第2章 

診断不能の迷宮

 KARESカレスの執務エリア(ガラス越しにラボの中が見える)。

 白い光に包まれた無機質な空間に、検査機器の電子音が静かに響いていた。


「症例28-A、血液・尿・髄液、全て再検査中。遺伝子解析は藤堂が解析中」


 柴田がタブレット端末を操作しながら、千尋に状況を説明する。


「うちのチーム、ちょっとクセ強いけど、腕は確かだから安心して」

「クセは……もう、だいぶ感じてます」


 千尋が苦笑すると、ガラス越しに見えるミヤコが、試薬を振りながらこちらをじっと見ていた。

 千尋と目が合っても、にこりともせずに口だけが動く。


『細胞、ざわついてるわ』

 ——そう読めた気がして、千尋は思わず視線を逸らした。


「で、九条先生は……?」

「ラボの奥、あそこ。あいつ、集中モード入ると人の声も届かないからね。まあ、放っておくのが一番かな」


 柴田が指差す先に、顕微鏡を覗く九条の姿がある。

 そこへ、ラボ内の別のブースから眼鏡をかけた青年が現れ、千尋の元へ向かって来る。

 手には分厚いデータファイル。首にかけたAI端末が、彼の声に反応して微かに光った。

 まるで、彼の思考と連動しているかのように。


「こんにちは、藤堂とうどうです。データ解析担当してます」

「あ、初めまして」

「九条先生、凄いですよ。もう肝臓の数値から“代謝性肝障害”の可能性を指摘してて。しかも、症候群Xの兆候も見抜いてました」

「……症候群X?」

「正式には“CADASILカダシル”。遺伝性の脳小血管病です。普通の病院じゃ、まず見逃されますね。MRIの白質病変は見落とされがちなんで」


 千尋は思わず、ラボ内にいる九条に視線を向けた。

 顕微鏡を覗いたまま、まるで周囲の音など気にする様子もなく、黙々と作業を続けている。


 千尋は、前日の彼を思い出していた。

 冷たい視線。無言の応対。

 けれど、彼の診断は、確か真実を捉えている気がした。


「……九条先生、いつもあんな感じなんですか?」

「うん、あれで通常運転。感情、どこかに置いてきたタイプ」


 藤堂が苦笑しながら言う。


「でも、患者の命に関しては、誰よりも真剣ですよ。……誰よりも」


 その言葉に、千尋は少しだけ表情を緩めた。


 ♢ ♢ ♢


 検査結果が出るまでの数時間。

 千尋は控室の椅子に腰を下ろし、資料を読み込んでいたが、やがて瞼が重くなり、夢の中へと誘われていった。



 ——ふと、千尋の膝にふわりと何かがかかる。

 九条の白衣だった。

 千尋は眠ったまま気づかない。


 九条は一瞬だけ立ち止まり、彼女の寝顔に視線を落とした。


「……風邪を引かれると、面倒だ」


 小さく呟いて、その場を離れる。

 その様子を廊下の端から見ていた藤堂が、AI端末に目をやりながらにやりと笑った。


「……あれ、絶対“面倒”とかじゃないよね」


 ♢ ♢ ♢


「朝比奈刑事、こちらへどうぞ」


 柴田に案内され、千尋はKARESの中でも最もセキュリティの高い解析室へと足を踏み入れた。

 そこには九条が一人、顕微鏡とモニターに囲まれて立っていた。


「症例28-A、再検査結果が出ました」


 九条は顕微鏡から目を離さず、静かに口を開く。


「司法解剖では、急性心不全と判断されたようですね。薬毒物反応も陰性」

「だから、私は納得できなかったんです」


 千尋がそう答えると、九条はスライドガラスをそっと差し替え、無言のまま顕微鏡を覗き込んだ。

 指先で倍率を調整しながら、焦点を合わせていく。

 ピントが合った先に映っていたのは、脳の小血管に浮かぶ、微かな線状の出血痕。

 それは、通常の検査ではまず見落とされるほど微細な異変だった。


「司法解剖で行われる薬毒物検査は、あくまで『中毒死が疑われる場合』に限られます。対象となるのは、農薬、劇薬、睡眠薬、アルコール、覚醒剤など……いわば『よくある毒』ばかり」


 九条は顕微鏡から目を離さず、淡々と続ける。


「病気の治療薬は、基本的に調べません。特に、稀少疾患に関わる『特定の禁忌薬』は、検査項目にすら入っていないことが多い」

「……じゃあ、司法解剖では見逃されても仕方なかったってことですか?」

「そうですね。だからこそ、KARESが存在する」


 九条は、モニターに映し出された画像を指差した。


「この患者の脳には、CADASILカダシルの兆候があります。脳の小血管に、線状の変性と微細な出血痕。さらに、肝臓の組織にはAATD、アルファ1アンチトリプシン欠損症の特徴的な変性が見られる」

「……アルファ1……アンチ……何て言いました?」

「アルファ1アンチトリプシン欠損症。AATDと略されます。先天的に肝臓で作られる酵素が不足し、肺や肝臓に障害を起こす稀な疾患です」

「そんな病気、初めて聞きました……」

「極めて稀ですが、ありえないわけではない。そして――」


 九条は、机の上の薬剤リストを指先で軽く叩いた。


「この薬……カダシルの既往があるなら、通常は処方されないはずなんだが……」


 千尋は息を呑んだ。


「つまり……病気を利用して、殺された?」

「そう判断するのが、妥当でしょう」


 九条の声は、冷たくも静かだった。

 だがその奥に、かすかな怒りの熱が宿っているように感じた。

 それは、命を『診断ミス』で奪われた過去を知る者だけが持つ、静かな怒りのように感じた。

 暫しの沈黙の後、千尋がぽつりと呟いた。


「誰にも信じて貰えなかった彼女の声を、先生は聞いたんですね」


 九条は一瞬だけ目を伏せ、そしてゆっくりと千尋に視線を向けた。


「……君が拾ったからだ」


 その言葉に、千尋の胸がきゅっと締め付けられた。

 それが何なのかは、分からない。

 けれど、不愛想な彼が、ほんの少し心を開いてくれた気がした。


 ♢ ♢ ♢


 一方で、KARESのデータルームでは、藤堂がAI端末に向かって黙々と解析を続けていた。

 モニターの一角には、解析室の監視カメラ映像がリアルタイムで映し出されている。

 ふと視線を上げた藤堂は、画面の隅に並んで立つ千尋と九条の姿を見つけ、にやりと笑みを浮かべた。


「……これは、事件だけじゃ終わらないかもね」

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