快傑イブが解決よ!~問題だらけの役場と地域~
古梨未来
序 章 ニューヒロイン登場
第1話 役場の辞令交付式に遅刻
2024年4月1日、月曜日、午前7時45分。
今日は、深井町役場の辞令交付式。
佐藤イブは、バスに乗って神奈川県三浦半島の西海岸道路を下ってくると、防衛隊武山(たけやま)駐屯地先の「深井」で下車した。
国道を反対側に渡り、10分ほど住宅地を歩く。
数棟の町営住宅が建つ小さな十字路を左に折れて桜が咲く長い坂を上がりきると、そこが内原台(うちはらだい)だ。
広々とした畑を背景に、真新しい戸建住宅が何軒も並んでいる。
海抜35メートル。
2011年の東北地方太平洋沖地震の時と同じ高さの津波が来てもここなら安全だと、町の職員募集要項に書いてあった。
快晴。西の風、毎秒2メートル。
音もなく空を飛ぶ旅客機が朝日に輝く。
三浦半島の西端に位置する深井町の丘に来て、そこからさらに西北西に目を向けると、青々と広がる相模湾を前景にして富士山が大きくそびえている。
頂上から4分の1が雪。
湾の右手奥には江の島と佐島マリーナがあり、それらを囲んで葉山の海が大きく広がっていた。
「やっぱ、ここよね。
どうせ1日過ごすなら、オーシャンビューとマウンテンビューよね」
イブは青空を背景にした富士山を眺めると、もう一度深呼吸した。
ショートボブの髪がかすかな風に揺れ、ダークなパンツスーツのベストの胸が大きく膨れる。
父方の祖父がフランス人という顔立ちは彫りが深く、真っ直ぐ伸びた鼻筋と長いまつげに二重のまぶたが印象的なのだけれど、ただ、肌の色は驚くほど黒い。
葉山の海を、沖に向かって帆走(はし)っていく1隻のヨットが見えた。白いセールを傾けて海の上をすべるように進んでいく。
そう、わずか半年前のことだった。
秋の葉山沖のダブルハンドのディンギー・レース。
ヨット部に入って間もない後輩の尚登(なおと)を鍛えるために、イブがペアを組んで臨んだ470(よんななまる)級のオープンレースだった。
フネは、最後の上(かみ)マークをめざし、右前方から秒速8メートルの強い逆風を受けながら疾走していた。船首が小刻みに波を切り裂いていく。
イブは舵を左手に握り、メイン・セールのシート〔綱〕を右手で引きながら、精一杯のハイクアウト〔艇外乗り出し〕をしていた。
尚登はマストから下がったトラピーズ〔吊りワイヤー〕を体に結び、フネの右舷のガンネル〔船縁〕を足裏で踏みつけながら空中で真横になり、フネをフラットに保っている。
両手でジブ・シートを握り、セール内側に貼られたテルテール〔風見紐〕の流れ方に注意を払っていた。
このままの艇速を保てれば、上マークまでに先頭を行く3艇に追いつける。
「2時から、ブロー〔突風〕来ます!」
フネの進路を12時として、2時は右前方60度の角度になる。
尚登の声に「了解!」と叫び、イブはメイン・シートを引く手に力を入れ、ブローが当たるのに備える。
まるで小魚の大群が騒いでいるかのようにザワついた海面が、徐々に近づいてきた。
「あと15メートル。3、2、1!」
尚登のコールに合わせて2枚のセールに風が当たり、フネが大きく左側にヒールしようとする。
艇体をフラットに保つためイブがシートを緩めメイン・セールから風を逃がしているのに、フネが傾き続ける。おかしい。
見るとジブ・シートがきつく引かれたままだ。これでは風が逃げず、フネの傾きが止まらない。
「リリース! ジブ・シート、放さなきゃダメ!」
三角形のジブ・セールの下端から伸びたシートは、持ち手がシートを引き続けなくてもセールが外側に開かないように、シートの逆戻りを防ぐカムクリートを通って尚登の手に持たれていた。
このジブ・シートを緩めるためには、一度シートを上に跳ね上げクリートのカムから逃がす必要があったけれど、強風に慌てた尚登が手だけ緩めたのだった。
カムクリートからジブ・セールまでのテンション〔力〕がかかり続け、風が逃げない。
わずか数秒。スローモーション映画を見るようにゆっくりとフネは左に回転し、90度横になると、そのまま風に押されて真っ逆さまに、マストを下にして転覆した。
90度の横倒しが「沈(ちん)」で、上下逆さまは「完沈(かんちん)」という。
沈になれていたイブは艇外に投げ出されることもなく、フネの回転に合わせて体を移し、最後は転覆した舟底の上にいた。
尚登はフネの下敷きになっていて、舟底の左側の水中に顔が見え、右側にデッキシューズが2つ見えた。
シートが体にからまったりすれば海中から出られず、溺れるところだ。
彼はなんとかフネに這い上がったものの、かなり海水を飲まされてぐったりしていた。
「海中から空を見上げてる魚の気持ちがわかったよ」
その後2人でフネを引き起こしてレースに復帰したものの、フリート〔船団〕の後塵を拝することになり散々な結果だった。
尚登との関係もこの後進展せず、結局告白されないまま別れることになってしまった。
イブは新しいクルーを見つけることができないまま、博士論文執筆に忙殺されていったのだった。
気が付くと、相模湾のヨットは視界から消えていた。
「あっ、いけない! 遅刻だ!」
腕時計を見ると8時25分。
小学校の向かいに建つ役場庁舎に向かって、イブは一目散に走り出した。
エントランスの庇の正面に貼り付けられた「深井町役場」のプレートの下をくぐり、ゆっくり歩く職員をかき分けて玄関に突入。あやうくパンプスが脱げそうになった。
白いワイシャツを腕まくりした小柄な用務員らしきおじさんが、来庁者の観賞用に置かれた活(い)け花の鉢に水を差している。
「おじさん、ごめん。『2の2会議室』って、どう行けばいいの?」
「えっ?」
おじさんが振り返えった。
「ああ、中階段を上がってぐるっと右に回った先にあるよ」
「ありがと!」
おじさんの右肩を軽く叩くと、お礼の会釈もそこそこに、イブはまた走り出した。
吹き抜けになっているロビー中央の階段をかけ上がる。
途中で始業チャイムが鳴り始め、会議室にたどり着いた瞬間に鳴りやんだ。
「セーフ」
思わず入り口でつぶやくと、中にいた担当者らしき男性職員に睨まれた。
「佐藤イブさんですね? 集合時刻は5分前ですよ。
どうして遅れたんですか?」
右手のげんこつで自分の頭を叩くポーズ。
「申し訳ありません。海を眺めていて、ちょっと思い出に浸っていたら遅れてしまいました」
「ロマンチストなんですね」
慰めの言葉にしては言い方が冷たい。
イブがその場で深々と頭を下げると、先に着いていた2人の男子採用者が笑っている。
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