第10話:俺のような“誠実な野心家”が現れますように



日曜日の午後。 リビングには、甘くて、少し焦げた匂いが漂っていた。


キッチンからは、キャッキャとはしゃぐ女たちの声が聞こえる。


「ああっ、ママ! また焦げちゃった!」


「ごめんなさい……火加減が難しくて……」


「もう、私がやるから貸して!」


美鈴と美咲が二人でパンケーキを焼いているらしい。


皿に積み上げられているのは、綺麗なきつね色ではなく、まだら模様の茶色い円盤たちだ。 この家の女性陣は、どうしてこうも家事の神様に見放されているのだろうか。


俺はソファでコーヒーを啜りながら、その光景を眺めていた。


窓からは穏やかな陽射しが差し込み、埃がキラキラと舞っている。


平和だ。 あまりにも平和すぎて、かつてこの家が借金取りや怒号に包まれていたことなど、嘘のようだ。


俺はふと、自身の半生を振り返る。


二十八歳の俺は、金のためにこの女を選んだ。 愛なんてなかった。あったのはソロバンと、楽をして生きたいという欲望だけ。


世間一般から見れば、俺は最低の詐欺師であり、不純な動機で結婚した悪党だ。


だが、結果はどうだ?


俺は一千五百万円の私財を投げ打ち、十年の歳月を労働に捧げ、この不器用な家族を守り抜いた。


美鈴は今、心からの笑顔で笑っている。 美咲は、両親からの愛を疑うことなく育っている。 義父は悠々自適な隠居生活を送り、たまに俺を飲みに誘ってくる。


「純愛」から始まった夫婦が、金の切れ目で憎しみ合って別れる話は山ほどある。


逆に、「打算」から始まった俺たちが、こうして誰よりも強い絆で結ばれている。


人生とは皮肉なものだ。 入り口がどこであろうと、最後に辿り着いた場所が「幸福」なら、それでいいんじゃないか。


「……あなた。お待たせしました」


美鈴がお盆を持ってやってきた。 その上には、形はいびつだが、ホイップクリームとフルーツで懸命に飾られたパンケーキが載っている。


「美咲と一緒に焼いたんです。……やっぱり、見た目はあまり良くないですけど」


「パパ! 味は保証するよ! 毒見したから!」


美咲が粉だらけの顔でVサインをする。


俺は苦笑して、フォークを手に取った。


「いただくよ。……うん、悪くない」


口に入れると、ジャリッとした砂糖の食感と、少しの苦味、そして優しい甘さが広がった。


高級ホテルのパンケーキとは似ても似つかない。 けれど、俺の舌にはこの味が一番馴染む。


「よかったぁ……」


美鈴がほっと胸を撫で下ろし、ふにゃりと笑った。


出会った頃と変わらない、少し自信なさげで、けれど慈愛に満ちた笑顔。


ああ、本当に。


随分と高い授業料を払わされたが、この笑顔を独占できるなら、投資対効果(ROI)はプラスに転じたと認めてやってもいい。


俺は視線を、娘の美咲に移す。


彼女は将来、俺のような男を見つけると豪語していた。


もし、本当にそんな男が現れたら。 美咲の財産や家柄を目当てに近づいてくる、口の上手い野心家が現れたら。


俺はきっと、彼を否定しない。


入り口は不純でもいい。下心があってもいい。 ただ、一つだけ条件をつけるだろう。


――嘘をつくなら、墓場まで持っていけ。 ――その嘘を真実にするために、泥水をすする覚悟を見せろ。


俺はコーヒーを飲み干し、窓の外の青空を見上げた。


もし娘の前に、俺のような男が現れたら教えてやろう。 「最後まで騙し通せば、それは真実になるんだ」と。


打算的結婚の誤算と幸福。 俺の人生の収支決算は、どうやら大幅な黒字で終わりそうだ。


(了)


最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!


「最低な動機から始まる、最高の幸せ」を描きたくて、この物語を書きました。 不器用な妻と、素直になれない主人公のその後を、温かい目で見守っていただければ幸いです。


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また、感想などもお待ちしております。


「著者の他作品の紹介」


『「長男だから」と家事を押し付ける夫と義母に、バリキャリの実母が「ビジネス論理」で完全論破してくれた結果。~夫は「不良債権」認定で専業主夫へ、義母はリストラされました~』

https://kakuyomu.jp/works/822139840419718270/episodes/822139840419746905

「お前は役立たずのクズだ」とモラハラ夫に罵られていた私、決意の離婚。~私がいなければ、あなたはプレゼン資料も作れない無能でしたね?~

https://kakuyomu.jp/works/822139839450631674/episodes/822139839450691413


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「離婚だ」と言うタイミングを逃して10年。~俺は1500万の私財を投じて、不器用な妻と没落実家を救うことにした~ bookmax @bookmax

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