ナナシの放課後

@utamaro_nv

第1話 その部屋には、名前がない

 旧校舎の、もっとそのはしっこのほうである。人の声がだんだん薄くなっていく角をひとつ曲がり、もうひとつ曲がる。そうすると、旧部室棟のいちばん奥になる。


 放課後になると、そのあたりだけ、ほかより先にひやりとしてくる場所だ。空気だけが、みんなより先に帰宅してしまったみたいに。


 階段を上り下りする靴音だの、教室で誰かが笑う声だのは、ここまでくると、もうほとんど届かない。耳に入ってくるのは、蛍光灯のかすかなうなりと、自分の息の音くらいである。


 窓の桟には、指先でなぞれば一本線がつきそうな薄い埃が、きちんと積もっている。掲示板には、何年か前の文化祭のポスターが一枚、隅っこのホッチキスだけでどうにかぶらさがっていた。角がまるく巻き上がり、知らない誰かの笑顔が色あせている。


 そんな廊下を、鼻歌を口の中だけでころがしながら歩いてくる生徒が、ひとりいる。


 である。


 いろはは、スリッパのつま先で床をちょん、と蹴った。からん、と軽い音がして、廊下の奥に広がっていく。それを聞きながら、目的の扉の前に立った。ペンキのはげた木の扉である。取っ手の金属は、さわると少し冷たい。


 がちゃ、と音を立てて、扉を引いた。


 中には、誰もいない。


「……あれ、一番乗り?」


 誰かに聞かせるというほどでもなく、いろはは言った。もちろん返事はない。それでも、いろはは、うれしそうに部屋の中へ足を踏み入れた。


 何部の部室だったのか、もう誰もはっきり思い出せないまま置き去りにされている部屋である。教室より、いくらか狭い。黒板はない。壁だけが、ぽん、とそこにある。


 窓ぎわに、場違いなほど立派な古いソファがひとつ。色は、もとはもう少し明るかったのかもしれないが、今はよく煮詰めた紅茶のような色をしている。


 向かい側には、折りたたみ机がひとつと、パイプ椅子がいくつか、少しよそよそしく並んでいた。隅のほうには、誰かがいつのまにか持ち込んだ電気ケトルがちゃっかり座りこんでいる。


夏はむっと暑く、冬はすきま風がよく通る。そのくせ、冷房も暖房もない。


 それでも、いろははこの部屋が気に入っていた。


 ソファに、どさっと身を投げ出す。ばねのどこかが、きい、と小さく鳴った。クッションが、やれやれと言いたげに、浅く悲鳴を上げたようにも聞こえた。いろはは仰向けになって天井を見上げた。白いはずの天井には、どことなく雲のような染みがいくつも浮かんでいる。


 「ふうん」と、いろはは小さく息をついた。ソファは、黙って受けとめていた。


「……ひま」


 声にしてみる。部屋の中にたまっている空気が、どろりと動いて、「そうですねえ」と相づちを打ったような気がした。


 心の中で、いち、にい、さん、と数える。四と五を数えるころには、やはり何も起こらない。


「……ひま――」


 さっきよりも長めに、ひまを引っぱってみた。引っぱられたひまが声になって、古い壁にぺたっと貼りつく。しばらく、壁紙の小さな模様の間でもぞもぞして、それから力が尽きて、はがれ落ちて床に落ちたような気がした。


 そのとき、背中のほうで扉が開いた。


「うるせえ」


 聞きなれた声である。


 振り向くと、が片手で鞄を提げたまま、敷居のところに立っていた。まっすぐな学生服、きちんとした髪。どこを切り取っても、いかにもふつうの男子高校生なのだが、眉だけが、いつでも少しだけ困っている。ちいさな困りごとが、そこに住みついているような眉であった。


「遅い」


 わたしはそう言った。


「いつも通りだろ」


「その、いつも通りっていうのが遅いって言ってるの」


「じゃあお前が早すぎるんだよ」


「ひまだから」


「家でひましとけ」


「家だとつまんないじゃん」


「ここでも何もしてないだろ」


「違うよ。ここには可能性がある」


「ねえよ」


 九条は、ためいきをまじえながらそう言って、窓ぎわのパイプ椅子に鞄を置いた。窓ガラスはうすく曇っている。その曇りごしに差しこんでくる光まで、どこか年季が入っているように見えた。


 その古びた光の中で、また扉が開いた。


 小さな文庫本を胸のあたりでひらきっぱなしにしている女の子が、あたりまえのような顔をして入ってくる。


 。字は黙るに栞。読み方は「しじま・しおり」である。名字も名前も、やけに静かだが、ページをめくる手だけは、せっせと忙しい。


「……」


 九条のほうに、目が行ったような、行かなかったような気配だけを残して、黙栞は折りたたみ机の端に腰をおろした。視線は本から、いっさい離れない。


「おう」


 九条が声をかけても、黙栞のほうでは黙ったまま、ページが一枚、二枚と進んでいく。


「シオリ、きょう何読んでるの」


 ソファの背もたれから、わたしは身をのり出した。


「転生したら農具だった件」


 抑揚のない声が、いつものように返ってくる。


「は?」


 九条が、いつもの困った眉を、もう少し困らせた。


「主人公が鍬に転生する」


「で?」


「畑を耕す」


 九条は、一瞬、言葉をなくしたように黙りこんだ。わたしはおもしろくなって、もっと身をのり出した。


「それだけ?」


「三巻で神器になる」


「すごい出世じゃん」


「出世でいいのか、それ」


 九条が、小さくそうこぼした。黙栞は首だけを、かすかにかしげる。顔つきは、ほとんど変わらない。


 そこへ、廊下のほうから、ビニール袋のこすれる音が近づいてきた。音が戸口のところまで来たと思ったら、勢いよく扉が開く。


「おう」


 が、コンビニのロゴの入った袋をぶらさげて入ってきた。いつものことである。


「きょうは何買ってきたの」


 わたしの視線は、袋のほうへするすると吸い寄せられていった。


「新作。超絶濃厚チェダーチーズ味」


 甘利は、どや顔でポテトチップスの袋を高くかかげた。


「誰も頼んでないんだが」


 九条が、冷静に指摘する。


「頼まれなくても買う。それが俺」


「知らんわ」


「知っとけ」


 甘利は当然のように、机の上にお菓子を並べはじめた。ポテチに、チョコに、グミ。机の上が、ちいさな駄菓子屋の一角みたいになっていく。


 最後に、少しだけおくれて、いちばん静かな足音がやってきた。


 扉が、ほんのわずかためらうように開く。そのすき間から、片手にスマホを握った男子が、するりとすべりこんだ。


 。目線は、スマホの画面からほとんど上がらない。


「前見ろ」


 九条が、条件反射みたいに言う。


「……見てる」


「見てなかっただろ、今」


「……あ、死んだ」


 淡々とした声だった。親が急に亡くなったときでも、もう少し感情が出るんじゃないかと思うような言い方だが、もちろんゲームの中の話である。


「それゲームの話だよな?」


「……ゲーム」


「確認すんなよ。こわいから」


 落合は返事のかわりに、部屋の隅のパイプ椅子に腰をおろした。指先だけをやけに素早く動かしながら、画面をたたきはじめる。


 こうして、なぜだか毎日集まってくる五人が、きょうも自然にそろった。


 しばし、静寂。


 窓の外からは、校庭の部活の声が、かすかに聞こえてくる。ボールの音や、かけ声や、笑い声。ここだけ、放課後がべつの速度で流れているみたいだった。


「ねえ」


 ソファから、わたしの声が出た。


「なに」


 九条が、窓のほうを見たまま答える。


「ねえ、わたしたちって、何なんだろうね」


 その問いかけは、自分で思っていたより静かな音で、部屋の中に落ちていった。



* * *



 あの放課後を、まだ名前で呼べない。


 その言葉が、画面いっぱいに現れ、すっと消える。


 代わりに浮かぶタイトルは、こうだ。


 第一話 その部屋には、名前がない。



* * *



 わたしはいきなり、口をついて出たことばを、そのまま言った。


「ねえ、わたしたちって、何なんだろうね」


 オレンジジュースの氷が、コップの中でかちゃんと鳴った。


 しばらく、誰も何も言わなかった。


「……何なんだろうね、って、急に言われてもな」


 がまんできなくなったらしい九条が、最初に口を開いた。


「だからさ」


 わたしは、机にあごをのせたまま言った。


「立場? みたいなやつ。部活?」


「部活じゃないだろ」


「じゃあ、サークル?」


「高校にサークルはねえよ」


「同好会?」


「何を同好してんだよ」


 同好、と言われると、急に分からなくなる。わたしは少し考えてから、ぱっと顔を上げた。


「お菓子?」


「それ、主に俺だけだろ」


 甘利が、ポテトチップスの袋を抱えたまま、真剣な顔で言った。


「読書?」


「わたしだけ」


 栞が、本のページを指で送りながら、小さな声で言う。


「ゲーム?」


 自然に、わたしの目は落合の方へ落ちていった。彼の指が、携帯ゲーム機のボタンの上でぴこぴこと動いている。


「……俺だけ」


 画面から、微動だにしない。


「じゃあ、何なのさ!」


「それを聞いてるの、お前だろ」


 九条は、こめかみのあたりを押さえた。今日も九条のツッコミ用の体力は、順調に消耗しているようである。


「……友だち」


 紙のこすれる音といっしょに、栞の声がぽつりと落ちた。ページをめくる指が、そのところで止まる。


「え?」


 わたしは、ぱちぱちと瞬きをした。


「友だちじゃないの。わたしたち」


 抑揚のない声だったのに、そのことばだけは、ふしぎと真ん中までまっすぐ飛んできて、机の上にとどまった。


「……友だち、かあ」


 わたしはソファの背もたれに、ずるずると仰向けになった。天井の白さが、少しだけ眩しい。


「まあ、そのへんなんじゃねえの」


 九条は窓の外を見たまま、ぼそっと言った。窓ガラスの向こうには、部活の掛け声が、遠くかすかに聞こえる。


「なんかさ、それだと、ふつうすぎない?」


「ふつうでいいだろ」


「もっとこう、特別な名前がほしくない?」


「いらねえ」


 わたしはむくりと起きあがった。名前を考えるのは、けっこう好きだ。


「『放課後探検隊』とか」


「探検してねえだろ」


「『夕暮れ倶楽部』!」


「倶楽部って感じでもねえな」


「『秘密結社☆アフタースクール』!」


「星がキモい」


「『エターナル・サンセット・コネクション』!」


「長い」


「『放課後の錬金術師たち』!」


「何も生み出してない」


「『青春リミテッド・エディション』!」


「むしろ通常版だろ、俺ら」


「じゃあ、九条は何がいいの!」


「だから、いらねえって言ってんだろ」


 九条の声が、すこしだけ高くなった。その横から、甘利がするりとポテトチップスの袋を差し出した。


「はい、九条」


「……何でだよ」


「疲れてるでしょ」


「まあ、そりゃあな。一人で五人分ツッコんでんだからな」


「塩分で回復しろ」


 九条は、ぶつぶつ言いながらも、ちゃんと袋を受け取った。かりっと噛む音がする。じゃがいもの油の匂いが、部屋にひろがった。


「コンビニ、わたしにも」


 本から目を離さずに、栞が言った。


「はいよ」


 甘利はかばんの中を探って、別の小さなスナック菓子を取り出した。封を切って、そっと差し出す。


「……これ、わたしの好きなやつ」


「知ってる」


 そのときだけ、栞の目が、ほんの少しだけ甘利の方へ向いた。驚いたような、そうでもないような顔だったが、口元が、すこしだけやわらかく見えた。


「お前、なんでシオリの好み知ってんだよ」


 九条が、半分あきれたように言う。


「本のページが進むお菓子と、進まないお菓子があるんだよ」


 甘利は、当たり前のことのように言った。


「……観察力の使いどころがおかしい」


 九条が肩を落とす。


 そんな話をしていたときだった。木の扉が、こつん、と鳴った。


 ノックの音だ。


 わたしたちは、そろってぴたりと動きを止めた。


 少し間をおいて、もう一度。さっきより、ほんの少し強い。


「……誰」


 わたしは、つい声をひそめた。


「知らねえよ」


 九条が小声で返す。


「開けてよ」


「なんで俺なんだよ」


「いちばん近いじゃん」


 たしかに、扉のそばに座っているのは九条だった。


「……」


 九条は、しぶしぶ立ち上がった。背中が、ほんの少し丸くなる。「どうか先生じゃありませんように」と、九条はきっと心の中で思っている。こういうときの祈りは、だいたい届かないのである。


 扉が開いた。案の定、担任の顔がそこにあった。


「お前ら、何部」


 第一声が、それだった。


「……ええと」


 九条の頭の上に、さっきの名前たちが、きっと高速でぐるぐる回っている。放課後探検隊。秘密結社☆アフタースクール。どれも、わたしでも怒られそうだと分かる。


「部活動届、出してないだろ」


「……はい」


「出してないなら、部室使うな」


「……はい」


「ここは何に使う予定だったか知らんが、正規の手続き踏んでからだな」


 そのとき、部屋の奥から声がころがってきた。


「あ、死んだ」


 落合である。


「……誰か死んだのか?」


 先生の目つきが、すこしだけ鋭くなった。


「ゲームです」


 九条は、間髪をいれずに言った。


「ゲームしてんのかよ」


「……してます」


 否定のしようがない。机の上には、ポテトチップスと、スナックと、ゲーム機が、堂々と散らばっている。


「帰れ」


「はい」


「全員だぞ」


 先生の目が、部屋の中を一周した。わたしたちは、そろって立ち上がる。


「……はい」


 かばんを持ち、ひとりずつ扉をくぐった。別に、たいしたことをしていたわけではないのに、すこしだけ名残惜しい。


 廊下に出ると、先生は満足そうに腕を組んだ。


「じゃあ、施錠するからな。まっすぐ帰れよ」


「はーい」


 わたしは、いつも通りの調子で返事をした。


 先生が鍵をまわす。金属の小さな音がして、それがやけに重たく、廊下の空気の中に沈んでいった。



* * *



 十分ほどたったころである。


 さっき追い出されたのと同じ旧部室棟のいちばん奥で、さっきと同じ扉が、今度は中からぎぎ、と音を立てて開いた。


 鍵は、かかっていなかった。


 旧部室棟の鍵というのは、ここ数年、かかっているふりだけをしているらしい。先生の持っている鍵も、どうも別の教室のものだ。誰もそれを確かめようとはしない。


 その結果として、わたしたちは、なにごともなかったような顔をして、当然のように戻ってきていた。


 わたしはさっきと同じ姿勢でソファに寝転がり、天井を見ている。栞は同じページのつづきに目を落とし、甘利は机の上にお菓子をきちんと並べなおした。


 落合は、さっき中断されたところから、ゲームの世界にふたたび入りこんでいる。


 九条だけが、現実というものをうっすらと思い出した顔をしていた。


「……俺ら、帰ったよな」


「帰った」


 天井の汚れを数えながら、わたしは答えた。


「なのに何でここにいるんだよ」


「何でだろうね」


 とぼけて言ってみる。ほんとうに、よく分からないのだけれど。


「お前が一番最初に戻ってきたんだろ」


「クジョーも来たじゃん」


「お前がいたからな」


「じゃあ、わたしのせいだ」


「そうだよ」


「えー」


 そんな他愛のないやりとりをしていたとき、扉がまた開いた。


 先生である。


「お前ら」


 さっきと同じ呼びかけだったが、「お前ら」の中に、ほんの少しだけ親しみのかけらのようなものが混じってきた気がした。気のせいかもしれない。


「自習してます」


 九条が、ほとんど反射のように言った。


「嘘つけ」


 先生の目が、ソファに寝ころぶわたしと、机にひろがるスナックの袋と、画面にくぎづけの落合を、順番になめていく。


「ほんとうです。テスト近いんで」


 わたしはあわてて起きあがった。姿勢だけまじめにしてみる。


「テストいつだ」


「来月です」


「来月の何日だ」


「……後半」


「もっと」


「……下旬」


「具体的になってないだろ、それ」


 九条が横から小声でぶつぶつ言う。


「今から勉強する必要ないだろ」


「予習です」


「予習にしては、さっき笑い声が聞こえたぞ」


 先生がじろりとにらむと、栞がすっと本を持ち上げた。


「シジマが、おもしろい本を読んでいまして」


 九条が、さりげなく補足をつける。


「……」


 先生は何とも言えない顔で、栞の本の表紙を見た。


 派手なドレスを着た少女が、なぜかバーベルのようなものを持ち上げている。タイトルは『悪役令嬢、断罪回避のため筋トレを始める』と書いてあった。


「……何なんだ、これは」


「悪役令嬢がスクワット五百回やって、王子を投げとばす話です」


 栞は平らな声で言う。


「……」


「四巻で腹筋が割れます」


「……」


「五巻で国を救います」


「……もういい。静かにしてろ」


 先生は、半分あきらめたような表情になり、扉をぱたんと閉めた。


 足音がだんだん小さくなっていくのを聞きながら、九条がふうっと息を吐く。


「助かった……」


「別に、嘘は言ってない」


 栞はいつも通りの調子で言い、本に目を戻した。


「お前が笑ってたっていうのは、嘘だろ」


「心の中で笑った」


「顔に出せよ」


「出てる」


「どこが」


「口角が〇・三ミリ上がってる」


「見えねえよ」



* * *



 しばらくして、机の上のお菓子の袋は、どれも口があき、部屋の空気は、ほんの少しだけしょっぱくなった。


 甘利が、椅子の背にもたれながら言った。


「よし。そろそろ本題に入るか」


「本題?」


 九条が、いやな予感を顔に出す。


「今日のお菓子レビュー」


「本題じゃねえだろ」


「俺にとっては本題」


「聞きたーい」


 わたしは両手を挙げて賛成してしまった。


「乗るな」


 九条の制止は、たいていこういう場合きかない。


 甘利は立ち上がり、机の前に出て、さっきのポテトチップスの袋を高く掲げた。


「本日ご紹介いたしますのは、超絶濃厚チェダーチーズ味。A社の新商品です」


「プレゼンが始まってしまった……」


 九条が小さくこぼす。


「各社が濃厚を競いあう昨今」


「昨今」


 わたしはつい、うしろからくり返した。


「このA社の特徴はですね、チーズのあと味が、やたら長く舌に残る、その一点にあります」


「誰に向かって話してんだよ」


「お前らに」


「聞いてないんだけど」


「聞け」


 甘利が真顔で言ったとき、部屋の隅から落合の声がころりと転がってきた。


「うわ……来るな……来るなよ……」


「オチ、聞いてるか」


 甘利が声をかける。


「来た……」


「聞いてないな」


「聞いてる。チェダー。あと味。長い」


「……聞いてた」


 甘利が感心したように言い、九条が眉を寄せる。


「ゲームやりながら、人の話、聞けるのかよ」


「できる」


 落合は短く答えた。すぐそのあと、画面の中で何か起きたらしく、


「あ、死んだ」


 と言った。その声に、なぜだか、わたしたち五人は同時に反応した。


「あーあ」


 ため息とも、笑い声ともつかないものが、天井のあたりにふわっと広がる。


 意味はないのに、そこだけ一体感ができた。


「今の、何」


 九条が、自分の口から出た声に驚いたように言う。


「分かんない。勝手に声が出た」


 わたしは笑った。


「連帯感」


 栞が、短くまとめる。


「ゲームで連帯感、生まれるのかよ」



* * *



 お菓子の袋がひとつずつ軽くなっていくあいだに、わたしはふと思い出して、口を開いた。


「ねえ、そういえばさ」


「何だよ」


「ここってさ、誰が見つけたの?」


 古い天井を見上げながらの、素朴な疑問である。


「お前じゃないのか」


 九条が眉をひそめる。


「わたし?」


「お前が一番最初にいじってたから、お前が見つけたんだと思ってた」


「わたしは、誘われて来たんだけど」


「誰に」


「……覚えてない」


 わたしは少し首をかしげてみたが、何も出てこない。


「わたしも、誘われた側」


 栞も、本から目を上げずに言う。


「俺も」


 甘利が袋をたたみながらうなずいた。


「……俺も、誰かに呼ばれた気がするな」


 九条も、最初にこの部屋に入った日のことを思い出そうとしているようだった。けれど、廊下の薄暗さと、少しほこりっぽい匂いしか、どうやら浮かんでこないらしい。


「じゃあ、誰が最初なの」


 わたしの視線が、自然と落合に向かった。


 四人とも、同じように見る。


「……」


 落合は相変わらず画面を見ている。敵をよけようとしているのか、自分のキャラクターがちょこまかと動き回っていた。


「オチ」


「何」


「お前が最初?」


「……」


 少し間が空く。


「オチ?」


「覚えてない」


「覚えてないって何だよ」


「……あ、死んだ」


「逃げたな、今」


 九条がすぐにつっこむ。


「まあ、誰でもいいじゃん」


「よくねえよ。そういうの、気になるだろ」


「わたしはあんまり」


「俺は気になる」


「この本も、主人公がなぜ農具に転生したか、説明がない」


 栞が、さらりと別の話題を出した。


「関係ないだろ」


「でも、三巻まで読めた」


「説明なくても読めるのかよ」


「おもしろければ読める」


 栞は一枚、ページをめくる。


「じゃあ、わたしたちもそうじゃん。理由なくても、ここにいる」


 わたしはソファの背もたれにあごを乗せながら言った。


「……」


 九条は一瞬、何も言わず、窓ガラスの向こうを眺めた。


「哲学的」


 栞が、評価する。


「でしょ」


 わたしは、少しだけ胸を張った。


「お前にしては、まともなこと言うな」


って何」


 わたしがむっとしたところで、ふと、いい思いつきのようなものが浮かんだ。


「あ、そうだ」


 その言い方だけで、九条の背筋がぴんと伸びた。


「いやな予感しか、しない」


「まだ、何も言ってない!」


「そので始まる話は、大体ろくでもない」


「今日はちがう。今日はまじめ」


「毎回まじめって言ってる」


「今日はほんとに、ほんとにまじめ」


「何だよ」


 観念したらしい九条が、聞いてくれる態勢になった。


「映画、撮らない?」


「没」


「早っ」


「そもそもカメラがないだろ」


「スマホで撮れる」


「誰が編集すんだよ」


「……がんばれば」


「お前が、がんばれるとは思えない」


「傷ついた」


「おもしろそう」


 栞が、小さく同意した。


「乗るな」


「でも、おもしろそう」


「こいつが乗ると、大体、被害が大きくなるんだよ」


「共犯者だから」


「自覚があるなら、やめろ」


「やめない」


「お前な……」


「じゃあさ、じゃあさ」


「まだあるのかよ」


「バンド、組もう」


「没」


「聞いてから没にして!」


「楽器できるやつ、いるか?」


 部屋に、見事なほどの沈黙が落ちた。


「トライアングル」


 栞が、まじめな顔で言う。


「タンバリン」


 甘利も、負けじとつけ足す。


「音ゲー」


 落合は、画面から目を離さずにぼそりとつぶやいた。


「全部、ちがう」


 九条の判定は、早い。


「練習すれば」


「しねえだろ」


「……」


「没」


「もう少し、希望を持たせてから没にして」


「無駄な希望、持たせてどうすんだよ」


「じゃあ演劇!」


「没」


「同人誌!」


「誰も絵が描けねえだろ。没」


「廃墟探索!」


「場所、知ってんのか」


「……探せば」


「没」


「タイムカプセル埋める!」


「中身、何だよ」


「……これから決める」


「没」


「合コン!」


「相手、いるのか」


「……いない」


「没」


「人狼!」


「五人じゃ、ゲームにならねえ。没」


「脱出ゲーム!」


「金がねえ。没」


「ピクニック!」


「どこへ」


「……校庭」


「それ、ピクニックって言うのか? 没」


「何なら通るの、いったい!」


「最初から、何も通す気はない」


「ひどい!」


「本日、十四連続没。新記録」


 栞が冷静に数えた。


「記録にしないで!」


「記録更新、おめでとう」


 甘利が、ポテトチップスのかけらをつまみながら祝う。


「祝わないで!」



* * *



 笑いがおさまって、少し静かになってきたころ、わたしはまたひとつ気になっていたことを口にした。


「ていうかさ」


「何だよ」


「何で、わたし『ボツ』って呼ばれてるの」


 部屋の空気が、すこしだけかたくなった。


「今の流れを聞いて、分かんねえか?」


「企画が通らないから?」


「そうだろ」


「それは分かる。でも、最初にそう言いだしたの、誰?」


 わたしは、ソファの上で正座みたいになって、前のめりになる。


 沈黙が、ゆっくりひろがった。


「……オチだった気がする」


 栞が、ぽそっと言う。


「え」


 視線が一斉に、落合に集まった。


「オチ!」


 わたしは身を乗り出す。


「いや……覚えてない……」


 落合はめずらしく、動揺した声を出した。指が一瞬止まり、画面のキャラクターがその場で棒立ちになる。


「初めて焦ってるな、お前」


 九条がじっと見る。


「焦ってない」


「オチが言ったの?」


「覚えてない」


 落合は小さな声でくり返し、ゲームの中へ逃げこもうとする。


「目が泳いでる!」


「……いや、待て。俺も言った気がする」


 九条が、自分の眉間を指で押さえながら言った。


「クジョーもなの!」


「俺も、たぶん言った」


 甘利もあっさりと手を挙げる。


「全員じゃん!」


「わたしは言ってない」


 栞だけが、すっと線を引いた。


「シオリだけ味方!」


「でも、おもしろかったから、そのままでいいと思った」


「味方じゃなかった!」


「つーかさ、お前の企画がひとつでも通ってたら、『ボツ』にはなってないんだよ」


「わたしのせい?」


「お前のせいだろ」


「……」


「自業自得」


「シオリ、容赦ない!」



* * *



 窓の外の光が、だんだん赤みを増してきた。


 五人はそれぞれ、好きな格好で、だらだらと時間を溶かしていた。


 わたしはソファの上で仰向けになり、片方の足だけをひまそうに揺らしている。九条は椅子に腰かけて、窓の外の空を眺めていた。栞は淡々とページをめくり、甘利は空になったお菓子の袋をひとつずつていねいにたたんでいる。


 落合は、やはりゲームの小さな世界の中にいた。


 部屋の中には、ポテトチップスの塩気と、紙をめくる音と、ときどき鳴るゲームの効果音だけ。


 その静けさは、ただの沈黙というよりも、居心地のいい余白のようだった。


「ねえ」


 わたしは天井を見たまま言った。


「何だよ」


 九条も、窓の外から目をそらさずに答える。


「何で毎日ここに来るの?」


「お前が言うな」


「わたしは、ひまだから」


「じゃあ、それだろ、答え」


「クジョーは?」


「……ひまだから」


「つまんない答え」


「悪かったな」


「シオリは?」


 栞が少しだけ顔を上げる。


「ここだと、本がよく読める」


「うるさくない?」


「うるさい。でも、いい」


「どっちだよ」


「コンビニは?」


「お菓子を食べる相手がいるから」


「わたしたち、お菓子要員」


「一人で食べても、おいしくないんだよ」


 甘利は、あたり前のことのように言う。


「……まあ、分かるけど」


「オチは?」


 わたしの視線が、また落合に向かった。


「……」


「オチ」


「聞こえてる」


「何で来るの?」


 ほんの少しだけ、指の動きが鈍くなる。


「……」


 さっきより長い沈黙があった。


「ここが、いい」


 小さな声。ゲームの効果音よりもおだやかだったのに、その言葉だけは部屋の隅までちゃんと届いた。


「……」


 わたしも九条も、少しのあいだ黙ってしまう。


「あ、死んだ」


 次の瞬間、いつもの声が上からかぶさった。


「台無し!」


 わたしはすかさず叫ぶ。


「今、ちょっといいこと言ったよな」


「言ってない」


「言った」


「言ってない」


「聞いた」


「聞いた」


 甘利と栞も、ぽつぽつと追いつめる。


 落合は何も言わず、またゲームの世界に沈んでいった。



* * *



 窓の外がすっかりオレンジ色になったころ、わたしは上体を起こした。


「ねえ」


「何だよ」


「来なかったら、さみしくない?」


 さっきの「わたしたち、何なんだろうね」より、ほんの少しだけ重い質問だった。


 九条は返事につまって、窓の外の夕焼けをじっと見る。


 栞もページの途中で指を止め、甘利も手を止めた。


 落合は、ほんの一瞬だけ画面から目をそらす。


「……」


 部屋に、さっきより長い静けさが落ちた。


「さあな」


 やっとのことで、九条がしぼり出した。


「さあなって何」


「分かんねえよ、そんなの」


「分かるでしょ」


「分かんねえって」


「じゃあ、想像して。明日、誰も来なかったら」


 わたしはソファのへりをきゅっと握った。


「ここにひとりで来て、誰もいなかったら」


「……」


 九条はやっぱり、すぐには何も言わない。窓ガラスにぼんやり映る、自分たちの姿だけが動かないでいる。


「さみしい」


 栞が、先に言った。


「シオリは正直だね」


「俺も……まあ、さみしいかもな」


 甘利も、視線をすこし床に落とした。


「オチは?」


 わたしは、そっとたずねる。


「……」


 落合の親指が、ボタンの上でぴたりと止まった。


「オチ」


「分かんない」


「正直に言ってよ」


「……」


 落合は、ゆっくりとスマホの電源を押した。画面がふっと暗くなる。急に、この部屋の空気だけが、はっきりしてきた。


「帰る」


 そう言って、椅子から立ち上がる。


 かばんを肩にかけ、扉の前まで歩いた。背中が、いつもより少しだけ大きく見える。


 取っ手に手をかけてから、一度だけふり返った。


「また明日」


 それだけ言って、扉を開け、廊下へ出ていった。


 バタンと閉まる音が、今までの静けさとはちがう種類の静けさを連れてくる。


「また明日、だって」


 わたしは小さな声でつぶやく。


「聞こえてた」


 九条も、同じことを確認するみたいに言った。


「オチが、ああいうこと言うの、めずらしくない?」


「めずらしい」


「初めて聞いた」


 栞と甘利が、そろって言う。


 わたしたち四人はしばらく、閉まった扉のほうを見ていた。



* * *



 やがて、夕日の色が少しずつ薄くなりはじめる。


「ねえ」


 わたしがまた口を開いた。


「今度は何だよ」


「わたしたちって、何なんだろうね」


 さっきの問いを、もう一度出してみる。


 九条は少し考えてから、肩の力を抜いた。


「さあな。名前のない何か、じゃねえの」


「名前のない何か、かあ」


「それでいいと、思う」


 栞が静かに言い、甘利も小さくうなずいた。


「うん」


 わたしは、ゆっくり立ち上がった。


 窓の外では、校庭の向こうに沈みかけた太陽が、最後の光を投げている。


「じゃあ、また明日」


 わたしが笑って言う。


「おう」


「また明日」


「また明日」


 九条、栞、甘利も、それぞれの声で返した。


 四人はいつも通りにかばんを持ち、それぞれの歩幅で扉をくぐる。


 誰もいなくなった部屋には、冷えかけた空気と、今日の会話の残り香だけが置き去りにされた。


 古いソファ。折りたたみ机。パイプ椅子。隅のほうに転がる、空になったお菓子の袋。さみしそうにたたずむ電気ケトル。


 この場所には、やっぱり名前がない。


 けれど、きっと明日も、同じ五人がここへ来るのだろう。



* * *



 翌日の放課後。


 黒板の代わりに、窓際の壁のすみに、コピー用紙が一枚貼られていた。


 ボールペンで書かれた、わたしの丸い字で、


 放課後探検隊


 とある。その上から、大きくバツ印。


 その下に、


 夕暮れ倶楽部


 と書かれたところにも、やはりバツ印。


 秘密結社☆アフタースクール


 には、なぜかバツが三つもついていた。


 横には、九条の字で、小さく書き込みがある。


 全部却下


 さらにその下に、わたしの字で、


 ひどい


 と足されていた。


 紙はゆるい風にゆれながら、蛍光灯の光をすこしだけはね返していた。



* * *



 次回予告。


「次回、ボツが『文化祭で何かやろう』と言い出す」


 どこからともなく、九条の声が聞こえてくるような気がする。


「メイド喫茶!」


「却下」


「お化け屋敷!」


「却下」


「演劇!」


「却下」


「もう何でもいいから何かやりたい!」


「そのが一番危ねえんだよ」


 そこへ、栞の声がぽとりと落ちる。


「次回『文化祭に出られないわたしたち』」


「タイトルでネタバレしないで!」


 わたしの抗議の声だけが、放課後のどこかで、むなしくひびいていった。

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