイトの死、偽りの噂、そして人を死に追い詰めた連中の沈黙。ただ時間が過ぎ去るのを待つ、警察も学校も教育委員会も、正信を語る言葉は、ある、しかし実質は何も動かない。沈黙の中で膨らむ虚無に、私は私怨は深く地面に根を張った。

彼女の無念を……晴らすために、私は米軍払い下げの厚刃のミリタリナイフと友達に譲ってもらったブルーコフ光子ハンドガン(海外密輸組織改造拳銃)を常に持ち歩いていた。連中らに会ったら必ず仕留める。光子ハンドガンで動けなくさせ、ミリタリナイフでじわじわ苦しませて殺す予定……。

私は歩きながら、あの噂を立てた者たちの顔を思い浮かべる。薄笑い、目を逸らす仕草、口をつぐむ口元。世界の不条理のブラックボックスピープル。


夏の始まりから冬夜中の日課。

歩くたび、思考はぐるぐると同じ復讐を回る。彼女の声なき悲鳴が空街をさまよう。


世界は眠っいて、静寂は重い。私は足を止め、深く息をつく。


歩き続ける、歩きながら彼女がなぜ死ななければいけなかったのだ?という虚無の私問がさらに私の憎悪をかき立てた。ミリタリナイフは本身を毎日磨いているし、刃には毒素薬を塗り込んである。


教室で寝る日々と夜中の徒歩。


夜は厚く、地面すれすれまで冷たい舗道を歩いていると、遠くに小さな灯りが揺れる。

黒い影が二つ、リードの先で小さく跳ねる光がひとつ。

近づかなくてもわかる。夜中に出会うのは、三ヶ月以上ずっと、この親子だけだった。


川間ひのは長袖のトップスにスカートの半分がジーンズスカートで、その下半分はグリーンブリンジプリントスカート。

軽くジャケットパーカーに身を包んでいる。

真夜中の微光だけに許される柔らかな身体性。

光を避けるために生きているようなその姿を、私は最初に見た夜から忘れられなかった。


川間さんはリードを持って、いつものゆっくりした歩幅でこちらに向かってくる。

犬たちの小さな爪が舗装をひっかく音が、夜気に混じって静かに響く。


「こんばんは」

声は小さいけれど、夜の静けさのせいでよく届く。


「こんばんは。もうすぐ朝になるね」

川間さんの声は落ち着いていて、夜の空気と同じ温度をしている。


ひの、は私の顔をじっと見つめる。

「なんだか今日、顔がゆるんでるよ」

指摘はいつも唐突で、でも重さはない。

夜の匂いのように意味無味無地。


「ひのちゃん、今日の服、凄いお洒落ですね」

そう言うと、ひの、は。


「夜しか歩けないから、こういう服を着るのも夜だけ。

光は、わたしとは仲がよくないから」


ひの、の声は淡い。夜の底に落ちない程度のかすかな温度。

その言葉が冗談じゃないことは、三ヶ月も会えば自然とわかる。


川間さんが犬のリードを持ち直す。

「夏の初めからだから…もう三ヶ月以上だね」

「四ヶ月になるのかな」

ひのが小さな声で補う。


川間さんは私をひと目見て、少しだけ笑う。

「あなた、歩き始めた頃より骨肉格がしっかりしてきたわね。

体つきも、足腰も。

夜中ずっと歩いて鍛えられた感じだわ」


彼女の言葉は、慰めでも励ましでもなく、ただ気づいたことを口にした。、淡重き調。


犬たちが匂いを追いかけて歩道の端をくんくんと嗅ぎ始める。


光が苦手な子どもと、その手を引く親と、歩き続けるしかない誰か。



川間さんが「小休憩しましょう」とつぶやいた時、三人はちょうど住宅街の端にある小さな公園の前にいた。

ブランコも滑り台も夜露で薄く光り、誰もいない。

金属の匂いと湿った土の匂いが公園の遊戯材の全てに付属するような感じがした。




川間さんは近くのコンビニに寄り、温かいお茶のペットボトルを三つ持って戻ってきた。

ベンチに腰を下ろすと、温度だけが妙に現実的で、手のひらに小さな重さが落ち着いていく。


ひのちゃんはお茶のキャップを指先で軽く回しながら、

街灯の届かない闇の方をぼんやり見ていた。

夜気に触れた頬が少し白く見える。


「……ひの、の病気のこと、気になってるんでしょう?」

川間さんが静かな声でそう言う。


ひのちゃんはふっと目線を落とした。

否定でも肯定でもない、そのままの沈黙。


川間さんは続けた。

「光を浴びると、皮膚の細胞が傷つきやすいの。

 もっと言えば、普通の人なら修復できるはずの傷が、ひの、にはほとんど修復できない。

 紫外線を浴びるだけで、体の中に壊れた細胞が溜まってしまう……そういう病気」


言葉の端に説明ではなく、暮らしそのものの重さが滲んでいた。


想懐はペットボトルのお茶を少し口に含み、温度だけを確かめるように飲み込む。

言葉を返すより先に、公園の木々が風でわずかに揺れてちてく。


ひのちゃんが、小さく息を吸った。

「昼間より夜に歩く方が、健康的」


それは悲しさより、事実を静かに置くような言い方だった。

夜の空気にその声が溶けていくと、公園の奥で小さな犬たちが草を踏む音がした。


川間さんがペットボトルを握り直す。

「この子が昼に外を歩けない代わりに、夜の散歩だけは欠かさず連れて出てたの。

 あの日、あなたに会った時から……なんとなく重ねてしまったのよね。

 あなたのあの子のことも」


地面は冷たく、夜は深い。


公園のベンチは夜露でひんやりしていた。川間さんが買ってきた温かいお茶のペットボトルが手の中でじんわりと温かい。


ひのちゃんはベンチに腰かけ、膝の上に置いた小さな犬の背を撫でていた。犬は眠たげに瞬きをしながら、主人の横顔を見上げる。街灯の弱い光が、ひのちゃんの頬に薄く触れていたが、それさえ心配になるほど彼女は慎重な気配をまとっていた。


沈黙が落ち着いた頃、想鐘は少し迷いながら問いを口にした。


「……病名は、何て言うんですか?」


ひのちゃんは指先でペットボトルのキャップを回し、軽く息を吐いた。隠すというより、ただ事実を置くように淡々とした声だった。


「色素性乾皮症。XPって言われるやつ」


その発音は幼いのに、どこか諦めを知っているようで、夜気の冷たさとは別の重さが空気に落ちた。


想鐘は、ペットボトルを握る手を少し強くした。


「……治らないの?」


ひのちゃんは首を横にゆっくり振った。


「治らないって言われてるよ。治療法が全くないわけじゃないけど……すごく高い薬があってね。もしかしたら効くかもしれない。でも、私の家じゃ買えない金額だから」


言い終えた声は静かで、そこに怒りも悲しみもなく、細い淡さがあった。


川間さんが、そっと娘の肩に手を置く。

その仕草は慰めというより、毎晩の習慣のように自然で、そして深かった。


「……だから夜に散歩するんです。光を避けて。でもね、この子は外が好きなんですよ。犬たちのことも、自分で世話したいって言うから」


ひのちゃんは笑った。弱いけれど、確かな笑みだった。


「私、前世がヴァンパイアなの」


その笑みが闇に触れるたび、想懐の胸にはどこか痛むような感覚が広がる。

消えてしまったクラスメイトの影が、ひのちゃんの横顔に重なった。


公園の奥で風が枝を揺らし、ざわりと葉がかすれた。

誰も話さない時間が、しばらく続いた。


その静けさの中で、3人の体温だけがかすかに集まり、離れずにいた。


公園のベンチ、三人とも、しばらくはただ黙って飲み物を口に運んでいた。遠くで車の音が途切れ、また始まる。


沈黙を先に破ったのは、ひのだった。


「想懐さん、彼女さんは?」


声は小さいけれど、ためらいのないまっすぐさがあった。


想懐はペットボトルの蓋をゆっくり閉めて、少しだけ視線を落とした。


「ちょっと遠いところに行っちゃったんだ。すごく遠く……だから、もう会うことできないと思う」


川間さんが、眉を寄せて想鐘の横顔を見つめる。


「三、四ヶ月前……あなたが夜中に歩き始めた頃?」


「そうです。よくわかりましたね」


ひの、が、ほんの一瞬だけ空を見上げてから言った。


「遠い所って……天国とか、そういうとこ?」


「ひの!」

川間さんの声が鋭く響いた。制止するような響きだった。


ひのはすぐに肩をすぼめた。


「すみません。想懐さん」


想懐は首を振った。怒りも拒絶もなかった。


「大丈夫ですよ。よく分かりましたね。そうなんです……天国に行ったんだと思います。それでよかったのかは……わからないけど。彼女の希望だったみたい?……だし……、自分は力に貸せなかったから……」


ひの、は掌をゆっくり温かいペットボトルに重ねて、しばらく考えるようにしてから言葉を紡いだ。


「想懐さんが、その彼女に対して不義理なことをしたわけじゃないなら……想鐘さんに責任を取る必要はないんじゃないかな」


その声は夜の静けさの中に、そっと置かれるように響いた。

風が足元の草を少しだけ揺らしていった。三人とも、その小さな揺れの音をしばらく聞いていた。


「責任なんて取れないですよ。生きてる人間、死んだ人間、生きるのをやめた人間に……私が責任を取るなんてできるわけない」


ひの、は夜の公園の闇に沈む空を見上げながら問いかけた。


「夜中に歩いてるって……その彼女さんのためなら?彼女さんのこと、好きだったのかな?」


想懐は少し俯いてから、小さな声で答える。


「はい」


川間さんはペットボトルのお茶を持った手を揺らしながら、静かに言った。


「あなたは強くなったことによって、彼女に対する責任を果たしたんじゃないかな。三ヶ月、四ヶ月、毎晩歩き続けるなんて、そんなに簡単なことじゃないわよ。だから、あなたがものすごく健康的な体になったということ自体が、彼女に対する責任感の証みたいなものじゃない? あなたの行動によって、周りの人たちはきっと評価すると思う」


想懐は夜風の匂いを吸い込む。


薄い空気がゆっくりと動くだけで、3人のあいだには長い沈黙が落ちていた。公園のベンチは夜の冷えをそのまま抱えていて、静かに体温を奪っていく。犬たちだけがときどき地面を掘るように前脚を動かし、その小さな音が夜の中に吸い込まれていった。


想懐はポケットに手を入れ、しばらく迷うように指先を動かしてから、財布を取り出した。

「これ……お茶の代金」

声は落ち着いていたけれど、どこか不安定と安定なぎこちなさがあった。言葉を置く場所を探しているような、そんな気配が残っていた。


川間さんはゆっくりと手を振った。

「大丈夫よ。それはね、ひの、のお小遣いから天引きしておくから」

冗談めかして笑うと、ひの、が横からすぐに反応した。


「お母さん、それ冗談に聞こえないよ」

ひの、は小さくため息をつきながらも、口元は柔らかかった。


しばらく誰も口を開かなかった。公園の端で小さく風が葉を揺らす音だけがあった。

 想懐はポケットから財布を出し、軽く息をついた。


「これ……さっきのお茶の代金です」


 差し出された紙幣を見て、川間さんはかぶりを振った。


「いいのよ。ひののお小遣いから引いとくから。むしろ助かるくらいよ」


 ひのが横から小さく笑い、想懐を覗きこんだ。


「その代わりね、想懐さん。

 今日からあたしの専属の友達になってくれるよね?」


唐突な言葉に、想懐は少しだけ目を瞬かせた。

「専属って……、いいけど。でも、ひのちゃん、友達たくさんいるから……」


ひの、は首を横に振る。その動きは小さいのに、意思だけは妙にしっかりしていた。

「友達はいるよ。でもね、真の友達って、そんなに多くないんです」


川間さんが息を吸い、控えめに笑った。

「ほら、ひのがそう言ってるんだから。専属って肩書き、結構レアなんじゃない?」


想懐は少し照れたようにうつむき、ひの、は満足そうにペットボトルを抱え直した。

ほんの短い笑いが夜気に溶け、3人の顔にふっと明るさが戻った。


ベンチの隣で犬が体を震わせ、それを合図にしたみたいにまた沈黙が戻る。けれど、その沈黙はさっきまでみたいに重くはなかった。



 川間さんは腕時計をちらりと見た。


「そろそろ行きましょう。夜が明ける前に、もうひと歩きしないと」


「はい」


 ひのは立ち上がり、ポケットからメモを取り出して想懐に押しつけた。


「想懐さん、これ。あたしのアドレス。

 後でメールか電話、どっちでもいいからしてね」


「了解しました」


 メモをしまう想懐を見て、川間さんは軽くうなずいた。


「じゃあ、また明日の夜中にね」


 立ち去りかけた想懐がふと振り返り、声を低くした。


「川間さん……ひのちゃんのこと、いいんですか? 私で」


 返事をする前に、ひの、が先に口をはさんだ。


「それを母に聞いてどうするのよ」


 笑いながら言う、ひの、に、川間さんも肩をすくめた。


「ほら、そういうこと」


 それ以上の説明はいらなかった。


 三人はそこで別れた。

 それぞれ違う方向へ、夜の道を歩き出す。

 足音だけが静かに響き、まだ黒い空の下に散っていった。





想懐は川間さんとひのを見送り、ゆっくり公園を出た。

歩き始めてすぐ、自分の足がいつもより軽いことに気づく。

夜気は冷たく、街の影は重い。

でも、その冷たさも重さも、ひどく脆いものに感じられる。

自分の歩幅で踏みしめれば、その暗さごと体の奥に吸い込んでいけそうだった。

そう思えるだけで、息がしやすかった。


道の端に落ちた木の葉が、風で微かに揺れた。

誰もいない通りを、ただひたすら歩いた。

足音だけが、ゆっくりと体の中心に沈んでいく。


夜が白んだころ、想懐は家に戻った。

靴を脱ぎ捨て、台所キッチンに立ち、手だけの習慣で朝食を作る。

食卓に並べ、椅子に座ると、折りたたまれたまま置かれていた朝刊を何となく広げると、見出しが目に刺さった。


――自殺した少女の親、国に救済を訴える。

国及び国家保安省は警察に調査指示。


紙面に印刷されたその言葉は、乾いた活字のくせに胸の奥でひどく軋んだ。

しばらく食べ物に箸が伸びなかった。

新聞を丁寧にたたむと、しばらく指先だけが震えていた。


想懐はスマホを取り、ひの、の名前を探した。

通知の灯りだけが薄明の部屋に浮かぶ。


呼び出し音が鳴った。

夜の残り香がまだ足元に漂っていた。






(終)

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夜散歩 Night Walk 紙の妖精さん @paperfairy

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