一本勝ちじゃ恋は決まらない

@1710010129j

第1話

畳の匂いが、胸の奥まで深く入ってくる。

 世界一硬い空気の中で、私はジェシカの袖をつかんでいた。


 ——ここだ。

 この瞬間のために、私は二十年やってきたんや。


 観客席の歓声なんて、もう耳に入らない。

 相手の息づかいと、自分の鼓動だけがはっきり聞こえる。


 「絶対、一本で決める」


 自分にそう言い聞かせた瞬間、身体が勝手に動いた。

 ジェシカの重心がわずかに浮いた——その隙を逃すわけにはいかない。


 足をかける。

 引きつける。

 倒す。


 畳にジェシカの背中が落ちた音が、世界の全部を震わせた。


 「——一本!」


 アナウンサーの声が遠くから飛んでくる。


 気づけば私は天井を見ていた。

 いや、泣いてはいない。泣いてない……はず。

 でも目の奥が熱い。熱すぎる。


 金メダル。

 32歳、最初で最後のオリンピックで。

 夢、叶ったんや。


 立ち上がって深くお辞儀をする。

 たぶん何回したか分からんくらい。

 勝手に身体が動くんよ、こういうとき。


 花道で監督に抱きついたら、監督が泣いていて、

 つられて泣きそうになったけど必死にこらえた。


 まだ終わりちゃう。

 最後まで、かっこよく決めたい。


 でも次の瞬間、私はとんでもない失敗をすることになる。


 インタビューエリアでのこと。


 ライトが眩しい。

 背中の国旗が重い。

 報道陣が私をぐるっと囲んでいる。


 「池田選手! 一言お願いします!」


 はいはい、分かってます。金メダルの感想ね。

 落ち着いて言えばいいだけ。


 私は深呼吸してからマイクに向き直った。


 「はい。ずっと夢見た舞台で、このような結果を残せて——」


 ここまでは完璧。

 問題は、このあと。


 「池田選手、今後の目標は?」


 そう聞かれた瞬間、

 私の頭の中には、ぽつんと一つだけ願いが浮かんだ。


 ——婚活。


 やばい。言いそう。

 言うな。ここで言ったら終わる。絶対変な空気になる。

 でも……言いたい。


 私は口を開いた。


 「そ、そうですね……オリンピック後は、婚活、頑張りたいと思います!」


 ——言ってもうた。


 その瞬間、

 「しん……」という音が聞こえるくらい、報道陣が固まった。


 アナウンサーが引きつった笑顔で聞き返す。


 「こ、婚活……ですか?」


 「はい! 32歳なので……金メダルと同じくらい、次は運命の人を勝ち取りたいなって!」


 言いながら、私は気づいていた。


 あ、明日のニュース、絶対これ使われるやつやん。

 日本中に笑われるやん。


 でも、後悔はしていない。


 だって——

 金メダルの次に欲しいもん、ほんまにそれやから。

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