第1部
第1章 運命の夜会
第1夜 舞踏会に向けて
ソリス・マグナ帝国の南西辺境に位置するフェイン男爵領は、帝都のようなきらびやかさとは無縁だった。
しかし、この領地は温暖で、薬草やハーブの栽培に適した豊かな土壌を持っている。
フェイン男爵家の朝食は、いつものように質素なものだった。
細く長いテーブルには、焼き立ての黒パンが一切れずつと、玉ねぎと人参を煮込んだだけの白いスープ皿が並ぶ。
銀食器の代わりに木製のスプーンがカチャリと音を立てる音が、静かな食堂に響いた。
「うんうん、今日も美味しいなぁ~!」
薄桃色の癖毛をふわふわと揺らしながら、父フロリアンが元気よくスプーンを掲げた。
四十歳になった今でも、その若草色の瞳は陽光を宿したように明るい。
「リアン。子供たちの前でそんなに、はしたない」
向かいに座る母セリアが、いつものように優雅な身のこなしで窘める。
元は帝都のヴィラーズ侯爵家の長女であったセリアは、男爵夫人となった今も、その立ち居振る舞いは帝都の社交界で最も高貴なものだった。
ワインレッドの瞳と、空色のストレートヘアが、この男爵家で唯一、高貴な血筋を誇っている。
家族の視線が集まる中、リリィベルは自分の分の黒パンをスープに浸し、口に運んだ。
「お母様の言う通りよ、お父様。それにしても、お父様は毎日同じスープなのに、どうしてそんなに嬉しそうなの?」
リリィベルは、琥珀色の瞳を細めて笑う。
彼女の薄桃色の髪は毛先になるにつれて空色に変化しており、それは父と母の髪色を滑らかに受け継いだものだった。
その明るい髪色と、花を思わせる柔らかな表情は、貧しい食卓を明るく照らす太陽のよう。
「リリィ姉さん、それは違うよ」
姉の横で、弟のルカが真面目な顔で首を振る。
まだ十五歳で小柄なルカは、父譲りの若草色の瞳に、母譲りの空色の癖毛を持つ少年だった。
「お父様が嬉しいのは、お母様と僕たちの手料理が食べられるからだよ。僕たちが食べている顔を見るのが、お父様にとって一番のご馳走なんだ」
ルカの言葉に、セリアは微笑み、フロリアンは「さすがルカ!よく分かっているなぁ~!」と大袈裟に目元を押さえた。
その親馬鹿ぶりは、家族全員が慣れ親しんだ光景だった。
しかし、その場に一人、複雑な表情を浮かべる者がいた。
長女のロゼッタである。
二十歳になるロゼッタは、ワインレッドの瞳と桃色のストレートヘアを持ち、母と同じく見事な美貌の持ち主だった。
「まったく、平和な食卓だこと」
ロゼッタは、一切れしかない黒パンを小さくちぎりながら、ため息をついた。
「お父様、テーブルに置かれたままの、あのお手紙はどうするの?」
ロゼッタが目線で示したのは、父フロリアンの手元に置かれた一通の封書。
金糸と豪華な蝋で封印されたそれは、ソリス・マグナ帝国の皇宮から、年に一度開催される建国記念夜会の招待状だった。
「ああ、あれか……」
フロリアンは途端に表情を曇らせ、その豪華な封書を手に取った。
「今年も招待されてしまったな」
「されてしまった、じゃなくて!」
ロゼッタはやや声を荒げ、椅子から身を乗り出した。
「お父様、私は玉の輿を狙うって言ったわよね?帝都の夜会は、男爵家の娘が上流貴族と接点を持つ唯一の機会なのよ!」
ロゼッタの言葉は、この家の切実な問題を浮き彫りにした。
フェイン男爵家は、男爵という最低ランクの爵位の上に、領地経営がうまくいかず、常に借金を抱えている。
フロリアンは、妻と娘の顔を見比べながら、困り果てたように言った。
「分かっているさ、ロゼ。だがな、夜会へ向かう旅費と帝都での滞在費、それにロゼとリリィのドレス代を考えると……今年の領地の予算じゃ、ちと厳しいぞ」
男爵家にとって、移動一つにも多大な費用となる。
帝都までは乗り合い馬車で数日を要し、宿泊代も馬鹿にならない。
「そんな……!」
ロゼッタは悔しそうに拳を握りしめた。
彼女が玉の輿を狙うのは、贅沢をしたいわけではない。
理不尽な貴族社会から、愛する家族を守るための権力が欲しいのだ。
その張り詰めた空気を打ち破ったのは、リリィベルだった。
彼女は、口元についたパンの欠片を手の甲で拭いながら、目を輝かせた。
「お姉様、大丈夫よ!」
「リリィ……?何が大丈夫なの?」
ロゼッタが呆れたように問う。
「ドレスよ、ドレス!お母様の昔のドレスがあるでしょう?ほら、空色のシルクの!」
リリィベルは立ち上がり、身振り手振りで説明する。
「あれをね、お姉様用に少しお直しして、私用に裾を切ってリメイクすればいいのよ!お母様があのドレスを着ていたのは十年以上前でしょ? それなら流行遅れでも、誰も気づかないわ!」
リリィベルの天然で純粋な発想に、ロゼッタは一瞬、言葉を失った。
貴族の社交界において、ドレスのリメイクなど、貧乏を公言するような恥ずべき行為である。
しかし、セリアが静かに頷いた。
「リリィの言う通りかもしれないわ、ロゼ。あのドレスは、私も愛用していたから、仕立ても生地も良いものよ。それに、今のリリィなら、きっと素敵なデザインに直してくれるわ」
セリアの瞳には、かつて侯爵令嬢として社交界を席巻した者ならではの、芯の強さが宿っていた。
「そうよ、お姉様!」
リリィベルはロゼッタの手を取った。
「お姉様がイメージする、社交界の花に相応しいドレスに、私が直してみせるわ!」
リリィベルの琥珀色の瞳は、まっすぐで曇りがなかった。
その言葉には、打算も邪念もない。
ただ家族のために、姉の戦いを心から応援する純粋な気持ちが込められていた。
ロゼッタは、目の前の妹の無垢さに、張り詰めていた心がほどけるのを感じた。
「……そうね。仕方ないわ。リメイクドレスで、帝都の連中の度肝を抜いてやるわ!」
ロゼッタは、テーブルの上の夜会への招待状を、力強く引き寄せた。
「夜会へ向かうわ。私も、リリィも、ルカも、家族全員で行く。これは、フェイン男爵家を救うための、最初で最後の家族旅行よ!」
こうして、貧乏ながらも家族愛に溢れる男爵家は、運命の夜会へ向かうことを決意したのだった。
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