50歳元艦長、スキル【酒保】と指揮能力で異世界を生き抜く。残り物の狂犬と天然エルフを拾ったら、現代物資と戦術で最強部隊ができあがりました
月神世一
第1話
ラスト・オーダーは金曜のカレー
東京、市ヶ谷。
防衛省、海上幕僚監部の一室。
窓の外には、どこまでも平和な初夏の陽光が降り注いでいるというのに、室内の空気は澱(よど)んでいた。
サーバーの低い駆動音と、キーボードを叩く乾いた音だけが響く。
「……ぬるいな」
坂上真一(さかがみ しんいち)は、手元のマグカップに口をつけ、眉間に皺を寄せた。
愛飲しているブラックコーヒーが、すっかり冷めきっている。
香りも飛んでしまった黒い液体を、それでもカフェイン摂取のためだけに流し込む。
五〇歳。階級は一等海佐。
かつてはイージス艦の艦長として、日本海の荒波と、見えないミサイルの脅威と対峙していた。
だが今は、統合幕僚監部を経て、装備計画部・艦艇開発班への出向の身だ。
敵はミサイルではない。財務省の予算査定と、終わりの見えない書類の山だ。
「坂上1佐、そろそろ1200(ヒトフタマルマル)です。昼休憩に入られますか?」
部下の若手事務官が声をかけてきた。
坂上は腕時計を一瞥する。長年の習性で愛用しているG-SHOCKが、正午を示していた。
「ああ、そうだな。……今日は金曜か」
「はい。食堂のメニューはカレーですね」
海上自衛隊の金曜はカレー。
洋上での曜日感覚を失わないための伝統は、陸(おか)に上がった今でも、坂上の胃袋に染み付いている。
「行くか」
坂上は席を立ち、凝り固まった腰を伸ばした。ポキリ、と乾いた音が鳴る。
◇
庁舎内の食堂は、制服組と背広組で混み合っていた。
坂上のトレイには、ステンレスの皿に盛られた欧風カレー、サラダ、そして牛乳。
スプーンで掬い、口に運ぶ。
じっくりと炒められた玉ねぎの甘みと、後から追いかけてくるスパイスの刺激。
(……悪くない)
現場の艦で食う、潮風混じりのカレーとは違うが、この洗練された味も嫌いではない。
福神漬けを噛み砕きながら、坂上はふと、窓の外の青空を見上げた。
祖父は特攻隊員として南の空に散ったと聞いている。
その孫である自分が、こうして定年を前に、平穏にカレーを食っている。
平和だ。
退屈なほどに、平和だった。
食事を終え、執務室に戻る前のわずかな時間。
坂上は仮眠室へと足を運んだ。
五〇を過ぎてから、食後の急激な血糖値の上昇には抗えない。一五分だけ目を閉じて、脳をリセットする。それが午後の激務を乗り切るための、彼のルーティンだった。
簡易ベッドに横たわり、目を閉じる。
遠くで、誰かが書類を落とした音がした気がした。
意識が、急速に深く沈んでいく。
泥のような眠り。
重力感覚の喪失。
(……揺れている?)
艦(ふね)の揺れか?
いや、俺は陸勤務だ。
それにしては、匂いが違う。
消毒液とインクの匂いではない。
古びた木材、埃、そして安酒と脂の匂い。
「――い、おい。起きろよオッサン」
「次の方ー! エントリーシートの記入、終わってますー?」
雑多な喧騒が、鼓膜を叩いた。
◇
坂上は、弾かれたように目を開けた。
反射的に身を起こし、周囲を「索敵(スキャン)」する。
一秒で、ここが市ヶ谷の仮眠室でないことを理解した。
天井が高い。だが、コンクリートではなく太い梁(はり)が剥き出しの木造だ。
壁には電子掲示板ではなく、羊皮紙のような紙がびっしりと貼られている。
周囲にいる人間たちの服装もおかしい。
革の鎧を着た大男、ローブを纏った女、腰に剣を下げたゴロツキのような連中。
(夢、か?)
坂上は自分の頬をつねってみた。痛い。
制服のポケットを探る。いつものコーヒーキャンディの感触がある。
(状況不明。だが、現実は継続している)
パニックにはならなかった。
長年の指揮官としての経験が、感情よりも先に状況分析を優先させたのだ。
目の前には、木製のカウンターがある。
その奥には、気だるげな表情をした受付嬢が座っていた。
とりあえず、情報を得る必要がある。
坂上は乱れた制服の襟を正し、カウンターへと歩み寄った。
「失礼する。……ここはどこだ? それに、この状況はどういうことだ」
努めて冷静に、事務的な口調で尋ねる。
受付嬢は、坂上の制服(海上自衛隊・第3種夏服)を上から下までジロジロと眺め、鼻で笑った。
「寝ぼけてるんですか? ここは『人材ギルド・マンルシア支部』ですよ。仕事を探しに来たんでしょ?」
「人材ギルド……? 派遣会社のようなものか」
「まあそんなとこです。で、登録するならこの用紙に記入してください。名前、年齢、職業、スキル」
渡されたのは、粗末な紙と羽ペンだった。
文字は……読める。なぜか読めるし、書ける気がする。
坂上は眉をひそめながらも、正直に記入した。
嘘をついて事態が拗れるのは、役所仕事で一番避けるべきことだ。
氏名:サカガミ・シンイチ
年齢:50歳
前職:一等海佐(指揮官)
スキル:なし(詳細不明のため空欄)
書き終えた紙を渡す。
受付嬢はそれを手に取り、ふむ、と目を通し――そして、無慈悲に言い放った。
「あのねぇ、おじさん」
彼女はため息交じりに、紙をカウンターに放り出した。
「ここ、冒険者や傭兵を斡旋する場所なの。戦える若者が欲しいわけ」
「……む」
「50歳? しかもスキルなし? 悪いけど、介護職や清掃員の募集は今ないわよ」
彼女は憐れむような、しかし冷徹な営業スマイルで告げた。
「うちは『シルバー人材センター』じゃないんです。期待しないでくださいねー。はい、次の方ー!」
後ろに並んでいた若者たちが、ドッと笑い声を上げた。
坂上は、突き返された紙片を拾い上げ、苦笑した。
まさか異世界に来てまで、定年後の再就職活動のような扱いを受けるとは。
「……手厳しいな」
彼は肩をすくめ、追われるようにカウンターを離れた。
だが、その目は笑っていなかった。
鋭い眼光は、すでにこの場所の「戦力分析」を始めていた。
騒がしい待合室の隅へ向かう。
そこには、周囲から隔絶されたように異様な空気を放つ、二つの影があった。
一つは、殺気を撒き散らしながら角砂糖を噛み砕く、凶暴そうな男。
もう一つは、テーブルに突っ伏して「お腹すいたぁ……」と死にかけている、美しいエルフの少女。
坂上真一の、第二の人生における「部下」たちとの出会いだった。
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