梅の花咲く頃に

瀬戸 玉華

第1話 出会い

東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花

主なしとて 春な忘れそ。


小さく口ずさむ声が、白い息となって冬の空へ溶けていく。


「……梅、春。……やっぱり、もう一度見に帰ろうかな」


 薫はマフラーを指で押さえ、鴨川沿いの冷たい風を受けながら歩いていた。

幼い頃、母と見上げた梅の木がふと記憶の底から浮かぶ。

あの時も、今と同じでまだ蕾しかなかった。


ドンッ——。


衝撃で思考が途切れた。手にしていたスケッチが宙に散った。

白い紙が花びらのように舞い、川風に揺れる。


「いって……!悪い!大丈夫か!?うわ、これ……汚しちまった、すまねぇ!」


 低く通る声。

その男は、落ちた紙を拾い上げ、目を細める。


「これ、梅の木か?……でも、なんで……」

 ふと真面目な声に変わったその瞬間、すぐに慌てたように続ける。

「いや違う!お詫び、なんでもする!言ってくれ!」


 嵐のような勢いに、薫は瞬きをした。

自分でも気づかぬまま、口が動いていた。


「……じゃあ。モデル……、かな」


 思いもよらない頼みに今度は男が息をとめる番だった。


「……モデル?」


(……あっ……)

薫は焦った。不意打ちとはいえ、今あったばかりの他人にいきなりそんなこと頼むなんてー。

(何を言ってるんだ、僕は……!どうして……!)


そんな薫の戸惑いをよそに、男は一拍置いたあと太陽のような笑顔で言った。


「オッケー!俺でいいならいつでも呼んでくれ」


 その軽さが、逆に薫の胸をざわつかせた。


「……っ本当に、いいのかよ……」


男はニカッと笑う。

冬の光を正面から受けて、眩しいくらいの笑顔だった。


「いいって。それより、お前名前なんてーの?俺は、藤原真也」


「……梅林薫」


その名前を聞いた瞬間、真也は少しだけ目を丸くした。


「——だから梅、ね」


どこか納得したように呟き、

持っていたスケッチを口元に当てて隠す。


「はい。じゃ、スマホ出して」


「……は?」


怪訝そうに眉が上がる。

“初対面の相手にスマホなんて渡すか”

という薫の心の声が顔に出ていたのだろう。


「ち、ちがっ、連絡先!連絡先だって!分かんねーとモデルできねーし!」


真也が両手をぶんぶん振り回しながら弁解する姿は、

どこか子どもっぽくて、薫は思わず視線を落とした。


そういえば、そんな話になったんだった。

衝動のまま口にした「モデル」という言葉が、

現実味を帯びて薫に迫ってくる。


「おし!これ俺の連絡先な!じゃ、いつでも連絡してこいよ!」


 そう言って薫にスマホを返し、自分のスマホを見た真也の顔はみるみるうちに青くなっていった。


「ヤベェ……鬼電来てる……」


そして、元来た方へ走り去って行った。途中で“絶対連絡して来いよー”(多分)と叫んで片手を大きく振りながらー。


「はぁ……疲れたな……」


 薫は自分の部屋に戻るなり、ベッドに倒れ込んだ。ゴロンと仰向けになり額に手を当て嵐のように去って行った男のことを思い出していた。どうしてあんなこと言ったんだろう……薫の頭にはその質問が何度も浮かんで、その度あの太陽のような笑顔が消していった。浮かんでは消え、また浮かんでは消え……と何度も繰り返すうち、薫も、まぁ……

いっか……と思うようになり、ふわふわとした気分のまま落ちてくる瞼に逆らわずそのまま目を閉じたー。眠りに落ちる瞬間、懐かしい、甘く、けれど冬の寒さにも耐え抜く強さを秘めた梅の香りが鼻先をかすめた気がしたー。


フフッ


「……?今、笑いました?」


 迎えの車の中で運転手がバックミラー越しに尋ねてきた。


「ん?ああ、面白くなりそーだなと思ってな」


運転手は小さく息を吐き短く端的に答えた。


「楽しそうで何よりです。ですが、程々に。旦那様は今大切な……」


 真也は昼間に会った警戒心剥き出しの猫のような薫の姿を思い出し、瞼を閉じたあと、穏やかな、しかしどこか緊張感のある声で答えた。


「当然だろ」



自分の手で描いた、蕾すらつけていない梅の絵が、美しくも残酷な冬を運んでくることを、薫はまだ知らなかったー。

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