墓場の水滴。

田中かなた

前編 幻想なんかじゃない。


雨が降り頻る。

ザアザアと音を立てて雫が斜めに散る。

勢いの強い雨に傘の無い俺は雨宿りを強いられた。


「酷い雨だな…聞いてねぇぞ、たくっ…」


止まない雨とポツポツと言う音に苛々が募る。

家で一人、娘が待っているのに。

怒りと焦燥に俺は愚痴を零した。

俺はタクシーが近くに居ないか辺りを見渡した。

俺の視界が奪われた。

タクシーではなく…


「なっ……」


俺は視界に釘を打たれた。

身動きが出来なかった。

身体が震える。


『渉さん、傘忘れてるだろうなと思って…傘、持ってきましたよ。』


目尻が震える。

俺は身体が本能で走った。

彼女を抱き締める為に。

彼女を抱き締めようとした俺の身体は彼女の身体を通り過ぎて転んだ。

彼女を幾ら抱き締めようとしても彼女の身体は煙の様に俺に触れさせてくれない。


「ぁぁあぁあ…」


俺はそのどうしようも出来ない現実にただ泣き叫ぶしか無かった。

周りの目がもはや痛くなかった。


「パパ…だいじょぶ…?」


言葉を覚えたての子供の声に俺は咄嗟に振り返る。

そこには小さな傘で雨を防ぎ大きな傘を引き摺る幼い娘が立っていた。

俺は娘を抱きしめた。

娘には触れられる。

抱き締められる。

娘は俺の頭を撫でてえらいえらいとまだ教えてない言葉で俺を慰めた。


ひと段落ついて俺は娘の手を握り一緒に帰路へ着いた。


「春歌、ダメだろ一人で家を出ちゃ」


娘の春歌はごめんなさいと俯き少し落ち込む。

俺は春歌の頭を撫でてありがとうと感謝を伝えた。

春歌は頭を上げてどういたしまして!と元気よく笑って嬉しそうに返事をした。

沁音にすっかり似てきた。


「春歌、お前はパパに似なくて良かったな。」


春歌は言葉の真意が分からず首を傾げて戸惑う。

最低なパパと言う事をまだ知らないこの子の俺に向ける純粋な感情が温かくて俺はいつの日に伝える真実、その到来が怖かった。

ごめん沁音。

恨んでるよな俺の事を。


「パパ…いたいいたいさんなの?」


春歌は俺を心配そうに不自然そうに眺めていた。

俺は春歌の頭にポンッと手を置きなんでもないと誤魔化した。

春歌はにははと撫でられたのが嬉しかったのかはしゃいでいた。


「はあるがきいた、はあるがきいた、どおこにきたあ」


春歌が歌を歌った。

俺は動揺を隠せなかった。


「保育園で知ったのか?その歌。」


春歌は首を横に振り自分で考えた!と胸を突き出してドヤ顔で答えた。

そんなはずは無いが俺は凄いなと頭を撫でて褒めた。

春歌はえへへとはにかんだ。

それにしても季節外れ過ぎないか…


家に着き鍵穴に鍵を通して回す。

ノブを引くがガチャっと音を立てて開かない。

春歌は慌ててごめんなさいと謝るが気にするなと慰め再度鍵を施錠し扉を開ける。


『おかえり』


俺はただいまと返事をして家に入る。


「春歌、ちゃんと手を洗うんだぞ」


春歌はパパもねと小生意気に返事をした。

手を洗い冷蔵庫を漁る。


「今日はオムライス出来るぞ。」


春歌はやったー!と大はしゃぎをした。

冷凍された微塵切りの玉葱の袋を開き調理を開始する。

春歌は足をじたばたさせながら俺が調理する姿を眺めていた。


「いにおい!」


春歌は炒めているケチャップライスの香りに大興奮していた。

そんな純粋にはしゃぐ春歌が可愛らしくて愛おしかった。


「パパはやくはやく!」


出来上がったオムライスを配膳してスプーンを置く。

春歌は椅子に駆け寄りどしんっと座り俺を急かした。

春歌と俺は合掌した。


「「いただきますいただきます!!」」


質素な味のオムライスで申し訳気持ちになる。

だが春歌はとても美味しそうに食べていた。

春歌にとってはきっと贅沢な味なのだろう。


「美味いか?」


俺の問いかけに元気よく美味しい!と返事をしてにひっと微笑んだ。

春歌は俺よりも先に完食し皿をシンクに置いてテレビまで走りリモコンを俺に渡した。


「あれみたい!しゅぽしゅぽ!」


俺はオムライスの断片が乗ったスプーンを皿に置いてリモコンで電源を付けてチャンネルに合わす。


「後七分で始まるから大人しく待ってなよ。」


うん!と元気よく頷き俺は椅子に戻る。

オムライスを食べ終えシンクに置いた。


「だいぶ溜まってきちまったな…」


俺は皿などを洗い終え一段落付き春歌と一緒にテレビを眺めていた。


「パパ…ママってそばにいるのがあたりまえなの…?」


俺は春歌のその質問に胸が締め付けられた。


「ママは特別忙しいんだ…凄い人だから…春歌は凄いママの自慢の娘なんだぞ」


春歌はそうだよねと少し不満気に俯いた。

ごめんな…春歌…

パパは最低な嘘つきだ。

いつか恨んでいいから…今だけはこの幸せを許してくれ。

身勝手なパパでごめんなさい。


「いたいのいたいのとんだけ!」


春歌…俺は春歌を抱き締めた。

春歌は俺を優しく包んだ。


「ありがとう…ありがとう…春歌…」


春歌は照れ臭そうににひひと微笑みはにかんだ。

春歌はママに似て優しい子だ。

死ぬべきは俺だった。

後悔と言う物を抱けばそれ一生付き纏う。

後悔してはいけない筈なのに。

後悔しては春歌が悪みたいになってしまう。

俺は本当に最低な野郎だ。


「春歌…お前は本当に優しいな…うっうぅ…」


春歌は俺の頭を撫でて泣かないのと慰めてくれた。

ありがとう春歌。

こんな俺を温かめてくれた。


「パパどこがいたいいたいさんだったなの?」


俺は悩みそして答えた。


「パパはいたいいたいさんじゃないよ。」


春歌は首を傾げた。


「パパが泣いてたらこう思うんだ、パパはきっと幸せだから泣いてるんだって。」


俺はまた嘘を付いた。

春歌と言う優しくて俺を包んでくれる子に俺は嘘を何度も付いた。

春歌、お前は自分に二人分の命と言うあまりに重い代償を支払わせた俺をどう思うんだろうか。

嘘をついたパパを憎むか?

それとも感謝をするのか?

いや…感謝などする筈がない。

恣意的な身勝手な考えだ。

春歌はきっと俺を憎むだろう。

憎んでくれた方が俺はきっと…きっと…

この先の言葉にいつも俺は詰まる。

考えれば考える程に苛まれていく。

今日はもう考えるのを辞めよう。


「パパ…トイレ…」


俺は春歌と手を繋いでトイレに行き扉の前で終えるのを待っていた。

流れる音がして春歌が素早く扉を開く。


「出たか?」


春歌はうんと頷き俺と春歌はリビングに戻る。

時間も時間となり俺と春歌は風呂へ入った。


「髪と身体を洗ってから浸かるんだぞ」


知ってるーと誇らしげに答えた。

春歌の髪を洗っい春歌は身体を洗って先に湯に浸からせた。

春歌は子供らしい童歌を口ずさみ俺も髪と身体を洗い終えて湯に浸かる。


「温かいな」


春歌も真似をして温かいなと口ずさんだ。


「春歌、お友達は出来たのか?」


春歌は人差し指と中指を立ててピースした。


「ふたり!」


二人…か。

思ったより少ないな。


「男の子か?女の子か?」


春歌はどっちもと答えその子達の話を楽しげに話した。

風呂から上がり春歌の髪をゴシゴシと拭く。

春歌はいたい!と少し怒った。


「パパあいすぅ!」


俺は分かったと頷き乳酸菌ドリンクの味がするハピゴの袋を開ける。


「ふたつたべたい!」


俺はダメだと言って一つ渡しもう一つは冷凍庫に押し入れた。

春歌は少し不貞腐れてリビングの床にどしんっと座ってテレビを眺めていた。

俺は椅子に座りスマホを見ながら一息付いた。

片親だからなのかスマホを見れる時間が極端に少ない。

ニュースも仕事の休憩時間にしか見れないので中々流行りや世間の状況等に追い付けない。

朝のニュースを春歌が嫌がらなければ見れるのだが…

春歌は毎日DVDで洋物のコメディアニメを見ないとごねるのだ。


「春歌、髪を乾かすぞ」


春歌はいやだ!とごねる。

俺は溜息を付いてこう言った。


「髪を乾かさないと髪食い虫が髪を全部食べちゃうぞ」


春歌は怯えて素直に乾かさせてくれた。


「あつい!」


俺はごめんと謝りドライヤーを少し弱める。

ドライヤーの加減が中々どうして難しい。

いつも春歌に怒られる。


「乾いたぞ、パパの髪が乾くまではテレビ見てていいぞ。」


春歌は分かった!と嬉しそうに返事をして走ってリビングまで戻った。

俺は一番弱い風量で髪を乾かす。

早すぎたら春歌に怒られるからな。


「春歌、歯磨きするぞ」


春歌はまだ見るとごねた。


「春歌そんなわがまま言うならヤマンバがお前を連れてくぞ。」


ヤマンバなんか居ないと拗ねた。

俺は適当に壁をコンコンと叩き春歌にこう脅した。


「ヤマンバさんが来たぞ春歌!早く歯磨きして寝る準備しないと!」


春歌は叫んで俺にしがみついた。

俺がいい子に出来るか聞くと出来る!と気持ちの良い返事をした。


「よしじゃあ歯磨きするか。」


春歌は頷き俺にしがみついたまま洗面所へ行った。

この子は本当に純粋な子だ。

素直ないい子だ。

パパとは似ても似つかないほどに。

春歌はざざざと歯を磨いてコップに手を伸ばした。


「春歌もう少し丁寧に磨け。」


春歌はいや!とまたごねた。


「春歌ヤマンバさんが怒っちゃうぞ。」


春歌はうぅと渋々歯を磨き、俺と春歌は布団を敷いた。

春歌は占領するように大の字で横になった。


「春歌、それじゃパパ眠れないだろ。」


そう言うと春歌は素直に縮まってくれた。

春歌は俺の背にしがみついたまま就寝した。


翌朝。

土曜日も仕事の為、春歌を児童館へ預ける。

春歌の頭に手をポンッと添えて屈む。


「いい子にしてるんだぞ春歌。」


春歌はうん!と頷き児童館に走って入って行った。

児童館の先生にお願いしますと頭を下げて走って車に乗る。

ギリギリなんだ。

車を運転し駐車場に車を停めて駅で電車に乗り会社へ向かう。

目的地に止まり走って改札を通り会社まで走る。

会社に着くと息が切れ切れだ。


「いつも大変ですね」


後輩の女の子が心配そうに俺を見ていた。


「大丈夫…気にしないで。」


俺は曲がった腰を何とか上げてエレベーターに乗る。

一緒に乗っていた後輩がコーヒーを差し入れしてくれた。


「ありがとう。」


後輩はいえいえと頭を擦る。


「一人で娘さんを育てるって大変ですよねきっと。」


俺は大変だなと答えて続けてこう言った。


「大変だけどそれ以上にあの子には幸せと言う掛け替えの無い物を頂いてるから結構楽しいんだよ。いつかあの子には憎まれるだろうけどな。」


俺は笑いながらそう言うと後輩は俯きこう言った。


「無理に笑わないでください…それに猪塚さんの判断は間違ってはいないんですから憎まれるとかそう言う考えは捨ててください…娘さんにも失礼ですよ」


間違ってない…か。

頬に涙が伝う。


「本当にそうだろうか…」


俺は涙を拭い上を見詰める。


「そろそろだね。」


後輩は不満げだった。


「あなたはいつまで引き摺るんですか…いつまで誤魔化し続けるんですか…いい加減に…自分を殺し続けるのを辞めたらどうなんですか…」


俺は何も言えなかった。

その言葉が正し過ぎて言葉が出てこなかったのかもしれない。


「ごめん…」


ピポンと音が鳴りエレベーターが開く。

後輩は足早にエレベーターから出た。

俺は本当にダメなやつだ。


「おはようございます。」


挨拶をして席に座る。

倒れた写真立て。

これを立てるのが怖くて俺は触れる事が出来なかった。


「猪塚くんは今日も残業は…」


俺はすみませんと頭を下げて残業を断る。

嫌な顔をされた。


「まあ仕方ないよな、君は片親なんだからね。娘さんが気の毒だろう。」


また嫌味だ。

俺の娘を語らないで欲しい。

溜息が漏れ出た。


昼休憩。

弁当袋を開ける。

紙が一切れ入っていた。


「こんなの入れた覚えが…」


紙を捲るとニッコリ笑顔の俺と春歌と顔が隠れた女性が描かれた絵と共にがばってねと言う文字が描かれていた。

思わず涙が溢れ出た。


「うっうぅう…くっぐぅう…あぁあ…」


同僚が心配そうに俺を見ていた。

春歌は…これを望んでいるのかな…ごめん春歌…ママはもう…もう…


「大丈夫ですか、先輩…?」


朝の後輩だ。

俺は涙を拭い何でもないと何事も無かった様に弁当を開ける。


「な…ふふ、良かったですね先輩。」


弁当を頬張る。

いつもの弁当のはずなのに。

何故だか涙が溢れ出る。


「情けねぇ…」


俺は恥ずかしくて必死に涙を拭う。


「いいんですよ、泣きたい時に泣くこれは唯一人の許された自分自身の修復なんですから。」


昼休憩が終わり仕事に戻る。

疲労で頭が真っ白になった。

栄養ドリンクを二本飲み何とか疲れを和らげる。


夕方。

十六時頃。

電話が鳴った。


「もしもし、はい、はい…春歌が?」


どうやら春歌が同級生の男の子に手を挙げたらしくその親が俺を呼んでいるらしい。

仕事はまだ残っている。


「すみません、まだ仕事が少し残っていて十九時頃になるかと思います、はい…はい…お手数お掛けしてしまい申し訳御座いません…お願いします。失礼します。」


電話を切り深い溜息が溢れ落ちた。

子供の喧嘩なんて言う些細な事で一々呼ばないで欲しい。

子供が喧嘩するなんて当たり前の事だ。

子供は怪我して泣いて学んでいくんだから。

こっちは忙しいのに。

苛立ちが募る。

仕事を終えて足早に駅に向かい電車に乗る。

目的地に着き改札まで走り車に乗り児童館へ向かう。

児童館に付いて扉を開ける。


「すみません春歌の父なのですが」


先生は待っていたと言わんばかりに足早に案内して俺は部屋に入る。

春歌は不安そうに俺を見て俯いた。


「すみません仕事が手放せず…!春歌、謝りなさい。」


相手の母親は酷く俺を叱責した。


「全く春歌ちゃんも可哀想でならないわ。片親だからろくな躾もされてないんだから。不幸よね。」


春歌は俺の袖を力強く握った。

俺は我慢の限界だった。


「何なんですかあんたは…勝手に春歌を不幸だとか語らないで下さい、あなたは春歌の何を知ってるんですか…?そう言うあんたが一番ろくに躾されてないだろうが、勝手に不幸だとか抜かすな、子供の些細な喧嘩で呼ぶな!子供は怪我して泣いて学んでいくんだよ…」


我ながら餓鬼過ぎた。

感情的になり過ぎた。

怖がる春歌の頭を撫でた。

相手の親は野蛮だとかこれだからとか散々ボロカスに言って帰って行った。


「すみませんでした。児童の遊ぶ場で騒いでしまって…」


先生方はいいのいいのと俺を宥めてくれた。

春歌と車に乗る。

春歌は堪え切れず泣き出した。

ごめんなさいごめんなさいと。

俺は春歌の頭を撫でて少し頭を冷やせと宥めた。


家に着いて春歌は言われずとも手を洗いに行った。

リビングでポツンと座った。

俺も近くに座り事情を聞いた。


「どうして手を挙げたんだ?」


春歌はモジモジして不安そうにしていた。

俺は怒らないからと春歌の眼を見て安心させた。

春歌はやっと気持ちが解けたのか話してくれた。


「かみやくんがささづかちゃんのわるくちいったから…」


全く教育出来てないのはどっちだ。


「春歌には口があるんだから今度からは口で言い返しなさい。もう駄目だぞ手を挙げたりなんかしたら。」


春歌はごめんなさいと謝り俺は腰を上げる。

冷蔵庫を漁るが食材があまりない。


「春歌、買い物行くか」


春歌は嬉しそうに行く!と返事をした。

俺はスーツを着替えて春歌に行くぞと促した。

車に乗り春歌は助手席に乗りシートベルトを締めてあげる。

春歌は相変わらず童歌を歌っていた。

この子は歌手になるのかもしれないな。

春歌は顔が良いから案外アイドルとかかもしれない。

それならきっと春歌は売れっ子だろうな。

俺は興味が湧いて春歌に聞いてみた。


「春歌は将来何になりたいんだ?」


春歌は即答した。


「パパみたいなひとになりたい!」


俺は辞めた方が良いと忠告して続けてこう言った。


「パパは春歌が思ってるような人間じゃないんだ。パパみたいにはならないで欲しい…」


春歌は頬を膨らませて拗ねた。

パパはいい子だと否定をした。

いい子…か。

暫く言われた事のない言葉だ。

昔は母さんによく言われたっけか。


「ありがとうな春歌。お前だけだよ。」


春歌はどいたしましてと少し機嫌を取り戻す。


「今日は何食べたい?」


春歌は即答でオムライス!と答えた。


「昨日食べたろう…」


俺が呆れた様にそう言うと春歌は少し考えて答えた。


「じゃあパスタ!」


俺ははいよと答える。

いつもはレトルトだけど今日は作ってあげよう。

スーパーの駐車場に停めて春歌に少し待ってと言うと分かったと貧乏揺すりしながら待っていた。


「春歌、貧乏揺すりしてたらいつか貧乏になっちゃうぞ」


春歌は即座に辞めた。

スマホで作り方を見て材料をメモした。

今日作るのはボロネーゼ。

前はカルボナーラを作って失敗したからな。

あれはあれで笑えたが。

カートを引いて春歌にカゴを取りに行ってくれとお願いすると春歌はりょ!と覚えたての若者の言葉で取りに行った。


「走るなよ春歌」


はーいとは言いつつ走る春歌に呆れて春歌に着いて行く。


「春歌、走るな!」


春歌は俺の方向に振り返った。

前を見てない春歌は目の前の人にぶつかりそうになる。


「春歌!」


その人は春歌を受け止めてくれて笑顔で大丈夫かい?と心配してくれていた。

俺はすぐに駆け寄りすみませんと春歌の頭を抑えて頭を下げる。

幸い優しい人だった為許して貰えた。


「だから走るなって言ったろ。あのおばあちゃんが良い人だったからまだしも」


春歌はごめんなさいと落ち込んだ。

春歌の頭を撫でて慰める。


「でも取りに行ってくれてありがとうな。パパは居なくならないから今度からは走るらずちゃんと歩けよ。」


春歌は急に上機嫌に嬉しそうにうん!と頷いた。

何がそんなに嬉しかったのだろうか。


「春歌、お菓子見てきていいぞ。父さんはここら辺に居るからな。」


はーい!と元気よく頷きまた走ろうとしていたので春歌と言うと春歌は理解したのか照れ臭そうにへへと頭を搔いてスキップをしながら選びに行った。


食材を吟味していると春歌が戻ってきてカートにお菓子を入れた。

ん?これ高いやつじゃん…

春歌が持ってきたのは所謂知育菓子だ。

味は確かに美味いが値段は確かこれ四百円ぐらいだよな…


「春歌、お菓子は二百円までだ。」


春歌はオドオドしながら丁度二百円だと言い張った。


「嘘つきは泥棒の始まりだ。」


春歌はムスッとそっぽを向いた。

コラと言いかけたが最近はあまり買ってあげれてなかったので渋々許した。


「今日はまあいいけど次は駄目だからな。」


春歌はうん!と頷いて俺の手を握りスキップで歩く。

食材を一通り払い終えて惣菜等を袋に入れる。


「春歌、開けて」


春歌はすんなり袋を開ける。

若いと言うのは実に羨ましいものだ。

エコバッグに入れ終えて車に戻る。


「春歌、今度お友達の悪口を言われたらどうするんだっけ?」


春歌はくち!と気持ちの良い返事をした。

俺は上出来と褒めて車を発進させる。


家に着き少し寛ぐ。


「パパおなかぺこぺこ」


春歌は少しごねるが俺だって少しは休みたい。

ちょっと待てっと言ってテレビを付ける。

少しはニュースも見ないとな。

コーヒーを注いで少し寛ぐ。


『11月22日、今日は良い夫婦の日と言う事もあって…』


手の力が一瞬抜け落ちた。


「パパどうしたの?」


春歌は不思議そうに首を傾げた。

俺は何でもないよと誤魔化した。

今日は沁音と結婚した日だ。

沁音、君は記念日にはうるさかったな。

俺は少し沁音との思い出を思い返していた。




『渉さん、これ…』


沁音は俺に豪華な包に包まれた箱を手渡された。


『どうしたんだよ?何かあったのか?』


沁音の真意が分からなかったがプレゼントを渡されて嬉しくない奴なんか居ない。

よく分からないまま照れくさそうに微笑み受け取る。

ん?離さない…


『くれるんじゃ…』


沁音の目を見ると瞳孔が震えていた。

どう言うことなんだこれは…

何故沁音は悲しそうに…


『覚えていないんですか…?』


困惑している俺を見て彼女は憤り飛び出して行った。


『沁音!…なんなんだ一体…』


意味も分からず怒る沁音に俺も少し苛立っていた。

話してくれればいいのに。

話さないと俺だって分からねえよ。

億劫だが飛び出した沁音を探しに行く為玄関へ行く。

ふとカレンダーに目が行った。

今日の日付に大きな文字で結婚記念日とそう書いてあった。


『なるほどな。確かに忘れちゃならないな…』


俺は馬鹿だ。

玄関を勢いよく開けて沁音の後を追い掛ける。

彼女はきっとあそこにあの場所に居るはずだ。

息も切れ切れで俺は辿り着いた。

沁音は眺めていた。

星の流れる川を。


『沁音…ごめん、俺が馬鹿だった。』


俺は沁音の隣で星の川を眺める。


『プレゼント買いに』


沁音は俺の言葉を遮ってこう言った。


『もう貰いました。貴方と…渉さんとこの景色をまた見れました…それだけで私は十分です』


沁音の方を見ると彼女の顔は紅潮していた。

お互いの胸の鼓動が川に波を生み出し星がを優雅に泳ぐ。




「春歌、ちょっと出ないか?」


春歌は俺のお願いを聞いてくれた。

車を発進させる。

近くの駐車場に車を停めてあの星の流れる川を目指す。


「今でも君が…俺を待ってくれている気がするよ…居るのか?そこに…」


彼女がかつて立っていたその場所にはもはや誰も居ない。

春歌が不思議そうに俺を見ている。

変なパパだよな。

居ないはずなのに沁音が居る。

春歌と共に川を眺める。


「綺麗だろ春歌」


『綺麗だね沁音さん。』


かつての言葉が記憶と言う箱から飛び出してくる。


「綺麗!」


『綺麗です!』


春歌、君が何故か今沁音さんに見える。

春歌は本当に沁音によく似ている。

俺の隣に立っている君はきっと俺の幻想なんかではないのだろう?

君はかつての様に頬を赤らめているのだろう?

聞かせてくれ。

答えを。


『聞く必要ありますか?』


君は怒っている。

恨んでいる。

すまない…すまない…

ごめんなさい…

雨なき空に雷が響く。

春歌が驚き俺に抱き着く。

俺は春歌の頭を撫でて大丈夫だと微笑む。

春歌は俺の顔を見て首を傾げた。


「パパ…どうして泣いてるの…?」


なんでだろうな。

悲しくて泣いてるんじゃない。

怖くて泣いているんじゃない。

だったらどうして俺は泣いているんだ。

よく分からない感情だ。

まるで何かが俺の心が完結した様な。

感動なんかじゃない。

謎の解放感が不快だった。

俺自身は理解出来ないままに答えを知らされた様なこの漠然とした感覚がただただ不快だった。

俺は知れたはずだったのに。


「君は意地悪だな。本当に」


可笑しくて笑いが零れた。

お淑やかな見た目しといて君は本当にイタズラ好きだ。

俺はそんな君にいつしか惹かれていたのかもしれないな…


「春歌、ありがとう。帰ろうかお家に。」


春歌と手を繋いで家へ帰る。

春歌はおててザラザラと可笑しそうに笑っていた。

沁音…ごめんなさい。

俺は幸せになってしまった。

来年の春は一緒に歌ってくれないか?


「沁音…春歌…ありがとう。幸せを与えてくれて。」



─ 前編 ~完~ ─

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