第3話 歌えない告白

 夏がゆっくり深くなる頃、

 澪は少しずつ変わっていった。


 変わったのは表情ではない。

 笑顔も、恥ずかしそうに頬を染めるところも、いつも通りだ。


 ただ——

 声の“気配”だけが、日に日に薄くなっていった。


 喉に手を当てる仕草が増え、

 小さく息を飲むたびに、苦しそうに目を伏せる。


 その変化に、遥斗は気づいていた。

 でも、何も言えなかった。


 聞いたところで、

 彼女の痛みを軽くできるわけじゃない。


 


 その日も堤防には潮風が吹いていた。


 澪はノートを抱え、いつものように嬉しそうに手を振ってくれた。

 けれど、その笑顔の奥にある影は、昨日より濃かった。


「今日は、調子どう?」


 尋ねた。 軽く言ったつもりだったが、

 自分で思っている以上に声が硬かった。


 澪はノートを開く。

 けれど、すぐには書かない。

 迷っているように、ペン先がページの上をただ彷徨っていた。


 やっと書かれた言葉は——


「大丈夫、です。」


 その“です”の最後が、わずかに薄かった。


「無理するなよ。喉、痛いんだろ?」


 澪は驚いたように目を見開き、

 すぐに目をそらした。


 そしてノート。


「……少しだけ。」


「少しじゃないだろ。見てればわかる。」


 言いながら、遥斗は自分の声が掠れていくのを感じた。

 怒っているわけじゃない。

 ただ、心が追いつかないだけだ。


 澪はゆっくりとノートに文字を書き足す。


「言いたいことがあるんです。」


「言いたいこと?」


 ページの端をぎゅっと指で押さえながら、

 澪は続けた。


「でも、声で言いたいんです。」


 胸が、痛いほど熱くなった。


(なんで……そんな顔で言うんだよ)


 澪は喉に触れ、微かに息を吸う。

 そのたびに苦しそうな気配が伝わってくるのに——

 それでも彼女は“声で言いたい”と言った。


 何を。 誰に。 なぜ。


 その答えが怖くて、何も聞けなかった。


 


「今日は……歌、練習したの?」


 少しでも空気を変えたくて、何気ない声を出した。


 澪は小さく頷き、ノートを胸に押し当てた。


「でも、声が……出ませんでした。」


「……そっか。」


 澪の肩がわずかに震える。

 風のせいだけではなかった。


「悔しいです。」


「なんで?」


 問いかける。

 すると澪は、震える指で何かを書こうとして——

 その途中で、急にペンを止めた。


 返されたページには、

 ただ一文字だけが残っていた。


「す」


 “す”だけ。 なにかの始まりのようで、

 でも続きが書かれない“一文字”だった。


「あの……澪、それって——」


 澪は慌ててノートを閉じた。

 まるでそれ以上見せてはいけない、とでも言うように。


 そして、俯いたまま小さく書いた。


「違います。ごめんなさい。」


 違うわけがなかった。

 けれど追及はできない。


 言葉が出せない彼女にとって、

 “好き”の一文字は、あまりに重すぎた。


 


 気まずい空気を断ち切るように、

 どこからか声が飛んできた。


「澪ー! 迎えに来たよー!」


 少女の姉、日向だった。


 澪がはっと顔を上げる。

 その表情は、少し泣きそうで、でも必死に笑っていた。


 日向が堤防に近づき、遥斗を一瞥した。


「……今日、澪、声出なかった?」


 遥斗は答えられなかった。

 言葉を探している間に、 日向は小さく息を吐いた。


「やっぱりね。無理してるでしょう、澪。」


 澪は“違う”というように、首を横に振った。

 でも、振るほどに涙が揺れた。


 日向は妹の肩にそっと手を置いて言った。


「澪。

 もうすぐ……本当に声が出なくなるかもしれないんだよ。」


 風の音が消えた。


 世界が一瞬、凍った。


 澪は震える手でノートを開いた。

 ゆっくり、ゆっくり書いた。


「……知ってます。でも、言いたいことがあるんです。」


 日向の表情が曇った。

 けれど、それ以上責めなかった。


「……帰ろう。今日はもう、喉休ませなきゃ。」


 澪は遥斗の方を見た。

 “言わなきゃいけない何か”を飲み込みながら。


「また。」


 たったそれだけ書き残し、

 夕陽の中へ歩いていく。


 白いワンピースが、ゆっくりと影に溶けていった。


 


 残されたのは、

 堤防に落ちた夕暮れの光と、

 開きかけた一文字だけの記憶。


「す」


 言えない告白の、そのはじまり。


 それを遥斗は、 ただ固まったまま見つめていた。

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