リジェクト・プロトコル

林檎 蜜柑

プロローグ

 世界が壊れる音を、九澄カイトは聴いた。

 それは、ガラスが砕け散るような清冽で美しい音ではなかった。

 もっと生理的な嫌悪を催す、湿った音だ。

 巨大な汚れた雑巾を限界まで絞り上げるような、あるいは腐り落ちた果実が地面に叩きつけられて破裂するような、粘着質で不快なノイズ。それが鼓膜ではなく、脳の奥底に直接響いていた。


 三年前。東京ゼロ・エリア。

 かつて一国の首都として栄華を誇ったメガロポリスは、今や見る影もなく溶解していた。

 視界を埋め尽くすのは、赤黒い情報の奔流(ストリーム)だ。空には入道雲の代わりに、バグを起こした幾何学模様のエラーコードが亀裂となって走っている。重力係数は狂い、千切れたアスファルトや信号機が雨のように空へと落ちていく一方で、高層ビル群は高熱に晒された飴細工のようにドロドロに溶け出し、地面と空の境界を曖昧に塗りつぶしていた。


 ここは、現実であって現実ではない。

 異世界からの強制侵食(オーバーライト)によって物理法則が書き換えられた、人知の及ばない魔境。

 軍が定めた災害等級は、計測不能の『SSSランク』。

 人類が初めて直面する、国家崩壊級の終末領域だった。


「は、ぁ……ッ、ぅ、あ……」


 カイトの喉から、空気の漏れるような音が漏れた。

 肺が焼けるように熱い。一呼吸するたびに、肺胞が大気中に充満した高濃度の魔素データに冒され、内側からやすりで削られるような激痛が走る。

 足が、重かった。

 恐怖で竦んでいるのではない。この空間のデータ密度が濃すぎるのだ。

 常人であれば、この空間に立っているだけで自身の存在定義(アイデンティティ)が希釈され、泡のように弾けて消滅してしまうだろう。

 カイトがまだ人間の形を保っていられるのは、奇跡などではない。ただの残酷な献身のおかげだった。


「お兄、ちゃん……離れない、で……」


 カイトの数歩先で、小さな背中が震えていた。

 九澄ミナ。十二歳の少女。

 透き通るような銀色の髪は煤と血で汚れ、華奢な肩は呼吸をするたびに悲鳴を上げているかのように大きく上下していた。

 彼女の体からは、蛍火のような淡い光が溢れ出していた。それは彼女の魂を削って展開されている、脆弱な防衛結界(シールド)だ。その薄皮一枚の膜が、周囲を圧殺しようとする世界の悪意を必死に押し留め、無力な兄を生かしていた。


「……ッ、見るな……ミナ、前だけを見ろ……!」


 カイトは掠れた声で叫びながら、自身の足元へ視線を落とさないように必死だった。

 そこには、かつて「希望」と呼ばれたものたちが転がっていたからだ。

 肉塊、と呼ぶしかなかった。

 ほんの数十分前まで、彼らは日本中から選抜されたエリートだった。将来を約束されたSランクの高校生ダイバーたち。最新鋭の強化外骨格を纏い、自信に満ちた笑顔で「僕たちが聖女様を守る」と豪語していた英雄候補生たち。

 その成れの果てが、これだ。


 ある者は、自身の許容量(キャパシティ)を超える情報の流入に脳を焼かれ、頭部が破裂していた。

 ある者は、物理法則の改変に肉体が耐えきれず、裏返しになった靴下のように内臓を撒き散らして絶命していた。

 またある者は、恐怖のあまり精神が退行し、幼児のように指をしゃぶりながら、データ(光)の塵となって崩壊しつつあった。


 全滅。

 Sランクですら、ここでは羽虫に等しい。

 そんな地獄の最前線に、まだ高校に入学すらしていない十三歳のカイトが立っていること自体が、悪い冗談のような間違いだった。

 カイトは『Fランク』だ。

 軍の測定器にかけてもエラーしか返さない、基準値以下の落ちこぼれ。

 本来なら、シェルターの隅で震えているべき存在。

 それなのに、なぜここにいるのか。

 理由は単純で、そして反吐が出るほど残酷だった。


『精神安定剤(スタビライザー)』

 それが、軍がカイトに与えた役割だった。

 最強の能力を持ちながら精神的に未熟なミナを、最深部まで安定して輸送するための、ただの精神的な添え木。

 妹の手を引くためだけに連れてこられた、無能力な兄。


(……俺は、なんだ)


 カイトは歯茎から血が出るほど奥歯を噛み締めた。

 視界が涙で滲む。それは恐怖によるものではなく、煮えたぎるような自己嫌悪によるものだった。


(兄貴だろ。守ってやるって、約束しただろ)


 現実はどうだ。

 守られているのは自分だ。

 十二歳の妹が、血の涙を流しながら展開する結界の中で、ただおんぶに抱っこで守られているだけの寄生虫。それが今の自分だ。

 足元に転がるSランクの死体よりも、今の自分が惨めで、醜く、無価値に思えた。


「――っ、ぐ!」


 不意に、ミナの膝が折れた。

 ガクン、と小さな体が崩れ落ちる。

 同時に、周囲の空間を蝕む赤黒いノイズが一気に膨張し、カイトたちの肌をチリチリと焼き始めた。結界が限界を迎えているのだ。


「ミナッ!」


 カイトは泥にまみれながら這いつくばり、妹の体を抱き起こした。

 腕の中の妹は、驚くほど軽かった。命の重さまで削ぎ落としてしまったかのように、儚く、脆い。

 彼女の白い肌には、幾重もの黒い線が走っていた。データ侵食による壊死反応だ。これ以上進めば、彼女の自我が砕けるか、肉体が砕けるか、どちらが先かという段階だった。


「……立つな、ミナ! もういい、もう十分だ!」

「はぁ、はぁ……お兄、ちゃん……」

「帰ろう。引き返すんだ。こんなところまで来なくたって、誰も文句なんて言わない。お前はよくやったよ……!」


 カイトは叫んだ。それは懇願だった。

 もう世界なんてどうでもいい。日本がどうなろうと知ったことではない。

 ただ、この小さな妹に生きていてほしい。温かいスープを飲んで、柔らかいベッドで眠ってほしい。ただそれだけのことが、どうしてこんなにも遠いのか。


 だが。

 カイトの腕の中で、ミナは首を横に振った。

 焦点の合わない瞳で、どこか遠い虚空を見つめながら、うわごとのように呟く。


「だめ、だよ……進まないと……」

「ミナ!」

「パパたちが……軍の人たちが、困るから……私がやらないと、みんなが……」


 それは、洗脳に近い教育の成果だった。

 あるいは、「期待に応えなければ愛されない」という、幼い心が作り出した強迫観念の檻。

 彼女は自分自身の命よりも、大人たちの顔色を優先するようにプログラムされてしまっていた。

 その事実に、カイトの胸は引き裂かれるようだった。


(俺のせいだ)


 俺が弱かったから。

 俺に力がなかったから、親たちは俺を見限り、全ての期待と重圧をこの小さな背中に背負わせたのだ。

 Sランクの死体の山を越え、崩壊する世界を踏みしめ、それでも少女は立ち上がろうとする。

 その足取りは死刑台に向かう囚人のように頼りなく、しかし、残酷なほどに真っ直ぐに、世界の中心を目指していた。


 その時、カイトの耳の奥に突き刺さっていたイヤーモニターが、耳障りな電子音を奏でた。

 ザザ、ザザザ、とノイズが走り、直後に無機質な声が脳内に直接響いてくる。


『――進め。予定より遅れている』


 その声を聞いた瞬間、カイトの背筋に氷柱を突き立てられたような悪寒が走った。

 聞き間違うはずがない。

 低く、威圧的で、そして恐ろしいほどに感情の欠落した声。

 それは、実の父であり、この作戦の総指揮を執る軍司令官の声だった。


「……父、さん?」


 カイトは震える指でイヤーモニターを押さえた。

 助けが来たのか。撤退命令が出たのか。

 一瞬だけ灯った希望は、続く言葉によって無残に踏みにじられた。


『何をしている、Fランク(カイト)。ミナを立たせろ。最深部のレリック反応まで、あと七百メートルだ』


 カイトは息を呑んだ。

 撤退ではない。進軍命令だ。この地獄を、さらに奥へと進めと言っているのだ。


「ふ、ふざけるな……! 見えてないのか!? カメラで見ているんだろう!?」


 カイトは虚空に向かって吠えた。ドローンのカメラがどこかで自分たちを監視しているはずだ。


「Sランク部隊は全滅した! 先輩たちはみんな死んだんだぞ! ミナだって、もう立っているのがやっとだ! これ以上進んだら、ミナの精神(こころ)が壊れちまう!」


 カイトの絶叫は、血を吐くような慟哭だった。

 唾が飛び、喉が裂けるほどの叫び。

 だが、返ってきたのは、機械音声よりも冷酷な「事実の確認」だけだった。


『映像は確認している。Sランク隊員のバイタル消失も把握済みだ』


 父の声には、驚きも、悲しみも、焦りすらなかった。ただ事務的に、在庫確認をする倉庫番のような淡々とした響き。


『損耗率は想定内だ。彼らの死は、ミナを最深部へ届けるための必要なコストとして計上されている。名誉ある戦死として処理し、遺族には十分な補償金を支払う手筈になっている』


「……は?」


 カイトの思考が空白になった。

 損耗率? コスト? 処理?

 何を言っているんだ、この男は。

 あそこに転がっているのは肉塊じゃない。さっきまで笑っていた人間だ。未来ある高校生だ。それを、まるで使い捨ての鉛筆か何かのように。


『対象(ミナ)のバイタルは、まだ危険域(レッドゾーン)には達していない。稼働可能だ。……カイト、お前に発言権を与えた覚えはない。お前はただの精神安定剤(スタビライザー)だ。黙って妹を連れて行け』


 プツン、と通信が一方的に切断された。

 後に残ったのは、鼓膜を打つ砂嵐のようなノイズだけ。


「あ……あ、あ……」


 カイトは膝から崩れ落ちそうになるのを、必死にこらえた。

 恐怖のあまり、奥歯がガチガチと鳴る。

 異世界(ここ)が怖いのではない。

 人間が、怖かった。

 安全な司令室に座り、エアコンの効いた部屋でコーヒーを啜りながら、モニター越しに子供たちの死を「コスト」として計算する大人たちが。

 血の繋がった息子や娘を、平然と死地へ追いやる実の親が。

 魔物よりもよほど醜悪な「怪物」に見えた。


(こいつらは、俺たちを人間だと思っていない)


 カイトの中で、決定的な何かが音を立てて砕けた。

 父にとって、軍にとって、国にとって。

 自分たちは「人間」ではない。「部品」なのだ。

 レリックという資源を回収するための、交換可能な生体部品。

 壊れれば捨てればいい。代わりはいくらでもいる。Sランクが壊れた? 残念だが想定内だ。次はもっと頑丈な奴を連れてこよう――。


「……嫌だ」


 カイトは地面を殴りつけた。泥水が跳ねる。


「嫌だ、嫌だッ! 帰るぞミナ! こんな命令、聞く必要なんてない! 父さんは狂ってる!」


 カイトは妹の細い腕を掴み、強引に引き戻そうとした。

 だが、ミナは動かなかった。

 いや、動けなかったのではない。彼女自身の意志で、その場に縫い付けられたように立ち尽くしていた。


「……ミナ?」


 ミナがゆっくりと顔を上げた。

 その瞳から、ハイライトが消えていた。

 彼女の耳にも、同じ命令が届いていたのだ。そして、カイトと違い、彼女には「拒否する」という選択肢が教育(プログラム)されていなかった。


「……進まないと」


 ミナの唇から、乾いた言葉がこぼれ落ちた。


「だめだよ、お兄ちゃん。戻ったら、パパに怒られる。……私が悪い子だって、言われちゃう」


 それは、幼い子供が親の愛を乞うような、あまりにも痛々しい響きだった。

 彼女は、自分が使い捨ての部品として扱われていることに気づいていない。いや、薄々気づきながらも、そう思わなければ心が壊れてしまうから、必死に「愛されている娘」という幻想にしがみついているのだ。


「ミナ、違う! お前は悪くない! 悪いのはあいつらだ!」

「ううん。私が行けば、みんな喜ぶの。パパも、ママも、軍の人たちも……みんな、お兄ちゃんがいたからと笑ってくれるの」


 ミナは、ゆらりと足を前に出した。

 ズルッ、と靴底が粘液質の地面を擦る音が響く。

 彼女の体から溢れる光(防衛結界)が、心なしか弱まっている。命の灯火が削れている証拠だ。

 それでも彼女は歩き出した。

 最深部へ。

 大人たちが待つ「成果」を手に入れるために。


「待てよ……待ってくれよ、ミナ……ッ!」


 カイトは泣きじゃくりながら、その後を追うしかなかった。

 止める力も、連れ戻す力も、Fランクの彼にはない。

 ただ、妹が死に向かって歩く背中を見つめながら、無力な自分を呪うことしかできなかった。

 絶望的な行軍。

 その先に待つのが、救いなどではないことを予感しながら、二人は世界の終わりへと足を踏み入れていった。


 最深部(コア)は、皮肉なほど美しかった。

 それまでの道程が赤黒い臓腑の中を這いずり回るような地獄だったのに対し、世界の中心は、冬の夜空のように澄み切った静寂に包まれていた。

 天井も床もなく、ただ無限の青いデータ粒子が星屑のように舞っている。その中央に、それは鎮座していた。


 『SSSランク・レリック』。

 それは宝石や鉱物といった物理的な物質ではなかった。

 巨大な光の結晶体。幾何学的な多面体がゆっくりと回転しながら、周囲の空間情報を絶えず上書き保存し続けている。

 神の心臓。あるいは、悪魔の脳髄。

 現実世界の物理法則を根底から覆し、無限のエネルギーを生み出すことができる、禁断の万能リソース。


「……あ、あ……」


 ミナの喉から、恍惚とも悲鳴ともつかない吐息が漏れた。

 彼女はもう、限界だった。

 Sランク装備すら持たない生身の体で、ここまで世界の負荷を受け止め続けてきたのだ。全身の毛細血管は破れ、白い肌は内出血でどす黒く変色している。それでも彼女の瞳は、吸い寄せられるようにレリックへと固定されていた。


「ミナ、だめだ……! 触るな!」


 カイトは叫んだ。肺の中の空気をすべて吐き出す勢いで制止した。

 本能が警鐘を鳴らしていた。

 あれは「宝」ではない。あれは人間が触れていい領域のものではない。あんなものに触れれば、ミナという個我(システム)が耐えられるはずがない。


 だが、カイトの伸ばした手は、ミナの背中にあと数センチ届かなかった。

 不可視の圧力(プレッシャー)が、Fランクの侵入を拒絶するようにカイトを弾き返す。

 カイトが地面に転がるのと同時に、ミナの震える指先が、光の結晶に触れた。


 刹那。

 世界が白に染まった。

 爆音はない。代わりに、膨大な「声」が、カイトとミナの脳内に直接なだれ込んできた。


『確保せよ』『国益』『独占』『株価』『覇権』『殺せ』『奪え』『私の手柄』『金』『金』『金』――!


「ぐ、がぁあああああッ!?」


 カイトは頭を抱えてのたうち回った。

 それは、レリックの逆流(バックドラフト)だった。

 レリックとは、超高密度の記憶媒体だ。異世界側のデータだけではない。回線を通じて繋がっている「現実世界(こちらがわ)」からのアクセス情報も、すべて記録されている。

 今、ミナの脳を蹂躙しているのは、モニターの向こう側でこの作戦を見守っている世界中の大人たちの「思考」そのものだった。


 政治家たちの醜悪な打算。

 軍人たちの功名心。

 企業家たちの金銭欲。

 彼らはミナの安否など微塵も気にしていない。「早くその石を持ってこい」「それを渡せば俺は昇進できる」「他国に渡すくらいなら子供ごと爆破しろ」。

 ヘドロのような欲望の濁流が、清らかな少女の精神回路を黒く塗りつぶしていく。


 さらに、レリックの演算機能が、残酷すぎる「未来予測」を弾き出した。

 ビジョンが、カイトの脳裏にも共有される。


 ――レリックを持ち帰った数年後の未来。

 ――その万能の力を巡って勃発する、第三次世界大戦級の『資源戦争』。

 ――焦土と化した東京で、成長したカイトが銃を握らされている。

 ――「妹を守るため」という大義名分で最前線に送られ、恐怖に歪んだ顔で、敵の銃弾に撃ち抜かれて死ぬ兄の姿。


「……ッ、嫌だ……!」


 ミナが悲鳴を上げた。

 彼女が見たのは、自分が命がけで持ち帰った「希望」が、最愛の兄を殺す「凶器」になる未来だった。


「なんで……? どうして……?」


 ミナは頭を抱え、その場に崩れ落ちた。

 大人は言った。「これを持ち帰れば世界は平和になる」と。「みんなが幸せになれる」と。

 嘘だった。

 彼らは平和なんて望んでいない。彼らが欲しいのは、隣人を殴り殺すための新しい棍棒と、それを振るうための無限の燃料だけだ。


 静寂が戻った。

 だが、それは以前よりも冷たく、重苦しい静寂だった。

 カイトは見た。

 空中投影されたホログラムウィンドウの向こう側で、父や軍の上層部たちが、固唾を飲んでこちらを見つめているのを。

 彼らは、ミナが発狂しかけている今の状況を見ても、誰一人として「作戦中止」を叫ばない。

 むしろ、その眼は期待にギラギラと血走っていた。


(……まさか)


 カイトの背筋が凍る。

 こいつらは、最初から知っていたのか?

 レリックを持ち帰ることは不可能だと。人間が触れれば汚染されると知っていて、それでもなお、「別の形」での利用価値を期待しているのか?

 たとえば――少女そのものを生体部品(コア)として組み込み、制御可能な「永久機関」に作り変えることなどを。


「……あ、は」


 ミナは笑った。


「アハハハハハハハッ!」


 乾いた笑い声が響いた。

 ミナだった。

 うずくまっていた少女が、ゆっくりと顔を上げる。

 その瞳からは、涙が枯れ果てていた。恐怖も、絶望も、希望さえも消え失せ、そこには底知れない「空虚」だけが広がっていた。

 彼女は、あまりにも多くの「人の本性」を見すぎてしまったのだ。


「……そっか」


 ミナが呟いた。その声は、壊れたオルゴールのように美しく、そして不気味に歪んでいた。


「お兄ちゃんがこんなに苦しんでいるのは、大人が『足りない』からなんだね。エネルギーが足りない。領土が足りない。お金が足りない。

 ……だから奪い合って、殺し合って、お兄ちゃんを戦場に引きずり出すんだ」


 ミナはよろめきながら立ち上がり、再びレリックへと向き直った。

 その背中から放たれる気配が変質する。

 それは、か弱き被害者のものではない。世界というシステムそのものを哀れむ、傲慢なほどの「聖性」だった。


「ミナ……? 何を言って……」


 カイトの問いかけに、ミナは振り返らなかった。

 ただ、レリックの光に照らされた横顔で、寂しげに微笑んだ。


「――黙らせてあげる」


 その言葉は、慈愛の祈りにも、呪詛の宣告にも聞こえた。


「大人が欲しがるもの、私が全部あげる。無限のエネルギーも、豊かな生活も、全部あげる。お腹いっぱいにしてあげる。……そうすれば、もう誰も奪い合わなくていいでしょ?」


 彼女は両手を広げた。

 まるで十字架に架けられる殉教者のように。あるいは、愚かな人類をその身に取り込もうとする捕食者のように。


「私が『資源』になってあげる。私が神様になって、この星を管理してあげる。……だから、もうお兄ちゃんをいじめないで」


 それは究極の自己犠牲だった。

 だが同時に、人間社会への絶望的な「復讐」でもあった。

 彼女は、人間の理性を信じることを放棄したのだ。対等な人間として生きることを諦め、人間たちを飼い慣らす「システム」になることを選んだのだ。


「やめろ……やめろ、ミナァァァァッ!!」


 カイトの絶叫が木霊する。

 だが、少女の決意は固かった。

 ミナの体がふわりと浮き上がる。

 レリックが呼応し、眩い光が彼女を包み込んだ。

 肉という檻を捨て、魂というデータを銀河のように展開し、少女は「人」であることを辞めようとしていた。


 ミナの輪郭が、解け始めた。

 指先から、髪の先から、肉体という物質が光の粒子(ピクセル)へと還元され、背後の巨大なレリックへと吸い込まれていく。人間としての死と、システムとしての新生が、不可逆的に始まっていた。


「やめろぉぉぉぉッ!!」


 カイトの喉が裂けた。

 Fランクという枷、肉体の限界、恐怖という本能――その全てを、激情がねじ伏せた。

 カイトは地面を蹴った。ドロドロに溶けたアスファルトを踏み抜き、皮膚が焦げるような高密度の魔力奔流(マナ・ストリーム)の中へ、迷うことなく突っ込んだ。


「俺のために死ぬな! 俺を守るために、お前がいなくなるなんて許さない!」

「……っ、来ちゃだめ!」


 光の中で、ミナが驚愕に目を見開く。

 カイトは止まらなかった。灼熱の光に焼かれながら腕を伸ばし、消えゆく寸前のミナの手首を、万力のような力で掴み取った。


「捕まえた! 帰るぞミナ! こんな世界、救ってやる義理なんてないッ!」


 瞬間。

 バヂィッ! と鼓膜をつんざく異音が脳内で弾けた。


「が、あ、あァァァッ!?」


 カイトの白目が剥き出しになり、全身が痙攣した。

 繋いだ手から、猛烈な勢いで「何か」が流れ込んできたのだ。

 それは、ミナがレリックとリンクすることで得た、神の権能(アドミニストレータ・パス)の一部。そして、レリック内部に蓄積された数億年分の異世界データそのものだった。

 本来、人間の脳が処理できる情報量ではない。

 Fランクのカイトの脳容量(メモリ)など、一瞬で焼き切れて炭になるはずだった。


 だが、カイトの脳は焼けなかった。

 代わりに、壊れた。

 あまりに膨大すぎる情報の海が流れ込んだことで、カイトの脳のリミッターが崩壊し、容量の概念そのものがバグを起こしたのだ。

 コップに海を注ぎ込んだ結果、コップの底が抜け、世界そのものと直結してしまったような状態。

 測定不能。

 エラーコード:『0KB』。

 空っぽでありながら無限。無価値でありながら万能。

 カイトという器が、人知を超えた怪物(ストレージ)へと変質した瞬間だった。


「は、ぐ……ぅ、うああああッ!」


 脳漿が沸騰する激痛の中で、それでもカイトは手を離さなかった。

 指の骨がミシミシと軋む。離してたまるか。この手を離せば、こいつは二度と戻ってこない。


「……ごめんね、お兄ちゃん」


 光の渦の中心で、ミナが泣きそうな顔で微笑んだ。

 彼女は悟ったのだ。これ以上繋がっていると、お兄ちゃんまで人間ではなくなってしまうと。


「離さない! 絶対に、離さな……ッ!」

「幸せになってね。……私が作る、優しい世界で」


 トン、と。

 ミナの掌が、カイトの胸を優しく突いた。

 拒絶ではない。それは、聖女として最初で最後の奇跡だった。

 不可視の衝撃波がカイトを包み込み、光の外へ――安全な現実世界の領域へと、優しく、けれど強引に弾き飛ばした。


「ミナァァァァァァァ――ッ!!」


 カイトの体は木の葉のように吹き飛び、硬い地面に叩きつけられた。

 その視界の先で、光が極限まで収束し、そして静寂が訪れた。


 世界が変わっていた。

 東京を覆っていた赤黒い亀裂も、ドロドロの廃墟も、嘘のように消え失せていた。

 頭上には、突き抜けるような青空が広がっている。

 そしてその中心に、巨大な透明な結晶の中に閉じ込められた少女が、あどけない寝顔のまま浮かんでいた。

 彼女の体からは、キラキラと輝く青い粒子――無限のクリーンエネルギーが、祝福の雪のように地上へ降り注いでいた。


『おお……! 侵食が止まったぞ!』

『レリック反応、安定! エネルギー供給が開始された!』

『成功だ! 日本は救われたぞ!』

『聖女だ! 彼女こそ現代の女神だ!』


 イヤーモニターから、割れんばかりの歓声が聞こえた。

 父の声だ。軍人たちの声だ。

 Sランク部隊を見殺しにし、娘を人柱にした張本人たちが、手を叩いて喜んでいる。

 誰一人として、ミナの名を呼ぶ者はいない。

 彼らが見ているのは「娘」ではない。「無限の財布」であり「出世の切符」だ。


 カイトは、空を見上げた。

 美しい、あまりにも美しい青空だった。

 妹の命を犠牲にして手に入れた、吐き気がするほど平和で、豊かな世界。

 頬に冷たいものが落ちた。涙ではない。空から降ってくるエネルギーの粒子だ。それが肌に触れるたび、言いようのない嫌悪感が全身を走る。


(……ふざけるな)


 カイトの奥底で、熱い感情が冷たく凍りついていくのを感じた。

 悲しみ? 違う。

 後悔? そんな生温いものではない。

 そこにあるのは、底なしの殺意だけだった。


 幸せになれ?

 ふざけるな。

 こんな、妹の死体の上で宴会を開くような楽園(ディストピア)で、俺だけがのうのうと笑って生きられるものか。


 カイトは血を吐き捨て、よろりと立ち上がった。

 その瞳から、少年のごとき弱さは消え失せていた。

 あるのは、深淵のような虚無と、世界そのものを敵に回す覚悟だけ。


(待ってろ、ミナ)


 カイトは天上の結晶を見据えた。

 誰もがひれ伏し、祈りを捧げる「神」を、彼は憎悪を込めて睨みつけた。


(俺は認めない。こんな結末(エンディング)は認めない)


 歓喜に沸く大人たちの背中で、少年は誰にも聞こえない声で、世界への宣戦布告を呟いた。


 これが、すべての始まり。

 『聖女』という名の檻に囚われた妹と、それを壊すために『0KBの執行者』となった兄。

 誰にも祝福されない、たった一人の戦争が、今ここから幕を開ける。

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