第4話

私は今、人生で一番高い視点から世界を見下ろしている。

揺れる視界の先には、どこまでも続く深い緑の森。

頬を撫でる風は少し冷たいが、お尻の下にあるフカフカの毛皮が、じんわりとした温もりを伝えてくれていた。


「ふふっ、快適、快適」


私は思わず独り言を漏らし、座り心地の良い「特等席」をポンポンと叩いた。

その特等席とは、もちろん伝説の魔獣『月光熊』の背中である。

先ほどハチミツで手なずけた彼は、私を背に乗せたまま、森の中を我が物顔で進んでいた。

その足取りは、巨体に似合わず驚くほど軽やかだ。

太い枝や倒木も、彼にとっては小石程度の障害物でしかないらしい。

ひょいと跨ぐたびに、背中の筋肉が波打つのが分かる。


「グルルッ」


クマさんが喉を鳴らし、短い尻尾を振った。

どうやら、私の機嫌が良いことが伝わっているようだ。

彼――名前がないのも不便なので、心の中で勝手に『ムーン』と呼ぶことにした――は、見た目こそ凶悪だが、中身は意外と世話焼きらしい。

私が枝に頭をぶつけないよう、微妙にコースを調整してくれているのが分かる。


(王城の馬車より、よっぽど乗り心地が良いわ)


ガタガタと揺れるだけの硬い座席とは大違いだ。

私はムーンの首元の毛に埋もれながら、スキル『美食家の福音』を発動させた。

視界に、無数の光の粒が浮かび上がる。

それらは全て、食材の場所を示す道しるべだ。


「ムーン、あっちの方角から、すごく瑞々しい匂いがするわ。水辺があるはずよ」


私が右前方を指差すと、ムーンは了解したと言わんばかりに鼻を鳴らし、方向転換した。

木々の隙間から、キラキラと太陽の光を反射する水面が見え隠れしている。

近づくにつれて、せせらぎの音が大きくなってきた。

そして、湿り気を帯びた空気に混じって、微かな生臭さが漂ってくる。

これは、泥の臭いではない。

脂の乗った、新鮮な川魚の香りだ。


視界が開けた。

そこには、幅の広い清流が流れていた。

水はクリスタルのように透明で、川底の小石まではっきりと見える。

そして何より、その水中を泳ぐ魚影の濃さに、私は息を飲んだ。


「すごい……! 魚だらけじゃない!」


私はムーンの背中から飛び降り、川岸に駆け寄った。

泳いでいるのは、背中に青いラインが入った『蒼天鱒(そうてんます)』だ。

王都の市場では、一匹で金貨一枚はする高級魚である。

それがここでは、まるで落ち葉のように群れている。


(しかも、丸々と太っているわ。この時期の蒼天鱒は、皮の下に甘い脂を溜め込んでいるのよね)


私の脳内に、蒼天鱒を使った料理の映像が次々と浮かび上がってくる。

塩焼き、ムニエル、香草蒸し。

どれも魅力的だが、今の私の手持ち調味料は限られている。

だが、スキルは「最適解」を教えてくれた。


(シンプルに、串焼きにしましょう。でも、ただの塩焼きじゃないわ)


私はムーンを振り返った。

彼は川の水をごくごくと飲み、喉を潤している。

その頭上には、相変わらず「もっと美味しいものが食べたい」という欲望のアイコンが浮かんでいた。

ハチミツで甘いものは満たされたからか、今度は「塩気」と「旨味」を求めているようだ。


「ムーン、お仕事の時間よ。あのお魚、捕まえられる?」


私が川を指差すと、ムーンはニヤリと――熊の顔で表情が読めるのも不思議だが、確かにそう見えた――笑った。

彼はのっそりと川の中へ入っていく。

水しぶきが上がるが、彼は気にしない。

そして、川の中程でピタリと動きを止めた。

まるで岩のように静止する。


次の瞬間だった。

バシャッ!

目にも止まらぬ速さで、ムーンの前足が水面を叩いた。

水柱が高く上がり、それと共に銀色の魚体が宙を舞う。

一匹ではない。

三匹、四匹と、次々に魚が岸辺へと放り投げられてくる。


「ナイスキャッチ! すごいわ、ムーン!」


私は手を叩いて称賛した。

ムーンは得意げに鼻を鳴らし、さらに次々と魚を打ち上げていく。

あっという間に、岸辺には十匹以上の蒼天鱒がピチピチと跳ねていた。

これだけあれば十分すぎる。


「ありがとう、もういいわよ!」


私が声をかけると、ムーンは濡れた毛皮をブルブルと振るいながら戻ってきた。

水しぶきが虹を作る。

私はその光景に見惚れる暇もなく、調理の準備に取り掛かった。


まずは魚の下処理だ。

ナイフを取り出し、手際よく腹を割く。

内臓を取り出し、川の水で綺麗に洗う。

王城での下積み時代、厨房で何千匹もの魚を捌かされた経験が、指先に染み付いていた。

鱗を落とす角度、内臓を傷つけずに取り出す力加減。

スキルによる補正がなくても、これだけは私の実力だ。


「さて、問題は味付けだけど……」


私は周囲を見渡した。

手持ちの調味料は、街のパン屋で分けてもらった少量の岩塩だけ。

これだけでは、ムーンの求める「濃厚な旨味」には届かない。

だが、私のスキルは、この森が巨大な食料庫であることを教えてくれていた。


(あった。あの木の根元)


私は近くの巨木の根元に生えている、茶色いキノコのような植物に近づいた。

これは『味噌茸(みそだけ)』という、変わった植物だ。

傘の部分を潰すと、発酵した大豆のような芳醇な香りと、強い旨味を持つペースト状の汁が出る。

天然の味噌だ。


私は味噌茸を数本採取し、持っていたボウル(これもパン屋の店主が「使いな」とくれたものだ)の中で潰した。

そこに、先ほど採取したハチミツを垂らす。

さらに、川辺に生えている『ピリ辛草』の葉を刻んで混ぜ込む。


「特製、ハチミツ辛味噌ダレの完成!」


指につけて舐めてみる。

味噌茸の深いコク、ハチミツの甘み、そしてピリ辛草の刺激。

これらが絶妙なバランスで混ざり合い、口の中で爆発的な旨味を作り出していた。

これは、白米が欲しくなる味だ。

パンにも合うだろう。


私は木の枝を削って作った串に魚を刺し、その表面にたっぷりとタレを塗った。

火は、ムーンにお願いした。

彼が爪で火打石(川原で拾った)を弾くと、枯れ草にあっという間に火がついた。

器用な熊だ。


焚き火の周りに串を並べ、遠火でじっくりと焼く。

やがて、タレが焦げる香ばしい匂いが立ち上り始めた。

脂が炭に落ちて、ジュッという音が響く。

煙までもが美味しい。


「グルルゥ……」


ムーンが待ちきれない様子で、焚き火の周りをウロウロしている。

涎がダラダラと垂れている。

さっきの威厳ある姿はどこへやら、完全にお預けを食らった犬だ。


「もう少しよ。皮がパリッとするまで我慢して」


私は魚を裏返し、焼き加減を確認した。

全体に綺麗な焦げ目がつき、身がふっくらと膨らんでいる。

タレの照りが、食欲をそそる。

今だ。


「はい、召し上がれ!」


私が串を差し出すと、ムーンはガブリと一口で魚を噛みちぎった。

熱くないのだろうかと思うが、彼の頑丈な口内には関係ないらしい。

ムーンの動きが止まる。

そして、カッと目を見開いた。


「ガウッ!?」


あまりの美味しさに、衝撃を受けているようだ。

川魚特有の臭みは、味噌茸とハーブで完全に消えている。

パリパリの皮を噛み破ると、中から溢れ出す熱々の肉汁と、甘辛いタレのハーモニー。

それが脳髄を揺さぶる。


ムーンの頭上のアイコンが、激しく点滅する『星三つ』のマークに変わった。

彼は残りの魚も次々と平らげていく。

私も一本、手に取った。

熱々の身を頬張る。


「んん〜っ! 最高!」


口いっぱいに広がる幸福。

王城の晩餐会で出される冷めきった魚料理とは、次元が違う。

これぞ、生きた食事だ。

私たちは夢中で魚を食べ尽くした。

十匹あった魚は、あっという間に骨だけになった。


「ふぅ、美味しかったわね」


満腹になった私たちは、川辺で少し休憩することにした。

ムーンは満足げにお腹を出し、日向ぼっこをしている。

私は川の水で顔を洗い、サッパリとした気分で立ち上がった。

まだ日は高い。

もう少し先へ進んでおきたいところだ。


「ムーン、お散歩再開よ」


私が声をかけると、彼は素直に起き上がり、また私を背中に乗せてくれた。

美味しいものをくれる人間には、絶対服従らしい。

分かりやすい性格で助かる。


川沿いを上流に向かって歩いていると、森の雰囲気が少しずつ変わってきた。

木々の密度が増し、空気が張り詰めているような気がする。

ムーンの足取りも、少し慎重になっていた。

何かを警戒しているのだろうか。


その時、私のスキルが反応した。

食材の匂いではない。

これは……人間の気配だ。

それも、極限状態にある人間の。


(誰かいる?)


スキルが映し出す「空腹」のシグナルが、点滅している。

それも、ただお腹が空いているだけではない。

生命力の灯火が消えかけているような、ギリギリの空腹感だ。

場所は、すぐ近くだ。


「ムーン、ちょっと止まって」


私はムーンを止め、茂みの陰から様子を伺った。

そこには、一本の巨大な杉の木があり、その根元に誰かが倒れていた。

黒いマントを羽織った、大柄な男性だ。

遠目にも、その衣服が上質なものであることが分かる。

金糸の刺繍、腰に帯びた剣の意匠。

ただの旅人ではない。


(怪我をしているの?)


私は目を凝らした。

血の匂いはするが、古いものだ。

致命傷を負っているわけではなさそうだ。

それよりも問題なのは、彼の頭上に浮かんでいる映像だった。


そこには、豪華な料理ではなく、湯気の立つ素朴な白いボウルが映っていた。

中身は、白濁したスープに、ゴロゴロとした肉と野菜が入っているもの。

一見すると地味な料理だが、そこから漂ってくる「温かさ」のイメージが、強烈に伝わってくる。


(羊肉のシチュー……?)


それが、倒れている男性が今、死の淵で求めている「魂の食事」だった。

さらに、その料理の映像に重なるようにして、古い記憶の断片が見えた。

雪の降る窓辺。

暖炉の火。

そして、優しく微笑みながらスプーンを差し出す、年老いた女性の手。


(お母さん……じゃなくて、乳母かしら?)


深い愛情と、絶対的な安心感。

彼は今、寒さと飢えの中で、幼い頃に感じたその温もりを必死に求めているのだ。

その切実な渇望が、私の胸を締め付けた。


「放っておけないわね」


私はムーンの背中から飛び降りた。

ムーンが「危ないぞ」と低く唸るが、私は首を振った。


「大丈夫よ。あの人は今、戦える状態じゃないわ。それに……」


私は男性の方へと歩き出した。


「お腹を空かせている人を無視するなんて、私のポリシーに反するもの」


近づいてみると、男性の顔立ちがはっきりと見えた。

泥と煤で汚れてはいるが、彫刻のように整った顔立ちだ。

銀色の長い髪が、顔にかかっている。

眉間には深い皺が刻まれ、苦悶の表情を浮かべていた。

その全身から発せられる威圧感は、彼がただの人間ではなく、人の上に立つ存在であることを物語っていた。


だが、今の私にとって、彼はただの「腹ペコさん」でしかない。

私は彼の側に膝をつき、その額に手を当てた。

冷たい。

低体温症になりかけている。


「まずは温めないと」


私はムーンを手招きした。

彼は渋々といった様子で近づいてくると、私の意図を察して、男性の側に体を横たえてくれた。

魔獣の体温は高い。

これなら、即席の毛布代わりになる。


「さて、と。次は中から温めてあげないとね」


私は立ち上がり、腕まくりをした。

彼の望みは「羊肉のシチュー」。

この森に、羊はいるだろうか。

スキルを発動し、周囲をスキャンする。


(いた!)


森の奥、ここから数百メートル離れた場所に、群れで行動する魔獣の反応があった。

『角兎(つのうさぎ)』ではない。

もっと大きくて、脂の乗った反応。

『ワイルドシープ』だ。

凶暴だが、その肉は臭みが少なく、煮込み料理には最適だと図鑑で読んだことがある。


「運がいいわね、あなた」


私は意識のない男性に向かって微笑んだ。

今日は、最高のご馳走が作れそうだ。

私の料理人としての血が、静かに、しかし熱く騒ぎ始めていた。

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