貧乏男爵令嬢だったはずが、嫁入り先の吸血鬼大公閣下に執着されています。《血の君は、琥珀の蜜に酔う。》
らぴな
プロローグ
第0夜 予感
口の中に広がるのは、いつだって鉄錆のような泥水の味だ。
飲み込んでも、飲み込んでも、喉の奥が焦げ付くような飢餓感は消えない。
雷鳴が轟く。
稲光が部屋を白く染め上げ、男の腕の中でぐったりと
首筋からは鮮血が滴っているが、壊れた
男は、興味を失ったように手を離す。
ドサリと重い音がして、娘の体が床に崩れ落ちた。
血に濡れた自身の口元を、手の甲で乱暴に拭う。
その所作には何の感慨もなく、ただ機械的な作業を終えただけの冷たさがあった。
赤く輝く瞳から光が消え、深い闇の色に戻っていく。
その表情は、精巧に作られた蝋人形のように硬く、そして空虚だった。
「……これでも、ない」
嵐の音にかき消されそうなほど低い声で、彼がつぶやく。
男は足元に転がる、つい先程まで生きていた抜け殻には一瞥もくれず、巨大な窓の鍵を外し、重いガラス戸を乱暴に開け放った。
叩きつけるような暴風雨が、容赦なく室内に吹き込んでくる。
男はそれを避けることもせず、夜気の中に身を晒した。
冷たい雨が、頬に付着した生温かい赤を洗い流していく。
だが、口の中に残る鉄錆のような後味と、癒えぬ渇きだけは、どうしても消えなかった。
(いつまで続く)
問いかけることすら飽きた自問。
虚無だけが、夜の闇よりも深く彼を包み込んでいた。
その時、雨音を切り裂くように、扉をたたく音が響く。
「――入れ」
短く許可すると、重厚な扉が開き、一人の男が入室してくる。
仕立ての良い服を着たその従者は、床に倒れている少女の遺体を見ても眉ひとつ動かさず、手慣れた様子で男の背中に一礼した。
「……閣下。後始末は私が」
「頼む」
男は窓の外を見つめたまま、濡れた髪をかき上げる。
従者は淡々と業務を遂行しながら、事務的な口調で報告を続けた。
「それと、明晩開催される皇宮主催の夜会ですが……招待状は破棄してよろしいですね?いつものように」
当然の確認だった。
悪魔と恐れられるこの主人が、着飾った貴族たちが群れる煌びやかな場所になど、興味を示すはずがない。
あそこにあるのは、腐臭を覆い隠すための鼻をつく芳香と、宿主に群がる蛆のような、欲にまみれた薄汚い血だけだ。
「ああ、捨てろ」
男が短く吐き捨てる。
従者が「承知いたしました」と一礼し、踵を返そうとした、その瞬間だった。
ドクリ、と。
男の心臓が、奇妙な音を立てて脈打った。
「―――――待て」
鋭い声が部屋を制する。
男の赤い瞳が、虚空の一点を見据えて細められた。
ふと、思考の空白に、不可解な揺らぎが走ったのだ。
雨の匂いに混じって、あるはずのない甘い幻が鼻先を掠めたような――そんな、予感。
理由はわからない。根拠などあるはずもない。
ただ、退屈に沈んでいた視界が、一瞬だけ鮮やかに跳ねた気がした。
(……なんだ?)
いつもなら吐き気すら覚える煌びやかなその場所が、なぜか今夜に限って、ひどく興味を引いた。
まるで、そこに探し求めている何かがあるかのような――そんな、漠然とした予感。
ただの気まぐれかもしれない。
だが、この渇ききった本能が、珍しく『行け』と囁いている。
「……招待状は残しておけ」
「はい?」
「明日は、俺も出る」
男はゆっくりと振り返り、驚きに目を見開いた従者を見据える。
先ほどまでの蝋人形のような無表情は消え失せ、そこには獲物の気配を察知した捕食者の、ギラついた獰猛な色が宿っていた。
「気が変わった」
男は口の端をわずかに歪め、窓の外で荒れ狂う嵐を見上げる。
長きに渡る退屈な日々が、終わりを告げようとしていた。
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