夫が死んだ翌日、彼の日記を読んだら私が死んでいた ~完璧な妻の再生記録~

ソコニ

1話完結 夫が死んだ翌日、彼の日記を読んだら私が死んでいた

第一章:発見

昨日、夫は車の中で死んだ。

今日、私は彼の日記を開いた。

最新ページに書かれていた──「今日、妻が死んだ。やっと自由になれる」


葬儀が終わった日の夕方、私は一人で自宅のリビングに座っていた。喪服のまま、動く気力もなく、ただ夫の遺品が詰まった段ボール箱を眺めていた。

拓海は三日前、帰宅途中に事故に遭った。居眠り運転のトラックに追突され、即死だった。享年三十三歳。私たちは結婚して六年目だった。

段ボールの中には、夫の会社のデスクから持ち帰られた私物が入っていた。写真立て、マグカップ、ボールペンの束。そして、一冊の黒い革表紙の手帳。

日記だと気づいたのは、手に取って開いたときだった。

几帳面な夫らしく、ページの隅には日付が丁寧に記されていた。最新のページは十二月一日。昨日の日付だ。

文字が目に飛び込んできた。

『2025年12月1日 今日、妻が死んだ。やっと自由になれる』

私は息を止めた。

何度も読み返した。文字は変わらなかった。

十二月一日。昨日。拓海が事故で死んだ日。

でも、拓海が死んだのは夜の十時過ぎだ。この日記が書かれたのは、その前?それとも──

いや、違う。

私が死んだ?

私は、今、ここにいる。

震える手で、ページをめくった。

『11月28日 妻はまだ生きている。早く消えてくれないか』

胸が詰まった。

さらにめくる。

『11月15日 妻が笑っている。気持ち悪い』

ページをめくる手が止まらなくなった。

『10月3日 今日も妻は存在している。耐えられない』

『9月20日 妻が話しかけてくる。聞きたくない』

『8月5日 妻の顔を見ると吐き気がする』

一ページ、また一ページ。

夫の日記は、私への否定の言葉で埋め尽くされていた。

いつから?

手が震えて、日記を床に落としそうになった。拾い上げて、最初のページまで戻る。

『2023年8月12日 決めた。もう、妻を見ない。いないことにする』

二年前。

私たちが結婚三周年の旅行に行った、あの夏だ。


第二章:探索

拓海の書斎に入ったのは、葬儀の翌日だった。

几帳面な夫らしく、本棚は整然と並び、デスクの上には何も置かれていなかった。まるで誰も使っていない部屋のようだった。

私はデスクに座り、引き出しを開けた。文房具、領収書、古い名刺。そして、パソコン。

電源を入れる。パスワード入力画面が表示された。

拓海の誕生日を入力すると、すぐにロックが解除された。

デスクトップには、フォルダがいくつか並んでいた。「仕事」「写真」「書類」──そして、「新しい生活」。

マウスを動かす手が重たい。

クリックした。

フォルダの中には、いくつかのファイルがあった。

「引越し先候補.xlsx」

「旅行計画.docx」

「新口座開設メモ.txt」

一つずつ開いていく。引越し先は、私たちが今住んでいる街から遠く離れた地方都市だった。旅行計画は、一人分だけ。新口座は、私の知らない銀行のものだった。

ファイルのプロパティを確認する。

作成日:2023年8月12日。

二年前。

日記に「決めた」と書かれた、あの日だ。

私は椅子に座ったまま、動けなくなった。

壁に掛けられたカレンダーに目をやる。拓海が使っていたものだ。予定がほとんど書かれていない白いカレンダー。

でも、八月のページに、小さく書かれた文字があった。

「8/12 決意」

私の視界が歪んだ。


第三章:記憶

二年前の夏。

私たちは結婚三周年の記念に、海辺の街へ二泊三日の旅行に行った。

天気は良く、海は青く、拓海は笑っていた。

カフェのテラス席で、私は拓海に言った。

「ねえ、私たち幸せだよね?」

拓海は笑顔で頷いた。

「うん、幸せだよ」

その時、拓海の手元にスマートフォンが見えた。画面には、検索ワードが表示されていた。

「離婚 手続き」

私は、その文字を見なかったことにした。

見間違いだと思った。

いや、本当は気づいていたのかもしれない。

拓海の目が、笑っていなかったことに。


第四章:証言

「私ね、拓海から見て…普通だった?」

電話越しに、親友の香織は少し黙った。

「美咲、なんで急に…」

「正直に教えて。私、何かおかしかった?」

香織は溜息をついた。

「…会って話そう」

翌日、私たちは駅前のカフェで向かい合って座った。香織は、コーヒーカップを両手で包み込むようにして持っていた。

「美咲、あのね」

香織は視線を外した。

「拓海さん、一度だけ私に言ったの」

「…何を?」

「『美咲は完璧すぎて、俺が存在してる意味がわからなくなる』って」

私は息を呑んだ。

「完璧…?私が?」

香織は困ったような顔をした。

「美咲、あなた気づいてないかもしれないけど、全部できるじゃん。仕事もバリバリこなして、家事も完璧で、いつも笑顔で。拓海さん、それが…重かったのかも」

カップを握る手に力が入った。

「でも、私、普通にやってただけ…」

「うん、それが普通なんだよね、美咲にとっては」

香織は優しく言った。

「でもね、拓海さんにとっては違ったのかもしれない」

私は何も言えなかった。


第五章:真実

拓海の職場を訪れたのは、その三日後だった。

受付で名乗ると、若い女性社員が驚いたような顔をした。

「奥様…この度はご愁傷様でした」

上司だったという男性が、応接室に通してくれた。五十代くらいの、穏やかそうな人だった。

「拓海くんは優秀でしたよ。真面目で、仕事も丁寧で」

男性は言った。

「ただ…最後の方は、少し元気がなかったかな」

「どういう…ことですか?」

「あまり話さなくなって。飲み会も断るようになって」

男性は言葉を選ぶように、ゆっくりと話した。

「一度、飲みに誘ったときに言ってました。『自分が何をやっても、妻には敵わない』って」

私は息を止めた。

「美咲さん、経営コンサルでしたよね?年収も…その、拓海くんより」

男性の言葉が、胸に刺さった。

「拓海くんは自分を責めてたんだと思います。『俺は夫として、何の役にも立ててない』って」

私は、何も言えなかった。

廊下に出て、壁に寄りかかった。

私が…拓海を殺していた?

物理的な死ではない。

もっと、深いところで。


第六章:回収

その夜、私は再び日記を手に取った。

今度は冷静に、最初から読み始めた。

『2023年9月1日 妻が昇進した。俺は据え置きだ。おめでとうと言ったが、声が震えた』

『2023年10月15日 妻が新しいプロジェクトの話をしている。目が輝いている。俺は透明になっていく』

『2023年12月24日 クリスマス。妻が高級レストランを予約してくれた。俺の給料では行けない店だ。惨めだ』

『2024年1月20日 妻が新しいプロジェクトを任された。家で語る妻を見ていると、俺が透明になる』

『2024年3月8日 昇給した。でも妻の半分にも満たない。何のために働いているのかわからない』

『2024年6月5日 妻は俺を愛している。それが一番つらい。俺は妻に何も与えられない』

私の目から、涙が溢れた。

『2024年8月11日 決めた。妻を"いないこと"にする。日記の中だけでも、俺を取り戻す』

そこから、日記の内容は変わった。

私の存在を否定する言葉が、毎日のように書かれるようになった。

『妻が笑っている。気持ち悪い』

『妻がいない世界を想像する。自由だ』

『今日も妻は存在している。耐えられない』

拓海は、日記の中で私を殺し続けることで、自分を保っていた。

そして最後の日。

『2025年12月1日 今日、妻が死んだ。やっと自由になれる』

拓海は、日記の中で私を殺した、その日に死んだ。

まるで、自分が書いた言葉に、引きずられるように。

私は日記を抱きしめて、声を上げて泣いた。


第七章:決断

次の朝、私は日記を手に取った。

最後のページを開く。

「今日、妻が死んだ。やっと自由になれる」

私は、そのページを破った。

紙が裂ける音が、静かな部屋に響いた。

破ったページを、ゴミ箱に捨てた。

私は死んでいない。

私は、生きている。

鏡の前に立つ。

そこには、疲れ果てた女の顔があった。

「私は、生きている」

声に出して言った。

「あなたが消したかった私を、もう一度、始める」

机の引き出しから、自分の名刺を取り出した。

『経営コンサルタント 桐谷美咲(旧姓:高橋)』

拓海と結婚して、桐谷の姓を名乗るようになった。でも仕事では、旧姓も併記していた。

私は名刺を見つめた。

「拓海、ごめんね」

小さく呟いた。

「でも私も、苦しかった」

私は気づいていなかった。

自分が輝けば輝くほど、拓海の影が濃くなっていくことに。

私が幸せだと言えば言うほど、拓海が嘘をつかなければならなくなることに。

私たちは、お互いを愛していた。

でも、その愛の形が、間違っていた。


エピローグ:再生

三ヶ月後。

私は新しいアパートに引っ越した。

荷物の少ない、シンプルな部屋。

窓からは朝日が差し込んでいた。

机の上には、新しい手帳と、新しい名刺があった。

名刺には、旧姓だけが書かれていた。

『経営コンサルタント 高橋美咲』

私は手帳を開き、万年筆を手に取った。

最初のページに、ゆっくりと文字を書く。

『2026年3月1日 今日、私は生き返った』

ペン先を置いて、窓の外を見た。

街路樹の枝に、小さな新芽が芽吹いていた。

もうすぐ春だ。

拓海が書いた「妻の死」は、私の再生の記録になった。

私はもう、誰かの影にはならない。

でも、誰かに影を作らせることもしない。

私は私として、生きていく。

ただ、それだけだ。

手帳を閉じて、私は静かに微笑んだ。

新しい朝が、始まる。


【完】

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