オールド・アリス

脱水カルボナーラ

第1話

オールド・アリス。私たちの合言葉。私たちのはじまり。私たちの短すぎる青春。私たちの永遠の夏。私たちのおわり。私たちの記憶。私たちの罪。私たちの贖罪。私たちの哲学。私たちの悟り。私たちの約束。そんな大切な言葉でも、長いこと生きていると常に頭の片隅に留めておくことは難しくなる。だからこそ、不意にこの言葉が頭の表層に浮かび上がるたび、丁寧に掬い上げるように心の中で唱えている。

 目玉焼きを焼いていたら、四日ぶりにこの言葉を思い出した。フライパンに落とした卵に珍しく黄身が二つ入っていて、ぱちぱち音を立てるそれが丁度ぎょろりとした魚か、宇宙人の眼玉に見えたからだ。本当はスクランブルエッグにしてハンバーグの横に添えようと思っていたのだけれど、二つ並んだ黄身を潰すことはしなかった。

「いただきます」

手を合わせ、独りの食卓に着いた。

『全国的な涼しさ 明日まで』

テレビを点けたらそんなテロップと共に気象予報士が何か話している。身体にねっとりとまとわりつく、最近の執拗な夏は老体には厳しい。夜更かしして今日のうちにエアコンのフィルターを掃除した方がいいのかもしれないと考えながら、網戸の向こうに聞こえる電車が線路を軋ませる音を聞いていた。

 今日のお米はよく炊けた。私は眼玉の片方を潰した。頭上に吊るされた円錐形のランプシェードから放たれる光が、私と一人前のハンバーグ定食を照らしている姿はUFOみたいだ。

 銀色に怪しく輝く、薄いお皿みたいな円盤。私が生涯で一度だけ見たことがある本物のUFOは、そういう有り体に言えばベタな見た目だった。向かいにある食器棚の中で、孫たちの写真が微笑んでいる。

 テレビの中のアナウンサーが異国の戦争の死者数と隣町の殺人事件、芸能人の結婚報道と、旧式人工知能が途上国で起こした問題を矢継ぎ早に紹介した。電車がまた線路を踏み鳴らしている音が響く。あの中にはきっと、沢山の人が乗っている。私という個人が感じ取ることの出来るような狭い一瞬にさえ、何万人分もの人生が収束していることを、誰も気に留めない。電車の中からこの街明かりを見つめている人が、マンションの一室で夕食を食べる私の生涯を知る由もないように。

 私たちはただ、そこに存在しあっている。規則も理由も根拠もなく、ただそこに存在するためだけに、私たちの魂は宇宙という大河に流された。そこらの石と何も変わりない。私たちの存在は等しく無意味で無価値なのだ。

 それなのに私たちは、存在の根拠を何処かに求めてしまう。他者と自分に無二の価値をつけたがる。全ての事はただの結果であるのに、私たちはそれを運命と呼ぶ。同じ時間に居合わせただけのことを、私たちは出会いと呼ぶ。そうして出会った人々と傷付け合い、愛し合う。当たり前のことだが、なんとも幸福で苦しいことであると思う。

 また、新しい夏が来る。知らない夏が毎年やってくる。生きていればいつも何かと出会って別れる。すでに両親と祖母と義理の両親と旦那と、大切な友人を見送った。次は私の番のような気がしている。それでも私は今日、呑気にハンバーグを作った。いつまでも過去に焦がれておきながら、今も未来も過去と同じように愛おしいと思ってしまう。あの夏の私が今の私を見たらきっと、煉瓦のブロックを何度も投げつけて罵倒するのだろう。

「薄情者」

そう言って、今の私を睨みつけるのだろう。

 生きるということは過去を抱えて進むことでも、未来を追いかけることでも、今を捕まえておくことでもない。互いに独立して同じ時間に佇んでいるだけの私たちが、存在を感じ合って、自身が存在すること以上の何かを世界に求めること。私たちはそうして初めて、生きているということになる。

 あの夏の私たちは、生きるということはもっと劇的なものであるはずだと思っていて、世界が私たちを無視していることがどうしても許せなかった。私はとっくに生きることを諦めたと思い込んでいた。それでも思い返せばあの夏、私は私自身を生きていた。

 

 五十六年前の夏の訪れは、私にとっては世界が終わる前兆のようだった。ずっと寂しくて、不吉で、何かが欠けていて、それでも暑くて木々も虫も騒がしくて、これから祭りだの甲子園だので皆浮かれていて。私だけが仲間外れだった。

「行ってきます」

夏休みの始まるちょうど一週間前の日曜日、私は靴箱の上の古めかしい木彫り熊やこけしの群れと目を合わせないようにしてスニーカーを履き、たてつけの怪しい引き戸を開けて家を出た。

「あれ、どこ行くのお。行ってらっしゃい」

戸を閉める前に、台所でうどんの生地をこねていた祖母の声がかすかに聞こえた。ここは、私の実家ではなくて父の実家。いまだに自分の家と呼ぶことができない。この家はどこまでもおばあちゃんの家だし、この田舎はいつまでも私の知らない場所だ。高原の小さな町も、この国も、この星も、この宇宙も私の居場所ではない。夏が運んでくる生命力に富んだ緑はどれもびっくりするほど綺麗だ。前庭の植え込みの木、向こうに見える澄んだ青の下に聳える八ヶ岳、目の前に広がる田園にようやく根ざした小さな稲の苗――全部枯れたらいいのにと思った。私と家族のために、せめて今年くらい景色なんか全部白黒にして欲しかった。

 まともに舗装されていない田んぼ沿いの狭い道路に、ほとんど禿げて消えかかった歩道の白線がある。その上を渡って歩きながら、このぼろぼろの線は人の人生に似ていると思った。

 日差しは強いけれど、歩いていても辛くはなかった。私が知っている暑さはもっと湿っていて不快なはずだ。ここは空気が澄んでいる代わりに、私のこともおばあちゃんのことも放っておいてくれない。

 この町に来てからの私は毎日こうして決まった順路を歩き回って、夕飯までの時間を潰していた。いつもならここをずっと歩いて、小さな神社の前の坂道を登ったら、今度はこの道を左に。二番目の十字路を右に曲がって、ため池のある方に行く。

 でも今日は違う。いつも右に曲がる場所を今日は左に曲がった。

 昔、十字路にいた悪魔に魂を売ったギタリストがいたらしい。どうせなら私の魂も持っていってほしい。そう思いながら、肩にかけた四角いバッグの中から覗く太いロープを見た。そのギタリストは魂と引き換えに、卓越した音楽の才を手に入れただとか言われていたけれど、私は何も要らない。十字路の悪魔とは関係なく、私の心にはすでに何の取引も持ちかけてこない別の悪魔が棲んでいる。先に見える濃い緑の森を目指して、錆びたガードレールがきのこみたいに点在する前をまっすぐ進んだ。

 森に入るといよいよぼろぼろのアスファルトさえも途切れた。道の左右には木々の間を埋め尽くすようにクマザサが生えている。車はしばらく通っていないようで、轍はなかった。おばあちゃん、気づいてないといいな。私は砂利道に差し掛かってすぐ左にある茂みから、褪せた赤色のビールケースを引っ張り出した。これは三日前にあらかじめ隠しておいたものだ。雨か朝露のせいで湿って泥だらけになってしまっていたので、重たいのに片手でつまむようにして運んだ。

 五分ほど歩いてから、道を外れて湿った土の匂いが立ちこめる木々の間へと踏み入った。スカートの中に入り込んできた雑草がふくらはぎに刺さって痛い。場所選びを間違えたかと少し後悔した。鳥の声が聞こえるが、どこにも姿は見えない。ぱちぱちと枝や枯れ葉が私に踏まれて弾ける音が響く。しばらく歩くと、ちょうど手を伸ばせば届くくらいの高さに太い枝が伸びている木を見つけた。私はビールケースの上に乗ってからロープを取り出して、その枝に括り付けた。

「おかえり」

輪の形に結んだロープの一端が風に揺られるのを見て、お母さんとお父さんがそう喋っているように見えた。ビールケースの上に立った私は、しばらくそのまま輪が左右に動く様子を見つめた。

 二分ほどしたのち、縄に首を通した。あとはケースを蹴るだけ。少しずつ脈が早くなって、徐々にセメントを流し込まれているみたく身体が重くなった。もう大丈夫なはず。風が吹いた。

「ちょっと、何してんの」

その声で私は肩をすくませて前を見た。たまたま通りがかったのか、籠を背負った老人が不吉なものを見た時の真っ青な顔で私を見ている。手に持っている大きな鎌のせいで死神みたいだ。彼の非難するような目は泳ぎながらずっと私を捉えていて、心を無遠慮に覗かれているようで酷く恥ずかしくて不快な気持ちになった。

 その場にいたくなくて、ビールケースを飛び降りた。

「待ちな!」と叫ぶ老人の声を無視して、私はその場を走り去った。

 木の間を縫うように、何度か斜面や木の根に足をとられながらしばらく走った。そして一際幹の太い木が現れたあたりで振り返ると、老人の姿はもう見えなくなっていた。

 しばらく呼吸を整えていたら、向こうの方に何か光るものが見えた。枝葉の隙間から覗くその光は、時折動きながら形を変えてこちらに近づいて来ている。

 光の主はすぐに向こうから姿を現したが、その正体は虫でも鳥でも動物でもなかった。それは小学五年生くらいに見える体躯の、奇妙な風貌の子供だった。裸足で、泥だらけの色褪せたように地味なピンク色のブラウスを着ている。しかもブラウスは丈が余り過ぎているせいでワンピースを着ているように見え、その肌は病的に青みがかっていた。ずっと地下に閉じ込められていて、これまで陽の光に当たったことがないのではないかとさえ感じるほどだ。

しかし、それよりもその子供の頭が気になった。頭から首までをすっぽり覆うヘルメットのような被り物をしていて、顔が見えなかったからだ。被り物は子供の弱々しい首と肩で支えるには大きすぎると思ったし、その形は育て方を間違った野菜のようにいびつで、魚の鱗が奇跡的に反射した時のような、柔らかい虹色をしていた。とにかくその子は、こんな雑木林にいる筈のないとってつけたような存在感を放っていたのだ。

「あの、どうしたの。迷子?」

気がついたらそう話しかけていた。向こうは私の方を見たまま黙っている。その子はただ佇んでいるだけなのに、私には木漏れ日の中で溺れてもがいているように見えた。風さえも賑やかに騒ぐような季節の中で、誰とも似つかない奇妙な頭が輝いているのは、とても寂しい。

「ねえ、大丈夫?」と、もう一度聞いた。

「もしかして、てむに話しかけてる?」

からだつきから想像できるのと同じ、十歳くらいの子供の声だ。そして被り物越しに発せられた声とは思えないほどにはっきりと聞こえた。

「うん。テムちゃん、でいいのかな。こんなところ来てどうしたの。そんなの被ってて、暑くない?」

聞いたことのない響きの名前だったが、あだ名か外国の子なのかもしれないと思って、そこにはあまり気にかけずに私は尋ねた。

「なんで話しかけるの?」とその子は言った。

子供の甲高い声は聞き分けにくいが、テムと名乗る子供の声は女の子のそれに聞こえる。

「こんな森の中で、子供が一人でいたら声かけて当然でしょ」

「どうして?」

訳のわからない格好をして、訳のわからないことを尋ねてくる子供は、幽霊よりも不気味かもしれない。私はこの場所に来た本来の目的を、目の前の存在のせいですっかり忘れてしまっていた。

「そりゃ、心配だから。子供が一人でいたら助けなきゃって思うじゃん」

「なんで?」

私は黙ってテムの青白い手首を掴んだ。弱々しい腕は見た目よりも重く、この季節に触れるには少し鬱陶しいくらいに温かい。

「いいから、こんなとこ危ないからとりあえず出るよ」

この子にとっての偶然の奇跡になってあげる必要なんてないのに。そう思いながら面倒な思いをしてまで来た道を引き返した。

 ようやく歩きやすいところにまで来られた。見知らぬ人に強引に連れられているのだから抵抗されるかもしれないと思ったが、テムの腕からは意思を一向に感じない。私たちは下り坂を大股で歩いた。

 木々の壁が終わって田んぼのある開けたところが見えてきたあたりで、テムが裸足であったことを思い出した。

「ねえ、テムちゃん靴は?」

「それ、履いてないです」

「もしかしてずっと? 痛かったでしょ。どうしよう」

日光に曝され続けているアスファルトの上は、少しだろうと裸足で歩くのは流石に危険だ。携帯を置いてきてしまったからタクシーを呼ぶこともできないし、小学五年生くらいの子をおんぶしたり抱えたりするのは無理だ。

「別に、平気だった。大丈夫です。さっきもあそこ歩いた。痛くない」

テムは至って当然のことのようにそう答えた。

「本当に? あっちの方歩いたの?」

「はい。歩いた。別に怪我しないよ。大丈夫なところって分かってる」

「そうは言ってもさ……怪我してない?」

私は一度テムの腕を離してしゃがみ、おそるおそる彼女の足の裏を確認した。目の前にはさっき生まれた赤ん坊のものと見紛うほど、傷も汚れもごみも一切ついていない妙に緑がかった白の足だけがあった。あんな森の中にいたのも、あのアスファルトを歩いたというのも信じられない。

「本当に、痛くないの?」

テムは「うん」とだけ答えた。

「分かった。辛くなったら無理しないで言って」

私はまたテムの腕を持って日向の方へ歩き出した。

 明るいところまで来るといよいよ道路の熱が靴底をすり抜けて伝わってくるようになった。機械のような動き方で、無数の蜻蛉が飛んでいる。よく見ると何種類かいるようでそれぞれ微妙に動きのくせが違い、翅だけは一様に忙しく動いていた。こういう日に限って誰も作業をしていないし、車が一台も通りかからない。

「お父さんかお母さん、まあおばあちゃんでもお兄ちゃんでもなんでもいいんだけど。どこにいるか分かるかな。家族」

テムは一向に家族について答える気配がない。答え方が分からないのではなく、何かを隠して黙っているように見えた。知らない人を信用してはならないという大人の言いつけを守っているのかもしれないが、彼女の黙秘にはそれと違う何か妙な含みがあった。

「ねえおうち、どこなの」

テムは返事をしなかった。

「――分かんないなら、とりあえずおまわりさんのとこ連れてってあげるよ。あとはそっちでなんかしてもらえるから」

そう言った途端、テムは立ち止まった。掴んでいたマネキンのように硬い腕に、その時初めて意志が宿ったのを感じた。

「そこはだめ、いい。行かなくていい」

テムは何故か露骨に動揺しはじめた。

「えっと。なんか悪いことしたの?」

「してない、してない、してない。してない」

テムはそれから少し黙って、そしてまた十一回も「してない」とだけ繰り返した。

「それ、明らかにしてる子の反応じゃん」と、小さな声で私は呟いた。

この子は何かをやらかしてしまったのだろうか。しかし、こんな小さな子がするような『悪い事』なんてたかが知れているとも思ったので、そこまで問い詰めることはしなかった。

 テムは立ち止まってしまい、私は面倒なことになったと思いながらしばらく俯く虹色の頭を見ていた。

「わかった、おまわりさんのとこには行かないよ」

いつまでも燃える太陽が睨む下にいたくなくて私が折れると、鉛のようだったテムの腕がぴくりと動いた。

「警察、行かない? 言わない?」

テムは怒られたくないという子供らしい期待ではなく、もっと切羽詰まったものを匂わせながら言った。

「そんなに嫌なら……仕方ないじゃん。家の場所はわかる? 一人で帰れそう?」

「帰れない、わかんない」

「清々しいね」

腕時計を見るともう二時を過ぎていた。どおりでもっと暑くなってきたわけだ。関わるんじゃなかった、と言いかけて口をつぐんだ。テムの表情は仮面に覆われて見えないが、それでも子供に悲しかったり、気まずそうな顔をさせるのは嫌だ。警察にはどうしようもなくなったら後でこっそり問い合わせることに決めて、今はとりあえず祖母の家に戻って色々考えようと思った。

「ああ、名前言うの忘れてた。私の名前は玲、工藤玲ね。苗字が工藤で、名前が玲」

わざとらしく切り出してみたが、テムは「そう」としか答えなかった。

「ねえ、テムちゃん。苗字は?」

「あー。あー? ない。ないよ」

そんなわけないだろうと思ったが、別のことを聞いてみた。

「そう。さっきあそこで何してたの?」

「何も」

「友達と来たの?」と私は聞いた。

テムは歩みを止めて、左手で頭を抑えた。

「――と? ともだち。とも、だち?」

テムの発した『ともだち』という言葉の発音は、私たちが普段声に出す時のそれとは全く違っていて、赤ちゃんが初めて真似をしてみた時のような、ようやく形を保っているという表現がよく当てはまるあやふやなものであった。

 それからも噛み合わないやり取りを何度か繰り返した。割れたアスファルトから陽炎がガスのように噴き出ている中をしばらく歩くうち、私は段々とテムが暑苦しい仮面をかぶっていることが怖くなってきた。

「ねえ、テムちゃん。そのお面? ヘルメット? 外したら」

あの十字路の真ん中で立ち止まり、テムにそう言ってみた。

「だめ。外したら、しんじゃうの」

テムは作り物の頭の中から当然のようにそう答えた。相当な拘りがあるのかもしれないが、そんな格好で歩く方がよほど死にそうだ。素顔を見てみたいという気持ちも少しはあったが、テムの被っている何かは交差点の真ん中で眩しく陽の光を乱雑に弾いて怪しく輝いていて、なんとなく触れるのが怖かった。燃えるように空気が揺らめく中に立つ異様な姿が、地獄で佇む悪魔にすら見えたのだ。

「あぁそう。暑かったら無理しないで取りなね。危ないから」

「無理は、してない! です」

テムはまた妙なアクセントをつけた。私は仮面についてそれ以上何かを言うのはやめ、もう一度歩き出した。

 ようやく私たちは祖母の家に辿り着いた。この時間祖母はいつも少し歩いたところにある畑に行っているはずで、留守を裏付けるように門にも鍵がかけられていた。

「着いたよ」

手を離すと重たくて生暖かいテムの腕が、そのままだらんと垂れた。鍵を取り出そうとした時、行きと比べてバッグがやけに軽かったことに初めて気がついた。ロープを木に吊るしたまま忘れてきてしまったのだ。

「ここ何」

テムは自分の目――正確にはその仮面にあしらわれている虫の眼のような部分――と同じ位置にある表札を前にして首を傾げた。

「私のおばあちゃんの家。おばあちゃん今いないけど。とりあえず入って」

「おばあちゃんって、誰なのですか」

テムはまた妙な質問をした。

「テムちゃんにもお父さんとお母さんいるでしょ。そのどっちかのお母さんだよ」

「ああ、ご先祖のこと」

「まあ、そうっちゃそうなんだけどさ」

疲れていた私は、冗談を言われたのだと思うことにしてそれ以上何も喋らなかった。

 玄関で靴を脱ぐと、一度テムに土間で待つように伝え、彼女の足を拭くためのタオルを用意するため洗面所へ行った。

 鏡の中に、私だけが立っている。向こうでも私は一人だ。お父さんとお母さんは今、自分の姿やかたちを自覚できているのだろうか。しばらく反射した哀れな顔の私を見つめてから蛇口を捻った。

 テムの足を拭いてあげた後にタオルを見ると、やはり一切の汚れがつかなかった。見上げると、彼女の虹色の頭は玄関の格子戸から差す光線を反射して縞模様が浮かんでいる。

「はい、上がって」

私はそう言って黙ったままのテムを上がり框の上から引っ張った。

 私は今、子供の頃お父さんが使っていた部屋をそのまま間借りするような形で、この家で暮らしている。七畳の部屋は入り口から奥へ伸びる梁を中心に左右で分割され、右側に色褪せたキャラクターのシールが貼ってある古く背の高い本棚があり、左側にはベッドがあった。梁には昔お父さんがぶら下がろうとして失敗し、その時についたという爪の痕がまだ残っている。正面の窓の手前には私が家から持ってきた机があった。ここへ来て何ヶ月か経つが、この部屋に受け入れられている気がしない。テムは私の前に立ち、部屋の中を見ているのか、ただ何も考えずに佇んでいるのかは分からないが、一歩も動かなかった。

「いいよ、入って」

早くエアコンをつけたかったので、私はテムの背中を押した。エアコンは私がこちらに移ると決まった時に祖母が買ってくれたもので、風から黴の臭いがすることなどはまだ無かった。いつもは私と私の持ち物と、エアコンだけが余所者であるように感じるのだが、今は虹色の頭をした女の子がいるせいで少しだけこの部屋に馴染めているような気がする。

「その辺適当に座ってて。お茶持ってくるから」

テムは私に背を向け、梁の真下に立って窓の向こうを黙って眺めていた。

 私がコップと麦茶と、それから蕎麦ボウロの入った木皿をお盆に乗せて戻ってくると、テムは小さく足を畳んで部屋の真ん中に座り込んでいた。虹色の頭が梁の影と窓からの逆光で一層ゆがんで見える。私はテムの前に座ってお盆を置き、水玉の模様の入ったガラスのコップに麦茶を注いで差し出した。

「これ、何?」

テムは麦茶を覗き込んでまたおかしな質問をした。喉が渇いていた私は、自分もまず一口麦茶を飲んでから答えた。

「お茶」

「おちゃって飲むですか? 飲み物? 液体だね」

テムは花柄のコップを眺めながら、ちぐはぐに喋った。

「ごめん今ジュースないんだ。牛乳ならあるんだけど」

「ううん、大丈夫そう。飲む」

テムはコップをぎこちない手つきで掴み、自分の方へ引き寄せた。

「テムちゃんさ、部屋でくらいお面外したら――っていうか、外さないと飲めないでしょ」

「おメン? じゃないよ。飲みます」

テムはそう言うと、長すぎるブラウスの裾の中へコップをしまい込んだ。ふざけているのだと思って黙って見ていると、五秒ほど経ってからテムがブラウスからコップを取り出した。驚いたことに、目一杯に注いであった麦茶が無くなっている。

「おちゃ、おいしいんだね」とテムは言った。

どんな仕掛けの手品なのか知らないが、迷子の割に元気だなと思った。

「テムちゃんさ、もしかしてずっと私のこと、からかってるの?」

「どうして。何が?」

テムは子供らしく頭を傾げ、仮面とブラウスの襟の隙間にはわずかに首らしき部分が見えた。

「いや、なんでもない。それも食べていいよ」

飽きるまで好きにやらせようと思って、私はテムのコップにもう一度麦茶を注ぎながら、もう片方の手で蕎麦ボウロを指した。テムはおもむろに左手を出し、蝶を捕まえる時みたいにそっと一枚つまんだ。そしてそれをしばらく見つめたあと、ブラウスの中に入れた。また手品を披露するつもりらしい。ブラウスの中から、ゆっくりと硬い何かを噛み砕く音が確かに聞こえた。

「ねえ。それどういうマジック? どうやるの?」

「マジックって何? テムは食べてるんですよ。飲食です」

テムの発した『飲食』という単語は、またとびきり不安定なイントネーションだった。

 結局テムは私に構うことなく、『飲食』を木皿と麦茶の入ったポットの両方が空になるまで続けた。仮面の中身は分からずじまいだったし、その妙な手品の種が明かされることもなかった。

 テムがボウロと麦茶を消し終わってからは、しばしの沈黙が部屋に訪れた。その途中でこの時間が永遠に続くような果てしない気持ちになったので、私はもう一度テムに両親のことを聞くことにした。

「ねえ、テムちゃん。迷子だよね。お父さんとお母さんに連絡したいんだけど、電話番号かメールアドレスってわかる?」

「まいご、だと思う。それはどっちもないです」

テムは座ったまま微動だにせず仮面越しからそう答えた。

「私と会ったじゃん、森で。あそこまではどうやって来たの」

「歩いた」

「一人で?」

「ひとり」 

エアコンの風の音が止まった。

「学校、どこ? 警察が嫌で親の連絡先分からないなら、先生にどうにかして連絡してあげるよ」

「あ、わ。分かりません」

テムはますます体をきつく折りたたんだ。

「学校の名前分かんないってこと?」

「分かりません」

どんなに幼く見積もっても、小学五年生くらいの歳の子供であることは間違いないはずである。子供の出鱈目に付き合うのにもうんざりしてきた。

「ねえ、家どこのあたり? 歩いてきたんならそんな遠くないよね。苗字だけでも教えて欲しいな」

「分からない」

「嘘つかないでよ。そんなはずないじゃん。じゃあいつもどこでお父さんとお母さんと暮らしてるわけ」

「ごめんなさい。でも本当に分からない」

テムの前にあるコップの底の水滴に、震える虹色の頭が小さく写っている。

「ねえ、それじゃいつまで経ってもおうち帰れないよ」

「おうち、無くしたもん」

助けられている迷子のくせに、助かろうともせず煙に巻くようなことばかり言うのは何故なのだろう。

「そういう変な喋り方とか、変な嘘とかもさ、いい加減つまんないよ。付き合いきれない。警察の人には電話してあげるから、迎えにきてもらって」

意地の悪い言い方をしてしまった。表情の見えないテムの感情はいつも読み取りづらいが、怯えている時だけは分かりやすい。テムは縮こまってその頭ごとさっきより小さく見え、私はすぐに後悔した。

「――ごめん。テムちゃんをおうちに帰してあげたいんだ。本当にお父さんとお母さんどこにいるか分からない?」

テムはしばらく黙ってからゆっくり声を発した。

「しんじゃった。だからおうちも無くしちゃった」

「それ、本当に?」

私が尋ねると、テムは「うん」とだけ答えた。今のも悪趣味で許しがたい嘘なのではないかと疑いそうになる。でも、私はテムが不気味なほど淡々とそう語っているにも関わらず、それを信じたいと思ってしまった。

「ああ、そうだったんだ。ごめん」

「謝った? どうして、謝るの」

「酷いこと言ったと思ったから」

「酷いことって、悪いこと? 人に悪いって思うの?」

「逆に思わないの?」

私がそう聞いたところで、テムはまた黙った。

「私も、お父さんとお母さん死んじゃった。おうち、無くしちゃった」

あの日から初めて、私は両親と自分に起きたことを口に出した。なぜかこの子になら話してもいい気がした。テムの虹色の頭がかすかに揺れて、浮き上がる光の模様の形が変わった。

「そうなんだ」

興味が無かったのか、気を遣ってくれたのかは分からないが、それだけ呟いてからテムはまたうずくまった。

 少し経ってから、テムは顔を上げて囁くように尋ねてきた。

「ころした?」

「え?」

私は自分の耳を一切信じることができずに聞き返した。

「お父さんとお母さん、ころしたの?」

さっきテムに感じた気持ちは私の完全な間違いだった。頭の芯が小刻みに揺れて、言葉や理屈が剥がれ落ちていくのを感じる。言葉で怒りを伝えられるほど落ち着いてはいなかった。彼女を酷く傷つけたくなった。気がついたらテムの肩を掴んで押し倒し、私は小さな身体の上に馬乗りになっていた。仮面の表面に、歪んだ私のひどい顔が映っている。

「本当に、何のつもり? どういうつもりなの!」

喉が痛い。こんなに大きい声を出したのは久しぶりだ。

「ああ、あ。間違えました」とテムは弱々しく言った。

彼女は両手で顔を覆い、その手は酷く震えていた。仮面の奥から、乾いた不吉な呼吸の音が聞こえる。

「ごめんなさい」

今にも死んでしまいそうに身をよじらせながら、テムは微かな声で言った。体が急に冷たくなって、数秒前の残酷な私が恐ろしくてたまらなくなった。

「ごめん、ごめん。ごめん」

私が降りてもテムはまだ震えが止まらず、仰向けになって小さな胸を収縮させている。ただ謝ることしかできない。暫く胸の辺りをさすってあげていたら、ようやく呼吸が元に戻った。テムは起き上がって私を一瞥すると、また元のように脚を畳んで座った。

「――ごめん」

私はテムの顔を見ることが出来ず、その脚元を見てもう一度謝った。

「いえ、テムがすみませんでした。悪かったです。ごめんなさい。ごめんなさい」

テムは何年も前からその言葉を用意していたかのように、滑らかな発音で応えた。

「人に悪いと思うの?」

そう尋ねてきた子とは思えない、模範的な謝罪だった。

「さっき食べたお菓子、もう少し食べる?」

しばらくしてから私はわざと調子よく尋ねた。

「あの食糧おかしって呼ぶんだ。あれは、いいと思います」

テムはまた不思議な言葉遣いで返事をした。

「お菓子っていうか、まあお菓子の一種なんだけど。蕎麦ボウロって言うんだよ。もっといる?」

「あったら、いいですね」

多分、食べたいということなのだろう。

「分かった。待ってて」

私は空になった木皿と麦茶のポットをお盆に乗せて部屋を出た。

 台所の曇りガラスは金色を帯びていて、時計を見ると五時をちょうど過ぎたところだった。蕎麦ボウロの袋を手に取った時、私はいつも買い物に出るとおやつを買ってきてくれた母のことを思い出した。テムはいつ両親と死別したのだろうか。そんなことを考えながら、一枚だけ皿からこぼれ落ちてしまったのを齧った。

 部屋に戻ると、テムはいなくなっていた。

「あれ、どこ行ったの」

聞いても答えは返ってこない。念の為祖母の家中を探したがどこにも見当たらなかった。まだ遠くには行っていないはずだと思って、私は靴の踵を踏みながら慌てて外に出た。

「テムちゃん」

 時折呼びかけながら段々と金色に染まる近所を回ったが、テムの気配は一切ない。警察に連絡をしようと思い、私はポケットから携帯電話を出した。

番号を入力している時、ふとテムが警察を極端に怖がっていたことと、私が怒ったせいでさっき震えていたことを思い出した。それに、本当の名前も素顔もわからない子のことをどう通報すればいいのだろうか。

急に夢から引き戻されたような気分になって、テムが本当に存在していたのかもよく分からなくなった。私はあの子を探すのをやめ、引き返すことにした。

 祖母は仕事を終えて帰ってきていた。テムを探して一時間半ほど経っていたらしい。

「玲ちゃんおかえり。また散歩?」

「うん」

 祖母の顔を見ずに答えて、すぐ部屋に戻った。つけっぱなしにしていたエアコンの低い声だけが静かに響いている。友達や客人が家に遊びに来て帰った後の家はどこか違って感じるものだ。食べかけのお菓子の袋が置いてあったり、ゲームのコントローラーやおもちゃがそのまま散らばっていたりして、何かしら他人の痕跡がある。でもこの部屋はテムが座っていた場所に古い本が一冊落ちていたこと以外、まるでそんなものはなかった。

 床に転がっていた本の題名は『不思議の国のアリス』だった。女の子が夢か現実か、奇妙な世界に迷い込んで冒険をする話。有名な童話だしあらすじは知っているけれど、読んだことはなかった。テムはさっきこれを読んだのだろうか。本を棚の空いているところに押し込んで、窓の鍵を閉めた。

 七時半ごろに夕食が出来たと祖母に呼ばれた。

「いただきます」

私は小さな声でそう言って、祖母が昼にこねていたうどんを食べた。冷凍のより少し柔らかい。

「おいしいよ」

向かいの祖母は箸を止め、侘しく私の機嫌を伺うように微笑んだ。

「よかった」

私は笑顔が壊れないように口角を上げてみせ、またうどんを箸ですくった。三口食べたあたりで、祖母が思い出したように顔を上げた。今度は少し期待の灯った顔だ。

「玲ちゃん、夏休みっていつからだっけ。どこか行きたい所ある? ハワイとかは難しいけど、沖縄とか北海道までくらいなら好きなところ、行ってきていいよ。ばあちゃんは仕事で行けないいから。ごめんね」

「うーん。暑いからいいや。大丈夫」

「ええ、そう?」

祖母はまた少し悲しそうな顔をした。食べるはずの無かったうどんを食べ終えたらここにいるのが申し訳なくなって、逃げるように食器を片付けた。

 部屋に戻って、机の一番上の引き出しから封筒を取り出した。何度書き直しても、心に巣食うものを言葉で表すことは難しい。そしてそれをはっきりと形にしたら、もう誰の家族でもなくなってしまう気がする。自分の心を切り刻むみたいにして、遺書を破り捨てた。

 翌朝、私は祖母の「行ってらっしゃい」という言葉に応えるためだけに学校へ向かった。今日は曇っているのもあってだいぶ涼しい。朝露が蒸発して青い匂いが立ち込める中進んでいると、稲の緑の中に白い点が見えた。近づくと、その正体が一羽の小鷺であることが分かった。その小鷺は、枝のように細い二本の脚で立っているのに微塵も危うさがなく、むしろ堂々とした美しい気高さを纏っていた。その姿を羨ましいと思いながら、学校へ急いだ。

 教室はいつも私以外の皆が楽しそうにしている。私が教室に足を踏み入れた途端、周りの空気の分子に棘が生えて、それがあちこちに刺さる。悪意に染まったものでなくて、むしろ祖母の申し訳なさそうなあの目と同じものだと思う。今日も誰とも言葉を交わさずに座った。

 朝礼の時間に突然、転校生が来ることを知らされた。瞬く間に教室は期待で充満して、あちこちから話し声が聞こえ始めた。この学校に来た日に、私も教室の外からこれを聞いたことがある。扉の向こうにいる新しい子は今、どんな気持ちでいるのだろう。私は筆箱の中の汚れた消しゴムを見つめながらそんなことを考えた。

先生が「宗方さん」と転入生の苗字を呼び、扉がゆっくりと開いた。

 転入生は背が高く、目尻が少し上がっている顔立ちが魅力的な女の子だった。なんとなく育ちの良さそうな垢抜けた印象のある子で、騒がしかった皆も、そんな彼女のどこか近寄り難い美しさに掌握されて静かになった。

「宗方真希といいます。東京の高校から来ました。よろしくお願いします」

 美人が転校してきたという話はすぐに広まった。宗方さんは違うクラスの人からもたくさん話しかけられていた。

「なんでこんな時期に転校してきたの? 入るなら夏休み明けからじゃない、普通」

そう聞かれた宗方さんは、誰の顔も見ないで、どこか明後日の方向を見て答えた。

「おかしいよね。前の学校の期末受けずに済んでよかった」

宗方さんはさっきから何を聞かれても正しく答えず、返事をする時に決まって少しだけ話をすり替えている。しかし、彼女を信奉するような目で見る皆はそれに気がついていなくて、輪の外の私だけがそんな宗方さんに違和感を覚えているようだった。

 制服の壁から垣間見える宗方さんの控えめな笑顔の深層に、私は憎しみと恐れがあるのを感じた。

「あの子もここに居たくないし、どこにも行きたくないのかな」

そう思った瞬間、宗方さんのことが今世界で一番親しい人のように感じられた。そうしていたら彼女と目が合ってしまい、慌てて目を逸らした。だいぶ後になってから、私のこの時の気持ちは半分当たっていて、もう半分は完全に間違っていたことを知った。

 火曜日、迎える予定のなかった未来の二日目。もう数日で夏休みが始まる。ぼんやりと気が遠くなるのを感じながら歩いた。頭の中であの縄の輪が揺れている。

 昨日立派な白鷺を見つけた場所で、近所の人たちが七人くらい集まっていて何かを取り囲み、興奮気味に話しあって道を塞いでいた。路肩にはドアが開けっぱなしで、ハザードランプを点滅させているトラックが停められている。草の匂いに混じって、舌の奥が縮まる嫌な匂いがする。すぐにそれが血の匂いだと気づいた。

「ああ、通る? おーい、みんなちょっと邪魔だよ」

七人の人垣のうち、一番若そうな男の人が私に気が付いて周りに声をかけた。血の匂いと、まだ乾いていない黒い滲みが一歩進むごとに濃くなっていく。胸が千切れそうに脈を早めているのを感じながら、私は顔を伏せて早足で歩いた。

「こっち見ない方がいいよ」

人垣の真横を通る時に、別の男の人の声が左から聞こえた。

「熊の親子をあのトラックがさ、轢いちゃったんだよ」

そう言われるのと同時に、私は人々の間からそれを見てしまった。道路から頭だけがはみ出て転がっているのは母熊だろう。子熊の方は母熊より前方に投げ出されていた。どちらも口を開けて横たわっている。明らかに死んでしまっていた。体が――これ以上はもう言葉で表したくない。血の気が引いて足の裏がぞっとするのを感じながら、早くここを通り過ぎたいと思った。

「しかし飛び出てきちゃうんだからなあ。馬鹿だなあ。この子熊産まれたばっかりなんじゃないの」

「まあ、ひと思いにと思えば良かったかもねえ。子供だけ助かっても可哀想だからね」

後ろから近所の人たちがそう言っているのがかろうじて聞こえ、私は一瞬歩き方を忘れて動けなくなった。

 

 この日は学校に着いても、いつも以上にずっと落ち着かなかった。私の心には悪魔が住んでいて、時折気まぐれで姿を表わしては私を苦しめて、貶める。心の部屋の外で私の体は勝手に動いている。授業中もノートをとったり考えて問題を解くことはできるのに、それを行っているという実感が一切ない。今日の悪魔はひたすらに、朝の熊の親子のことを思い出させるように仕向けてくる。

 あの道をまた通るのは嫌だったから、遠回りをして帰ることにした。悪魔が何か喋り続けている。分厚い入道雲が私を見下ろしていたが、私はずっと心の部屋の中で悪いものだけを見ていた。

 悪魔と私の声は絶え間なく響き合っている。底のない狭い穴を垂直に落ち続けるように、これが終わる気がしない。

 私じゃない。私だったらどうしよう。お前の両親も――みたいに。黙って。お前の祖母も――。考えないようにしよう――両親もひ――で良かったんじゃない。おばあちゃんそんなこと言わない。そんなこと考えてない。さっきの熊の――。

 意思なく歩いた体が、いつの間にか大きな陸橋へやって来ていた。いつも見あげている高い橋だったが、上からの景色を見たのは初めてだ。昨日歩いた十字路が向こうのほうに小さく見える。稲の作り上げた浅緑の海が、小さな山と山を島のように隔てていた。

 ようやく悪魔は静かになった。でも、私が「静かになった」と思った瞬間に、また話し始めた。無視をしようにも、今の悪魔は特段に声が大きくて無理だ。

 いつまでもこうして、私は悪魔に言われるがまま痛みを反芻して、私の形を確認するのかな。そう思ったら、酷く気が遠くなった。お父さんとお母さんの分、ずっとこうして生きるのに何の意味があるのかな。来世ってあるのかな。これからどこ行くんだろう。欄干の上は少し気温が低く感じられた。風がそよいだだけで落ちそうだ。お腹の下のあたりがすくみ上がるのを感じながらまた前を向くと、髪の毛が向こうの山へ向かってなびいた。

 私が世界と永遠に別れるよりも早く、誰かが思い切り私の腕を掴んで後ろに引っ張った。

 仰向けに倒れた私の下敷きになっていたのは、宗方さんだった。私はぎょっとしてすぐに宗方さんの上から退いた。

「痛……大丈夫?」

宗方さんは顔をしかめて起き上がりながら、私の方を見た。嘘つきでも見るような目だ。私は一昨日に感じたあの恥ずかしさがまた沸き起こるのを感じて、すぐに立ち去ろうとした。

「待って!」

私の手首を掴んだ宗方さんの肘と腕に擦り傷があって、血が出ていた。私のせいだ。

「危ないよ。何しようとしてたの」

宗方さんは手を離そうとしない。

「すみませんでした。迷惑かけて。あの、腕も――」

「こんなの大丈夫だから。そういうんじゃなくて」

私は鞄を乱暴に漁って、財布を出した。

「すみませんでした。これ、治療費」

 前に祖母からもらった五千円札を差し出すと、宗方さんは呆気に取られた顔をして突き返した。

「ちょっと、いらないよ! そういうのいいから。私のことわかる? ほら、同じクラスの転校生の宗方。確か工藤さんも転校生だったよね。クラスの子からちょっと、その。聞いたから」

私の名前を宗方さんが知っているとは思っていなかった。

「聞いたって――」

私はうわごとのように言った。

「お父さんとお母さんの……いや」

宗方さんは秘密を暴かれたみたいに途端に黙り、口をつぐんだ。私には、それが激しく不愉快だった。

「ああ、そうです。事故です。相手の飲酒運転です。両親死んだんです。私だけ生きています。せっかく助かったのに、ずっと死人みたいな顔して。一人だけ」

私は悪意を込めた目で宗方さんを見ながら、呪いを唱えるみたいに言った。今は私と宗方さんを無意味に傷つけることだけが、正しいことのような気がしていた。

「そんな言い方……ごめんね。ただ、みんなも心配してて」

宗方さんは俯いていた。

「なんで謝るんですか? 私こそ、皆さんに気を遣わせて、なんかすみません」

喉がつかえてあまり声が出ない。

「いいから」と宗方さんはまた私の方を見て言った。

「そもそも、嫌ですよね。目の前で人が落ちたら。気持ち悪いですよね」

私は手首を捻って宗方さんから解放されようと試みたが、うまくいかなかった。本当は宗方さんが何を感じていようがどうでもいい。私が最期まで自分勝手な人間だと思われるのが嫌だった。

「待って。やっぱり――死ぬつもりだったの」

宗方さんは声を震わせていた。

「勝手に生きろって放り出すくせに、生きてても迷惑みたいな顔するくせに、何で自分で終わらせようとしたら責めるの。人って」

この言葉は私の気持ちそのもので、何かのせいには出来ないものだったと思う。

「違う。迷惑じゃないし、責めてない。お父さんとお母さんがあんな――辛いのは分かるよ。でも……死なないでよ」

でもって、なんなんだろう。

「何言うべきかわかんないなら、言わなくていい。助けなくていい」

私は宗方さんの手を振り払った。ダムが決壊したみたいにいきなり大きな声が出て、少しだけ爽快だった。

「――ごめん。でも助けるよ。当たり前でしょ」

最近誰かに同じようなことを言った気がする。テムだ。あの子今何してるんだろう。ただの幻だったのかもしれないけれど。

「助けて私にどうして欲しいの? 私が怒っても悲しんでも、幸せになれって否定するだけでしょう。私がこれから生きて何になるの」

「否定もしてない。ただ、ずっとそうだと苦しいから、向き合って――」

宗方さんはまつ毛の本数を数えられるくらいの距離にいるのに、すごく遠く感じる。

「楽になるまで待てばってこと? どうやって? 私もう何もないんだよ。向き合うって言葉、嫌い」

何故か宗方さんの方が苦しそうな顔をしているから、私は余計に苛々した。

「そうじゃなくて……向き合ってると思うよ。悩んだからさっきあんな、あんなことしようとしたんでしょ」

宗方さんは私の方をまだ見つめている。無駄な時間だと思った。何を言っても私の気持ちが誰かに理解されることはないし、それから私自身も私の気持ちを理解することなんて出来ない。悪魔は今、優しくて綺麗な宗方さんに対して心の部屋の中から表すこともできない罵声を浴びせている。

「やっぱ私終わってる。助けてくれた人にこんな態度取って」

思わず溢れ出た独り言が、宗方さんに許しを乞うみたいで嫌だった。

 宗方さんは私の手首を掴んだまま、右肩の鞄を背負い直した。

「この後暇? うち来なよ。一人だから気遣わなくて大丈夫」

「いや――」

宗方さんは笑いも怒りもせずにただ真剣な顔を見せてから背を向けて、私を無理やり引っ張り始めた。

「喋んなくていいから。適当に座ってるだけでいいから」

宗方さんはそれきり何も言わなかった。私を掴んでいる白い腕についた乾いた血を見ていると逃げてはいけない気がした。

 歩いている間、目に見えて聞こえる全てのものが私たちを監視しているように感じた。テムもこんな気持ちだったのだろうか。

 宗方さんの家は、陸橋の向こうの知らない区画にぽつんと佇んでいた。多分祖母の家からは歩いて四十分くらいの距離だ。古風な平屋の一軒家だが、雨樋のパイプが綺麗だったり、門が新しい石で出来ていたりと最近整備されたばかりなのが伺えた。宗方さんの家は本当に誰もいないようで、玄関にある靴も全て彼女のものに見える。

 それなりに年季の入った壁の前に、新品の家具が居心地悪そうに並んでいる。綺麗に整頓されてはいたが、家の中は家主のこだわりや好みが反映されているように感じなかった。ここは人がある程度快適に暮らすための空間ではあるけれど、宗方さんという個人のための空間ではないように見える。宗方さんに促されるがまま、私はぎこちない硬さのソファに浅く座った。

「はい。カルピス飲めるよね?」

コップを差し出す宗方さんの腕に絆創膏が貼られていて、私は目を逸らした。

「すみません」

久しぶりに麦茶以外の飲み物を口にした気がする。宗方さんは私の向かい側に座った。

「工藤さんの下の名前って玲であってる?」

「はい」と私は答えた。

「敬語やめてよ」

今更調子良く話すこともできないし、そういう気分にもなれなかった。敬語ばかり使っているから、歳の近い人とどうやって話せばいいのか分からない。

 しばらく黙っていると、宗方さんは向こうを見ながら「玲ちゃん」と呟いた。びっくりして顔を上げると、彼女は悪戯っぽく笑っている。

「なんでそんな顔するの。嫌だった?」

「いや……」

「玲ちゃんでいい?」

答えることができなかった。

 しばらく宗方さんは座ったり立ったりを繰り返していたが、おもむろにテレビ台の方へ這っていって、ゲーム機の電源を付けた。

「一緒にやらない?」

宗方さんが四角い砂糖菓子みたいな見た目のコントローラーを私に差し出した。うちにも同じものがある。黙って受け取らないでいると、宗方さんは諦めたのか振り返って一人でゲームをやり始めた。

 画面の奥で、宗方さんが操作するマリオが跳ねている。去年家族で同じ様にプレイしたのを思い出す。お父さんがマリオで、お母さんがルイージで、私がキノピオの青い方。事故の日以来ゲームはやっていない。

宗方さんのマリオの動きはぎこちなくて、途中何度もゲームオーバーになっていたが、私とお母さんよりはましだった。

 あるところで宗方さんはまた私の方を向いた。

「ごめん、やっぱり手伝って。お願い」

テレビには二人目のキャラクターを選択する画面が表示されている。私は差し出されたコントローラーを受け取った。

「ありがとう。一人だとミスしたら終わりだけど、二人だと保険になるからさ。誰にする? ルイージ?」

気がついたら指が勝手に動いていて、いつものように青いキノピオを選択していた。

「黄色じゃないんだ。なんとなく黄色の方が好きなのかと思ってた。イメージ的に」

宗方さんがそう言い終わるのと同時に、マリオとキノピオが画面の中で拳を突き上げた。

 十字キーを押し続けて親指が痛くなる感覚には、懐かしさすら感じた。始まったステージは私の家族でクリアしたところよりもずっと先にある面だった。見たことのない敵キャラがいて、キノピオを移動させるのにも苦労した。

「やったことあるの? 慣れてる」

私が敵を凍らせたのを見て、宗方さんはまた話しかけてきた。どう喋っていいのかわからなくて、子供の落書きみたいに不自然な愛想笑いをして首を傾げた。

「ねえ大丈夫? 具合悪い?」

それから宗方さんは突然コントローラーを放って、私の顔を覗き込んできた。画面がぼやけていてよく見えない。顔が熱くなった。宗方さんに言われるまで何も気が付かなかった。頭に不具合が起こったのを知らせるみたいに、ただ涙が出て止まらなくなった。

 その間びっくりするくらいに心の中は静かで、私はただゲームの音楽と、自分の鼻の奥が震えているのと、頬にぬるいものがつたうのだけを感じていた。そして、久しぶりに外の世界と自分の心が繋がったような気がした。

「玲ちゃん」

宗方さんの顔は見えなかったけど、彼女の声は震えていた。

「玲でいい」

何か考える前にそう返事していた。

「じゃあ、私も真希でいい」

宗方さん――真希も目を擦っていた。私に同情したとかじゃなく、彼女は彼女で別の何かを思い出していたように見えた。私たちがやっと泣き終わる頃にステージの制限時間が来て、またゲームオーバーになった。

 それから私たちはマリオをやめて、一時間くらい話をした。その間は絶対に悪いことが起こらないという不思議な安心感と、穏やかさがあった。

 私たちは二人とも身の上については殆ど話さなかった。真希がこの家で一人暮らしをしていることと、私は祖母の家に住んでいるということだけはどこかで話したが、あとはほぼ何を話したか思い出せない。それくらいにどうでもいいことばかりを話したと思う。お互いに根拠もなく、話すたびに仲良くなれそうな気がして、少なくとも相手が飽きるまではこの時間を続けたいといったふうだった。

 まず、真希が学校で一番静かなトイレはどこかと聞いてきたのが始まりだったと思う。時折会話が途切れてお互い静かになることがあったが、その間も気まずさを感じることはなかった。そうなるたびに真希が新しい話題をくれたからだ。

 四回目の沈黙の後だった。

「もうすぐ夏休みだけど、何か予定あるの」

真希がそう尋ねてきた。

「ううん。することないし、何もしたいことない」

返事してすぐに、適当すぎる受け答えだったと反省したが、真希は特に気にしていないようだった。

「そっか」

「真希ちゃんは?」

「私も玲と同じ感じかな。今年は何もしなくていいかな。みたいな」

そう言いながら真希はゲームソフトの箱を、賽の河原の石みたいに積んでいる。見たこともないタイトルのゲームが殆どで、私は「意外といっぱいソフト持ってるんだ」と思いながら、それをしばらく眺めた。

 それから、私は初めて自分から真希に話しかけた。

「ねえ、真希ちゃんは宇宙人って信じる?」

「え?」

私がいきなりそんなことを聞いたから、真希は驚いてゲームの塔を倒してしまった。しかし「宇宙人を信じるか」という問いに対しては、いつ聞かれてもいいように答えをあらかじめ用意しているかのようであった。

「宇宙人――宇宙人ね。信じてる! だって人類も、他の星からしたら宇宙人じゃん」

問うた側の私が言うのは可笑しいことだが、これまで私は宇宙に詳しいわけでもなければ、宇宙人の有無についてこれまで深く考えたこともなかった。それ故か、真希の雑とも言える簡潔な答えはとても説得力があるように感じた。

「じゃあ、幽霊とか妖怪は?」

「ツチノコとか生き物っぽいのはともかく、ファンタジーすぎるのは信じてない。宇宙人の方が可能性としてあり得そうじゃない?」

「確かに」

会話がなんとなく纏まって、これ以上どう話を続けていいのか分からなくなってしまった。前はこういう時どうやって友達と話していたっけ。

 焦っていたら今度は真希が「なんで?」と聞いてきた。恥ずかしくなって、真希の顔から目を逸らした。

「この前、そういうよく分からないものに会った――ような気がするっていうか。ごめん、やっぱりなんでもない。変わった子がいたの」

私はこの時テムの虹色の頭のことを思い出していた。汚いパッチワークのようにあやふやな私の言葉と態度に、真希はむしろ興味をそそられたようだ。

「うそ、じゃあ未知との遭遇をしたってこと?」

「いや、ただの変わった人間の子なんだとは思うの。そもそも現実かどうかもはっきりしてないんだけどね。とにかく、宇宙人なんじゃないかって思うくらいには不思議な子だった」

この時の私は、すっかりテムのことをおかしくなった自分の見た幻覚だと思っていたから、真希に話しているうちに少し恥ずかしくなった。

「どんな顔してた? 喋った? 何か人体実験とかされたりしなかった?」

真希は知的な顔立ちだけれど、飽くなき好奇心を秘めている人のそれとは少し違う、どちらかというと目の前のことだけを冷静に見つめていそうな雰囲気をしていた。だからゲームをやるのも意外だったし、こんな馬鹿げた話に目を輝かせるのも意外だ。クラスの人たちもきっと驚くと思う。

「なんか、見た目は子供だった。小さくて。長すぎるブラウスか、ワンピースみたいなの着てたかな。それで頭が虹色なの。カラフルっていうよりか、頭の部分がつやつやで反射の光で虹色に見えるって言えばいいのかな。大人しかったよ」

テムを言葉にして説明するのはいささか難しくて、ノートの切れ端に絵を描きながら伝えた。

「へえ、意外と可愛い」

真希はロボットのキャラクターのストラップが付いている携帯で、テムの絵の写メを撮った。タイトルは忘れてしまったが、有名な映画のキャラクターなはずだ。

「私は宇宙人だと思うよ。この子」

テムの絵を覗き込みながら、真希は私に念を押すように言った。

 それから真希の興味が赴くままにテムの話をして、真希はそれを一つ一つ本当に興味深く聞いては、テムについての考察を述べた。

「――それで、家にあげた後お菓子をあげたんだけど。食べ方がやばくて。裾の中に入れて食べてた。こうやって」

私が空になったコップをスカートの裾に隠すと、真希はからからと笑った。

「ええ? 口がお腹のほうにあるのかな。やばいね」

「噛む音もしっかり聞こえたんだよね」

 しばらくして、真希は散らかしたゲームソフトの箱を片付けている途中、思い出したように私の方を向いた。

「明日学校終わったら、その子探しに行こうよ。それで見つかんなかったら、玲の夢だったってことにしたらいいんじゃない。私宇宙人に会ってみたい」

真希は冒険の旅に出かける前のような、とても楽しそうな顔をしていた。それで私も何だかわくわくしたし、その日眠る前に自分がとても薄情なのではないかと不安でたまらなくなったほどに、この時は両親のことさえすっかり忘れてしまっていた。

 外は夜に染まっていて、帰ろうとしたら真希に泊まっていくように言われた。

「一人暮らしだから気にしないでいいよ。夜は猪とかいて危ないし。あと、この辺カエルが本当に多いから」

戸惑ったけれど、今日は真希の厚意に甘えることにした。すぐに「友達の家に泊まる」と電話すると、祖母は喜びと安心を押し殺しながら優しく『わかった。おやすみ』とだけ返事をくれた。

「料理得意じゃないの。美味しいからいいよね?」

真希は悪戯っぽく冷凍のエビピラフの袋を私の目の前に突き出した。無心で頬張ってしまうほど本当に美味しかった。

 夕食の後はまたマリオを少しだけやった。その間に私は、真希からの言葉を待たずに自分から話を始めることができるようになっていった。

 真希が先に眠って世界に独り取り残された。今は部屋の闇に真希の寝息と私の意識だけが浮かんでいる。しばらくの間黙っていた悪魔がまた目を覚まして、私の心を荒らし始めた。体が勝手に眠りにつくまで、ただ耐えて待つ時間はやはりとても長かった。

 

 翌日の放課後、私たちは本当にテムを探しに出かけた。真希は自分の好奇心以前に、私を夢と現実の間から引き摺り出すためにこうすることを提案してくれたのだと思う。

「そういえばさ、夏休みの課題多くない? 玲の前の学校もこれくらいあった?」

真希はそう言いながら、前を飛び回っている蚊の群れを長い腕で振り払っていた。

「覚えてないけど、確かにちょっと多い気がする」と私は言った。

「絶対多いよ」

真希はもう学校の空気に溶け込んでいた。それこそさっきも大掃除をしながらクラスの人たちとも同じようなことを話していたと思う。今日もよく晴れていて、色々な虫の声と葉の擦れる音が混ざり合った生命の歓声がよく聞こえる。

 私たちは学校で一言も話さなかった。そうしようとお互いに取り決めたわけではない。真希の本当の気持ちはどうだったかは分からないが、少なくとも私は、私たちを取り巻く世界にこれ以上隙を見せたくなかったのだ。

 真希の家からそう遠くはない川沿いを歩いていたら、テムはあっさりと見つかった。真希が岩の上に止まっている黒い羽の蜻蛉を見ている間のこと。私が上流の方向に夏の陽を食べて不思議な虹色に光るあの頭を見つけたのだ。

「――いた。向こうの大きい岩の上」

私がそう言って真希の肩をつつくと、黒い羽の蜻蛉はカラスの落とした羽みたいに、よろよろとどこかへ飛んでいってしまった。

「マジじゃん。本物の宇宙人だ」

真希は蜻蛉のことをもう忘れたようで、今にも爆発しそうな興奮を小さな声にどうにか抑え込んでいた。

「ねえ、真希ちゃん、本当に見えてる?」

自身が今生きているのか、死んでいるのかさえもよく分かっていない私にとって、新しく出来た友人の真希と、宇宙人かもしれないテムというふたつのありえないものが同時に存在していることほど、信じがたい瞬間は無かった。聞こえる川の音が少しずつ大きくなり、飛沫が空中で動きを止める。ごうごうと感情が押し寄せてきて、どこか遠くへ流されてしまうような気がして怖くなった。

「痛い?」

真希は私の両頬を強く摘んでいた。魔法をかけられたことはないけど、きっとこういう感じなのだと思う。不安の濁流は一瞬で消えてなくなって、全身に強い電流が巡った。

「痛いよ」

そう答えると、真希は手を離して笑った。

「じゃあ夢じゃないね。私にも見えてるよ。早く追いかけよう」

「追いかけてどうするの」と私は尋ねた。

テムを万が一に見つけた後のことを何も考えていなかった。それに私はテムに酷いことをしてしまっていたから、いざ顔を合わせるとなると気まずい。

「宇宙人だよ!? 仲良くなるに決まってるじゃん」

真希は私の返事を待たずにこちらの腕を掴んで、テムの方へ走り出した。河原は丸い石だらけで足を捻りそうになる。昔嫌がる私を引っ張って、カブトムシを捕まえるため走って行ったお父さんの背中が一瞬、真希のと重なった。

 そうしている間にテムもこちらに気がついたようで、向かってくる私たちをじっと観察していた。

「こんにちは。私、真希!」

真希は臆せずにテムの方へ手を振っていたが、当のテムはそれに答えなかった。テムは顔見知りの私の方を見つめている気がした。

「勝手にいなくなっちゃ駄目でしょ。本当に心配したんだよ」

どう言葉をかけるか考えるよりも先に、口が動いていた。私がテムに少しだけ腹を立てていたことに、私自身が一番驚いた。テムにそれが伝わったかは分からないが、しばらく黙ってこちらを見てから答えた。

「なんでですか」

「なんでって、もう……」

やはりこの子とやり取りするのは難しい。砂漠に放り捨てられたような気持ちになっている横で、真希は「声、可愛い」と小さく呟いていた。

「他の人の場所には普通入らないから、どうしていいかわからなかったので、出た。ごめんなさい」

テムは抑揚のない声でそう言った。これは、知らない人の家に入ってはいけないからという意味なのだろうか。どうにもそれとは少し違う気がした。

「ねえ、私のこと無視しないでよ」と真希が必要以上に大きい声で言った。

「テムに話しかけてる?」

テムは前に私にそうしたように、初めて真希の方へ頭を向けて本当に不思議そうに言った。

「当たり前でしょ! 私、この子の友達なんだけど」と真希が言った。

そうするとテムは文字で表すことのできない、子音のない鳴き声をごにょごにょと唱えてから、岩を飛び降りると私たちに背を向け、奥の茂みへと行ってしまった。その虹色に光る後ろ姿は、絵本に出てくる妖精そのものに見える。

 真希はテムの態度に少し腹を立てているようであった。

「ねえ、宇宙人ってみんなあんな無愛想なのかな」

「分かんないけど、そうだったら困るよね」と私は答えた。

「追っかけよ」

真希はそう言い終わる前に先へ行ってしまった。

 テムは子供の足でゆっくり歩いていたので、多少足場は悪いけれど、追いつくこと自体は決して難しくなかった。どちらにせよ奇妙だけれど、あの子は私たちから逃げたというよりは、ただその場から移動することを、たまたまその時に思いついただけのようであった。

 しばらく木々が頭上を埋め尽くす中を進んでいくと、陽がスポットライトのように射している開けた場所があった。丁度その真ん中に、巨大な銀色の麦わら帽子みたいな形の物体が博物館の展示品のように光を浴びて落ちている。何故落ちていると表現したかというと、その下に薙ぎ倒された木々が苦しそうに息絶えているのが見えたからだ。

「これって、どう見てもUFOだよね?」

真希は確かめるように言った。

 物体はなんとなくテムの頭と同じ、金属にもプラスチックにも樹脂にも見える謎の物質で出来ているように感じた。それは見事なつやを放っていて、横から見るだけで完璧な円の形をしているのがわかる。私たちは本当に宇宙人と出会ってしまったのだ。UFOを目の前にして今更信じないわけにはいかなかったし、真希と私はこの事実を簡単に受け止めることが出来た。

「ねえ、これに乗ってきたの? どこから? 火星?」

真希はめげずにテムに話しかけた。

「うん。星は“あぇゎん゜す”です」

テムの故郷の星の名前を聞いたのは後にも先にもこの一度だけであった。地球人の耳と感覚、文字ではこう表す以外に方法がない。その星の名前が不可解で歪んだ音であること、そしてテムが私たち地球人が知り得ない星から来たことだけは確かである。

「宇宙の言語だね。全然知らないわ」

真希はそう言いながら、感慨深そうにUFOを眺めている。

「じゃあずっとここで寝泊まりしてたの?」と私はテムに聞いた。

「はい」

テムは私の方を向かず簡潔に答えた。

「地球にはなんで来たの?」と真希が聞くと、テムは何か言いかけてそのまま黙った。宇宙人も、言いたくない何かがあるとこうなるのかと私は大きな発見をした気分になった。

 周りの様子からして、テムの乗ってきたUFOがここに不時着したことはなんとなく窺えた。

「もしかして、壊れちゃって帰れないの?」

そう聞いてみると、テムは小さく「うん。四次元粒子加速器が壊れた」と答えた。

「よく分かんないけど、まずいことになっちゃったんだね」と私は言った。

落ち込んでいるのか何も気にしていないのか分からないが、テムはUFOに触れて黙っている。その隣で真希は、窓らしき部分から機体の中を覗き込んでいた。

「アダムスキー型って言うんだっけ。この王道の形のUFOって」

真希が私の方を振り返ってそう言った。

「分かんない。詳しいね」

さっきから私だけ上の学年の授業を聞いているような気分だ。

 しばらく皆黙ってUFOを眺めているだけの時間があった後、真希がテムの前にしゃがんだ。 

「ねえ、しばらくうちにいなよ。ここ危ないから。どうするかはゆっくり考えればいいじゃん」

テムは返事をしなかったが、真希が「ほら」と言って腕を引くと、車輪が付いている玩具みたいに後を付いて歩き始めた。私は宇宙人の子供を連れて行くことが誘拐の罪に問われるのか一瞬だけ考えたが、本当に無駄なことだと思ったのですぐに忘れた。

 その後私は真希たちと別れて、祖母の家に帰った。一晩ぶりに会った祖母は私の友達がどんな人なのか聞きたそうだったが、詮索をするようなことは何もしないでくれた。随分久しぶりに戻ってきたような気がして、しかも前より少しだけ居心地が良く感じられたのは、ずっと真希の家にいたせいだろうか。あの二人は問題なく家に着いたかな。そうやってテムと真希のことばかり考えていたから、この日も思い返せば信じられないくらい心が落ち着いていた一日だった。

 夜、真希から電話がかかってきた。携帯電話を耳に当てるなり、真希は興奮気味な声で話し始めた。

『もしもし!』

「どうしたの?」

私はベッドの上に小さく座りながら尋ねた。

『テム、お湯が嫌いみたい。あとボディソープも。なんか痛いんだって』と真希が言った。

「痛い? 宇宙人の肌に合わないのかな」

『なんかそもそも、テムの星にはお風呂ってものがないらしくて……トイレもあるか聞いたんだけど、それも無いんだって。行かなくていいみたい』

「そうなんだ。でも、テムちゃんって清潔っていうか、汚れてる感じしないよね。なんか臭ったりもしないし」

『もしかしたら、皮膚が特殊なのかな。においはなんでだろうね。地球の菌が宇宙人の体では繁殖しないのかも。トイレは……よく分かんないけど、排泄しなくて済む体の仕組みになってるのかな』

真希はいかにも真面目そうに考察を繰り広げていた。

「なんで宇宙人のことなのにそんな思いつくの? すごいね」

感心して私が言うと、真希は少しだけ恥ずかしそうに『SFとかオカルト、ちょっと好きなんだよね。お兄ちゃんの影響で』と笑っていた。

「お兄ちゃんいたんだ」

私は真希がたくさんゲームを持っていたことなどを思い出し、(今日のことも真希は私に気を遣ってくれたというよりも、本当に宇宙人を探したかったのかもしれないな)と考えた。

『あと、本が好きっぽい。読むのもすっごい早くて。宇宙人だから私たちと頭の出来が違うのかもしれない』

私はテムが来たあの日、『不思議の国のアリス』が床に落ちていたことを思い出した。

「そういえば宇宙人がなんで日本語分かるんだろうね。今更だけど」

ふと浮かんだ疑問に対して真希は『そりゃあ、あの虹色の頭が色々便利なやつで、翻訳機にもなるんだよ。絶対そう。それ以外ないでしょ』と自信ありげに言っていた。

 

 翌朝、いつも祖母がつけているテレビのニュースがいつもより神妙な雰囲気だった。何やら大きい出来事が起こったみたいだ。

『金田文科大臣 いじめ隠ぺいを認める』と、赤いテロップが浮かんでいる。

 今の文科省大臣の息子がいじめの主犯であり、そのいじめの被害者が自殺をしたというニュースだった。遺族は調査をするように求めたが、大臣が学校側に調査をしないように命じたことが明るみに出たようだ。私はこの話を聞いてまたこの世界が嫌いになった。

「嫌だね」と祖母が眉をひそめめながら言っていた。

 この日は終業式だったが、真希の姿はなかった。体調不良とのことらしい。クラスの人たちは真希の体調を心配していたが、私は宇宙人と接触したことで未知の病に感染してしまったのではないかとか、テムと二人にして良かったのだろうかとか、突拍子もない想像ばかりしてしまって、体育館で聞く先生たちの長い話が心底じれったく感じた。

 放課後に急いで真希の家を訪れると、彼女はどことなく顔色が悪そうなところ以外は特に変わりなかった。

「ごめん、ズル休みしちゃった。あ、これ内緒ね?」

真希は近くをクラスの人が通っていないか警戒しながらそう言っていた。終業式なんてズル休みしなくても良かったんじゃないのと言うと、真希は私を家に招き入れた。

 真希についていくと、居間の真ん中でテムが座り込んでいた。「こんにちは」と私が言うと、テムは「はい」とだけ返事をした。

「テムちゃん、ほんとに裾からご飯食べるんだね」

真希は答え合わせしたように私にそう耳打ちした。

 真希はテレビをつけて、昼のワイドショーにチャンネルを合わせるとソファに座った。朝見た文科省の大臣の件がまた取り沙汰されている。真希はテレビを見て小さなため息をついた。

「このニュース朝見た。最悪、だよね」

私がなんとなくそう言うと真希は寂しそうに微笑んだ。大臣がテレビの中で、機関銃みたいなフラッシュに晒され続けている。

「これ、パパ」

真希は大臣を指差した。私は数秒前の自分を蹴飛ばしたくなった。

「じゃあ、いじめの主犯って――」

口走ったのを後悔した時には、もう遅かった。

 真希は諦めたように喋り始めた。

「お兄ちゃん。家に遺族の方が来た時、ほんとにびっくりした」

「真希ちゃん――」

「お兄ちゃん優しいの。お父さんとお母さんにも優しかったし、私にもね。なんでもできるから、調子に乗っちゃったのかな。人を追い詰めて、殺した」

真希は恨めしそうにワイドショーのコメンテーターを見ている。

「お兄ちゃん、遺族の人の前でも全然反省してなかった。ただ遊んでただけだよって言ってた。遊びで殴ったり蹴ったり、閉じ込めたり、あとお金? 持ってくるように言ったりしたんだって。お小遣い一杯貰ってるくせに。尊厳を踏み躙るためだけにそういうことしてたんだよ。あのお兄ちゃんが。私本当に怖かった。バケモノにしか見えなくなっちゃった。お兄ちゃん死んだんだって思うことにした」

真希が抱える腕の擦り傷の端が、大きな絆創膏から少しだけはみ出ている。

「でも遺族の人と弁護士の人が来た後、しばらくは世の中にバレなかった。私も黙ってた。お父さんは示談の交渉を進めてて、お兄ちゃんは転校しただけだった。お兄ちゃん転校してからもすぐ友達作って、家に何回か呼んでた。お母さんに夜ご飯の献立に文句言ったりとかしてた。私も普通にしてたし、お兄ちゃんが最低でも嫌いになれなかった。冗談も言い合ったし、マリオだってやった。そうしたら家が守られると思った。もうとっくに終わってたのにね。でも誰だって、家族が壊れるの嫌でしょ? それからしばらくして、週刊誌の人がうちに来て、もうダメだってなったの」

真希はテレビを消した。テムは話を聞いているのか分からないがずっと黙っている。私は何も言えなかった。真希は心から溢れ出るものをどうにか言葉にして伝えようとしていたが、それは口に出したそばから崩れていくほどに脆かった。

「お父さんそれからすぐに離婚して、尻尾切りのつもりだったんだろうね。子供はいないって言い張るつもりだったみたい。意味ないのにね。よく分かんないけど、お父さんの先輩の指示らしいよ。国のために働いてるとか言っておきながら、殺された人とその家族のこと蔑ろにしてたの。私に対してはさ、助けるつもりだったんだろうけど、お金渡して出て行けっていきなり」

真希はしばらく声を殺して泣いていた。テムは何か言いたげなふうにも何も考えていないようにも見えたが、とにかくじっとしていた。

 真希はそれからいきなり顔色を変え、まるで他人を嘲笑うかのような冷たい瞳で自分の手の甲を見つめながら言った。

「私さあ、一昨日玲のこと止めたでしょ。あれ、お兄ちゃんがやった分帳消しにできるかもって――」

「やめて!」

私がそう叫んだ時、テムが少しだけこちらを見たような気がする。

「そんなこと思ってないでしょ。自分が酷い人間だったらどうしようって一回思うと、ずっと自分にお前はそうだって、言い聞かせるようになっちゃう――」

そう真希に言った時、心の部屋の中でうずくまっていた悪魔が一度顔を上げたような気がして、背筋が嫌に熱く感じた。

「私、そういう人間じゃないのかな」と真希は酷く赤くなった目をこすりながら言った。

「真希ちゃんは、真希ちゃんだよ。だから、違うよ。考えなくていいんだよ」

「そっか、うん。ごめん」

真希は私と話しているというより、自分に言い聞かせているようだった。

「そうだよね。今楽しいからもう、どうでもいいもん。ありがとう」

ずっと真希の言葉に安心させられていた私は、この時初めて嘘をつかれたように感じた。今の真希から、いつものような妙な説得力が感じられなかった。

「ごめんなさい」

私が黙っているとテムが突然、座ったまま頭すら動かさずに言った。

「なんで?」と真希が枯れた声で聞いた。

「二人がどなるから。テムが良くないことしたんだよね」

テムがそう言いながら膝を抱えると、彼女の奇怪な形の影も一緒にカーペットの上で縮こまった。

「何言ってんの。テムちゃんは何もしてないでしょ。違うよ」

テムは混乱した様子で小刻みに頭を動かしていた。宇宙人なりに気を遣ってくれたわけでは無さそうだ。そうしてテムも黙ってしまうと、真希が見計らったように明るくなった。

「おやつ食べよっか」

 

 ちょっと前のことが全部嘘だったみたいに、私たちは静かにおやつを食べた。テムはポテトチップスが大変気に入ったらしく、絶えずつまんでは裾の中へとしまい込んでいた。

「カーペット掃除しなくちゃ」と、真希は困った笑みを浮かべていた。

私と真希は烏龍茶で、テムはオレンジジュースを三回もおかわりした。

「美味しい?」と私が聞くと、テムは「とても美味しい」といつもより少しだけ早口で答えた。やはりその様子は奇妙だけれど、テムの不器用でいびつな姿と仕草にも慣れてきて、もはやある種の可愛らしさすら感じる。

「宇宙人が地球の食べ物食べても平気ってことは、私たちも意外と宇宙の食べ物いけるのかな」

真希はテムの食べっぷりを興味深そうに、そして愛おしそうに眺めている。

「どうだろ。私は食べたくないかも」と私は答えた。

こんなやりとりをする頃には、さっきのことが全て靄に包まれたようにはっきりと思い出せなくなっていたし、私を心の中から見ていた悪魔はすっかり姿を消した。

 その日の帰り道に、一人になってようやく真希のことを思い出した時も、「今は楽しいからどうでもいい」というあの子の言葉だけが浮かんで、むしろ安心したほどであった。真希の目はまだ腫れていたのに、臆病な私は大事な部分から目を背けていた。でも、これが悪いことだったとは、今も思えない。

 

 翌朝。夏休みが始まった。台所で朝食を食べていると、

「洗濯物だけ干しておいて。お願い」

という祖母の声が玄関口から聞こえた。

「分かった」と大きい声で返事をした。

祖母に手伝いを頼まれたのはここに来てから初めてだったが、私はそれが少し嬉しかった。向こうから聞こえてくる真希の家族のニュースはテレビの中で大事件として扱われているようだったが、もう私たちにとってはすっかり関係のないことのように思えた。

 庭に出ると今日も目が砕けそうになるほど眩しい。ハンガーにかけた制服のブラウスが、夏の訪れの喜びを全身で表現するように干し竿の下ではためいていた。

 朝十時を過ぎたあたりで、真希から電話が来た。

『暇ならうち来てよ。散歩がてら、ちょっとテムのこと外に出してあげようと思って』

私はできるだけ早く行くと伝えて、すぐに準備を始めた。

 鞄に携帯と財布だけを入れ、去年家族で沖縄に行った時に一度着たきりだった青いワンピースを着た。久しぶりに化粧をしたら、前より少しだけリップののりが悪いような気がした。姿見に映る私の姿は本当に懐かしくて、寂しい。網戸の向こうから静かに鶯の声が聞こえる。祖母には『遊びに行くね』とメールを送って、自転車で真希の家へ向かった。

 

 この日はまたしつこいくらいに晴れていて、真希の家に向かっただけでかなり疲れてしまった。インターホンを鳴らすと、グレーのデニムと少しくすんだ色の水色のシャツを着た真希が出てきた。

「おはよう。あ、玲もかわいくしてきたの」

「うん、何となく」

今日は真希も化粧をしていて、私たちは顔を合わせるなり笑ってしまった。真希は濃い赤のリップがよく似合っていた。

「散歩って言っても、近くちょっと歩くだけだよ。こっちには宇宙人がいるんだから」

真希は私の背後に誰かいないか確認しながら、小さな声で言った。

「それじゃ、お互いおしゃれした意味ないね」

私がそう言った後、二人でしばらく笑った。

 真希の提案でテムには大きめの麦わら帽子を被せていくことになった。

「ぱっと見分からないでしょ」

帽子のつばから虹色の光が漏れ出ているし、側から見てもテムの姿はだいぶ怪しいと思った。

 その後、私と真希の両方が自転車を押していくことも決まった。

「万が一第三者にバレちゃった時、テムを乗せてその場から立ち去れるようにね」

そこまで考える必要はないのではと思ったけれど、作戦を考案している時の真希は楽しそうだったし、私も満更でなかったので何も言わなかった。

 私たちは静かに夏の田園の中を歩いた。真希が先頭で、テムが真ん中、私が後ろの一列だ。テムは真希にサンダルを履かされたせいか、少し歩き方がぎこちないように感じる。

「暑くない? 大丈夫?」

しばらく歩いた後で真希がそう話しかけた時もテムは「問題ないです」といつもの調子で答えていた。一切車が通る気配はなくて、作業している人も見かけない。

 高原の日差しがあまりにも眩しくて下を向きながら歩いていると、ある田んぼの水の中で一輪の赤い花のような何かが浮かんでいるのを見つけた。

「ねえ、何かいる」

立ち止まってよく見るとその正体は小さな丸い金魚で、鰭をばたつかせながら水面を食んでいる。真希とテムも私の隣からそっと田んぼを覗き込んだ。

「金魚。誰かが捨ててっちゃったのかな」と真希がぽつりと呟いた。

テムは一歩でも間違えたら落ちてしまいそうになるほど前のめりになって、注意深く観察しているように見えた。

「気になる?」と私が聞くと、テムは「見たことのない生き物」と返事した。

「そりゃ宇宙人だもんね。こういうのはさかなって言うんだよ。大気じゃなくて、水の中で暮らしてるの。水の中じゃないと生きられないの」

真希はしゃがみ込んで水面に指を入れながら言った。

「さかな」

テムは不器用にそう繰り返して、また静かになった。

 金魚が浅い水の中を窮屈そうに周り続けているのを、しばらく黙って見ていた。風、鳥、虫、木々が騒いでいて、それぞれが図々しくひしめきあっている中、この金魚だけが声もあげず独りで泳いでいて、私たちがただ黙ってそれを見つめている。とても寂しい光景だと思った。

「ねえ、この子誘拐しちゃおう」

真希が私とテムの方を向いて、とても神妙な面持ちでそう言った。

「捕まえるってこと?」

「うん、うちで飼うよ。ここに居たままだったら絶対死んじゃうもん。本当は田んぼに手出しちゃダメだけどね」

真希がそう言う横で、金魚がぜひそうして欲しいと訴えるように身を翻した。

「飼い方、分かるの?」

私がそう聞くと、真希は「宇宙人拾ってるんだから大丈夫だよ。金魚くらい」と尤もらしいことを言って笑った。

「ホームセンター行って網と――なんかあと色々必要なもの買ってくるから、二人ちょっとここで待ってて。ちゃんと見張っててね」

真希はそう言いながら私たちの返事を一切待たず、自転車に跨って行ってしまった。

 そうして私とテムは初めて会った日以来久しぶりに、田んぼの前で二人きりになった。

「この子、可愛いね」

しばらく名前のわからない虫の声だけが聞こえる時間があった後で、私は金魚を指してテムに話しかけた。テムは最初びっくりしたように私の方を見て、何度か首を左右に動かした。

「なぜさかなを助けるの」

テムがそう言って金魚を見た瞬間、丁度千切れ雲が陽を遮って、麦わら帽子の間から覗くテムの頭がさっきまでと違う色合いの光を放ち始めた。

「死んじゃわないようにだよ」

「さかなが死ぬと、何か不都合なことが起きるのですか」

「そうじゃなくて。本当ならもっと生きられたかもしれないのに、ここで死んじゃったら可哀想でしょ。そう思わない?」

「わかりません。そう考えたことがないです。そもそも、生物は死ぬじゃないですか」

テムは相変わらず声まで無表情だったけど、その疑問は彼女にとって大きな命題というか、自分の存在を揺るがす何かを知るための鍵になっているような気がした。

「テムちゃんだって、いきなり死ぬのは嫌でしょ。逃げられない場所で理不尽に死ぬのを待つだけなんて、無念でしょ。生き方が選べなくても、死に方くらい選びたいでしょ」

宇宙人に伝わるか不安だったけれど、自分の率直な気持ちを伝えるべきな気がして、思いつくままに答えた。私がそうやって自分の気持ちを掘り起こしたせいで、たちまちお父さんとお母さんの顔が頭の中で明滅して、矛先のない怒りがまた暴れ出しそうになるのを我慢した。

「それは――分かりました。すこしだけ」

テムが迷いなくそう言ったのが意外だったが、その驚きはすぐに背後で鳴った自転車のベルにかき消された。振り向くと自転車のかごいっぱいに荷物を乗せた真希がいた。

「誰にも見つかってない?」

真希は自転車から颯爽と降りて、髪の毛をかきあげながらそう言った。

 小さい観賞魚用の網と金魚鉢が袋から取り出された。それから真希は、他に必要そうなものをいくつか売り場の人に聞いて買ってきたと言った。

 すぐそばの水路で金魚鉢に水を入れた。飛沫でワンピースが濡れたが、肩がすくむくらい冷たい水が心地よかった。満タンにすると金魚鉢は意外に重い。

「汲んできたよ」

私が水路から戻ると、金魚はまだ同じところで困ったように浮かんでいた。

「ねえ、あんたやってみなよ」

真希に網を渡されたテムはしばらく網を両手で鏡を見るみたいに持っていたが、やがてしゃがむと金魚の方へ手を伸ばした。

「助かるよ。これで。良かったですね」

テムは水面に向かって小さい声でそう言った。金魚の方は自ら望むようにすぐ網の中へ飛び込んだ。田んぼに小さな波が起こる。引き揚げられた金魚は夏の空気に曝されて光を乱反射しながら身を捩らせ、網も丸く蠢いた。

「ここに移して!」

テムは私が差し出した金魚鉢にさっと網を入れた。ちゃぽ、と音がして、金魚が小刻みに体を震わせながら姿を現した。さっきより狭い場所にいるはずなのに背鰭がぴんと伸びていて、とても喜んでいるように見えた。

「やった」

真希は満足そうに金魚鉢を上から覗き込んだ。

「これで、助けたの?」

口をぱくぱくさせる金魚の顔を見ているテムは、少し誇らしげに見える。私と真希は顔を見合わせて、悪企みが成功した時みたいに歯を見せて笑った。

「うん。成功だよ」と真希はテムの頭をつつきながら言った。

透き通った水の中で、一身に光を浴びた金魚の鰭が逞しく燃えている。テムはその様子に夢中になって額を金魚鉢にぶつけそうだった。

「落とさないでね。ちょっと重いから気をつけて」

慎重にテムへ鉢を渡すと、テムは大事そうにそれを抱えた。麦わら帽子の影に金魚が出たり入ったりを繰り返し、テムがそれをじっと覗き込む様子は、映画のポスターみたいな妙な迫力と思い出深い美しさがあった。写真を撮っておけば良かったと何年も後悔したほどだ。

 稲の海の向こうに、真希の家が遠くに見えたところで私たちは天気雨に巻き込まれた。雷の音が遠くで聞こえ、それを気のせいだと思った十秒後にはバケツをひっくり返したみたいに降り注いできたのだ。

「やばい、急がないと。落ちないように、どっちかの手でハンドル持って」

サドルに乗ったテムにそう言った後、目を細めながら真希の後ろを走った。テムはその間何も言わずにじっとして、金魚鉢を抱えて我慢していた。轟く雨音に混ざって真希が楽しそうに悲鳴をあげているのが聞こえる。痛かったけど、輝く雨粒と風にたわむ電線が私たちをどうしてか祝福しているようだった。

 雨はすぐに止んだ。私と真希はそれぞれシャワーを浴びてから陽が沈むまでゲームをやり、テムはその間ずっと棚に置かれた金魚鉢の前を行ったり来たりしていた。

「そうだ、これも買ってきたんだった」

ゆっくりと夜に差し掛かってきた頃、真希はホームセンターの袋から花火のたくさん入ったセットを取り出した。

「夏っぽいでしょ。せっかくだしね。ほら、テムは祭りとか連れてけないし」

真希は花火を見せつけながら得意げに言った。とてもいいアイデアだと思って、私は笑った。私たちは庭へ出て、まだ金魚鉢の前にいたテムを呼んだ。

 それから太い蝋燭を三人で囲うように立って、庭の真ん中で小さな花火大会を始めた。火薬の匂いが懐かしい。紫色の空へ煙が昇って冷たい夜風にかき消される上を、家路につくカラスの影が通った。テムの星は燃焼という現象が起こらないらしく、最初は怖がっていたが、今はもう慣れて次々と新しい花火を貰っては火をつけている。

「さかなはこれ、出来ないですか」とテムがこちらへ近づいて言った。

テムの手元では火花が柔らかく噴き出ていた。

「残念だけど、出来ないね」と私は答えた。

「そう。じゃあ、見せます。これは、テムの故郷から見える星の色に似てるから」

そう言うとテムは短い腕を伸ばして、縁側の奥の方に小さく見える金魚の方へ、緑の花火を振って見せていた。その様子は健気な子供の姿そのもので、私と真希はこっそり微笑みながら小さな宇宙人を見守った。

「あの金魚……さかな、か。好きになった?」

線香花火を蝋燭に近づけながら、テムにそう聞いた。

「分かりません。でも、さかなが死なないで良かったと思う」

テムの声は心なしか明るく感じた。

「そうだね。死なないで良かったね。良かった。本当に――死なないで」

線香花火が弾ける細い光の輪郭はだんだんぼやけて太くなり、闇と真希の持っている花火の光と溶け合う。真希がそれに気がついて「どうしたの?」とこちらへ駆け寄ってきた。

「おかしいよね。分かんない。でも、こんな気持ちになっちゃいけない気がして」

テムの言葉は私を酷く寂しく、同時にどこか安心したような気持ちにさせた。自分にかけた呪いのほとんどがようやく緩んでいくような、そういう自由な気持ち。

「私は、死なないで良かったのかな」

口に出すつもりでなかった言葉が漏れた。真希は俯いた私を見て黙ったまま、持っていた花火をバケツへ入れた。そうして私がまた顔をあげる頃には、テムが全て花火を使い切ってしまっていた。

 結局、真希の家で夕食を食べることになった。しばらく待つように言われた後真希に呼ばれて行くと、たくさん――ただし全て冷凍とインスタント――の料理がテーブルの上に行列を成していた。真希の好きなピラフも山のように盛られ、他には餃子やピザなどもあった。

「なんか、豪華すぎない?」と私は聞いた。

「玲とさかなが死なないで良かった記念だよ。お腹空いた。ほら、食べよ!」

真希はあっさりとそう言った。庭先ではまだ蝋燭の炎が揺れている。真希は自分を取り巻く全てに囚われている私のために、二度目の葬式を開いてくれた。ばれないように、泣くのを我慢しながら食べ物を頬張った。

 両親の葬儀の時のことはほぼ覚えていない。その場に居たかどうかすら分からなくなる時がある。それくらいに何も見えなくて、聞こえなかった。両親がこの世を去るための手続きは全て祖母や親戚の人がやってくれたから、子供の私がやったこと、できたことなんて一つもない。私だけ生き残って、あとはそれきりだった。

 冷凍のご馳走をたくさん食べた後、私は一人で再び庭へ出た。溶けかかった蝋燭はかろうじて燃えている。私はそっと上を見上げた。あの無数の星屑はきっと天国の覗き窓だ。この弱々しい炎で、気がついてくれるだろうか。揺籠の中にいるような夜だった。私だけがずっとここに残って、穏やかな気持ちで天の下に立っている。だからこそ、近いうちに恐ろしい朝がやって来て、私はまた何かを奪われてしまうような予感がした。

 その翌日。昼過ぎから真希の家で課題をやることになった。来てから三時間は経過していたが、結局殆ど進んでいない。私たちは勉強が苦手なわけではなかったが、その日は問題を一つ解くたびにひどく疲れてしまった。テムはそんな私たちの様子を見て非難するわけでも笑うわけでもなく、金魚鉢の前に座り込んで小説から弁当のレシピまで、あらゆる本をずっと静かに読んでいた。さかなと出会ってから、この子は少しだけ地球人らしくなったような気がする。

「はあ、休憩しよう」

真希が長い間息を止めていたみたいに大袈裟な呼吸をして、シャーペンをローテーブルに放り出すと床に倒れ込んだ。

「さっきしたばっかりじゃん」

そう言って笑った私もすっかりやる気がなくなっていて、数学の問題文ではなくペンの先端を見つめていた。

「ねえねえ、この問題解ける?」

真希はふと起き上がるとテムの元へ這っていって、数学の証明の問題を見せた。

「ちょっと、何言ってんの」

私は思わず笑ってしまいながら真希を窘めた。

「試しにだよ。だってUFO乗ってる宇宙人なんだよ? 超頭いい可能性あるじゃん」

テムは黙って問題集を受け取って見つめていたが、やがてそれを真希に返した。

「分からない。何を表しているのかも。テムの星にはこんな理論が存在しないと思います」

真希は少し申し訳なさそうに「そっか……」とこぼしながら問題集を受け取った。

「数学なら宇宙人も解けるかなって思ったんだけどな」

真希はそう言いながら、教科書を片付け始めた。彼女は少なくとも今日は二度と数式を見ないだろう。

「私らだって宇宙人に問題見せられても解けないよ」

真希の落胆ぶりを目の当たりにして、私は消しかすを集めながらそう言った。

「はあ。テムの星にも学校とかあるの?」と、真希が伸びをしながら言った。

「複数人で集まる教育施設のこと? ないよ」

学校という言葉を宇宙人なりに解釈したのだろうか。テムは不思議な言葉遣いでそう答えた。

「じゃあ、勉強とかしなくていいの?」

私も気になって聞いてみた。

「ぬレ(私にはそう聞こえた)に入って社会に所属するための訓練――多分、べんきょう? することがあります。ぬレは一人で入るの」

テムは頭を少し上に向けて何かを思い出すような仕草をしながらそう答えた。

「宇宙人も勉強しなきゃいけないんだね。夢がない」

真希は悲しそうだった。

 それからしばらく誰も話さなくなって、テムがページを素早く繰る音だけが聞こえる時間があった。

「ねえ、本もいいけど、何か知りたいなら私たちにも聞いてよ。友達なんだから」と、真希は悔しそうに言った。

「そうしても、いいの」

テムの声は相変わらず抑揚がないが、今ほんの少しだけ高くなったように感じた。

「いいに決まってるじゃん。私が他の星の人に会ったら絶対色々聞くし」

真希に同調するように、私も頷いた。

「じゃあ。それが、分からないです。たまに本にも出てくる」

テムは思い出したように、食い気味に言った。

「何が分からないの?」

「と――と――ともだち。分かんない」

真希が尋ねると、テムはとてもぎこちなく虹色の頭を何度も上下させてそう言った。

「友達って概念がわかんないってこと?」と真希は確認した。

そういえば、私が初めてテムと会った時にも同じようなことがあった。

「そうです。なんですか。これらにも度々出てきたんだけど」

テムはまた本を見下ろしながら、うろたえるように言った。

「そんな具体的なものでもないんだけど、関係を指す言葉って言えば宇宙人にもわかりやすいのかな? 私と玲が友達、テムと私も友達、玲とテムも友達。さかなとテムと、私たちも友達。これでなんとなくわかる?」

真希は思ったよりややこしい問いが来たと思ったのか、少し考えてから言った。

「やっぱり、わかれない。助けてくれる人と助けられる人のこと?」とテムがたどたどしく言った。

「合ってるけど、ちょっと違うかも。まあ、いずれ自分の中で答えが見つかるかもよ。実を言うと、地球人でも見解が分かれてる概念だから」

真希はもどかしそうに一度会話を終わらせた。多少乱暴に感じたが、私も宇宙人にうまく説明する自信なんてないし同じようにしていたと思う。

「そうなんですか」

テムは疑問を解決することは出来ていなそうだったけれど、地球人でさえも答えることが難しい内容であるということには納得していそうだった。

「この、ほん? 本についても分からないことがある」

テムは自らが読んだ本の山のうちの一角を指差した。文庫本から単行本まで、大きさも分厚さもばらばらだったが、そこに積まれている本が全て物語であることは題名から何となく伺える。中には『ハリー・ポッター』などもあった。

「色々な本があるけど、こういう本はなんのためにあるんですか。第三者の体験記のように思えますが、それを他の者に共有するのがどうしてかわかりません」

 真希から目配せをされた。私が答える番らしい。

「まず、そういうのは物語って呼ぶの。テムちゃんは小説で物語を読んだわけだけど、地球には映画とかアニメとか、劇とか漫画とかゲームとか、色々な形の物語があるんだよ。私たちはそういうの見て泣いたり笑ったり驚いたりするの」

「それは、そうすることはこの星の者に必要なの?」

「地球人には少なくとも、必要なんじゃないかな。無かったら退屈すぎるもん」

真希はソファの座面に肘をついて黙っている。テムは適当にあった本を手にとってめくりながらまた話し始めた。

「どうしてですか。ともダちでもない関係ない者の、関係ない体験を、他に見せるのが分からない」

たくさん本を読んだからか、テムは少しだけ話し方が大人びて語彙も増えているような気がする。私が頭のいい宇宙人に満足する答えを用意してあげるのはおそらく無理だと思いながら、沈黙が生まれないようできるだけ早く答えた。

「関係なくないんだよ。少なくとも物語に触れてる間は、私たちも当事者なの。感情移入って言うんだけど。テムちゃんの星はそういうのなかった?」

「他の者は、わからないです。絶対に。他者は他者です。それはこの星もそうでしょう。だから、見る必要がないと思わない?」

テムはどこか必死に見えるほど私に疑問を訴えかけてきた。何を思っていたのか分からないが、真希はその様子を見て黙って頷いていた。

「確かに。そうかもしれないけど――」

私は少し考えてから、付け加えた。

「自分の体験だけじゃ、思い返したら手遅れだったこととか、そもそも得られることのないものってたくさんあるから。自分以外の誰かが見た景色に触れたら、少しでも取り返せるかもしれないし、分かるかもしれないでしょ。物語って、本当は絶対に分かり合えない他者に少しでも近づきたいっていう、友好の証だと思う」

こんなことを聞かれたのも、考えることも初めてだったから、答えている私も何を言っているのかよく分からなかったし、宇宙人のテムにはもっと分からなかったと思う。それでも真希は満足げに私の方を見ていた。

「つまり、物語はともダちとも、関係あるということですか?」

テムはまたぎこちなく聞いてきた。

「あると思うよ。私たちだって、宇宙人が出てくる物語を知らなかったら、テムちゃんにもっと冷たかったと思う」

「そうですか。まだレイとマキが分からないから、もっと見ます。今までは、分かろうとすればいいのはお父さんとお母さんだけだったから」

テムはそう言ってまた本の山を漁り始めた。

「名前、覚えてくれてたんだ」

真希がぽつりとそう言った時、私も同じことを考えていた。真希と私はほころんだ顔を見合わせた。

「分かろうとすればいいのはお父さんとお母さんだけだったから」

テムのこの言葉の意味が分かったのは、もう少し先のことだった。

 

 次の日もそのまた次の日も、私は毎日のように真希の家に誘われて行った。三日で真希の家の本を全て読み終えてしまってから、テムは私たちが図書館で適当に借りてきた本をずっと読んでいる。それがテムにとって地球や私たちに対する理解を深める助けになるのかは分からなかったが、図鑑や絵本、純文学まで本の形を為しているものは片っ端から手に取っていた。ご飯やおやつの時間になるとテムは決まって自分の考えでは分からない部分について、不思議な言葉遣いで私たちに聞きたがった。

 私と真希の方は、学校の課題こそ殆ど進まなかったが、ゲームをやったり(テムは誘ってもゲームはやらなかった)、真希が持っていた映画のDVDを見たりして過ごし、真希と初めて話したあの日からずっとやっていたマリオもついに夏休みの十日目、全てクリアしてしまった。

 海へ行ったり、夏祭りに行くような皆が過ごすような賑やかな夏ではなかったけど、私たちはあの小さな部屋の中で確かにもっと仲良くなっていったし、お互いのことを好きになっていったと思う。一人でいる時間にも悪魔が目覚めることもほとんど無くなって、私は自分が段々と元通りになっているようにすら感じていた。

 夏休みが始まって十三日が経った日。私は朝から真希が『ドラゴンクエストⅢ』をやっているのを見ていた。お父さんが好きなゲームだから名前は知っていた。画面を眺めているだけだったけど、退屈は全くしない。テムも今まで私たちがやっていたゲームと違うことに気がついたのか、さっきから本を閉じてじっとテレビを眺めている。

「やっと倒した! ちょっと休憩」

真希がきりのいいところでゲームを中断して、私たちはテムと金魚の方へ這い寄っていった。テムの周りに散らばっている本の中に、見覚えのある題名を見つけた。

「テムちゃん、これ私の部屋でも読んだ?」

私は『不思議の国のアリス』を拾い上げて聞いた。

「読んだよ。だから二回目。二回目はこわくないかなって思って読みました。けどやっぱり、この物語は、こわいし、嫌なの」

テムはそう言うと膝を折りたたんで顔を伏せた。

「そういえばアリスとテムって似てるよね。全く知らない世界に迷い込んで。好奇心も意外と旺盛で。どうして怖いの?」と真希が言った。

「こわいのはそれのせい。この物語は関わる者殆どが主人公に害意があるし。みんな変なことを怒りながら言っているし。あと、主人公は知らないものを食べたり、触ったりして大変なことになるし。おうちの外は安全じゃないって親にも言われたことあるから」と、テムは前より流暢になった日本語で答えた。

私はテムがあの日出ていった理由を、ようやく教えてもらったような気がした。

「そっか。一人で違う星に出てきちゃうくらいだから、未知を恐れない勇気があるのかと勝手に思ってた」と真希は意外そうに言った。

「怖いのもそうですが、テムは嫌なの。この話は」

テムは私の持っている本の表紙を忌々しく見つめた。

「どうして?」と私と真希は同時に聞いた。

 テムは何かに祈るように膝を抱えて小さくなった。

「不思議の国はぜんぶ、ゆめだったんでしょう。寝ている時に見るまぼろしだったんでしょう。アリスが目覚めたらおわったから。あんなに長くて不思議な世界が、いっしゅんでなくなった。忘れるかもしれない。だから、悲しくて嫌になったの」

真希はそんなテムを見て優しく笑った。

「そういう時はね、嫌じゃなくて寂しいって言うんだよ。それにアリスだって、おばあちゃんになっても不思議の国のことは覚えてると思うよ」

「本当に? テムもいつか、さめるのかな。かえるのかな」

テムは震えながら俯き、その後頭部に金魚の影が映った。

「帰りたくないの?」

真希がそう聞くと、テムは小さく首を縦に振った。

「なら、醒めなきゃいいんだよ。ここにいればいいの」と真希は言った。

私は真希のその言葉にとても救われたような気がした。

「私たちもずっとここにいるから」

私が続けてそう言うと、テムは顔を上げて小さく「それで、いいの? そうなの?」と聞いた。

「うん。友達だもん」と真希は頼もしく笑った。

こうして愚かな私たちは夢の中で不思議な誓いを立てた。こうすればいつか夢は反転して、現実になると本当に思っていたから。

 その翌日、真希が珍しく料理をしたから食べに来いと電話で言って、いつものように私を呼んだ。

「何作ったの?」

台所まで来た私に、真希は得意げな顔を見せて冷蔵庫から何かを取り出した。

「美味しそうでしょ!」

真希が見せびらかした大きめの瓶の中には、何本かのきゅうりが詰められていた。

「えっと、ピクルス?」と私は聞いた。

「浅漬けだよ! ほら、CMでやってるやつ。浸して終わりの」

真希は瓶の中のきゅうりをペットでも可愛がるような眼差しで見つめている。

「料理したって言えるの? それ」と私が言ったら、真希は「私にとっては偉業なんだってば」と口を尖らせた。

 縁側に座って三人できゅうりを食べた。今日は特に日差しが強い。 

「おいしいね」

テムの服の中からきゅうりがぽりぽりと齧られる音がする。大変気に入ったようで、私と真希が一本食べ終わるまでにテムは三本も平らげていた。

「さすが私の手料理」と真希がテムの食べっぷりを見て笑った。

 そのわずか三十秒ほど後の出来事だった。

「あ、苦しい――あつい。辛い。嫌。ああ」

テムがうわごとのように何か言ってから、突然背骨を抜かれてしまったみたいに力無く仰向けに倒れた。

「ちょっと……テムちゃん。大丈夫?」

聞いてもテムは返事をせず苦しそうに小さな胸を震わせている。そして、瞬く間にテムの青白い肌のあちこちに大きな赤い水玉模様が浮かび上がってきた。

「どうしよう、どうしよう。なんで、いきなりこんな」

真希は激しく動揺しているようだった。

「とりあえず運ばないと!」

私はそう言ってテムの脇を持って奥の方へ引っ張った。触れるとテムは焼けた石のように体温が高かった。

 仰向けのテムを覗き込んで、真希は顔を青くしていた。

「きゅうり、ダメだったのかな。よりによって……ごめんね」

私たちはテムが友達である以前に、宇宙人であることをいつの間にか忘れてしまっていた。

「すごい熱――救急車呼ぶわけにもいかないし、どうしよう」

私も気が気では無かった。テムの水玉模様の赤が段々濃くなっている。宇宙人の体の仕組みなんて知る由もないが危険な状態であることだけは窺えた。

「ああ、あの。ユーふぉーの。中。あるんです――ボールみたいな。しろくて、丸い、それを」

テムは苦しそうに息を吐きながら、押し出すような声でゆっくりと言った。今のテムに必要なものらしい。

「分かったよ。私取ってくるから、真希ちゃんここお願い!」

気がついたらそう叫んでいて、私は返事を待たずに真希の家を飛び出した。

「たすけて」とテムが小さく言ったのが聞こえた気がする。気のせいでないとしたら、テムが自ら私たちを頼るのは初めてのことだった。

 その日は初めてテムに会った日よりも暑くて、空には一切の雲も無かった。急かすような陽が照りつける中、私は何かを振り切ろうとするみたいに自転車を漕いで、UFOの落ちているあの場所までの道を走った。さっきからずっと心臓が浮かんでいるようでぞくぞくする。世界がまた私たちに悪意を持ったような気がした。

 UFOは変わらずあの場所にあった。機体の表面に小さな枝や木の葉が落ちていて、寂しげに光る水銀の水たまりのようだった。

 後ろの方へ回ると開いたままの小さな出入り口らしき箇所があって、そこから丸い板の階段が伸びていた。私は呼吸を整えることも忘れて機体の中へ入った。

 中へ入ると正面に広い窓があって、青い空をところどころ落ち葉が遮っている。窓の下と窓以外の壁面はたくさんのボタンや画面、レバーがついた機械が所狭しと取り付けられていて、それらはどこも壊れているように見えなかった。

 テムが持ってきて欲しいと言ったものらしき白くて丸いものも、すぐに見つけることができた。直径二十センチくらいの大きさで、表面はつるんとしている。拾い上げて触ってみてもボウリングの球くらい重いこと以外に何も機能がないように見受けられた。

 こんなものが何の役に立つのかは分からないが、私たちがテムを助けるためにはこれに縋るしかない。私は白い球体を自転車のカゴへ乗せてまた走った。金魚の目、テムの頭、お母さんの遺品、テムの皮膚の赤い斑点、真希の動転した瞳、熊の親子、UFO、お父さんの遺影、私の顔、おばあちゃんの後ろ姿――久々に目覚めた悪魔が、嵐を起こして私の頭に目まぐるしくそれらを見せ続けている。もしテムが死んでしまったら真希はどんな顔をするのだろう。あの子は宇宙人だから無縁仏になってしまう。そういう思考に囚われていたら、真希さえも今生きているのか不安になっていった。向こうのほうで野焼きの黒い煙が空の青と白を垂直に切り裂いて立ち昇っている。

 扉を乱暴に開けて、真希の家に入った。靴を脱ぎ捨てて部屋に戻ると、テムの横で真希が呆然と座り込んでいた。

「様子は、どう」

私は息も切れ切れに言った。

「テムまだ、息はしてる。でもどうしよう。何もわかんない」と真希が微かな声で言った。

横たわっているテムに浮かぶ赤い模様は、行く前よりもさらに濃くなった気がする。私はテムの頭の横へ白い球体を置いた。

「テム、玲が持って来てくれたよ。これだよね? どうしたらいい? どうしたら」

真希が必死にテムに語りかけると、テムは小さくうめきながら身をよじって、球体に触れた。その瞬間、細いドリルが何かを削る時のようなきりきりした音が部屋中の空気を裂いた。窓と金魚鉢の水面が激しく揺れている。私たちは頭が痛くなって思わず耳を塞いだ。

「何これ……」

 止むまでに二、三十秒ほどかかっただろうか。音が収まって私たちはテムの方を見た。テムの体の斑点がさっと滲むように消えていき、呼吸もだんだんと落ち着いていくようだった。

「もう、平気です。だいじょうぶになった」

さっきまでの状態が趣味の悪い冗談であったかのように、テムはいつもの調子になって起き上がった。真希は穴を開けられた風船のように深いため息をついて、それから泣き出して何度も「ごめんね。ごめん」と謝った。

「どうして、そんなに取り乱してるの」とテムは言った。

真希は向こうのテーブルに置いてあった、きゅうりの入っていた瓶を睨みつけた。

「だって、私がきゅうりなんかあげたせいで。テムがあんな、死んじゃったらどうしようって」

「テムは、死ななくてよかったですか」

テムがそう言った時、丁度後ろから昼下がりの光が当たって、虹色の輪郭が浮かび上がった。

「当たり前じゃん」と真希は怒ったように言った。

「それは、とも、とモだちですか?」

「うん、そう。そうだよ」と私は笑った。

私もやっと強張っていた身体が緩んで、その場に座り込んだ。

「それで、この丸いのは一体何?」

安心して静かに泣き出した真希の背中を撫でながら、私はテムに尋ねた。

「治癒球っていうの。直訳しているので正しいかはわかりません。即死しない限り、ほとんどの体のわるいことは、これを使います」

テムはそう言うと、金魚鉢の方へ軽やかに歩いていった。

 念のためその日の夜は何度か真希にメールを送ってテムの具合を伺ったけれど、変わったところは何もないようだと真希に言われた。

 その日はひどく疲れてしまって、祖母の家に着くなり強烈な眠気がずっしりとのしかかってきた。夕食を食べた後に祖母と何かを話した気がするがもう思い出せない。ベッドに入った時、一瞬だけとてつもなく恐ろしいものがこちらを見ているような気がしたが、その後すぐに意識が途絶えた。

 それから数日は晴れが続いたが、私たちはいつもの通りに真希の家に篭って過ごした。テムは変わりなく、本を読む時間よりも私と真希がやっている『ドラクエ』の画面を眺める時間のほうが長くなってきた。

 私はその間に何度か真希の家で簡単な料理を作った。真希とテムはどれも大げさなほど美味しいと言ってくれた。

 冷やし中華を作った時は、テムが裾のほうから麺を食べるのに大変苦労した。

「ほら、手伝ってあげるよ。中は見ないから大丈夫」

そう言って真希は箸で麺をつかみ、テムの裾の中にうまいこと入れてやっていた。テムは私たちのように麺を啜れないことを少しだけ悔やんでいるようだった。

 お盆の時期には三人で迎え火の上を跳んで、きゅうりの馬と茄子の牛を作った。念の為テムにはそれに近づかないようにと、私と真希はしつこく言った。

「なんで、やさいをこうするのですか」

縁側に置いてあるきゅうりの馬を遠くから指差して、テムは私に聞いた。

「お盆の時期にね、亡くなった人たちの魂がこの世界に帰ってくるの。馬に乗って早くこっちへ着いて、帰りは牛に乗ってゆっくりと戻るために用意するんだよ。魂って概念が宇宙にあるかは分からないけど」

「え、それじゃあ、テムのお父さんとお母さんもここに来ているんですか」

「どうだろう。いたら返事くらいして欲しいけどね」

私がそう言うと、テムは黙って金魚の方へと走っていってしまった。まるで何かから逃げるみたいに見えた。

 そうやって緩やかに夏休みの日々は消費されていって、残りも半分を切った日のことだった。いつものように真希の家へ行くと、玄関先に沢山の紙屑が落ちていた。

『文科省大臣 いじめスキャンダル 息子は反省ナシ!?』

そのうちの一つを拾って広げて見てみると、この事件の何もかもを面白おかしく思っているのを隠そうともしていない見出しのついた記事の切り抜きだった。他のも全て真希の家族の件に関わるニュースを扱った新聞や週刊誌の記事で、いくつかは油性ペンで暴言が書かれていた。

 一体誰の仕業で、どうやってここを知ったのかはわからないが、真希への嫌がらせであることだけは明らかであった。私たちは長いことニュースや新聞のようなものを目にしていなかったが、記事の見出しを見る限りでは騒ぎはもっと大きくなって、真希の父は進退を問われる事態になっていたようだった。

 私は呼び鈴を押す前に散らばった紙屑を、真希に絶対に見せたくなくて全て集めようとした。向こうにある最後の一つを残すばかりとなった時に、玄関の扉が開いて真希が出てきた。

「あれ、着いてたの? 遅いから出て来ちゃった。何してんの?」と真希は聞いた。

私は咄嗟に紙の束を持つ左手を後ろに回した。

「おはよう。ゴミが散らばってたから。拾ってた」

私がそう答えると真希は「怪しい」と言って笑い、落ちていた最後の一つの紙屑を私より早く拾い上げてしまった。真希はそれを広げるとわずかに瞼を動かした。

「そっか。もうバレたんだ」

真希はそう呟くとしばらく黙ってから、目一杯の力でその紙を何度も何度も紙を引き裂いた。

 真希は私を家にあげた後で、「残りも見せて」と小さく言った。

「大丈夫……?」

「いいから、見せて」

真希はそう言うと紙を掴んで自分の方へ寄せ、丸まっていた紙を一つ一つテーブルの上に広げ始めた。

「これは、何?」

テムが紙を覗き込んで聞いた。

「ゴミだよ。ゴミみたいな人のことが書いてあるゴミ」と真希は鼻で笑いながら言った。

「い、じめ? イじめってなんですか」とテムが聞いた。

今はやめておこうと私がテムに言おうとする前に、真希が話し始めた。

「いじめっていうのはね。人を標的にして殴ったり蹴ったり、悪口言ったりものを壊したり、無視をしたり。そういうことするの」

「酷いことってこと? どうしてそんなことするの」とテムは言った。

「知らない。分かんないよ。お兄ちゃんもそう言ってた。生き物の本能なんじゃない。まあ、私の場合はされる理由があるんだけどね」

真希は自嘲するみたいにそう言った。

「警察に、言う?」

私は慎重に真希の顔を見ながら聞いた。

「お兄ちゃんは人殺したのに捕まらないんだよ。ゴミ捨てられたくらいで行けないよ。そのうち飽きるでしょ」

真希はまたテーブルの上の記事を、羊のように濁った目で見下ろした。

「あーあ。キモい」

真希は『人殺しの一族』と書き殴られた紙を鷲掴みにしてぐしゃぐしゃに丸めながら、独り言のようにそう言った。

「お兄ちゃんだって同じ。人の心をわざわざ吊し上げて、みんなの前でバラバラにして笑ってたんだから。あいつ今傷ついてるといいな。死ねばいいのに。死にたくなればいいのに」

「やめなよ!」

そう言って真希の肩を掴んだ時、気が付いたら目から涙が溢れていた。

「――ごめん」

真希はつらそうな顔をして私から目を逸らした。

「こんなのさっさと捨てて、課題やろっか」

真希は深いため息を吐いてからそう言った。真希は笑っていたけれど、もうこれ以上この話をしたくないと言っているように見えた。

 翌日は真希から連絡が来なかった。一人で居たいのかもしれないとも思ったけれど、断られることも覚悟の上で、初めて私から遊びに行っていいか連絡をした。

『もちろん!』

真希からの返信はすぐに帰って来た。

 祖母の家を出て自転車に鍵を挿した時だった。

「突然、ごめん。話聞いていいかな?」

背後から抑揚のなく、ところどころ引っかかったように妙なアクセントをつけた男の人の声が聞こえた。テムに似た話し方だ。振り向くと、私よりずっと背の高い奇妙な格好の二人組が立っていた。どちらもこの炎天下にはそぐわない黒く重たそうな長いコート姿で、肩幅の倍くらいの丸いつばがある黒い帽子を被っている。そして黒づくめの全身の中、テムの頭と全く同じ虹色を帯びた頭だけが不気味に輝いていた。

「私たち、あるクニの者でして。治安維持部隊――ケイさつ。なんだ。です。言葉が下手で申し訳ないのだが。こういった者をご存知ですか」と二人組の片方が言った。

そして二人組は同時に同じ形の手鏡みたいな機械を取り出して開き、私に見せてきた。彼らの仮面はテムのよりもしっかりと整形されたような、歪みのない形をしている。

「いえ。知りません」

私は咄嗟に首を振った。生きた心地がしない。目の前に二つ並んだ画面に、テムの画像と見たことのない文字が表示されていたからだ。

「この人、なんかしたんですか。悪いこと」

私は震える腕を押さえながら聞いた。青空を唐突に遮って立っている二人組が、不気味な一対のそびえ立つ塔に見える。

「逃亡犯なんです。削減――すみません。ここのクニの言葉だとサツ人ですね。二名。大人を。この容疑者は、両親をサツし? ころシたんだ。とにかく、危ないんだから、捕まえます」と、左側が言った。

事故のことを電話越しに聞いた時と同じ、世の中のこと全部をどう捉えればいいのかを丸ごと忘れてしまったような感覚に陥った。

「そうなんですか。すみません。私、私行かなくちゃ」

私は逃げるように自転車に乗って、その場を後にした。

 何度も後ろを振り返ったが、あの二人組は追ってきていないようだ。これまでのテムの妙な言動の答え合わせがされていく。胸がざわつくのを忘れるために、全力でペダルを漕いだ。どうしてこんな日も晴れているのか分からない。気がついたら真希の家へ向かう道に来ていた。

 着いてから私は真希に挨拶もせず、いつものように金魚鉢の前に座って、ドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいたテムの前に立った。 

「ねえ、テムちゃん。聞きたいことがあるんだけど」

喉から出る音ひとつひとつが石みたいに重くて苦しい。

「なに?」とテムが言った

「人を、お父さんとお母さんを、殺したの?」

そう聞いた瞬間に、真希は驚いて私の顔を見た。テムは肩をこわばらせて、持っていた本をゆっくりと膝の上に置いた。

「さっき、宇宙人みたいな人がうちの前に居たの。治安維持部隊とかいう大きい黒いマントの人たちが。その人たちがテムちゃんの写真見せてきて、言ってたの。あなたのこと殺人犯って」

「玲、それ何かの間違いだよ」

真希はテムの頭に歪んで映っている私の顔を見て言った。

「違うなら違うでいいんだけど。ねえ、教えて」

いつもと違うところに喉があるような気がして、うまく声が出せない。周りの音が遠くなって、鉢の中で舞う金魚の鰭の残像がずっと目に焼き付くようだった。

「違わないです。ころした」

テムは低い声でそう答えた。窓の向こうで日差しが一層強くなり、テムの頭もより眩しく光った。夏休みの間に紡がれた、ばらばらになった私を辛うじて繋いでいた脆い一本の糸が千切れていく。暗くて冷たい何かが染み出して私の心を埋め尽くした。

「玲!」と真希が叫んだ。

気がついたらテムの小さな肩を強く掴んでいた。

「どんな気持ちで、どんな気持ちで私と、私たちと居たの」

金魚が驚いたのか急に身を翻して、水の弾ける小さな音がした。テムは息遣いを荒くして、凍えたように震えている。初めて会った日のあの時と同じだ。

「やめなよ、やめて」

真希が私の体を引っ張って、テムから引き剥がした。振り解こうとした時、真希の腕にまだ少しだけ残っていた赤い傷の跡が見えて、私の体は固まった。

「い、いじめ」

テムは俯いたまま、小さくそう言った。

「え?」と真希が声を漏らした。

「テムなんかいらないって。お母さんはお母さんになるの嫌だったんだって。怖かったんだって。機嫌が悪い時は何度もぶったり、蹴ったり。立ってる場所がいやで怒ることもあれば、はじの方で座ってたらものを投げられたりもしました。思い出せない。怖くて。棚にしまって鍵をかけたの。いたくて、おなかがすいてて、こわくて」

テムは震える声でそう言った。

「お母さんにいじめられてたってこと?」と真希が聞いた。

「お母さんと、お父さん。特にひどい日があって。なんで生きてるのってずっと聞かれたの。朝が来てから夜まで。テム答えられなかった。そうしたらたくさんぶたれた」

首の据わっていない人形みたいに俯くテムの上で、金魚が浮いている。

「誰も、助けてくれなかったの」と真希が聞いた。

真希は落ち着いて話をしようとしているようだった。

「何回も治安維持部隊に言ったの。でもテムが死んでないから動けないんだって。死んでないから問題がないんだって。けがを見せても。母体が混乱して子供を攻撃するのって、たまにあることなんだって言われたの。家の中と外は違うから。治安維持部隊は外を維持するところ。別の家の人は別の家の人と関係ない。家のことは、子供と親だけなの。子供は家を出ないから。テムをどうにかできるのはテムだけだったの。うまれてからずっと」

名前も知らない遠くの国から来た政治家の演説を聞いているような気分だった。

「――だからって、親を、殺したの」

私は八つ当たりするようにテムに言った。虹色の頭がこちらを向いて、激しく火花を散らすように煌めいた。

「じゃあ、テムはどうすればよかったですか。さかなみたいに助けて貰えない。誰も見てないから。どうやっていればよかったですか。テムが死ねば良かったの。どうしたらいいんですか。テムが死んでもいい人の前で、どう生き残ればいいの。どう大きくなればいいの。ひとりだけで、お母さんとお父さんに嫌われて」

テムの声には確かに深い怒りが込もっていた。その怒りは私に向けられたものではなくて、自身を取り巻く世界そのものを恨んでいるようだった。そして、その姿は私に似ていた。この子に何を言えばいいのかも、自分が何を言いたいのかも考えつかない。

「なんでよりによって、そんなあなたが、私の前に来たの。どうして私たちばっかりなの」

私は取り止めのない言葉を溢した。

 真希は虚ろな目で、明るい窓の向こうを見ながら言った。

「私、お兄ちゃん殺そうと思ってる。本当に」

「真希ちゃんまで何言ってんの。なんで!」

私は真希の方を見たが、向こうは目を合わせようとしなかった。これが場を和ませるための嘘でないことだけは分かった。時折真希に抱いていた違和感の正体が、この時ようやく分かった気がした。

「私は家族が好き。でも、あの人は遊びで人を殺すような奴だから。だから好きなお兄ちゃんが辛うじて残ってるうちに終わらせるの。殺されたら流石に、お兄ちゃんだって少しは反省するでしょ」

真希は笑わないで、ただ救いを求めるように外を眺めている。

「いや、しないよね。わかってる。だって家にいる時もああだったんだもん」

真希は軽蔑するように言った。

「昨日玲が帰った後、久しぶりに電話かかってきて。俺の方ニュースのせいでめんどくさいことになったから、しばらく私のところに匿ってくれないかって。私、いいよって言っちゃったの」

真希のスカートに涙が落ちた。

「だから、その時決めたの。お兄ちゃん殺して私も死んでやるって。テムの気持ち分かるよ。他に方法がないんだから、しょうがないじゃん」

真希は小さい声でそう言った。

「真希ちゃん……やめて」

上手く声が出せなかった。

「死にたい時ってこういう気持ちなんだね。ごめんね。私玲にあの時あんな――」

真希は自分さえ貶すように言って、顔を覆った。何も言葉が思い浮かばない。ただ立ち尽くしていたら、また涙が出た。

「マキもレイも、死なないで」

しばらく黙っていたテムが、はっきりとそう言った。

「そうしないで済むなら、そうしたいよ。でも、こうでもしないと納得できないんだよ。人生に意味がないって言われてるみたいで」

真希は投げやりな視線で答えた。

「それは、やっぱり死にたくないってことですか」とテムが言った。

その瞬間、悪魔が私の体を乗っ取った。悪魔は静かにしていたわけでも居なくなったわけでもなくて、私が隙を見せるのを、じっと待っていただけだったのだ。

「うるさい。人殺しが分かったようなこと言わないで」

テムはまた全身を縮めてうずくまった。真希が立ち上がって、私の頬を叩いた。

「馬鹿。謝って!」

真希は私を刺すように見つめて怒鳴った。卑怯な悪魔はすぐに居なくなって、自分への嫌悪だけが胸の奥にむかむかと残った。

 すぐに目が覚めた私は座り込んで、縋るように震えるテムの手を握った。

「本当に、ごめん。こんな――」

一言そう言ったら、あとは涙と一緒に「ごめん」という言葉だけが溢れ出た。

「大丈夫です。テムが悪いから」

テムはいつもより小さく、それでも私の手を握り返してそう言った。

「でも、不思議です。テムを責めればいいのに。マキはどうしてレイに怒ったの」

テムは真希の方を向いた。

「何言ってんの。今のは玲が悪いの。テムもなんか言ってやんなよ」

真希は気が抜けたように笑ってそう言った。

「ごめん」

私は下を向いたまま、また謝った。

「私たち、そんな贅沢言ってるのかな。ただ幸せに、普通に生きたかっただけなのに。どうしてこんな――だって、友達なのに。二人のこと分かれないし、私も二人に自分のこと伝えられない。私たち何も悪くないのに。悔しい。こんなに喧嘩しても、怒っても苦しんでも、きっと死んでも、何の訴えにもならない。何も変わんない」

雨が降り出すように、言葉が止まらなかった。テムの手は相変わらず人間より温かくて、握られていると血の気の引いた自分の指先の輪郭がよく分かった。

「ものがたりを読んだり、マキとレイを見ていて、気がついたことがあります。二人は、仲が良いけど、違うの。それから、テムも」

しばらく皆が静かになった後で、テムが話し始めた。

「違うって、どういうこと?」

真希は私たちの横に腰を下ろしながらテムに聞いた。

「行動、考え――心がです。テムの星のお母さんとお父さんは同じなの。テムだけが違くて。お父さんは、元はお母さんで、テムが生まれる前にお母さんが分裂して出来るの」

「分裂? じゃあテムの種族って、誰かと出会って結婚したりしないの」と真希が聞いた。

「うん。そう。ケッコンのことあまりわかんないけど。テムの星は親になるとき一人でなります。分裂したお父さんはお母さんの考えを引き継ぐから、テムのことが嫌いだった。テムの星は家が全てだから。お母さんが子供を嫌いだったら、子供はみんなから嫌われもの。一人なの」

テムの声は少しずつ小さくなっていった。

「それで、いじめられちゃったんだ」

そう言う真希の瞳は、静かな怒りを湛えていた。

「テムの星はマキとレイみたいに、親以外の他者と関わって、関係を築きません。そうやって、お母さんとお父さんの元一人で育ちます。子供が成体になったら別の家に越して次の代の家族になるの。違う人をほとんど見たことがなかったんです。だから気づくまで時間がかかった」

テムが私の手を握る力が少しだけ強くなった。

「テムとレイは、違います。さかなもマキも違う。テムの心はテムだけのもの。レイの心はレイだけのもの。心を言葉にできなくても、他者に勝手に翻訳されるべきじゃないです。だから、わからないことを辛く思わなくてもいいと思います。テムもわかれないから。それは、問題じゃないと思うです」

テムはいつもの調子でそう言った。

「テムちゃん……」

私はようやく顔を上げた。ひどく腫れた私の顔が、目の前の虹色に写し出されている。

「だからテムは、マキの言っていることもよく分かりません。テムは今、自由な気持ちなんです。マキは、苦しそうだから」

UFOを目にしたあの瞬間よりも、テムが本当に宇宙人なのだとこの時にはっきりと思った。

 それからまた、お互いの顔を見合うだけで誰も喋らない時間があった。真希が一度水を飲みに行って、戻ってきた時のことだった。

「――分かった。ねえ、逃げよう」

真希は微笑みながらそう言って、私たちの顔を覗き込んだ。

「どこへ?」と私はいった。

「どこでも。どこでもいいよ。どっか行こうよ。私たちも一緒にテムのUFO乗って。地球でもいいし、別の星でも。誰にも邪魔されないところ。テムはどのみちここ出ないと捕まっちゃうし。どうせなら」

真希の顔はいっぱいの希望で輝いて見えた。

「でも、あのUFO壊れてるんじゃないの?」と私は尋ねた。

「超光速航行は不可能だけど、飛ぶなら、できます。十分に加速すれば宇宙空間に出ることも」

テムは立ち上がりながらそう言った。

「玲は、来る?」

真希の笑顔に、また一筋の雫が伝っている。

「うん。行く」

心の底から出た言葉だった。真っ暗な迷路の中、宙に浮かぶ出口が向こうへ見えたような、自由な心地だ。テムと顔を見合わせて笑うと、虹色の頭が明るく光った。

 真希の家からUFOに行くまでに、追っ手の宇宙人は見当たらなかった。私は治癒球、真希は適当なものを詰めた鞄、テムはさかなの入った金魚鉢を携えてUFOの中へ入った。

「意外と広いんだ!」

真希はボタンなどに触れないように気をつけながら、目を輝かせてあちこち見ていた。

「ここなら、さかなも安全です」

テムは壁面に取り付けられている戸棚のような機械の扉を開け、そこの中に金魚鉢をしまい込んだ。

「ここに入れておくとどうなるの?」と私は聞いた。

「ユご――ごめんなさい。対応する言葉がわかんない――ユごが放出されて、反転三次元の空間になります。そうすることで、あらゆる物理学的な法則を無視し、衝撃から守られます。本当は、空間断裂クスィフォスなどの危険物を入れておく場所なの」

テムは扉の向こうで泳いでいる金魚を見上げながらそう教えてくれた。

 それからテムは操縦桿を握って、私と真希はその左右に立った。

「プログラムの再起動も完了しました。飛行を開始します」

テムが短い腕を前に押し出すと、うめくような機械音が鳴り響き始めた。心臓だけ置いて行かれたようなふわつく感覚がする。木々の頭がゆっくり視界の下へと移動していく。

「私たち、UFO乗ってる!」

みるみるうちにテムと再び出会った川や真希の家の屋根、稲の海が小さくなっていった。真希は窓に手を当て、あちこち見下ろしている。

「――あ」

テムは手元にあった画面で何かを察知したようだった。

「どうしたの?」と私が聞いた。

「治安維持部隊に、見つかっちゃった。再起動したので、探知されたのかも」

私と真希は緊張が走った面持ちで目を合わせた。窓に額を近づけて後方を見ると、確かにこちらのより一回り大きい、黒曜石のような色のUFOが接近しているのが見える。

「じゃあ、全速力で。船長」と真希は笑った。

「捕まって。危ないです」

テムは正面を見たまま操縦桿を強く握った。

 私たちは八月の風になって宙を駆け巡った。テムは真希の指示で、追っ手を振り切るため縦横無尽に翻弄するようにUFOを操った。ある時はひまわり畑を掠めるほど低く、ある時はこの辺りで一番高い山の頂をなぞるように。蜻蛉の群れを押しのけ、燕を追い越す銀色の光になった。人や車も時折目にしたが、彼らが気付いたかはわからない。今日の空は一段と青が濃くて、時折私たちを歓迎するように蝉の声がかすかに外から染み入ってきた。黒いUFOはしつこく私たちを追い回してきて、真希と私は度々窓の向こうへ向かって野次を飛ばした。

 山間のあたりまでやってきた時だった。追っ手のUFOの機体がわずかに変形して、棘のようなものが一対生えたのを見た。

「なんだろ、あれ」と真希が呟いた。

棘が青白い光を纏って輝きだす。光が徐々に棘の先端に集まった。

「やばい!」と真希が叫んだ。

光の刃が音もなくこちらのUFOの機体を掠め、強い衝撃と大きな揺れが起こった。壁の機械が異常を示しているのか様々な部分が赤くなり始め出している。

「濃縮プロキオン光線です。多分、威嚇射撃だから助かったの。次当てられたら危険です。やっぱり、マキとレイは降りて」

テムは小さな体をのけぞらせて操縦桿を支えながら、床に投げ出されていた私たちに言った。

 警報が鳴り響いている。私は起き上がって真希の方を向いた。真希は微笑んでいた。

「私は――私は怪我しても、死んでも大丈夫。ここで終わるならそれで」

私はテムに聞こえるように少し大きい声で言った。

「私も。どう終わってもいいから。これ以上奪われないように選びたい。だから、それまで諦めないで逃げよう」と真希も言った。

テムは私たちの方を向かずに黙って、正面の機械を操作している。それからすぐにUFOが減速し、森が開拓されて芝生の広場になっている箇所を目掛けて緩やかに高度を落としだした。

「何してるの!」

私は慌ててテムのそばに寄って聞いた。すぐに軽い衝撃が機体を揺らし、着陸したことを悟った。

「あきらめます。やっぱり、生きていてほしいから。ともだちだから」

虹色の頭は強く陽を反射して光っていた。テムは初めて「ともだち」という言葉を流暢な発音で口にした。

「ちょっと、変な冗談やめてよ。ほら、早くして。来ちゃうよ」

真希も必死にテムの肩を掴んで説得した。向こうの方に黒いUFOが降りてくるのが見える。

「逃げるのは、無理です。だから。ごめんなさい。最初から分かってた。あきらめます。これも必要なことだと思う」

テムは私と玲を交互に見てそう言った。

「逃げようって言ったじゃん。なんで――」

真希が言葉に詰まって、テムはゆっくりと話し始めた。

「あきらめるのは、怖いです。辛いです。でも、そうしないともっとダメになる時もあると思う。どうしようもないことは、あきらめないといけないんだと思ったの。テムたちはあれに勝てません」

テムの頭はまばゆく、さっぱりとした光を纏っている。

 テムのその言葉を聞いた時、私はようやく永遠の闇を抜け出す本物の出口を示されたような気がした。

「ねえ、真希ちゃん。私たちも諦めていいのかな」と私は真希の方を見て言った。

「玲までどうしちゃったの!」

真希は私とテムの顔を交互に見て、改めて聞いた。

「散々な目に遭ったよね。許せないし納得だって出来ない。それを受け入れるわけじゃないよ。抗うのを諦めるだけ。きっと諦めきれないけど。この世界は私たちのためにあるわけじゃないから。私たちが望んでるものはもう、得られないから。必死でも、苦しくても誰も見ててくれないから。私たちの存在に意味なんてないことも分かったから。だから訴えるのも、自分を哀れむのも諦めるの。こうやって生きてるのも仕方ないことだって」

真希とテムと私にとって、これがどれだけ残酷な言葉なのか分かっていたから、私は無理矢理に作った笑顔で言った。真希は何かを覚悟をしたような面持ちで私の話を聞いて、少し黙ってから話し始めた。

「私、大切な居場所が出来た。誰にも邪魔されなくて、特別で。やっと、見つけたと思ってた」

真希は俯いた。

「でもそれも諦めなきゃ。もう帰る場所ないんだって認めなきゃ。お兄ちゃんも家族も、諦めなきゃ。これからも、二人と友達でいたいもん」

真希はやっとそう言って、顔を拭った。

「私たち、泣いてばっかりだね」と私は言った。

「生きるってこういうことなんだね。死なないんじゃなくて、諦めることだったんだ」

真希は柔らかく笑みを浮かべていた。

 UFOの中で生きる答えを掴んだ私たちは、完全にこの世界に絶望した。でも、それは不幸なものでは決してなくて。瓦礫の山の中でひとつの萌芽を見つけたように、ようやく小さな本物の自由を得た気がしていた。

 

 私たちは三人でUFOを降りた。金魚鉢を持った真希が左、真ん中にテム、右が私。一列に並んで手を繋ぎ、敵船の前に立った。

 すぐに向こうからあの治安維持部隊の二人組が降りてきて、私たちの前に立った。テムの温かい手は少し震えた後、私たちの手を離した。

 二人組と宇宙の言語でしばらくやりとりしてから、テムは片方を連れて再び自分のUFOの中へ戻って行った。

「あの子、どうしたんですか」と真希が残った方の宇宙人に聞いた。

しばらくしても返事がなかったので、私が宇宙人の肩を叩いた。

「すみません」

「私に話していたのですか」と宇宙人は言った。

真希が「そうです」と答えた。

「捜査の内容を認めました。自シュをすると言ってた。そして、何やら、最後に時間が欲しいと言っていました」

宇宙人がそう答えて、真希は「何か忘れ物かな」と呟いた。

「あの子、この後どうなるんですか」

私は宇宙人の頭の方を向いて聞いた。

「は?」

宇宙人は冷たく低い声で私を見下ろした。

「あの容疑者はあなたではないので、知る意味がないと思いますが」

私が黙って睨むみたいに見上げていると、宇宙人はそう付け加えた。

「聞き方間違えました。参考にしたいので、あなたたちの国の司法について教えてください」

はっきりとそう言ったら、真希が驚いてこっちを向いていた。

「我々の国では、司法システムが判断しマす。生産階層のサク減――サツ人の場合、終身ケイか死ケイかな。そうなります」

宇宙人は他人事のように心のこもっていない声でそう答え、私はそれを聞いて頭が真っ白になった。テムは賢い子だから、自分の星で殺人を犯して捕まったらどうなるのか、始めから知っていたのかもしれない。

「どうして、こうなる前にあの子を助けられなかったんですか」

真希が怒りを忍ばせた声でそう聞いた。

「助ける? それは親子に使う言葉だよ。サツ人ならともかく、家の中のことは、我々が干渉しないから」と宇宙人は少したどたどしく言った。

「家の中で起きた殺人は捜査するのに、なぜ虐待は無視するんですか」

答えて貰おうとは思わず、ただ私は嫌悪のこもった声で言った。

「サツ人は感情に基づく危険な反社会的行動だよね。ギャクタイは生物学的な行動だから。我々は、適齢キになると自動的に雌雄に分離して、そして必ず子供を成します。心身の情報が分レツして親が二体になる時、タ大なる精神的、肉体的負タンが起こる。その結果、生まれた子供を受け入れられない親が一テイ数います」

宇宙人は大きな影を私たちの上に落としながらそう言っていた。

「私、こいつら嫌い」

真希は小さい声で私にそう耳打ちした。

 その後私たちが黙ってしばらく待っていると、テムが白くて薄い箱のようなものを持って、治安維持部隊の片割れと共にUFOから出てきた。

「これを用意していました。あげる」

テムは私にその箱を差し出した。餞別のつもりのようだ。

「ありがとう」と言って私は受け取った。

渡された箱は、いつも私と真希が遊んでいたゲーム機で使うゲームソフトのものと同じだった。イラストの一切ない白い表紙に『オールド・アリス』とだけ無機質なフォントの黒い文字で記されている。箱を開くと無地のディスクが入っていた。

「これって――」

私と真希はテムの方を見た。

「げえむです。今、作ってきました。また三人で会えたら、その時にいっしょにこれをやろう」

テムは早口でそう言った。

「さすが宇宙人。一瞬でゲーム作っちゃうなんて」と真希は笑った。

「どんなゲームか、楽しみにしてるね」

私は屈んで、テムの目を見てそう言った。

 テムは治安維持部隊にその短い腕には仰々しすぎる拘束具を着けられ、そして黒いUFOに乗るよう促された。私と真希は笑ってテムに手を振った。

「さようなら。体には気をつけて。さかなをお願い。バイバイ」

テムはそう言うと私たちに背を向けて歩き出し、二度と振り返らなかった。

 やがて、治安維持部隊のUFOは私たちが乗っていた機体を文字通り吸収して(原理は分からなかった)、奇妙な音を立てながら高速で回転し、高く高く昇って行った。私たちは小さな黒い光になったテムが雲の城塞を突き抜けて、明るすぎる夏空の向こうの闇へ旅立つのをずっと見ていた。

 やがて、完全にあの子は見えなくなった。虫と風の音だけが賑やかに響く中、私と真希だけが立っていて、黙って空を仰いでいる。

「楽しかった。本当に」

涙のせいで揺れる私の目の中で、真希が息を詰まらせながらそう言った。

「うん。私も、楽しかった」

私はそう答えた。二人で抱えた鉢の中の金魚だけが、何も知らない顔で舞っている。私たちは結局『オールド・アリス』をプレイすることは出来なかった。

 

 誰かが玄関のチャイムを鳴らした。もう後五分で夜の九時だ。普段こんな時間に客が来ることはない。モニターに映る奇妙な形の虹色の頭を見て、私は息が止まりそうになった。

 すぐに玄関を開けた。

「レイ? 久しぶり」

そこにはすっかり私より背の高くなって、白く長いコートのようなものを着た虹色の頭が立っていた。声を聞いたのも半世紀ぶりだから、もう声が変わったのか変わっていないのかも分からない。信じられない再会だったけれど、私は幻だとも夢だとも思わなかった。

「――久しぶり。ほら、入って」

 テーブルを囲んで、私たちは色々な話をした。テムは相変わらず裾からものを食べる。あれから私たちが助けた金魚は結局、十二年の大往生を遂げたことを教えると、テムはとても懐かしそうに喜んでいた。

聞きたいことが山ほどあった。どうやってここまで来たのかとか、UFOはどこに停めてあるのかとか、星に帰った後どうなったのかとか。全てテムは答えてくれたけれど、結局ほとんど私には分からない言葉と理論ばかりだった。刑罰に関しては、どうにか死刑を免れて釈放されたらしかったが、テムはあまりその時期について話したがらなかった。

「今はね、子供の家をやってるの。家が嫌な子供のための場所」

テムは得意げにそう言っていた。

「貴方が子供の世話なんて、本当不思議ね」と私は笑った。

 しばらくしてテムは小さな声で私に聞いた。

「マキは、元気?」

しんと部屋が静かになって、外から電車の走る音と、大気洗浄機のエンジン音だけが聞こえた。

「もう、いないの。真希は。一昨年の夏ね。病気で」

しばらくしてから私はそう答えた。テムは黙ってしばらく俯いてから「そうだったんだ」とだけ呟いた。

 私は真希の写真をテーブルの上に置いた。

「あの子ね。ずっとあなたに会いたがってた。夏休み明けてすぐにお父さん失職しちゃって、すぐ転校しちゃったんだけど。その後もずっと仲良くしてくれた」

私はまたお茶を自分のカップに注いだ。

「ずっと、ともだちだったの?」とテムが聞いた。

「そりゃあ、もう。あの子の孫とも仲が良いくらいよ」

「それなら、よかった。でもテムも会いたかったな」

テムの声はいくらか寂しそうだった。

「そうだ。あの時くれたゲーム。私たち本当に約束ちゃんと守ってたから。まだやってないの」

私は戸棚から古いお菓子の缶を取り出し、蓋を開けて中から『オールド・アリス』を取り出した。

「懐かしいね」とテムが黄ばんでしまった箱を撫でて言った。

「やりたいんだけどね。肝心のこれを読み取るWiiがないのよ。もうだいぶ前のゲーム機だから。今の子達は、空間体験型? のゲームをしてるの。テレビの前に座る時代は終わっちゃったのね」

「そうなのか。もう少し早く来られていたらな」

テムは食器棚の中にある真希の写真の方を見ていた。

「まあ、出来なくてよかったのかもね。二人でやったらきっと、真希すごく怒るだろうから」と私は笑って言った。

「マキが怒ったら、怖いね」とテムも声を高くして言った。

「これがどんなゲームなのかは、聞いてもいい?」

テムは「うん」と頷いてから、話し始めた。

「魔王もお姫様も、敵も出てこない。ハートの女王も、水タバコの芋虫も、チェシャ猫も出てこない。ただ、小さな宇宙人と、地球人が出会う話。さかなを助けたり、山へ行ったり。そうするだけ」

そう言われたら、かすかに夏の匂いがした気がした。

「どうして、こんなタイトルにしたの?」

「夢から、醒めないため。いつになっても、アリスでいたかった」とテムは答えた。

そういえば、昔皆でそんな話もした気がする。私の心の奥底で凍っていたものが少しずつ解けていくような感覚がした。

「そう。私たち、ずっとここにいたんだね。無くなってなかったんだ」

写真の中で笑う真希の顔が滲んでいく。眼鏡を外して、手のひらで目を拭った。

「うん。無くならないよ。死んじゃっても」

テムは『オールド・アリス』の箱を真希の写真の横に置いた。

 それから私たちはお互いのことで話し込んだ。何度もお茶を淹れ直した。テムと二人きりで話したことなんてこれまでほとんど無かったのに、家族よりもたくさん言葉を交わした気さえした。

「明日、真希のお墓に行こうか」

午前一時を回った頃、眠気にくもった声で私は言った。

「うん。行きたいな。あと、レイがはじめにくれたお菓子! あれが食べたい。なんて名前だっけ」とテムが言った。

そういえばテムは、意外に食いしん坊だった。

「蕎麦ボウロ? じゃあそれも買いに行きましょう」

もう夜中なのに、もの悲しいサイレンのような蝉の声がどこからか聞こえてくる。

 七十三回目の夏が、私に訪れた。

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オールド・アリス 脱水カルボナーラ @drycalbo

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