恐ろしい街

鷹山トシキ

第1話 🌊 由比ヶ浜の波と別れ

 由比ヶ浜は、冬の気配をまとって重い曇り空の下にあった。観光客の喧騒は遠く、ただ鈍い潮騒だけが二人の沈黙を埋めている。

​**健司けんじ**は、防寒のために着込んだ古びたダウンジャケットのポケットに両手を突っ込み、砂浜に目を落としていた。彼の足元を洗う波が、まるでこの関係の終わりを告げるように、打ち寄せ、引いていく。32歳。派遣社員という不安定な肩書は、彼の言葉を常に飲み込ませるには十分な重さがあった。

​ 隣に立つ**美咲みさき**は、薄手のコートの襟を立て、遠い江の島の方を見ていた。29歳。美咲の働く訪問介護の現場は、常に人手不足で、彼女の体はいつも疲労を訴えていたが、その表情はどこか晴れやかで、決意を秘めているように見えた。

​「これで、本当に終わりなんだな」

​ 健司の声は、湿った空気の中でくぐもった。

​ 美咲は、ゆっくりと健司の方へ顔を向けた。その瞳は、波打ち際の砂のように、ざらざらとした痛みを湛えながらも、透明だった。

​「うん。終わり、かな」

​ 美咲がそう応じたとき、彼らの関係が始まる前に、互いに求め合ったあの熱い夏の記憶が、健司の胸に津波のように押し寄せた。由比ヶ浜の海の家で出会い、美咲のまっすぐな優しさに救われた日々。しかし、美咲が家族の介護を理由に東京を離れ、実家のある湘南に戻ってきてから、二人の間の距離は物理的なものだけではなくなっていた。

​「俺さ、やっぱり、美咲を幸せにできる自信が、最後まで持てなかった」

​ 健司は、絞り出すように言った。美咲の仕事は、誰かの人生を支える尊いものだ。それに比べて、自分はどうだ。毎月、いつ契約が切られるかわからない不安を抱え、自分の将来すら見えない。美咲の背負う重荷に、自分の不安定な生活を重ねることは、愛ではなく、ただの足かせだと感じていた。

​ 美咲は、小さく微笑んだ。それは、健司が最も愛した、少し困ったような、しかし強い意志を感じさせる笑みだった。

​「健司くんは、私に十分すぎるくらい、幸せをくれたよ。それは、お金とか、保証とか、そういうのとは全く関係ないところで」

​ 美咲は一歩、健司に近づいた。そして、凍えるような彼の指先に、自分の手をそっと重ねた。

​「でもね。私は、誰かを支える仕事をしているから、支えが必要な人の気持ちもよくわかる。健司くんは、まず自分の足でしっかり立つことが、今の健司くんに一番必要な『支え』なんだよ」

​ 健司の手を握る美咲の力は、か細いけれど、不思議なほど強かった。彼女の言葉は、自己憐憫に浸っていた健司の頬を、ぴしゃりと打つようだった。

​「もし、健司くんが自分の人生を愛せるようになったら...。その時、また、どこかで会おう」

​ 美咲はそう言い残すと、健司の手を離し、踵を返した。波打ち際に残されたのは、健司の足跡と、そして彼女が残した、かすかな花の香りだけだった。

​ 健司は、彼女の小さな背中が、浜辺の端にあるバス停の角を曲がるまで、ただそこに立ち尽くしていた。潮風が、彼の乾いた目元を、容赦なく撫でていった。

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