第陸話『見えているのに、崩れる』─言の葉による言霊は人を、操作できる

A「ねえ、見えるって本当に信じられるものだと思っている?」Aが言った。「中世の修道士たちは、世界を読み解くために薔薇を神の痕跡だと信じていた。でもエーコは、それすら記号でしかないって言った。結局のところ、薔薇は名前だけが残った。」

B「『市民ケーン?』」、続けて「ウンベルト・エーコを使って私と話したいのなら、禁書と死=知識の危険を議題にしてほしいわね。舐めているの?『薔薇の名前』において、図書館は単なる知識の貯蔵庫ではない。そこには知の権力が制御される場でありながらも、特に禁書とされる書物は、知識が秩序を破壊しうる危険な存在であることを象徴しているわ。」Aはこう切り返した。「図書館の迷宮構造は記号論的に見れば、知識が必ずしも真理に至らない、つまり意味を追う行為そのものが虚無に繋がる可能性がある、いやそうじゃない。もっと言えるのは

『バウドリーノ』におけるドン・キホーテ並みの主人公は、自らの「空想」によって歴史を作り変えていく存在だ。彼が語る物語は、しばしば「現実」として世界を動かしてしまう。この意味で『バウドリーノ』は、「禁書」の概念すら相対化する。なぜなら、真実かどうかが判定不能な世界では、何が禁じられるべき知なのかも分からないからである。」Bはいつも以上に強い口調で返す。

「『バウドリーノ』が危険なテーマが内在されていることになぜ言及しない?あれは語ることで世界を転覆させてしまう恐ろしさが意味合いとしてあるわ。バウドリーノは善意で嘘をつく。彼の語りは、世界を救おうとしていた─しかしその希望は、事実をねじ曲げ、信じた者たちを戦場へと駆り立てる。これは「善意の嘘」が生み出す最悪の破壊であり、最も人間的な悲劇である。そして彼の語りは「希望」「信仰」「救済」を与えたように見える─が、しかしを動かすとき、物語はもはや娯楽ではなくなる。むしろ現実への干渉装置=暴力の媒体となり、その結果、嘘は信じられ、信じた者たち行動で人が死ぬ。物語=歴史の捏造だ。禁書的要素とは、「偽りの知識が人々を真実以上に導く」これは、現代も同じであり、つまりあなたが語ったことが誰かを殺すかもしれないとき、それでもなお。語る自由は無制限なのか?というテーマにもなるのよ?つまり知識は死を招くのではなく、知識によって現実が死ぬということ。」


また不意打ちをすることになるが、仕方ない。もうこれは賭けだ。


「ならば「語ることの罪としての《Rigoletto》はどうなんだ。『バウドリーノ』では最終的に、自らの語りの重みによって、バウドリーノ自身が真実を語ることも虚構を語ることもできなくなる。すなわち、「語りの主体が自己を信じられなくなる」これは沈黙の予兆であり、《Rigoletto》もまた、最後に「呪いは現実になった」と絶叫する─語ること自体が暴力を呼び、死を呼び、最後に沈黙をもたらす。語ることで誰かの死が生まれる、ならばどこまで語れるのか?という問いはこれによって返す。つまりは語る時点で、その人の中には「覚悟」がないといけない。発信も同様に「覚悟」必要になるのと同じようにね。そしてつまりこれは「撃っていいのは撃たれる覚悟があるやつだけ」という某国の遺子の教訓と同じで、そもそも語る覚悟を持っていないのであれば沈黙に落ち着くしかない。」するとBは不気味なほど笑いながらこう返した。


B「《Rigoletto》と『バウドリーノ』をつなぐ鍵としては

1. 語り=暴力である可能性

2. 虚構=自由ではなく、現実を汚染しうる力

3. 言葉が他者を傷つけ、語り手に呪いとして跳ね返る

4. 語ることの代償が死や沈黙というかたちで現れる

5. エーコは記号論で、ヴェルディは音楽

「語るということの宿命的な暴力性」という意味では確かに共通しているわ。まぁそれはそうとして、その上で言いたいのは、知識は自由の象徴ではない。知識は、むしろ開示に伴う損傷の儀式。その意味ではそれはその通りなのだろう。知識は、人格を保証しない。そして、優秀であることが、優しさに繋がらないのも確かだよ。

例えば、私が今ここで、仮に、「想像力って単語がセンターにあるだけでバカは感動してくれる。

言葉なんてそうやって使うものよ」と口にしたとする。すると、言われた側はその言葉の呪詛からは絶対に逃げられない。あるいは、人が鼓舞する言葉で感傷的になる、というのは期待を代弁されたと思ったから起きる事象。その意味では演説というのも、毒になる。

聞き手の不安を安心に誤変換するための装置としてね。

私、前々から生徒や大人がスピーチをする様を見る時に裏があるんじゃないかって思うの。

A「それってどんな裏?」

B「演説中「将来に希望を持ち、仲間とともに学び合いましょう」と言っている顔して、頭の中では「全員既にレール乗ってら笑」みたいな。そういう仕草を感じてしまう時があるの。

だけどね、それを全部迂遠したところでね、しかしそれでも人間は知りたがるのよ。なぜなら、根源としてそれが人間存在そのものの皮膚だから。エーコの作品群は、この「知識=麤(あら)皮」として、それを繰り返し剥ぎながら、人間が人間であることの代償を問い続けているよ。それこそ直接的にはバルザックの『あら皮』は願い=意味が叶うたびに、終点に向かって皮が縮む。それゆえ、物語が叶えられる世界では、命が消費されていく。

その意味で、語ること、知ること、願うことは、どれも世界を変える行為であり、その代償として「生」「倫理」「秩序」が破壊されていくわ。」

そして淡々とこう述べた。

「エーコ的主題「語ることが現実を作るが、時に現実を破壊する」の現実世界の実証例はルーダフィン社とボスニア戦争がそうよ。詳しくは『ドキュメント 戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争』を読んで欲しいのだけれど、あれはセルビア人による「民族浄化(Ethnic Cleansing)」という強烈な言語をメディアで反復。強制収容所の映像・画像を積極的に利用しアウシュビッツやナチズムと直結する言説を拡散。 これにより、国際世論は完全にセルビア=悪、ボスニア・クロアチア=被害者という構図に傾斜。 PR会社という現代の「語り部」は、虚構を単なる装飾ではなく政策決定の駆動力に変えた。語ることが、物理的な世界を破壊するための最初の一撃となりうる。という命題の実証であり、すなわち 語りは倫理的中立を装えるが、結果において極めて暴力的な偏向を生むことがある。つまり─ 物語は世界を癒さない。

時に、物語は引き金であり、虚構は火薬であるのよ。project Itohの作品の本質もここに収斂する。


このタイミングで自分はこう切り返した。


「今日を願い続けるよりも、それでも明日を望んだ方がいいと思う。語ることは、世界を変えることだ。《Rigoletto》だって娘を守るために語った。たとえ虚構でも、語りには歴史を動かす力がある──それだけは否定できない」

沈黙が数秒続いた。

「愚かしさも極まったわね」と、Bは嬉しそうに言った。「それは感情にすぎないわ。願いには論理がない。語りの価値は、語った結果でしか判断できないのよ」Aは静かに言い返す。

「すべての語りは、信仰・愛・理性・正義・支配・死──そのどれにもなりうる。語れば、世界は変わる」

──その刹那。冷たく、鋭く、突き刺すような声が返る。

「だが、それが正しく変わる保証は、どこにもない。《Rigoletto》のお返しをするなら、折口信夫の『死者の書』を挙げておくわ。語りの始原とは、死者との対話──つまり語ってはならないものを語るという行為そのものよ」

「だからこそ、語りが世界を動かすか壊すかを問うこと自体が、すでに呪術なの。語りは、どこかで常に、零地点に触れてしまう。」


A「もっと身近な例を。たとえば恋愛にかかる語彙、行為。つまり告白、愛の言葉、名前の呼びかけなど、言語によって新しい関係が「生成」される。言葉が感情を現実化する。好き、という言葉が「好きという事実」を確定する。誰かに「好き」と言うことで、関係の次元が変わる。「好きです」と言った瞬間、ただの友人関係が恋人候補になる。「別れよう」と言えば、愛の物語が終わる。「君といると未来が見える」と言えば、その未来が現実味を帯び始める。創造的語りの力はこれに倣えば、恋愛は、語ることでありえなかった世界を発生させる儀式だ。愛は語られなければ、存在しない。いずれにせよ言葉にすれば始まり、 言葉にすれば終わるものだ。

嫌われないことは好かれること近いようで遠い、ともいう。結局人は、真実よりも優しい嘘を求める。嘘といっても「人を幸せにする」優しい嘘であれば報われるはずだ。」

B「だけどね。そこには決して本音なんてない、あるのは掛け値なしの地獄のようなあらゆる感情しかない。その中で最適化された単語を適材適所に言う。ただそれだけ。デヴィッド・フィンチャーの『ゴーン・ガール』のようにね。恋愛感情は、単純な「好き/嫌い」ではなく、渦巻く欲望・恐怖・不安・羨望・自己否定・優越欲求・孤独の混合物。その「混沌」から、必要な文脈で適切な意味あるふりの単語だけを取り出して語るしかないの。わかる?そしてそれはもはや感情の表現ではなく、「コミュニケーションにおけるパフォーマティヴ最適化」。

そして続けてこういった。

「語ることで世界を動かす」も「語ることで世界を壊す」も、結局は他者のまなざしに迎合する幻想。だからこそ唯一者は言うのよ。「語ることに何の意味がある? それは私の所有ではない。」と。これを軸におけば、俗にいう「恋は盲目」というのは、語らないことで成立する幻想とも言えるわ。 言葉によって現実が介入すると、美化された愛の像が崩れる。例えば相手に「他に好きな人ができた」と言われる=世界が崩壊する。近いのに遠く感じてしまう、二人の距離が近いからこそお互いが見えなくなってしまう。これは本音を言ってしまった結果、相手の好意が冷める。そして語らなければ保たれていた関係が壊れる。 また、「君を信じていたのに」=語ることで信頼が剥がれる。 語ることで均衡が破られ、愛の幻が終わる。愛は「わからなさ」や「誤読」に支えられていたが、語りはその曖昧さを明晰化し、世界を壊す。これが限りなく近い。私自身、人間性を保つという意味では、本当はこんなこと思いたくないけれどね。今回の題材に沿って言えばこう返すしかない。もういい加減、帰らないといけないので議題を戻すけれど、結局ウンベルト・エーコが描いた「禁書と死」は、知識の絶対性を疑い、「読む」という行為の倫理性を問うものである。それは単なる情報ではなく、意味を持つ知識が、どれほど人間を変えてしまうのかという深い問いだ。 知ることの代償として死がある。だからこそ、禁書は「読まれるべきではない」――しかし、それでも人はそれを読む。『バウドリーノ』に関しては真理を禁じるのではなく、「嘘を知識として扱う社会」こそが、最も恐るべき禁忌である。ということね。なにより締めはバウンドリーノ以上の嘘つきがいずれ台頭するというエンドだわ。であるため、これ以上はそれこそ語りようがないわ。からかいは免罪符じゃないわ。」

もう少し、これさえ解決すれば、一気に、と思った。しかし─

この瞬間、たしかに何かが壊れた、いや自壊したのだ。 でも、それは「感情が壊れた」のではなく、「感情に抗っていたもの」が、壊れたのだ。 沈黙が、崩れる音をしていた。

沈黙という場だけがこの場を侵食していったのだ。

Music By ジョニー・グリーンウッド.『Battle After Battle』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る