うまれかわる

つっこ

第1話



「うん。ベータだよ」

 その一語で、胸のどこかが小さく空を切った。

 仁は笑って頷く。

「そっか」だけを置く。

(オメガ、じゃない)

 つい漏れかけた言葉を飲み込む。二人きりの会議室は、会話がなくても満ちていたのに、椅子の脚が床を擦る音だけが妙に鮮やかに響いた。

 仕事の相棒で、ついでに恋人でもある央は、こういう沈黙を怖がらない。

「そっか、ベータか」

 オメガではないのか、とは言わなかった。そこに含まれた残念さを央には知られたくなかったからだ。飲み込みにくい感情を苦笑いで誤魔化した。何にこんなにもショックを受けているのかもよく分からない。

 広いミーティングルームに二人、向き合って座るこじんまりと閉じた世界。2で完結する空間は居心地がよくて、会話がなくても気疲れしない央の存在感が心地よかった。

「いこっか」

「うん」

 スマホをとじて、カバンを持ち上げる央に続く。ここでやるべき事はすんだ。待つよ、と言葉なく央の肩からカバンをひったくって腰を抱いた。磁石のようだと揶揄われる定位置はいつの間にか当然になった癖のようなもので、目の悪い央が転ばないようにと先導する意味から少し意味合いが変わった気がする。触れていないと、どこか落ち着かない。

 自動ドアを抜けて飛び出た外界は夜にかかる時刻のわりに日差しが眩しく、暑い。冷やされた室内との温度差に前を歩く央がひとつ震えた。

「大丈夫?」

「うん、ちょっと立ちくらみ」

「つかまって」

 大丈夫だよ、と首を振る央の腰に回した腕の力を強くする。半ば抱え込むようにすると、自然と力を抜いてこちらに体を預けてくる。それに口角を上げて、慎重に車まで移動した。つるりとした助手席の扉をあけて抱え上げるようにして央をのせる。いつになく無口で背もたれにぐったりと身体を預ける彼にぞわりと心が波立った。

「病院いく?」

「大丈夫、暑さにやられたのかも」

 眉を下げながら笑う央の前髪をすくった。かきあげてもさらりと落ちる髪の毛ごと、彼の額に掌をおく。ほのかに熱く汗ばんでいる様子に眉根を寄せた。

「…大丈夫だから。寝たらおちつく」

 目の前で歪んだ仁の顔に自身の不調を悟った央が、白い指でパートナーの頬をつつく。

「とりあえず送るけど……今日は泊まるよ」

 許可を求めない仁の言葉にもうひとつ眉を落として、頷く。

「うつらないように別室で寝てね」

「それじゃなんのために泊まるの」

 心配から、わずかに強くなった口調で告げたあと体を起こして央の上からのいた。ゆっくりと扉をしめて運転席へと回り込む。

「着いたら起こすから、寝といて」

「うん」

 素直に目を瞑った央を横目にアクセルを踏んだ。

 強めの空調、消したBGM。ファンの低い回転音に、央の寝息がまじる。

 視界の端で汗ばむ額、薄く色の引いた唇。

(もし隣が空席になったら)

 ハンドルの革が掌で鳴る。揺れる呼吸を景色に合わせて整え、名前を呼ぶ声は送風に溶けた。ちらりと視線だけで確認した彼の寝顔はいつものように健やかとは言い難かった。心なしか青ざめ、額に汗が浮かんでいる。それを認識した途端、ざわりと心が澱む。緊張に仁の心臓が不定期に暴れ出した。

(央)

 浅くなる自身の呼吸を落ち着けようと目の前の景色に集中した。


 もし、万が一、央が隣からいなくなってしまったら。

 そんなあり得ない想像が頭をよぎってしまったら、仁にはそこから立て直す術が見つからない。

 大切で大事で誰よりもそばにいたい人。

 初めて会った時から、なぜか央だけが特別だった。

 だからこそ無意識下で思っていたのかもしれない。きっと彼が自分の運命の番だと。

 そんな妄想の中の「当然」は今日央自身によって打ち砕かれてしまったけれど。

「央」

 呟いた音は稼働音に掻き消されてどこにも届かない。

 彼が運命じゃないなら、この魂ごと揺さぶられるような恋しさは一体なんなんだろうか。彼から匂い立つ甘い芳香は一体なんなんだろう。


 彼の住処に着いた頃には、もはや一人では立てないほどに衰弱した央を抱き抱えて部屋に連れ込む。腕の中でぐったりと目を閉じる央は血色を失って、けれど伝わる体温が炎のように熱い。口の中で舌打ちして、ゆっくりとベッドへと下ろした。

「医者呼ぼう」

「……ぁだ」

「央」

 頼りなく首を振るパートナーを強めに叱る。クローゼットから乱暴に取り出した何枚ものブランケットを重ねても震えが止まらない彼に、それでも足りないと自ら羽織っていたシャツを央の首元に巻きつける仁が、いまどれほど不安でどれほどの恐怖を覚えているか。

 頼むから自分から央を奪わないでくれと、寒さに震える彼の身体を抱き込んで祈る。

「……じん、」

「なに?どうした?」

「ぁんか、…あつい」

「あつい?」

 抱き込んだ身体は変わらず震えているのに、と身体を起こして央の表情を伺う。青ざめた顔色は変わらず、けれどじわりと滲んだ汗と目元を染める赤い血色。

「のどがかわいて、からだのおくがあつい」

「……」

 びくり、と本能が騒いだ。

「おなかのおく、あつい…なにこれ…」

 央が一言一言発するたびに、舞い散るような色香。ずっと彼から感じていた甘い芳香がそれと比例するように濃く、強くなっていく。は、と鋭く息を吐いて唇を噛み締める。でなければ興奮と衝動で何を口走ってしまうか分からなかった。

「…少し待ってて。下の薬局で買ってくる」

「…なに?いかないで、じん…」

 縋る瞳に一際濃くなる甘い空気。くらりとめまいがした。見下ろす央が無意識に首元に巻きつけた仁の上着を口元まで引き上げている。そのまま鼻先に擦り付けるように匂いを嗅いで、かぷりと噛んだ。

「……ッ」

 その光景を目の当たりにして、仁の背筋に閃光が走った。仁の匂いを取り込もうとする央の様子はまさしく。

「……いいこだから、すこしだけ待って」

 興奮に上ずる声で告げて、震える手で汗に濡れた前髪をかきあげる。濃密になる一方の彼の香を極力吸い込まないようにしながら足早に部屋を立ち去る。取り残された央が、心細そうにかぷり、かぷりと仁の羽織の襟元を食んでいるのを目の端にいれ、沸き立つ頭と身体とを必死に押さえ込んだ。

 狂喜の兆しが、すぐそこにあった。


 階下にあるドラッグストアで目的のものを買い、時間外でも診療してくれる病院の一覧を調べた。数件目星をつけ、はやる心のままに央の部屋へと戻る。興奮に沸き立つ指がドアノブを何度も引っ掻いて不快な音を立てるが、そんなことすら頭の隅にも引っかからない。はやく、はやく、と心がせいていた。


 こんもりと何十ものブランケットに包まれたシルエットの真ん中に、央はいた。

 ベールをはぐように一枚一枚と剥いていった中心に、仁の上着と数日前に急な雨に降られてシャワーを借りた時に置いていった衣服とをお腹に抱え込むようにして丸くなる央がいた。

 布を取り払うごとに濃くなる匂いにぐらぐらと目の前を赤く染めながら、興奮に上ずる声で仁が発する。

「…央、検査しよう」

「けんさ…?」

 ベッドの脇に腰掛けて声をかける仁に顔をあげる。ゆっくりと身体を起こす彼を手伝いながら、真っ赤に染めた目尻と舌ったらずな声で応える央を反射的に抱きしめた。これは、俺のものだ。強烈な渇望が抱く腕に伝わって、小さな彼の後頭部を押しつける。仁の胸元に顔を埋められた央がけほりと咳き込んで、慌てて解放した。

「…簡易キット買ってきた」

「なに…?」

 夢の中にいるように薄ぼんやりけぶる彼の瞳を覗き込む。その中にうつるのが自分ひとりだけなことに際限ない渇望の一端が癒された。彼だけ。俺だけ。呪文のように脳内に湧き上がる言葉。

「たぶん、バース性が書き換わってる」

「……かきかわる」

「生まれ変わったんだよ」

 ぼう、と仁の言葉を繰り返すだけの央ににこりと笑った。

「くちあけて」

 検査キットのパッケージを乱暴に破って床に捨てる。普段ならしないこんな雑な仕草も、沸いた脳内が何も認識しない。言われるままに口をひらいた央にキットの先端を含ませた。静かな部屋に、互いのあらい息と時計の秒針が時を刻む音だけがする。判定窓に検査終了の表示をみて、いささか乱暴に央の口から引き抜いた。

「………、っ」

 その時の感情を、どう表現すればいいか分からない。

 息が詰まって、喉がしまって、心臓が暴れる。

 狂喜一色にそまった思考が本能に反応して、乾いた唇を舐めた。このまま、噛みついてしまいたい。そうすれば今この瞬間から、央は自分だけのものになる。ぐらぐらと揺れる視界で、熱に浮かされた央を見下ろした。

 ほんの一握り残された理性をかき集め、きつく拳を握る。爪痕が手のひらに残るくらい強く握り込めば、ほんの一時思考が冷えた。

「央。簡易キットだから100%じゃないけど、いま君はオメガに書き換わった」

「……?」

「今この時から、うまれかわったんだ」

「どういう、」

 要領を得ない央の言葉を遮って、細い肢体を抱き込んだ。首筋に鼻先をうめて息をつくと、むせかえるような甘い芳香に息を詰める。抑制剤を飲ませないと、と遠い思考が冷静に判断するも、前面にたつ本能と感情が彼の顎に指をかける。俯かせて、頸に唇をあてた。

「……央」

 発した音は欲望に溶けてどろりと落ちる。

「俺の、央」

 そう、彼がベータであるはずがなかった。

 だって彼は自分だけの物のはずだった。

 一眼見た時から、彼の声をきいた瞬間から。彼の香りを嗅いだその時に本能が悟っていた。

 仁のためだけに生まれて、仁と共にあるためだけに生きる、仁だけのオメガ。

「うまれてきてくれて、ありがとう」

 誰に感謝しよう。どの神にでも這いつくばって祝福のキスを贈れそうだった。

 頸につけた唇をわずかにあけて、逡巡する。このまま噛みついても本格的なヒートには至っていない央では「ちゃんと自分のものにはできない」と本能が理解していた。

 ぐらぐら沸立つ脳みそが、それでもこのまま噛みついてしまえと囁く。その白い肌に歯形をつけてマーキングしていまえと。

「じん…、どういうこと…」

 心ぼそく囁く声に意識が戻る。口付けた頸はそのままに、あやすようにして顎においていた指を央の頬に沿わせた。仁の手のひらに預けるように頬をつけた央がほっと息を吐く。

「仁の匂いが安心する…」

「うん」

「どうしてだろう…」

 ぽつり、ぽつりとつぶやく声に歓喜に震える唇がにやりと口角をあげて、汗ばむ彼の首筋に強く吸い付いた。何度も何度も吸い付いて、何箇所も赤く染まったその位置を舌先で辿る。唾液にぬれてぬらりと光るその光景にいったん満足して、彼を解放する。寝な、と央を促したあと自身も長身をベッドに滑り込ませて背後から彼を抱きしめた。

「央はいま生まれ変わったんだよ」

 とん、とん、と抱きしめた腹部を叩く。いつかきっと、ここに芽吹くものを彼に知らせるように。

「俺のために、うまれかわったんだ」

「うまれ、かわる」

 ぼう、と繰り返す央の眠気を感じ取ってこめかみに口付けた。

「少し寝たら病院にいこう」

「うん…」

「大丈夫、ちゃんとそばにいるから」

「うん…」

 そういって眠りの淵に転がり落ちた央を抱きしめたまま眺める。ぼん、ぽん、と破裂する音が耳元にこもった。心臓が暴れる音か、思考が乱れる音か。どちらにせよ、今の仁には取り留めのないものだった。

「うまれてきてくれて、うまれかわってくれて、ありがとう」

 赤い斑点に口付けるようにして呟いた。

「俺だけのオメガ。…俺だけの央」

 その皮膚から、印から染み込んで細胞のひとつひとつまで侵蝕してしまえばいい。俺だけのものだと、細胞のひとつひとつまで染め上げてしまえ。

 だってこの命は、この魂は、俺だけのものなんだから。

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うまれかわる つっこ @tucco

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