うちの旅パ、全員人外です。〜のんびり異世界暮らし〜

塩漬け肉

ルネティア王国

第1話 森で目覚める

 最初に感じたのは、ひんやりとした土の冷たさだった。


 背中の下に広がる地面は、少し湿っていて、服越しでもわかるほど柔らかい。鼻先をくすぐるのは、雨上がりの土と草の匂い。遠くから聞こえるのは、名前も知らない鳥の鳴き声と、葉と葉がこすれあう音。ほの暗い視界の向こうで、木々の間から差し込む光が、ゆっくり揺れていた。


 ――ここ、どこ?


 ユノは、ぼんやりとした頭のまま、そっとまぶたを開いた。


 見上げた先には、空ではなく、ぎっしりと枝を広げた見知らぬ木の天井。日本の森とも、テレビで見た海外の森とも違う、どこか現実離れした光景だった。葉は深い翠色で、ところどころ淡く光っているものも混じっている。まるで、夜光塗料を塗ったみたいに、ぼんやりと。


 「……夢、かな」


 声に出したつもりはなかったのに、妙にはっきりと聞こえて、ユノは自分の喉に手を当てた。


 声が出てる。

 ちゃんと。


 ゆっくりと上体を起こすと、視界がぐらりと揺れた。軽いめまいと、頭の奥に鈍い痛みが走る。思わず地面に手をつくと、指先に伝わるのは、ひやりとした感触と、細かな砂粒が混じるざらりとした土の感触だった。


 「……え、ここ……どこ……」


 改めて周囲を見回す。


 木。木。木。

 どこまで行っても、木。

 足元には、見たこともない形の花が咲いていて、淡い光を放つ胞子のようなものが、空中をゆっくり漂っている。森の奥のほうからは、何かが動く気配があって、時おり、獣の鳴き声のような低い音も聞こえた。


 その瞬間、胸の奥が、きゅっと縮む。


 ――ヤバい。

 ここ、マジで知らない場所だ。


 スマホはない。

 カバンもない。

 ポケットを探っても、ハンカチ一枚すら入っていない。


 あるのは、自分の体と、着ている服だけ。


 ユノは、自分の腕をぎゅっとつかんだ。


 夢なら、こんな感触はないはずだ。

 痛いし、冷たいし、匂いもはっきりしている。


 「……落ち着け。落ち着け、わたし……」


 自分に言い聞かせるように、小さく息を吸って、吐く。

 そのとき、ふっと違和感に気づいた。


 ……なんだろう。

 頭の中が、変だ。


 言葉は出てくるのに、文字を思い浮かべようとすると、何も浮かばない。自分の名前はわかるのに、スマホの画面が、思い出せない。知っているはずの日常が、霧がかかったみたいにぼんやりしている。


 「……え、なにこれ……」


 声が、わずかに震えた。


 怖い。

 とにかく、怖かった。


 知らない場所。

 知らない感覚。

 当たり前にあったものが、ごっそり抜け落ちたような、気持ち悪い空白。


 泣きそうになった、そのとき――


 足元の草が、さわり、と小さく揺れた。


 瞬間、ユノの全身が、ぴしっと強張る。


 「……なに……?」


 耳を澄ますと、すぐ近くから、はっ、はっ、という息づかいのような音が聞こえた。

 人じゃない。

 でも、獣の気配がする。


 ゆっくり、ゆっくりと、ユノは顔を上げた。


 木々の間の影の中。

 そこに、金色に光る二つの目があった。


 「……」


 逃げたいのに、足が動かない。


 心臓の音が、耳の奥でうるさいほど響く。

 息が浅くなっていくのが、自分でもわかる。


 やがて、影が一歩、前に出た。


 現れたのは――

 人の体に、狼の頭を持つ存在だった。


 長い耳。

 尖った鼻先。

 ふわりと揺れる灰色の毛並み。

 けれど、体つきは人間の青年のようで、鎧のような服を身につけている。


 「……人間の子、か」


 低く、けれど穏やかな声がした。


 ユノは、声を失ったまま、ただ相手を見つめる。


 狼……?

 しゃべった……?


 頭が、ついていかない。


 けれど、その狼の青年は、武器を向けるでもなく、ゆっくりと片膝をついた。


 「怖がらせてすまない。森で倒れているのが見えてな」


 金色の目が、まっすぐこちらを見ている。

 そこに、殺意のようなものはなかった。


 むしろ――困っているような、心配しているような、そんな色。


 「……お前、名前は?」


 問いかけられて、ユノは、かすれる声で答えた。


 「……ユノ、です……」


 すると、狼の青年は、ふっと息をゆるめるように、目を細めた。


 「ユノか。俺はアルドだ」


 そう名乗ってから、彼は、少しだけ距離を縮めた。


 「大丈夫だ。ここは危険な森だが、俺がいる限り、お前を置いてはいかない」


 その言葉を聞いた瞬間、

 ユノの胸の奥に、じわっと、熱いものが広がった。


 怖いのに。

 不安なのに。


 ――この人は、危なくない。


 根拠なんてなかったけれど、心が、そう言っていた。


 「……よろしく、お願いします……」


 そう言うのが、精いっぱいだった。


 アルドは、わずかに驚いたように耳を揺らし、

 それから、少しだけ、照れたように視線をそらした。


 「……ああ。任せてくれ」


 こうして、ユノの異世界最初の出会いは、

 静かな森の中で、

 狼の獣人とともに始まったのだった。

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