双界重奏
江騰涌進
第1話 僕は、もう戻れない
教室の席は、初めに引いた番号で決まった。黒柳芐の席は最後列の窓際。そこからは、校庭の一角と、その向こうに広がる団地の屋上が見える。前方には四十人近い級友の背中、色の濃い薄い様々な頭髪が、ノートを取る動作や居眠りのために揺れていた。
新学期が始まってしばらく経ち、黒板上のスピーカーケースには薄くほこりが積もっている。午後の日差しが斜めに差し込み、浮遊する微粒子をきらめかせる。芐は視線を落とし、人差し指でシャープペンの芯をちょうどよい長さ――鮮明で、かつ折れにくい長さ――まで押し出した。彼女の机の引き出しの中では、教科書とノートの端が常にぴたりと揃っていた。
チャイムが鳴った。教室は一瞬で、椅子を引く音、ファスナーを閉める音、おしゃべりの声で満たされる。
「優子、今日まっすぐ帰る?」
「ううん、ちょっと紀伊國屋寄ってく。新しい雑誌の付録、ポスターらしいよ」
「えー、どのグループ?」
「内緒。あ、来週のクラス対抗の球技大会、女子の出る人決まんないじゃん?困ったな、人数ギリギリだし」
「『あの方』に聞いてみる?」少し押し殺した声が、かすかに後ろを一瞥する視線と共に聞こえた。
短い沈黙。
「やめよっ。気まずいし。それに…」声はさらに低くなり、雑音に混ざって後の言葉は聞き取れない。
優子と呼ばれる女生徒――佐藤優子は、教室の中央という黄金の席に座っている。彼女は振り向きもせず、質問した友人に向かって、テレビのCMのように明るく笑った。「また考えようよ、だれかいるって」。
芐はゆっくりとペンを筆箱に収め、ファスナーを閉めた。次に消しゴム、定規。窓の外の空は、明るい青色から夕焼けへと移り変わっていた。彼女は待った。優子の席に群がっていた輪が談笑しながらドアから出て行くのを、教室に残った数人の当番がそぞろに黒板を拭き始めるのを。そしてようやく立ち上がった。その動作は椅子をきしりとわずかに鳴らし、急に広くなった教室の中で少し響く。前方でカバンを仕度していた男子生徒が音に顔を上げ、彼女の顔、そしてそれより上の高さを素早く見て、またうつむいた。
廊下にはもうほとんど人影がない。靴箱の鉄扉ががちゃりと音を立てる。陸上部の連中が用具を取っているのだ。芐は上履きを替え、校門を出た。同じ帰路につく生徒は三々五々、彼女は自然と後れを取り、どのグループにも追いつかない距離を保った。
住宅街を抜けると、小さな市民の森があり、学校の裏門から近道が通っている。木の葉の匂いが、夕暮れの湿った空気で濃くなっている。
「黒柳さん」
声が背後からした。芐は足を止めた。佐藤優子と、もう二人の女生徒が立っていた。彼女たちも今学校を出たばかりのようだ。優子の笑顔は教室にいた時と変わらず標準的だった。
「ちょっと時間いい?話があるんだ」
森の中は外よりも早く暗くなっていた。彼女たちについて少し開けた場所まで来た時、周囲はすでにうす暗い。他の二人の女生徒は左右に、ごく自然に立ち、半円を形作っている。
「黒柳さん、いつも一人だね」優子が口を開いた。声には探るような響きがあった。
芐は答えず、ただ彼女を見つめた。
「実際のところ、みんなも話したくないわけじゃないんだよ」優子はほんの一歩前に出た。夕陽の最後の光が彼女の髪先をかすめたが、目の中までは届かない。「でもね、いつも後ろの席に座ってるし、チャイムなったらすぐいなくなるし…なんていうか、近づきにくいっていうか。それ、あんまり良くないよね?クラスの一員なんだし」
左にいた女生徒が小声で続けた。「そうそう、前回グループ決めの時も…」
優子は手を挙げ、そっと同伴の愚痴を止めるようにし、視線を芐に据えたままだ。「それに、黒柳さん、ちょっと…『目立ち』すぎない?」彼女はその言葉を、柔らかい口調で使った。「女の子ってさ、時に目立ちすぎると、かえって周りにプレッシャーを与えちゃうんだよ。みんな、どう接していいかわからなくなっちゃう。ほら、今みたいに、話してる私だって、見上げなきゃいけないし」
そう言って、彼女は実際に少し顎を上げた。口元の曲線は変わらないが、目には笑みがなかった。
「だから思うんだけど、もっと…合わせた方がいいんじゃない?クラスのためにも、自分のためにもね」
夕風が林を抜け、涼気を運んでくる。一枚の葉がくるくると回り、芐の肩に落ち、また滑り落ちた。
「あなた…」優子は返事を待っていたようだが、ただ沈黙が返ってきただけだ。彼女の完璧な笑顔が、ごくわずかだが色を失った。「せめて、人の話には反応しなよ?それ、失礼だよ」
彼女は手を伸ばした。押すのではなく、指先で芐の肩をちょっとつつくように。「聞いてるの、ちゃんと――」
その指先が二度目に落下した時、力が加わっていた。それはもはや「つつく」動作ではなかった。芐の重心が後ろへ移った。足元は湿った落ち葉と露出した木の根だ。靴底が滑った。
世界が突然傾き、遠のいた。すべての音――風の音、遠くの通りを流れる車の音、女生徒たちの低い驚きの声――が一瞬にして抜き取られる。代わりに広がるのは、果てしない灰色の静寂。上下も光もない、ただ全身を包み込む冷たい、深海のような圧力だけが、肺の最後の一息をさえ搾り出そうとするかのようだった。その虚無の中心に、一層深い影がゆらめき、かすかに人の輪郭を描いている…
窒息感がぱっと消えた。
視界に再び乱雑な色が流れ込む:濃緑の樹冠、灰白の空、佐藤優子の、少しばかり驚きが褪めきらない、そしてより多く怒りを帯びた顔。時間はほんの一瞬しか経っていないようだ。
「……びっくりした!ぼーっとしてどうしたのよ!」優子の声は先ほどより鋭くなっていた。彼女は手を引っ込め、何か穢れたものに触れたかのようなそぶりを見せた。左右と素早く目配せを交わし、その目には口には出さない了解があった。「もう、あなたと話しても無駄ね」
彼女はカバンに手を入れ、くしゃくしゃに丸めた紙切れ――今日の授業のメモか、あるいはゴミかもしれない――を取り出し、明らかな苛立ちを込めて、芐の方向に投げつけた。紙の塊は芐の腕をかすめ、落ち葉の上に落ちた。
「もういい、行こう。こんな人と、話しても意味ない」
彼女たちは背を向けて去った。足音と、意識的に抑えた、断片的な笑い声が次第に森に消えていった。終始、誰も振り向かなかった。
芐はまだその場に立ち、わずかにバランスを崩した姿勢を保っている。膝の裏側に鈍い痛みが走る。さっき無理に体勢を立て直そうとした時の捻じれだ。肩に指先が触れたあの場所には、一種奇妙な、冷たい感触が残っていた。夕風よりも冷たい。
しかしそれ以上にはっきりしていたのは、胸の中で何かが砕ける音だった。怒りではない、それは熱すぎる。もっと鈍く、冷たいもの、氷の下の深流が、ある限界を突き破ったような。形はないが、彼女の体側に下ろした手を、無意識に、非常にゆっくりと握り締めさせた。
彼女は、林間に消えようとしている三人の背中を見た。佐藤優子の、一番速く、一番背筋を伸ばして歩いているその背中を見た。
彼女の左手が、どこからともなく吹いてきた微風に動かされたように、軽く、無為に、その方向へ数センチメートル、上がった。
――ドスン!
鈍い音。重い土嚢が高いところから落ちたような。
佐藤優子が悲鳴をあげ、まるで前方から強く押されたように、どさりと落ち葉の積もった地面に倒れ伏した。側にいた二人の女生徒は呆然と立ち尽くし、恐る恐る周りの無人の森を見回した。
「優、優子!?どうしたの!?」
「な、何か…つまずいたの!?」
優子はもがきながら起き上がり、顔色を失って服についた泥や葉をはたき落とした。声は驚きと当惑で震えている。「誰!?誰が押したの!?」彼女の視線は鋭く二人の仲間を、周囲の木々を、そして芐の立つ方位さえも掃いた――しかしその目線は焦点を結ばず、まるで石や切り株を掠めるように、「真犯人」を探す焦燥に満ちていながら、彼女を「見て」いる様子は微塵もなかった。
彼女の視線は、彼女を貫通した。
芐はうつむき、微かに震える自分の左手の平を見た。平には何もない、浅い皺があるだけだ。先ほどの一撃の反動が、まだ幻のように痺れとして残っている。そして胸の中のあの冷たい深流は、跡形もなく消え失せていた。まるで最初から存在しなかったかのように。代わりに四肢の隅々から染み上がってくるのは、鉛のような疲労と、巨大で無音の茫然だった。
遠くで、優子はまだ友達と何か言い争っているようだ。声が途切れ途切れに聞こえる、本物の困惑と憤慨に満ちている。彼女たちは互いに確かめ合い、結局は理解できず少しばかり恐れを抱いて、足早にその場を離れた。二度とこの方向を見返すことはなかった。
森は完全に静かになった。夕陽は完全に沈み、暮色が潮のように押し寄せ、あらゆる輪郭をぼんやりと浸していく。
どれくらい経っただろうか、やっと芐は足を動かした。家の方向ではなく、堤防沿いに、当てもなく歩き出した。淀川の水は薄暗い天光の下で深灰色に、ゆっくりと流れている。対岸の灯りがぽつりぽつりと点り、彼女とは無縁の別世界だ。
歩き疲れて、彼女は堤防の斜面に腰を下ろした。カバンを傍らに放り出す。水の生臭さと草の匂いが混ざり合う。
「ぱたり。」
背後から、とても軽い、靴が砂利を踏む音がした。
芐はすぐには振り向かなかった。その足音が彼女の斜め後ろで止まり、静かな、見つめられているという感覚が数秒間続いてからだった。
彼女は顔を上げた。
濃い色の野球帽を深く被り、ショートカットの少女が、堤防上の歩道に立っていた。帽子のつばが深く、はっきりとした顔は見えない、顎のラインだけがわかる。背後のかなり離れたコンビニの看板灯を背に、影絵のようだった。
少女は何も言わず、ただ彼女を見ていた。それから、斜面を歩いて降りてきた。動作は急がずゆっくりと、芐の目前、一歩手前のところに立つまで。
夕風が吹き抜け、帽子に押さえられていない少女の額の数筋の前髪を揺らした。彼女はわずかに顎を上げ、つばの下の影の中で、その視線が芐の顔に落ちたように、あるいはまた彼女を通り越してゆっくりと流れる川水を見ているようにも見えた。
そして、彼女は口を開いた。声は平穏で、涼やかさと低音の間にあり、特別な感情は込められていない。ごく当たり前の事実を述べているかのようだった。
「いたんだ、ここに」
少女は一呼吸置いた。何かを確かめるように。
「ずっと、探してたよ」
少女は芐の隣に座った。互いの気配が感じられるほど近く、しかし不快ではない距離だ。今なら彼女の顔がはっきり見える——確かに自分よりほんの数歳上だろう、高校生か、あるいは成人したばかりという年頃だ。背は少し低めで、刈り込んだようなショートカットが、額に数房あてなくかかっている。その表情と佇まいは、芐にはない、自然体で明るいものを放っていた。
「俺はS」と少女は言った。声は軽やかだ。「本名じゃないよ。『組織』のみんながそう呼んでるから、便利だし。君もそう呼んでくれていい」
「そ……そしき?」
「うん。さっきみたいな『異常』や、『向こう側』の管理を専門にする、小さな団体だ」Sは親指で、背後にある虚空を、まるで隣の町を指すかのように気軽に指した。「三ヶ月前から、君に気づいてたんだ、黒柳芐くん。なんていうか……君の『周波数』は特別だよ。背景ノイズの中から、じわりじわり浮かび上がってきてね、気にならないわけにはいかなかった」
芐の心臓が一拍、強く打った。『周波数』という未知の言葉のためではなく、相手がごく自然に自分のフルネームを、旧友のように親しげに呼んだからだ。
「そんなに緊張しないで」Sは笑った。目が三日月のように細くなる。「君のこと、たくさん知ってるよ。例えば、放課後わざわざ遠回りして川沿いを歩くのが好きだとか、いつも一人で昼ごはんを食べてるとか、それから……本当はすごく、すごく『透明』扱いされるのが嫌いなんだよね、表面は何も言わないくせに」
一つ一つの言葉が、小さな石のように芐の心の静かな湖面に落ち、彼女が誰にも語ったことのない漣を広げる。驚きが、彼女の追及する気持ちを一時的に忘れさせた。
Sはそれから、とりとめのない日常について話した。学校の近くに新しくできたクレープ屋のこと、最近の変な天気のこと。彼女の話し方は人をリラックスさせ、いつの間にか芐のこわばった肩も少しだけ力が抜けていた。しかし、話題が風に吹かれて遠くへ行きそうになった時、Sは突然、話の針路を変えた。
「よし、雑談はここまで」彼女の顔から笑みは消えなかったが、目尻の温度が沈殿し、より鋭い何かに凝縮していった。「本題に入ろう。数時間前、あの裏森で、君が転んだ瞬間——君は『落ちた』よね?ほんの一瞬だけだとしても」
「……!」
「それは錯覚でも、臨死体験でもない」Sは芐を見つめ、一言一言を区切って言った。「あれは『分裏世界』だ。強い感情や意識の隙間にのみ、ごく少数の素質を持つ者がかすかに接触できる『裏側』だ。そして君、黒柳芐、君は接触しただけでなく、生きて戻り、しかも『証』を持ち帰った——つまり、あとであのいじめっ子を吹き飛ばした力だ。それは無意識下での『共鳴』漏れ、潜行者(ステルカー)の原石の力だ」
Sは一呼吸置き、芐に消化する時間を与えるようにしてから、続けた。「俺は君に接触し、招待を伝える使命を帯びている。ただしその前に、その『潜在力』の成色をこの目で確かめる必要がある」
言葉が終わらないうちに、Sはすでに右手を軽く自分の胸に当てていた。その発声は明晰で、ある種のリズムを帯びている。
「曲術・『練習曲』。」
天地がひっくり返るような音はない。だが芐はすぐに異変を感じた——短周期、高周波の微細な振動が四方八方から包み込んでくる。耳を通じず、皮膚と骨に直接作用する。続いて、足元の地面、傍らの堤防、対岸の灯り……全ての景色が「剥離」し始めたことに気づいた。それらが動いているのではなく、自分とSがいるこの空間そのものが、「表世界」という名の基底から、貼り紙を丁寧にはがすように、ゆっくりと分離しているのだ。
色彩が抽き取られ、再構成される。川の流れの音、風の音、遠くの都会の嗡りが急速に遠のき、代わりに絶対的で、圧迫的な静寂が広がった。
あっという間に、彼女たちは見知らぬ場所に立っていた。
空はある。しかしそれは凝固した血液のような暗紅色で、雲一つなく、ただ怠惰な眼球のような暗色の渦がゆっくりと流転している。大地はある。しかしそれは果てしなく広がる灰敗色の土で、ひび割れ、乾ききり、草一本生えていない。微かな鉄錆と塵の匂いが空気に漂う。
ここは「分裏世界」。天地の概念は存在するが、常理を徹底的に裏切った領域だ。
「練習場へようこそ」Sの声は、この静寂の中でひときわ鮮明に響いた。彼女は手を上げ、少し離れた空き地を指さした。「まずは、君が今覚醒したばかりの『力』を試してみよう。よく見てて——」
彼女は大袈裟な動作はせず、ただ低く呟いた。
「意術・『概念被覆』——『樹木』。」
その言葉と共に、何もなかった灰色の土の上で、空間の輪郭がぼやけ、歪んだ。まるで無形の筆が『樹木』の概念を蘸り、そこに描き出すようだ。ぼんやりとした輪郭から、具体の枝幹へ。ほんの数秒のうちに、表世界のものと見紛う、口径ほどある一本の木が、空より生え出で、凝結し、生命の存在し得ない灰色の土に根を下ろした。
「さっきあいつを押しのけた時の『衝動』を思い出して、それで木を捉え、解放しろ」Sの指示は簡潔だった。
芐はその木を見つめ、また自分の左手を見た。先ほどの冷たい怒りは跡形もなく、本当にまたできるのかわからない。彼女は必死であの時の感覚を思い出そうとした——あの、目の前の圧迫物を除去したいという、本能に近い衝動を。
彼女は手を上げ、木に向け、意識を集中させた。
最初は何も起こらなかった。しかし次の瞬間、彼女の掌が熱く感じられた。見えない弦が弾かれたような感覚。
——ドン!
鈍い音がした。創られたばかりの木は、幹の中ほどで音を立てて炸裂し、木屑が飛び散り、上半分が傾いて倒れ、灰色の土煙を上げた。
「いいね」Sは拍手し、満足そうな表情を見せたが、すぐに冷ややかな静けさに戻った。「精度も発動速度も予想以上だ。独学でここまでなら、優秀だ。しかし、」彼女は言葉を強めた。「潜行者の世界では、『能力』だけでは全く不十分だ。必要な知識、訓練、覚悟を欠いたまま力だけを持つ者は、不安定な危険因子でしかない。『組織』にとって、取り込めない潜在的危险は、ただ一つの定義しかない——」
彼女は一歩前に出て、芐との距離を詰めた。先ほどの朗らかさは仮面のように顔から剥がれ、その目には芐が未だ見たことのない、公務的な冷酷さが浮かんでいる。
「——それは『敵』だ」
空気がその言葉で凍りつくようだった。
Sの声は平穏だが、疑いの余地のない決断を含んでいた。「だから、黒柳芐、君に今、選択肢は二つしかない」
「一つ目」彼女は人差し指を一本立てた。「俺が今ここで、『曲術』をもって君の芽生えたばかりの共鳴能力を剥奪する。この過程は神経を不可避的に損傷する。代償は……君の左手の機能を永久に失い、そして今日の放課後から今に至るまでの記憶を全て失うことだ。その後、君は元の生活に戻り、『少し人付き合いの悪い高身長の女生徒』でい続けられる。何かが欠けているような気はするだろうが、真実を知ることは永遠にない」
「二つ目」彼女は第二の指を立てた。「我々に加わること。『組織』の潜行者候補となり、訓練を受け、力を制御する方法を学び、任務を遂行する。任務は現実的で、危険だ。その性質上、我々は表裏両世界の様々な異常と脅威に直面せざるを得ない。負傷は日常茶飯事であり、死……それも直視しなければならない可能性の一つだ」
彼女は手を下ろし、炬火のような目で芐の両目を捉えた。
「第三の選択肢はない。『数日考えさせて』もない。君の能力はすでに活性化している。灯りが点いたランプのように、『裏側』では君の望まぬものを引き寄せる。猶予は君自身と周囲の人々に害を与えるだけだ。今、ここで、選択を」
葛藤。激しい葛藤が芐の胸腔内で衝突した。左手と記憶を失う?それは自分自身の一部を抹殺するようなものだ。しかし謎の組織に加わり、未知の危険や死と向き合う?
優子が自分を通り過ぎた視線、果てしない灰色世界の孤寂、掌が熱くなった時の、何かより深層のものと繋がったようなあの奇妙な感覚……彼女は本当にあの、無視といじめだけの『元の生活』に戻れるだろうか?
暗紅色の天蓋の下、静寂が広がる。十数秒しか経っていないだろうが、一世紀のように長く感じられた。
芐は鉄錆の匂いのする空気を深く吸い込み、顔を上げ、Sの視線をまっすぐに受けた。声は少し乾いていたが、はっきりと言葉を紡いだ。
「……加わる」
Sの顔に張り付いていた冷酷な氷が、一瞬で溶けた。最初の爽やかさに戻るのではなく、認めと複雑な意味を帯びた淡い微笑みへと変わった。
「賢明な判断だ」彼女は静かに言い、再び胸に手を当てた。
「曲術・『練習曲』——解除。
慣れた振動感が再び訪れたが、方向は逆だ。暗紅色の空、灰色の大地が潮のように引いていく。川辺の湿った空気、水音、対岸の灯り……馴染みの表世界の景色が急速に流れ込み、接着する。
二人は相変わらず堤防の斜面に座っており、姿勢は変わっていないようだった。たまたま堤上の道を通りかかったジョギング中の人物が、突然くっきりと現れた二人に驚き、怪訝そうに振り返り、「いつそこに座ってたんだ…」と呟くと、速足で走り去った。
さっきまでの全てが、短くも生々しい集団幻覚だったかのように。
Sは立ち上がり、ズボンの草屑を軽く払い、それからまだ座っている芐に向かって、改めて右手を差し伸べた。
「じゃあ、改めて正式に言おう——」
「黒柳芐、『組織』へようこそ」
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