ホテル・Eterionn──揺らぐ気配と恋の予兆

深山 紗夜

“第1話:揺れの始まり”



嘘は香りに現れ、

恋は気配に触れて始まる。

これは、小さな揺れから始まる物語。



朝陽に照らされたエントランスをくぐると、

ホテル特有の薄く潤んだ膜のような空気が、そっと私の肌にまとわりついた。


ほどよく香る柑橘と白檀のブレンドアロマ。

大理石の床を踏む足音が、静かな空間に自然と調律されていく。


──ホテル “Etherion”。


配属から二週間。

この場所の“気配の流れ”が、ようやく輪郭を見せ始めた。


ただの空調の揺れでも、どの扉が開いたかまで不思議と分かってしまう。

そんな自分の感覚の“癖”も、この場所だとむしろ馴染む気がする。


エレベーターホールに向かう途中、

台車を押したベルボーイの水城みずきさんが軽く会釈して通りかかる。


黒い名札。動きに迷いがなく、

空気の揺らぎまで静かに整えるような“いつものプロ”の気配。


「お疲れさまです、綾瀬 透花あやせ とうかさん、でしたよね。

 そろそろホテルの空気、掴めてきました?」


「はい、少しずつ……! 今日からコンシェルジュ研修で。」


「じゃあ、動線だけ気をつけてくださいね。

 僕ら、“お客様より先に動かない”のが鉄則なので。」


タイミングよくエレベーターが開く。

彼は自然に片手で扉を押さえ、私を先に通した。


(あ……こういう所作が、ホスピタリティなんだ)


中に入ると、彼は迷いなく〝階数ボタンの前〟に立つ。

白い手袋越しの動きまで整っていて、空気の流れすら静まるようだった。


「何か困ったことがあれば、いつでも聞いてくださいね」


「ありがとうございます」


一歩先を歩くのに、決して踏み込みすぎない距離感。

これが“本物のベルボーイの気配”なのだと、身体が覚えていく。


フロントのバックヤードに足を踏み入れると、

夜勤明けの疲労の匂いが少し残っていた。


「綾瀬さんは今日からチーフと一緒にコンシェルジュ。よろしくね。」


リーダーに名前を呼ばれ、示された先にいたのは──


篠原 迅しのはら じん


「よろしくお願いいたします。」


彼は目線だけこちらに向ける。


「あぁ。頼むな。」


重低音なのに、透明な水みたいによく通る声。

その響きだけで、胸の奥の空気がひとつ揺れる。


配属初日から、この人だけは空気の“密度”が違っていた。

威圧ではない。

なのに、何かに触れたら深く沈んでしまいそうな静けさがある。



篠原さんはペンを置き、立ち上がる。

その動作にすら音がほとんどない。


「じゃあ、まずロビーの動線から確認する。ついてきて。」


歩き出す速度は新人の私に合わせている。

けれど、合わせている“気配”は一切出さない。


──この人、ほんとうに“読めない”。


ロビーに出ると、篠原さんがふと立ち止まった。


「綾瀬さん。フロントは“邪魔にならない動き方”が基礎だ。

 焦らずに、まずは流れを見ること。」


その横顔は冷たくない。

ただ、異様に“静か”だった。


「はい。よろしくお願いします。」


その瞬間だった。


「肩の力抜いていい。今日から俺が見るから。」


たった一言で、胸の奥がストンと落ちた。

この人の“静けさ”は、拒絶じゃない……。


むしろ

──触れたら最後だと分かるほど、深い水みたいだ。



「一本同行してもらう。」


内線の点滅。

1208号室の室温トラブル。


向かう途中、篠原さんの歩幅はやっぱり、半歩先で揃う。


「コンシェルジュは“違和感を拾う仕事”でもある。まずは見方を覚えろ。」


言いながら、エレベーターへ乗り込む。



そこに、初めて見るベルボーイがやって来た。


白い名札に、“相良 遥斗”さがら はるとの文字が刻まれている。

姿勢は丁寧なのに、どこか “補正した動き” のようにぎこちなさが残っている。


(新人さん……かな?もしかしたら、同期かもしれない。)


扉が静かに閉まる。

内部には私、篠原さん、そして相良さん──三人きり。


そのはずなのに。


一瞬だけ、空気の“分布”が歪んだように感じた。


(……あれ?)


水城さんと乗った時にはなかった、

“空気の張り付き方” のようなものが、後方の角で微かに揺れている。


ただの緊張かもしれない。

新人なら、よくあることだ。


だけど──


篠原さんは視線を前に向けたまま、

ほんの一呼吸だけ、呼吸のリズムが変わった。


何かに触れた瞬間のように。


鏡越しの名札を一瞥したのは、その直後だった。



エレベーターから降りる寸前、

ベルボーイの靴音が一拍だけ遅れた。


ほんのわずか。

けれど、その“揺れ”が妙に胸に刺さった。


何かが歪んだ。

まだ形すら見えないのに、気配だけがふっと滲む。


その一瞬後──


「綾瀬さん」


呼ばれて振り向くと、

篠原さんがこちらを見ていた。


目は静かで、揺れがない。

ただ、その視線は 私ではなく足元のあたり を一度だけ確認したようにも見えた。


「……大丈夫ですか?」


胸が跳ねる。


(なんで分かるんだろう)


「え、はい。なんでも……」


「無理に言わなくていい。

 さっき、呼吸が少し乱れたから。」


呼吸──。


(気づいたの、そっち……?)


誤魔化したつもりはなかった。

けれど、あの違和感に胸がざわついた瞬間、確かに呼吸が一度だけ浅くなった。


──やっぱり、この人は誤魔化せない。


気配の流れが、今日から少し違う方向へ動き出したのを

身体だけが先に知っている。


揺れは、小さかったのに。

なのに胸だけが、理由もなくざわついていた。



この日、私が拾った“わずかな揺れ”が、

ホテルを巻き込む長い波紋の始まりだとは、まだ知らなかった。






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