恐ろしい街
鷹山トシキ
第1話 🌊 由比ヶ浜の波と別れ
由比ヶ浜は、冬の気配をまとって重い曇り空の下にあった。観光客の喧騒は遠く、ただ鈍い潮騒だけが二人の沈黙を埋めている。
**
隣に立つ**
「これで、本当に終わりなんだな」
健司の声は、湿った空気の中でくぐもった。
美咲は、ゆっくりと健司の方へ顔を向けた。その瞳は、波打ち際の砂のように、ざらざらとした痛みを湛えながらも、透明だった。
「うん。終わり、かな」
美咲がそう応じたとき、彼らの関係が始まる前に、互いに求め合ったあの熱い夏の記憶が、健司の胸に津波のように押し寄せた。由比ヶ浜の海の家で出会い、美咲のまっすぐな優しさに救われた日々。しかし、美咲が家族の介護を理由に東京を離れ、実家のある湘南に戻ってきてから、二人の間の距離は物理的なものだけではなくなっていた。
「俺さ、やっぱり、美咲を幸せにできる自信が、最後まで持てなかった」
健司は、絞り出すように言った。美咲の仕事は、誰かの人生を支える尊いものだ。それに比べて、自分はどうだ。毎月、いつ契約が切られるかわからない不安を抱え、自分の将来すら見えない。美咲の背負う重荷に、自分の不安定な生活を重ねることは、愛ではなく、ただの足かせだと感じていた。
美咲は、小さく微笑んだ。それは、健司が最も愛した、少し困ったような、しかし強い意志を感じさせる笑みだった。
「健司くんは、私に十分すぎるくらい、幸せをくれたよ。それは、お金とか、保証とか、そういうのとは全く関係ないところで」
美咲は一歩、健司に近づいた。そして、凍えるような彼の指先に、自分の手をそっと重ねた。
「でもね。私は、誰かを支える仕事をしているから、支えが必要な人の気持ちもよくわかる。健司くんは、まず自分の足でしっかり立つことが、今の健司くんに一番必要な『支え』なんだよ」
健司の手を握る美咲の力は、か細いけれど、不思議なほど強かった。彼女の言葉は、自己憐憫に浸っていた健司の頬を、ぴしゃりと打つようだった。
「もし、健司くんが自分の人生を愛せるようになったら...。その時、また、どこかで会おう」
美咲はそう言い残すと、健司の手を離し、踵を返した。波打ち際に残されたのは、健司の足跡と、そして彼女が残した、かすかな花の香りだけだった。
健司は、彼女の小さな背中が、浜辺の端にあるバス停の角を曲がるまで、ただそこに立ち尽くしていた。潮風が、彼の乾いた目元を、容赦なく撫でていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます