中学で一度だけ俺に負けた学年一位の彼女が、ずっと俺を観察していた

蛇足

第1話 

 四月の朝の教室は、まだクラス替えのざわつきが残っている。


 黒板の端には「二年A組」と書かれていて、窓の外には、ちょうどいい具合に葉をつけた桜の木が見えていた。


「お、悠。お前こっちのクラスだったか」


 顔を上げると、手を振りながら近づいてきたのは藤宮海斗だった。小学校からの付き合いで、俺の数少ない本当の意味での友達だ。


「海斗か。……あーよかった。知らないやつしかいなかったら帰るとこだった。」


「お前はそればっかだな。せっかく県一の進学校で、二年目がスタートの日だってのに、やる気ゼロかよ」


「やる気は家のゲームとアニメに全部割り振ってるから」


 適当に言い返しながら、自分の名前が貼られた席に腰を下ろす。窓からは校庭が見えて、春の光が机の上を淡く照らしていた。


 ちらりと前の方を見ると、見覚えのある後ろ姿があった。


(あー……いるよな、そりゃ)


 黒くてまっすぐな髪を肩で揃え、背筋をぴんと伸ばして座っている。

 白雪澪。

 中学が同じで、学年一位の優等生。


 テストのたびに一位の名前として掲示板に貼られていたせいで、嫌でも覚えた名前だ。


「なあなあ悠、見ろよ。白雪も同じクラスだってよ」


 後ろの席に座った南雲が、ニヤニヤしながら肩をつついてきた。


「だからどうした」


「いや、クラスで一番頭いいやつと同じクラスって、なんか安心するじゃん?」


「お前が勉強しない理由にはならないぞ」


 海斗が冷静にツッコむ。

 俺は適当に笑って、それ以上は何も言わなかった。


 白雪とは、中学の頃から一度もちゃんと話したことがない。

 廊下ですれ違えば軽く会釈する、高一の時も、見かければ同じように挨拶する。その程度の距離感だ。


 それで十分だと思っていた。


 チャイムが鳴り、担任と数人の教師が教室に入ってくる。


「えー、とりあえず席についてー。騒いでるやつら、顔覚えるぞー」


 先頭に立っていた女の先生が、ぱん、と手を叩いた。丸メガネに落ち着いたスーツ姿。けど、声のトーンは意外と軽い。


「二年A組の担任になった、氷室です、数学担当ね。よろしく」


 氷室先生は教卓に出席簿を置いて、教室をぐるっと見回す。


「……はい、そこの窓際で椅子に逆向きに座ろうとしてる男子。君、名前は?」


「え、あ、南雲です!」


「元気でよろしい。けど椅子は普通に座ろうな。二年生なんだから」


 教室に笑いが起きる。南雲が「すんません」と頭をかきながら椅子に座り直すのを見て、氷室先生もふっと笑った。


「そんな感じで、一年よろしく。あとはプリント配るから、自己紹介カードとか適当に書いといて」


 俺は話を聞いているふりをしながら、配られたプリントを適当に机に重ねた。


 二年って響きは、あまり実感がない。

 勉強の中身が増えるだけで、やることは特に変わらないだろう。


 俺は、俺のペースで、また一年やり過ごすだけだ――そう思っていた。



 ホームルームが終わると同時に、教室は一気にうるさくなった。

 自己紹介がどうだの、勉強やべぇだの、みんな勝手に盛り上がっている。


「なあ悠、この後コンビニ寄らね? 新作のエナドリ出てたろ」


「今日はゲームのイベントあるから直帰」


「お前の優先順位ブレないな……」


 海斗とそんな話をしていると、横からふわりと、柔らかい声が割り込んできた。


「……ゲーム、好きなんだ」


 俺と海斗、両方が同時にそっちを向く。


 そこに立っていたのは――白雪澪だった。


 距離、近っ。


 教室のざわつきの中でも、彼女の声だけ無駄に鮮明に聞こえた気がした。


「えっと……白雪、さん?」


「うん。あの、黒川くんだよね。中学のときも、同じ学年で」


「まあ、そうだけど。俺のこと知ってたんだ」


 彼女は小さく首を傾げる。


「知ってるよ。……黒川悠、でしょ?」


 名前をフルで言われて、思わず目を瞬いた。


(フルネーム……? まあ、同じ中学だったし…)

 そこまで深く考えないようにして、曖昧に笑う。


「まあ、ゲームは好きだけど。それが?」


「ううん。ただ、なんとなく。さっき、すごく楽しそうな顔してたから」


 白雪はそう言って、小さく微笑んだ。

 高一の時に廊下ですれ違ったときの、あの礼儀正しい笑顔と同じ。

 ……のはずなのに、今日のそれは、どこか違って見えた。


 海斗が気を利かせたのか、そっと席を立つ。


「俺、ジュース買ってくるわ。悠、なんか飲む?」


「適当にスポドリ」


「へいへい。お邪魔虫は退散ね」


 海斗が去っていき、白雪と二人きりになる。

 周りのざわつきは変わらないのに、この狭い空間だけ音が遠くなったみたいだった。


「……黒川くん」


「なに」


「放課後、少し時間ある?」


「ゲームのイベントは夜だから、まああるけど」


「よかった。話したいことがあるの。……ずっと、聞きたかったこと」


 白雪は、そう言って俺の目をまっすぐに見た。

 その視線には、不思議な重さがあった。



 放課後の廊下は、人が少なくなっている時間帯が一番好きだ。

 ざわざわした音が引いて、窓から斜めに光が差し込んで――なんというか、画面のフィルターを一枚変えたみたいな感覚になる。


 そんな廊下の、端のほう。

 人気の少ない渡り廊下の前で、白雪はちゃんと待っていた。


「ごめん、待たせた?」


「ううん。今来たところ」


 テンプレみたいなやり取りだな、と心の中で苦笑する。


「で、話って?」


「こっち、座ろ」


 白雪は窓際の長椅子に腰を下ろし、隣を手で示した。

 言われるままに座ると、近くを通る部活帰りの声だけが遠くに聞こえてくる。


 白雪は、しばらく黙っていた。

 膝の上で自分の指をそっと重ね合わせて、何かを言うタイミングを探しているようだった。


 やがて、決意したように顔を上げる。


「……ねえ、黒川くん」


「ん」


「どうして、中学のとき……私に、勝てたの?」


 一瞬、何の話か分からなかった。


「勝つ?」


「中三の、最後の総合テスト。覚えてない?」


「あー……」


 言われてみれば、そういうこともあった気がする。

 中学三年の終わり。

 高校受験前に全科目まとめてやる、大きめのテスト。


 いつも掲示板の一番上にあった「白雪澪」の名前の上に、そのときだけ「黒川悠」が載った。


 たまたま、あの一回だけ。


「覚えてない、って顔だね」


「いや、なんとなくは。そこまで大事な話か?」


 白雪は、小さく息を吸った。


「……あの時、私、倒れたんだ」


「は?」


「保健室行ったの、覚えてる? テスト返却の日」


 ぼんやりと、先生がざわざわしていた気配だけが頭の隅で蘇る。


「あれ、そんなにショックだったんだ…」


「うん。ずっと一番を取ってきたから。

 負けるってことを知らなかった。」


 白雪は苦笑とも微笑ともつかない顔をした。


「だから、怖かったんだ。

 『私よりよくできる誰か』が、急に現れたのが」


 そんな大げさな、と言いかけて、俺は口をつぐんだ。


 彼女の声は淡々としている。

 けれど、その中にちゃんとした重みがあったから。


「……で、なんでそんな話を今?」


「ずっと、気になってたから」


 白雪は、真剣な目でこちらを見る。


「黒川くんは、どうしてあの時だけ本気を出したの?

 ずっと、そこそこの成績でいたのに」


 俺は頬をかきながら、少しだけ息を吐いた。


「別にさ。大した理由じゃないよ」


「うん。聞きたい」


「親に言われたんだ。

 最後のテストで高い順位取れなかったら、高校で一人暮らしさせない。小遣いもなし。遊び代は全部バイトで自分で稼げって」


 白雪のまつげが、わずかに揺れる。


「……それで?」


「だから、仕方なく勉強した。

 俺、勉強自体は嫌いじゃないけどさ、努力ってめんどくさいんだ」


「めんどくさい、か」


「そう。だから普段は困らない程度で止めてた。

 赤点取らないくらい。怒られないくらい。

 でもあのときだけは、どうしても自由が欲しかったんだよ」


「自由」


「親に口出しされたくなかったし、一人暮らしはしたかったし。夜はゲームしたいし。バイトで時間取られるのも嫌だし」


「……ああ」


 白雪が、小さく笑った。呆れた、というより、納得したみたいな笑い方だった。


「それで、一位を取ったんだ」


「まあ、結果的には。

 そこそこじゃダメだって分かってたから、ちゃんとやった。……って言っても、一回だけだけどな」


「一回だけ」


「うん。それで親も機嫌よくなって、そこまでやるなら好きにしろって言ってくれたから、今みたいに一人暮らしさせてもらってる。そんな感じ」


 話しながら、自分でも「本当に適当な理由だな」と思う。


 だけど、それが全部だ。


 白雪は、しばらく俺を見つめていた。

 まるで、目の奥まで覗き込もうとするみたいに。


 その視線が、少しだけくすぐったい。


「……そっか」


「うん。大した話じゃないだろ」


「ううん。私には、けっこう大事」


 即答だった。


「だって、一回だけちゃんとやって、一位取ったんだよね」


「まあ、そうだけど」


「私、あの時、本当に必死だったんだよ。

 寝る時間削って、問題集も何周もして。

 それでも届かなかったところに、黒川くんは一回で届いた」


 言い方だけ聞くと、恨み言みたいにも聞こえる。

 でも、彼女の声にはとげがなかった。むしろ、どこかほっとしているような響きが混ざっている。


「だからね、なんとなく思ったの」


「何を」


「黒川くん、たぶん、本気出したら何でもできちゃう人なんだろうな、って」


「買いかぶりすぎだろ」


「そうかな」


 白雪は少し首をかしげた。


「授業中、全然ノート取らないのに、テストは平均よりちょっと上。友達と話すときは楽しそうなのに、目はどこか冷静で。体育だけ、動きがちゃんとしてる。

 ……そういうの、見てたら分かるよ」


「……見すぎじゃない?」


 何気なく言ったつもりだったのに、自分でもわずかに棘が混ざったのが分かった。


(見てれば分かるって、どのくらいの頻度で見てたんだ?)


 白雪は、俺の胸の中のざわりを知ってか知らずか――ふわりと、やわらかく笑う。


「中学の時から、ずっと気になってたから。

 どうして私に勝てた人が、その後、普通の顔して歩いてるんだろうって」


「それ普通の顔して歩いててよくない?」


「よくないよ」


 また、即答だった。


「だって、私にとってはあの日のこと、すごく大きかったから。……人生で初めて、自分より上がいるって知った日だったんだよ?」


 その言い方は、不思議と悔しさより嬉しさのほうが強く見えた。


「だから、ありがとうって言いたかったの」


「え?」


「私の完璧を壊してくれて、ありがとう」


 白雪は本当に、嬉しそうに笑った。


「壊れたあとね、完璧じゃなくても生きてていいんだって、少しだけ思えるようになったの。

 ……それを教えてくれたのが、黒川くんだから」


 胸の奥が、軽く刺されたみたいな感覚になった。

 そんな大層なことをした覚えはないのに、勝手に感謝されている。


 どう返せばいいか分からず、俺は目をそらした。


「別に……そんなつもりなかったけど」


「知ってる。たぶん、黒川くんは本当に何も考えてなかった」


「言い方ァ」


「ふふ……ごめんね」


 白雪は、小さく肩を震わせて笑う。その笑い方は、教室で見せる優等生の微笑みとは少し違って見えた。


 もっと、素に近いというか――俺にだけ向いているみたいな。


「でもね、それでもいいの。

 私にとっては、あの日のことは大事な出来事だったから」


 それから、彼女は少しだけ声を落とした。


「だから、高一のとき、同じ高校だって知ったとき、嬉しかったよ」


「……そうなんだ」


「うん。廊下ですれ違うたびに、ここにいるんだって思ってた」


 その言い方に、微かな重さが混じる。


「二年で、同じクラスになれて嬉しい。

 ……ねえ、黒川くん」


「何だよ」


「これからも、少しだけ……隣で見ててもいい?」


 その言葉は、ただの「好意の告白」にも聞こえるし、

 それ以上の何かにも聞こえた。


 だけどこのときの俺は、そこまで深く考えない。


(まあ、別に困らないしな)


「勝手にどうぞ」


 そう返すと、白雪は花が綻ぶみたいな笑顔を見せた。


「うん。じゃあ、勝手に見るね」


 勝手にって言葉を、やけに楽しそうに繰り返しながら。



 ※二年生になった春。

 机の引き出しの奥にしまっていたノートを、私はもう一度開いた。



【4月18日】


 中学と同じ苗字を、名簿で見つけた。

 “黒川悠”。


 入学式の日、体育館の後ろのほうで眠そうにしていた。

 スーツ姿のお母さんらしき人と、あまり話していなかった。


 目が合ったけど、向こうは気づいていない。



【5月2日】


 数学の授業。

 ノートはほとんど白紙。

 小テストは満点だったらしい。

 なのに、提出物はギリギリ。


 やればできるのに、あえてやらない人。



【6月10日】


 帰り道が偶然、一緒になった。

 歩くときの足音が一定で、リズムが乱れない。

 人混みを避けるときも、ぶつからないルートを自然に選んでいる。


 頭の中で、全部計算しているみたい。


 横顔は、少し眠そう。

 でも、目の奥は静かに冷たい。



【7月21日】


 体育。

 走るフォームが無駄なくて綺麗。

 タイムはクラスで上から三番目だった。


 本人はあまり気にしていない様子。

 褒められても、照れ隠しみたいに笑ってごまかしていた。


 できることに、興味がなさそう。



【10月5日】


 廊下ですれ違ったとき、「あ、お疲れ」と言われた。

 聞き慣れない声なのに、違和感がなかった。


 きっと、いろんな人に同じ調子で声をかけているんだろう。

 でも、不思議。

 私には、それが少しだけ特別に聞こえた。


 勘違いかもしれない。

 でも、勘違いでもいい。



【12月7日】


 気づいた。

 黒川悠は、誰にも本気を見せない。


 テストも、体育も、人付き合いも。

 全部困らない程度に抑えている。


 あの日、私に勝ったあの人は、きっと「本気」だった。

 だから勝てた。

 だから、私は負けた。


 悔しさより、安心した。

私より上の人が、本当にいるって分かったから。


 ……あの人の本気を、もう一度見てみたい。

 今度は、近くで。



【3月25日】


 クラス替えの予備名簿を、偶然見てしまった。

 (二年A組――黒川悠)


 嬉しくて、手が震えた。

 もう少し、近くで見てもいいってことだよね?


 今年の目標。

 勇気を出すこと。

 少しだけ話しかけること。

 ちゃんと、名前を呼ぶこと。


 ――黒川くんの隣で、笑えるようになること。



 ノートを閉じて、私は胸の前でそっと抱きしめる。


 やっと、ここから始められる。

 二年A組の教室で、彼の隣で。


「勝手に見てていい、って言ってくれたもんね」


 だから私は、ちゃんと約束どおりに“見る”。


 ――この人のことを、誰よりも先に、誰よりも深く。




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