水色の境界線
辛口カレー社長
水色の境界線
水色は、いつも世界の隙間を教えてくれる色だ。それは青空の爽快さとも、海の深淵とも違う。もっと人工的で、それでいてひどく懐かしい、蛍光灯の光を限界まで薄めて凍らせたような色。私にだけ見える、日常の小さな違和感。現実という分厚いタペストリーの織り目が、ほんの少しだけ緩んでしまった場所。
私はそれを「隙間」と呼んでいる。
十月の新宿は、濡れた野良犬のような匂いがする。
午後八時過ぎ。定時を二時間ほど過ぎて会社を出た私は、西新宿の雑踏の中にいた。高層ビルの谷間を吹き抜ける風は冷たく、コンクリートの壁に反響して低い唸り声を上げている。
視界を埋め尽くすのは、圧倒的な灰色だ。アスファルトの灰色、ビルの外壁の灰色、行き交う人々が纏うスーツの灰色、そして彼らの瞳の奥に沈殿した、疲労という名の灰色。
私はその灰色の海を、息を止めるようにして泳ぐ。肺の中まで都会の
私はどこにでもいる会社員であり、同時に、どこにもいない幽霊のような存在だった。少なくとも、この「隙間」を見る瞬間以外は。
逃げ込みたい一心で、いつものコンビニエンスストアに入った。強烈なLED照明が網膜を焼く。棚に整然と並べられた商品は、消費されることだけを目的に生産された物質の塊だ。
私はホットドリンクのコーナーへ向かい、温かいペットボトルのミルクティーを手に取ろうとして、ふと手を止めた。
今日はマグカップがいい。なぜかそう思った。
コンビニの隅にあるイートインスペース。あるいは、さらに路地裏へ入ったところにある小さな公園。そこで、陶器の冷たさと液体の温かさを同時に感じたかった。私はレジ横で売られていた、店オリジナルのロゴが入ったクリーム色のマグカップと、淹れたてのミルクティーを注文した。
外国人の店員は機械的な手つきでカップに液体を注ぎ、私に手渡す。「アリガトゴザイマシタ」という抑揚のない声が、自動ドアの開閉音にかき消される。
店を出て、メインストリートから一本入った裏通りへ足を向ける。
ビルの排気口から吐き出される生温かい風。室外機の低いモーター音。誰かが捨てたタバコの吸い殻。現実のディテールはいつだって高解像度で、そして退屈だ。
マグカップの取っ手に指をかけ、一口飲む。甘ったるい香りが鼻腔をくすぐり、温かい液体が食道を落ちていく。その安らぎに一瞬だけ肩の力が抜けた、その時だった。
チリリ……と視界の端が痛んだ。
マグカップの縁、私の唇が触れたすぐ横に、小さな欠けがあった。本来なら、それはただの不良品だ。クリーム色の釉薬が剥げ、下地の土が見えているだけの傷。あるいは、運搬中にどこかにぶつけて出来た些細な破損。でも、私には違って見えた。その欠けから覗く「何か」が、光を吸い込むような淡い水色に輝いていたのだ。
私は立ち止まり、周囲を見回す。
誰もいない路地裏。ビルの非常階段が錆びた肋骨のように空へ伸びている。全てが現実で、全てがぼんやりと鈍い色をしているこの世界の中で、手元のマグカップの縁だけが、異常なほどの彩度を放っていた。
それはまるで、液晶画面のドット欠けのように、そこにあるべき現実が欠落し、その向こう側にあるバックライトが直接漏れ出しているような光景だった。
「またか……」
私は心の中で呟き、マグカップの欠けを指の腹でそっと撫でた。
指先に伝わるのは、陶器のざらついた感触ではない。微弱な電流に触れた時のような、あるいは氷に触れた瞬間のような、鋭く冷たい痺れだった。
――水色の光。
それは、私たちが当たり前だと信じている物理法則や常識といった「膜」が、摩耗して薄くなっている場所を示すシグナルだ。それは、昨日見た夢の続きだったり、遠い惑星の呼吸だったり、あるいは誰かが置き忘れた未来の記憶の断片だったりする。
以前、この水色に誘われて、今はもう廃線になった地下鉄のホームから、星が降る庭へと迷い込んだことがある。
あれは、三年前の冬だった。駅の改札機のエラーランプが、赤ではなく水色に点滅していたのが始まりだった。吸い寄せられるように改札を抜けた先、階段を降りて行くと、そこには天井のないプラットホームがあった。
空気がプラチナのように重く、音が一つもなかった。頭上には見たこともない星座が瞬き、線路の代わりに銀色の川が流れていた。あの時の、頬を撫でた冷たい風の感触を、私は今も鮮明に覚えている。恐怖よりも、ようやく帰るべき場所に帰ってきたような安堵があった。
今回のマグカップの縁の水色は、あの時ほどの規模ではない。
光は弱く、範囲も極小だ。
それは、今日の隙間が非常に小さいことを示していた。まるで針の穴のように。でも、無視はできない。なぜなら、この水色が消えると、私はいつも何かしらの「贈り物」を受け取るからだ。それは物とは限らない。言葉であったり、光景であったり、あるいは私の心の一部を補完するような感情であったりする。
私はミルクティーを飲み干した。
最後の一滴が喉を通り過ぎ、マグカップの底が露わになる。それと同時に、欠けた縁から漏れ出していた水色の光も、ロウソクの火が吹き消されるようにフッと消滅した。
路地裏は再び、ただの薄汚れた灰色の空間に戻る。魔法が解けたかのような静寂。
――ブブッ。
コートのポケットの中で、スマートフォンが短く振動した。着信ではない。通知の振動とも違う、もっと生物的な、脈動のような震え方だった。
予感と共に画面を確認する。ロック画面に見覚えのない通知が表示されている。
『インストールが完了しました:現界観測所』
背筋がゾクリとする。
いつもの手順だ。私はそのアプリをダウンロードした覚えはない。水色の隙間に触れた直後、私のデバイスは一時的に向こう側の端末へと書き換えられるのだ。
恐る恐るアイコンをタップする。画面全体がノイズ交じりの水色に染まり、やがてシンプルなインターフェースが浮かび上がった。
そこには、たった一つの座標と、点滅するカーソルが表示されているだけだった。
――35度41分……東経139度……。
地図アプリを起動し、その座標を打ち込む。
ピンが落ちたのは、現在地から徒歩十五分ほどの場所。新宿の喧騒から外れた、古い住宅街と繁華街の境界線にあるエリアだ。
地図上では、そこはただの空地として示されていた。「建設予定地」という注釈がついているが、更新日は数年前のまま止まっている。
――はいはい、今日はあそこまで行けってことね。
私は小さくため息をつき、しかし口元には微かな笑みを浮かべた。
普通の人間なら、得体の知れないアプリに従って夜の路地を歩いたりはしないだろう。でも、私にとってこれはリスクではない。救済なのだ。
あそこは、今日という日において、世界が最も薄くなっている特異点。
水色は消えたが、その余韻がまだ手のひらに残っている。ジンジンと痺れるような感覚が、私を呼んでいる。
私は空になったマグカップをゴミ箱に捨てると、コートの襟を立てて歩き出した。
私だけの秘密の冒険は、いつもこんな風に、さりげなく、日常の延長線上で始まる。
目的地への道のりは、徐々に現実感を喪失していくプロセスそのものだった。
歌舞伎町の煌びやかなネオンの海を背にし、大久保方面へと抜ける細い路地を進む。最初のうちは、酔っ払いの叫び声や、客引きの甘い声、焼肉屋の排気ダクトから吐き出される脂っこい煙が五感を刺激していた。しかし、座標に近づくにつれて、それらのノイズが嘘のように遠ざかっていく。まるで、透明な防音ガラスの箱の中に入ったようだった。
すれ違う人々はいる。けれど、彼らの話し声は水底で聞くように籠もり、足音は吸音材の上を歩いているかのように響かない。彼らは私を認識していないし、私も彼らに干渉できないような、奇妙な疎外感。
風景の色味も変わってくる。街灯のオレンジ色が、徐々に彩度を落とし、青ざめた白へと変質していく。自動販売機の明かりが、不自然なほど明るく路面を照らしている。影が濃い。私の足元に伸びる影は、光源の位置とは無関係に、目的地の方角へと長く、長く伸びていた。
私はスマートフォンの画面を何度も確認する。
「現界観測所」のアプリ画面では、私の現在位置を示す水色のドットが、点滅しながら座標の中心へと近づいている。
画面の隅に、小さな文字で数値が表示されていた。
『深度:7.2% 上昇中』
それが何を意味するのか正確には分からないが、現実からの乖離度を示しているのだと直感する。以前、星降る庭へ行った時は、この数値が八〇%を超えていた。今回はそこまで深くはない。やはり、針の穴程度のささやかな冒険なのだろう。
古いアパートが建ち並ぶ一角に出た。壁には蔦が絡まり、郵便受けは錆びつき、どこの窓もカーテンが閉ざされている。生活の匂いがしない。まるで、映画のセットのようだ。
その突き当たりに、目的の場所はあった。
フェンスで囲まれた、四角い空地。かつては雑居ビルか何かが建っていたのだろう。地面はコンクリートの基礎が剥き出しになり、所々に雑草が生い茂っている。
入口のフェンスは歪んで開いており、そこには黄色いテープではなく、水色のビニールテープが巻かれていた。風もないのに、そのテープだけがヒラヒラと揺れている。
「ここね」
私はフェンスの隙間をすり抜け、空地へと足を踏み入れた。
その瞬間、私の感覚に何かが混ざり込んだ。急激に、音が遠のいていく。音が消えたのではない。音が止まったのだ。
遠くで聞こえていた電車の走行音、風の音、街の唸り。それらが一斉に停止し、真空パックされたような静寂が訪れた。
空を見上げると、そこには月も星もなかった。あるのは、街の明かりを反射した曇天の空ではなく、のっぺりとした、無限に続く水色の天井だった。それは、巨大な水槽の底にいるような錯覚。
空地の中央に、何かが置いてある。
私は砂利を踏む音だけを頼りに、その中心へと近づいていく。ザッ、ザッ、という自分の足音が、やけに大きく響く。心臓の鼓動が耳の奥で早鐘を打つ。
恐怖はある。いつだってある。このまま戻れなくなるのではないかという不安もあるが、それ以上に「見たい」という渇望が勝る。この灰色の現実世界で、私が私であることを証明してくれるのは、この不可解な現象だけなのだから。
中央にあったのは、椅子だった。学校の教室にあるような、古びた木製の椅子。背もたれには誰かが彫刻刀で彫ったような落書きの跡がある。そして、その椅子の上に、ぽつんと小さな箱が置かれていた。掌サイズの、綺麗な正六面体の箱。材質はガラスのようにも見えるし、氷のようにも見える。その表面は、先ほどのマグカップの欠けと同じ、淡い水色の光を脈打つように放っていた。
私はゴクリと唾を飲み込み、椅子の前で膝をついた。
スマートフォンの画面を見ると、『到達』の文字と共に、『深度:100%(局所的)』と表示されている。
ここが、今日の終着点。
「……開けてもいいの?」
誰にともなく問いかける。返事はない。ただ、水色の光が肯定するように強く瞬いた気がした。
私は震える指先で、その箱に触れた。
冷たさは感じなかった。むしろ、人肌のような温かさがあった。指先が箱の表面に触れた瞬間、箱は物理的な蓋を開けることなく、シャボン玉が弾けるように粒子となって崩れ去った。
中から現れたのは、一冊のノートだった。表紙は無地で、少し黄ばんでいる。どこにでも売っているような、大学ノート。
私は拍子抜けしながらも、それを手に取った。なぜこんなものが、世界の隙間にあるのだろう。
ページを捲る。
最初のページは白紙だった。次も、その次も、何も書かれていない。ただの白い紙の束だ。
――ハズレ?
そう思った瞬間、白いページの上に、じわりと文字が浮き上がってきた。インクで書かれたものではない。紙の繊維そのものが変色して、言葉を形成していく。
『拝啓、迷子になった私へ』
私の筆跡だった。間違いなく、私が書く文字の癖そのものだった。少し右上がりの、丸みを帯びた文字。心臓が跳ね上がる。私はこんなものを書いた覚えはない。
『今日はとても疲れていると思う。上司に理不尽なことを言われたかもしれないし、電車で足を踏まれたかもしれない。世界は灰色で、息をするのも面倒くさいと思っているでしょう?』
文字は次々と浮かび上がってくる。まるで、透明人間が今まさにペンを走らせているかのように。
『でもね、忘れないで。あなたが今日見た水色は、あなたがまだ世界に絶望しきっていない証拠だよ。隙間が見えるのは、あなたがまだ、向こう側を信じているから。このノートは、あなたが書き損じた「願い」の集積所です』
――書き損じた……願い?
私は掠れた声で読み上げる。ページを捲ると、そこには断片的な文章が散らばっていた。
『海が見たい』
『本当は、あの時ごめんなさいと言いたかった』
『もっと遠くへ行きたい』
『絵を描くのを辞めたくなかった』
それは、私が日々の生活の中で押し殺し、無意識の底へと沈めていった感情たちだった。大人になる過程で、「現実的ではないから」、「役に立たないから」、「恥ずかしいから」という理由で切り捨ててきた、かつての私の祈りたち。それが、この異界の座標に集められ、保存されていたのだ。
胸が詰まるような感覚に襲われた。
私は泣いていたのだろうか。視界が滲む。
ノートの最後のページに、新しい文字が浮かび上がった。
『持って帰って。これは、あなたのものだから』
その文字を読み終えた瞬間、周囲の水色の空間が急速に収縮を始めた。頭上の水色の天井に亀裂が入り、そこから夜の闇が漏れ出してくる。音のない世界に、遠くの救急車のサイレン音が鋭く差し込んでくる。
現実が、帰ってくる。
私は慌ててノートを胸に抱きしめた。強い眩暈。地面が揺れる感覚。
私は目を閉じた。
次に目を開けた時、私はまだあの空き地に立っていた。
水色の光は消え失せ、街灯のオレンジ色が雑草を照らしている。遠くからは電車の走行音が聞こえ、近くのマンションからはテレビの音が漏れてくる。湿った風が頬を撫でる。
いつもの、騒がしくて少し汚れた、東京の夜だ。
手の中には、あのノートがあった。夢ではなかった。物質として、確かにここに存在している。
私は深く息を吐き出した。肺に入ってくる空気は、さっきよりも少しだけ澄んでいるように感じられた。
ポケットの中のスマートフォンを取り出す。「現界観測所」のアプリは、いつの間にか消えていた。痕跡もなく、アンインストールされていた。
いつものことだ。彼ら――姿も見えないし、本当に存在するのかも分からない彼らは、決して証拠や痕跡を残さない。残るのは、私という観測者と、授けられた贈り物だけ。
私は空地を出て、駅へと向かって歩き出した。
足取りは軽い。
灰色の世界は相変わらずそこにある。明日もまた会社へ行き、理不尽な業務をこなし、満員電車に揺られるだろう。灰色の重力は、きっと私を捕らえて離さない。でも、私には今、このノートがある。
私が切り捨ててきた「願い」が詰まった、私だけの地図。
帰り道のコンビニの前を通る時、ふとショーウィンドウに映った自分の顔を見た。疲れた顔をしているが、その瞳の奥には、小さく、けれど確かな光が宿っていた。それは、あのマグカップの欠けと同じ、淡く美しい水色をしていた。
私はノートを鞄にしまい、雑踏の中へと紛れ込んでいく。
世界の隙間は、きっとまたどこかで口を開くだろう。壊れかけた街灯の下か、図書館の最果ての棚か、あるいは水たまりの底か。
その時まで、私はこの灰色の世界を、もう少しだけ愛してみようと思う。
だって、この世界は案外、穴だらけで、可能性に満ちているのだから。
(了)
水色の境界線 辛口カレー社長 @karakuchikarei-shachou
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます