最終話 声のない告白
夕陽が、海に溶けていくようだった。
その橙色の境目を、澪は静かに見つめていた。
白いワンピースの裾が風に揺れ、細い肩が少し震えていた。
もう喉に触れても、声が戻ることはない。
それでも澪は、喉元をそっと押さえて、苦しく息を吸った。
「……無理するなよ」
言いながら、遥斗の声も震えていた。
澪は、ノートを開いた。
最後のページ。
そこにはもう書く余白がなかった。
たった一言を残すために、すべてを使い切ったみたいに。
「今日で、声は終わりです。最後に、“その言葉”だけを言わせてほしい。」
“その言葉”が何なのか──
本当はわかっていた。 だけど、認めたくなかった。
澪はノートを閉じ、遥斗の前に立った。
風が二人の間を通り抜け、指先の距離を震わせる。
そして、澪は顔を上げた。
夕陽が、彼女の瞳の奥に揺れていた。
澪の唇が、ゆっくりと動く。
声が出るはずのない喉から、
かすかな呼気が漏れた。
それでも、彼女は言おうとしていた。
言葉の“形”だけが、空気を震わせた。
気づいた瞬間、胸が痛くて仕方なかった。
(……やめろよ。そんなの……)
止めたいのに、止められない。
これは、澪自身が選んだ“最後の声”だった。
澪の喉が震えた。
ほんの、小さな、小さな囁き。
「…………す……き……」
紙より薄い声だった。
波の音にすぐ飲まれそうなほど小さかったのに、
その言葉だけは、世界の全部を震わせるくらい強かった。
澪は、泣き笑いを浮かべた。
声を失ったその瞬間、
ずっと言えなかった想いだけが、ただそこに残った。
遥斗は喉の奥が熱くなって、
言葉が出てこなかった。
だけど、澪の前では泣きたくなかったから、
必死に息を吸い込んで笑った。
「……俺もだよ。
ずっと前から……好きだった。」
澪の目がゆっくりと潤んだ。
声がないのに、
その喜びが、痛いほど伝わってきた。
そのあと澪は一言も発せず、
ただ遥斗の隣に座って海を眺めた。
風の匂いが夏の終わりを告げ、
波の色がゆっくりと秋へ変わる。
澪の指先が、そっと遥斗の袖をつまんだ。
もう声はいらない。
ただこの瞬間を覚えていたい──
そんな想いが静かに伝わってきた。
やがて澪が立ち上がり、
最後にノートを開いて見せた。
そこには、丁寧な字でこう書かれていた。
「声がなくても、気持ちは消えません。あなたに会えて、本当によかった。」
そのページは、涙で少し滲んでいた。
澪の笑顔は、夕陽よりも優しい色をしていた。
彼女が歩き出すのを、遥斗は黙って見送った。
風の中で白いワンピースが揺れ、
最後の光がその背中に溶け込む。
声を失った少女の背中は、
どこよりも静かで、どこよりも強かった。
エピローグ。
堤防の上で、遥斗はカメラを構えた。
シャッターを切る。
写ったのは、
夕暮れの海と、
風に揺れる白いワンピースの残像だけ。
そこに声はない。
でも、確かに想いはあった。
「声がなくても、伝わるものがある。」
「そう教えてくれたのは──澪だった。」
波が優しく寄せては返す。
音だけが、二人の時間を包み込む。
風の匂いがゆっくりと夜を連れてきた。
そして物語は、静かに幕を閉じた。
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