第13話
部屋に入ると、澪はいつものようにベッドの端に座った。
ただ今日は、座った瞬間に、すぐこっちに身体を預けてきた。
制服の袖が、そっと俺の服の裾をつまむ感触。
「悠……いなくならない?」
「急にだね」
「さっき、廊下歩いてるときに思ったの」
澪は言葉を選ぶみたいに、ひとつひとつ落としてくる。
「帰りたくないって思う自分と。でも帰らなきゃって言う私。どっちの声も、ちゃんとしてる気がして……」
自嘲気味に、笑った。
「どっちも正しいふりしてくるから、息苦しい」
「……」
「だから、悠までどっか行ったら……」
そこで言葉が途切れる。
「ねぇ、想像してみて」
「なにを」
「学校で、家で、ちゃんとした白雪さんやって。
でも、貴方のことだけは頭から消えなくて」
澪は、服の裾をつまんでいる指に、少し力を込める。
「それでも、あの時間は全部間違いって言われたら、私、多分」
そこで一度、喉が詰まった。
「……壊れるかも」
誇張でも、冗談でもない声だった。
「なあ、澪」
「ん……?」
「過去のこと、無理に話さなくていいからな」
「やだ」
即答だった。
「やだって……」
「悠には、知っててほしいもん」
澪は、少し笑って続ける。
「私がどんなふうに出来上がってるか。
どこがちゃんとしてて、どこが壊れかけてるか」
そして、視線を合わせてきた。
「それ知ってても、そばにいてくれるよね…」
「澪」
「なに」
「さっき、今日帰りたくないって言った理由、もう一個あるだろ」
「……あるよ」
あっさり認めた。
「悠の家のせいだよ…」
「悪い意味じゃねーだろうな」
「いい意味だよ。困るほうの」
言いながら、ベッドの上で少しだけ体勢を変える。
さっきより近い。
肩が触れるくらいじゃなく、ほとんどくっついている距離。
「悠といるほうが、私の家より安心するから」
その一言だけで、十分すぎるほど重かった。
少し間を置いてから、澪がテレビ台の上のゲーム機に目をやる。
「ねぇ」
「ん」
「今日もゲームする?」
「やるかぁ」
「昨日みたいに、一緒に動かすやつがいい」
「またあれかよ」
「悠の時間、ちゃんと私のために使ってるって感じがするから」
それはお前のなかでだけ通じる理屈だろ、と思いながらも、電源を入れる。
コントローラーを持った瞬間——
後ろから、ふわっと体温が乗った。
「おい」
「観戦席は今日もここ」
澪が背中にぴったりくっつき、腕を回してくる。
俺が持っているコントローラーの上に、細い指がそっと重なる。
「近い」
「近くないと、ちゃんと一緒に動かせない」
「一緒に動かす意味が分かんねえんだよ」
「悠と同じ方向に進みたいってこと」
そんなことを言い合いながら、ゲームが始まる。
スティックを倒そうとすると、澪の指が少しだけ別方向に力を入れる。
「なんで今そっちなんだよ」
「ここで右行ったら、絶対やられるじゃん」
「だからって崖側行くのは違うだろ」
「一緒に落ちるなら、別にいい」
「物騒な愛情表現すんな」
「ゲームオーバー」の文字が出るたびに、澪は小さく笑った。
「ほら見ろ」
「悠の隣で落ちたから、セーフ」
「その理論だと、なんでもセーフになるぞ」
「うん。そういう世界で生きたいの」
澪は、そう言って、さらに少しだけ背中に体重を預けてきた。
何戦か繰り返して、区切りがついたところでゲームを一旦止める。
「ふぅ……」
伸びをしようとした瞬間、袖が引っ張られた。
「動かないで」
「なんでだよ」
「今、ちょうどいいから」
「何がちょうどいいんだよ」
「距離と温度」
わけの分からないことを言いながら、澪は俺の横に回り込んでくる。
そのまま、ぽすん、と肩に頭を預けた。
「……悠」
「ん」
「こっち向いて」
「やだ」
「素直じゃない」
文句を言いながらも、少しだけ顔を向ける。
近い。
思っているより、ずっと。
澪は、じっと見上げてきた。
「ねぇ」
「……なんだよ」
「もしさ」
そこで一度、息を整える。
「今日、このまま帰らないって言ったら、どうする?」
「どうするって……」
「止める? ちゃんと帰れって」
尋ねる声は、試しているようでもあり、すがっているようでもあった。
「……帰らなかったら、お前が困るだろ」
「うん。怒られる」
その言い方は、思った以上にまっすぐだった。
スマホが震える音がした。
澪が画面をちらっと見る。
顔から、すっと表情が消えた。
『どこにいるの』
『今日はまっすぐ帰る約束だったはずですが』
『今から帰宅しなさい』
短い文章が、三つ続いていた。
「……ほらな。帰れって言われてんじゃん」
「知ってる」
澪はスマホの画面を消して、うつむく。
「でもさ」
制服の裾をぎゅっと握りしめる。
「今日、まっすぐ帰るって約束したの、白雪家の娘Aなの」
「うん」
「それ破って、悠のところに来てるんだよ」
それは、自己申告の裏切りだった。
「ちゃんとした子の約束破ってまで、ここに来てるの。それぐらいしないと、悠のとこ来れなかった」
声が、少しだけ震えている。
「ねぇ」
澪は、俺の服の裾を掴んだ手を、そのまま胸のあたりまで引き上げる。
自分の心臓の上を、俺の指先でなぞるみたいに押し当てる。
「今、どれくらい心臓が速いか分かる?」
「……うるさいくらい」
「うん。私も、うるさいって思ってる」
それでも、と続ける。
「でもね。
悠の横でうるさいのは、嫌じゃない」
「…………」
澪は、少し黙ってから、小さく笑った。
澪は姿勢を変えて、俺のほうに正面から向き合った。
距離は、そのまま。
というか、さっきより近い。
「悠」
「……なんだよ」
「付き合って」
その言葉は、驚くほど静かに落ちた。
「……?」
「友達とか、幼馴染みとか、クラスメイトじゃなくて」
言葉を噛みしめるように続ける。
「ちゃんと、彼氏って呼べる関係になってほしい」
胸の奥が、どくんと鳴った。
「それ、今日言うんだ」
「もう耐えられないよ…」
澪は即答する。
「お母さんに、勉強する時間以外は全部無駄って言われたから」
さっきの言葉を、少しだけ歪めて言う。
「だったら私のほうから、ちゃんと形にしなきゃって思った」
「形って……」
「その人がいるから生きてるって、言えるくらいには」
ずいぶんと重い「形」だった。
「なぁ、澪」
「うん」
「もし俺が、今は無理って言ったら、どうすんだよ」
自分で口にして、嫌な質問だと思う。
澪は、一瞬だけ視線を落としてから、またこっちを見る。
「……それでも、離れないと思う」
「おい」
「付き合ってくださいって形を変えるだけで、好きが消えるわけじゃないもん」
それは、ある意味で一番危ない答えだった。
「だから、ずるいこと言うね」
澪は、そっと俺の膝の上に手を置いた。
「ダメって言っても、私きっと、やめない」
そして、身体ごと俺に寄りかかる。
胸のあたりが当たって、あわてて姿勢をずらすと、
澪は分かっててやってるみたいに、余計に距離を詰めてきた。
「おい、近——」
「逃げないで」
さっきより強い声。
「悠が本気で逃げたら、止められないの分かってるから。だから、逃げないって言って」
我儘とも懇願ともつかない声だった。
少しの沈黙。
心臓の音が、変にうるさい。
「……澪」
「……なに」
「俺さ」
言葉を探しながら、ゆっくり吐き出す。
「彼氏になりたいって思ったことは、正直ある」
澪の目が、大きくなる。
「でも、それ言ったら、たぶんお前、本当に全部捨てるだろ」
今までの「ちゃんとした子」とか、「白雪家の娘」とか。
そういう看板を。
「それが怖い」
「……うん。分かる」
澪は、否定しなかった。
「たぶん、悠がいいよって言ったら、本気でそっち側に全振りすると思う」
軽く言ってるようで、その目はまったく笑っていなかった。
「でもね、悠」
「なんだよ」
「もう片足くらいは、とっくにそっちに突っ込んでるから」
澪は、静かに、でもはっきりと言った。
「中学のとき、悠に一位取られてからずっと」
あの総合試験の日のことが、瞬時に頭に浮かぶ。
「悔しいって気持ちの中に、変なの混ざってたの覚えてる」
「変なの?」
「あ、この人に負けるの、嫌じゃないかもって」
そんなことを、さらっと言うな。
「だから、今日ここでちゃんと言っておきたい」
澪は、もう一度、まっすぐ俺の目を見る。
「私、悠のこと、そういうふうに好き」
「そういうふうにって、どんなだよ」
「ずっと一緒にいたいって意味」
答えは、シンプルだった。
スマホが、また震えた。
『いい加減にしなさい』
『何をしているのか、帰ってからきちんと聞きます』
澪は画面を見て、一度目を閉じる。
「……ねえ、悠」
「なんだよ」
「今日、帰りなさいって言われてるのに、ここにいる私、正直だいぶ悪い子終わってると思う」
「そんなことねぇよ」
「でも、お母さんから見たらそうだと思う」
澪は、スマホをぎゅっと握ってから——
ゆっくり俺の手を取って、自分の胸のあたりに押し当てた。
「だからせめて、こっちの私くらいは、悠に全部預けたい」
「全部って……」
「ちゃんと、彼女として、好きって言わせて」
その瞬間、喉がカラカラになった。
「悠はさ」
澪は、少し笑って、言葉を選ぶ。
「私のこと、嫌いじゃないでしょ?」
「……嫌いだったら、とっくに距離取ってる」
「でしょ?」
澪は、ほんの少しだけ安心した顔をする。
「じゃあね。今すぐはいって言えなくてもいいから」
指先が、俺の手を包む。
「逃げないでいてくれるって約束だけ、して」
それは、付き合う/付き合わないより、ずっと重い言葉だった。
しばらくの沈黙。
逃げ道を探せば、いくらでも言い訳は出てくる。
でも、それ言った瞬間、目の前の澪は本当に壊れるかもしれない。
(……めんどくせぇな、俺も)
心の中でため息をついてから、口を開いた。
「……分かったよ」
「……」
「逃げねぇよ」
それだけ言うと、澪の肩から力が抜けた。
「今すぐ彼氏ですって名乗れる自信はねえけどさ」
「うん」
「少なくとも、怖いから離れるってのはしない」
それが、今の俺の精一杯だった。
澪は、しばらく何も言わなかった。
ただ、俺の手を握ったまま、顔を伏せて——
ぽろっと、一粒だけ涙を落とした。
「……ずるい」
「何が」
「そんな言い方されたら、もう引き返せないじゃん」
「お互い様だろ」
「うん。お互い様」
涙を拭って、少し笑う。
「じゃあね」
澪は、小さく息を吸って——
耳元でそっと囁いた。
「彼氏候補ってことで、仮契約ね」
「言い方」
「本契約は、そのうちちゃんと取りに行くから」
それは、宣言だった。
しばらくふたりで黙って座っていたあと、
澪がゆっくり立ち上がる。
「……そろそろ帰るね」
「大丈夫か」
「怒られるのは確定。
でも、誰のところに行ってたかを、嘘つく気はない」
「正直に言うのかよ」
「うん。友達の家じゃなくて、悠の家って言う」
その言い方が、少しだけ誇らしげだった。
「もし、もう会うのやめなさいって言われたら」
そこで一度、振り返る。
「そのときは、そのときで相談させてね?」
「相談で済む気がしねえ」
「たぶん、済まない」
お互い顔を見合わせて、少し笑う。
玄関で靴を履きながら、澪がふっとこちらを見た。
「ねえ、悠」
「なんだよ」
「さっきの、逃げないよってやつ」
「……ああ」
「信じるからね?」
そう言って、小さく手を振る。
カチン、とドアが閉まる音が響く。
静かになった部屋で、
さっき握られていた自分の手と、
——付き合って
という言葉と、
——逃げないでね
というお願いだけが、
いつまでも頭の中に残り続けていた。
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