性欲の消えた世界で
埴輪庭(はにわば)
凛子の場合
◆
わたしの名前は桐島凛子。
二十八歳、出版社勤務。
大学時代から付き合っている恋人がいて、来年の春には結婚する予定だった。
「だった」という過去形を使わなければならないことが今のわたしには信じられない。
いや、正確に言えば、まだ婚約は解消されていない。
彼──真司は「べつに解消する理由がない」と言った。
その言葉の意味がわたしにはわからなかった。
解消する理由がないなら、続ける理由はあるのだろうか。
彼の瞳を覗き込んでもそこにはもう、かつてあった熱が見つからない。
まるで同僚を見るような、フラットで乾いた視線。
わたしはいつから、彼にとって「そういう存在」になってしまったのだろう。
◆
二年前のことを思い出す。
「性欲抑制促進法」という名前がニュースで初めて報じられたとき、わたしは真司とカフェにいた。
窓際の席で、わたしはアイスラテを彼はブラックコーヒーを飲んでいた。
テレビの音声がざわめく店内に響いて、わたしたちは同時に画面を見上げた。
『男性の性欲を医学的に抑制することで、性犯罪の根絶を目指す──』
キャスターの声は淡々としていた。
わたしは思わず笑ってしまった。
「まさか、こんなのが通るわけないよね」
真司も苦笑いを浮かべていた。
「さすがにディストピアすぎるだろ。SF映画じゃあるまいし」
彼の手がテーブルの上でわたしの指先に触れた。
その温もりをわたしは当たり前のものだと思っていた。
あの頃のわたしたちは世界がこんなふうに変わるなんて想像もしていなかった。
◆
法案は一年後に可決された。
驚くべき速さだった。
いや、驚くべきは速さではなく、反対の声の小ささだったのかもしれない。
世界中でフェミニズム運動が高まり、性犯罪への厳罰化が進む中で、この法案は「究極の解決策」として提示された。
男性の性欲を薬によって完全に抑制する。
副作用はほぼない。
健康への影響も認められない。
ただ、性的な欲求だけが消える。
それだけ。
「それだけ」という言葉の重みをあの頃のわたしは理解していなかった。
SNSでは賛否両論が渦巻いていた。
「これで女性が安心して夜道を歩ける」という声。
「男性の人権侵害だ」という声。
わたしは正直、前者に近い立場だった。
痴漢に遭ったことがある。
大学生のとき、満員電車で。
あの不快感、恐怖、そして何より「なぜわたしが気をつけなければならないのか」という理不尽さ。
それを思い出すとこの法案を全否定することはできなかった。
真司にそう話したとき、彼は黙ってわたしの話を聞いていた。
「俺は……」
彼は言葉を選ぶように口を開いた。
「凛子がそう感じるのは当然だと思う。でもなんていうか、複雑だな」
「複雑?」
「うまく言えないけど」
彼はコーヒーカップを両手で包み込んだ。
「性欲って、そんなに単純に切り離せるものなのかなって」
わたしは首を傾げた。
「どういう意味?」
「たとえばさ」
彼の視線がわたしの顔を捉えた。
その瞳の奥に確かに熱があった。
「俺が凛子のことを好きになったのはもちろん性欲だけじゃない。でも最初に凛子を見たとき、『きれいだな』って思った気持ちの中に性欲が一切なかったかって言われたら……正直、わからない」
わたしは何も言えなかった。
「凛子の笑顔を見て幸せになる気持ち。隣にいたいと思う気持ち。それが純粋な愛情なのか、性欲が混じってるのか、俺には区別がつかない」
彼は自嘲するように笑った。
「男ってそういうもんなのかもしれないけど」
あのとき、わたしは彼の言葉を真剣に受け止めなかった。
「大丈夫だよ」とわたしは言った。
「真司がわたしを好きな気持ちは本物でしょ? 性欲がなくなっても、それは変わらないよ」
彼は曖昧に頷いた。
今思えば、あれは同意ではなく、諦めだったのかもしれない。
◆
法案が施行されてから三ヶ月後。
真司は「義務投与」を受けた。
投与を拒否すれば罰則がある。
社会的な制裁も待っている。
「未投与者」というレッテルは「潜在的性犯罪者」とほぼ同義だった。
真司は医療機関から帰ってきて、わたしの部屋のソファに座った。
「どう? なんか変わった?」
わたしは恐る恐る尋ねた。
彼は少し考え込むような顔をした。
「うーん……よくわからない。べつに体調は悪くないし」
「そう」
わたしはほっとした。
「よかった。副作用とかなくて」
「ああ」
彼の声は平坦だった。
でもそのときはまだ気づかなかった。
その夜、わたしたちは同じベッドで眠った。
いつものように彼の腕の中で目を閉じようとしたとき、違和感があった。
彼の腕がわたしの体に回ってこない。
「真司?」
「ん?」
「……なんでもない」
わたしは自分から彼に寄り添った。
彼は拒否しなかった。
でも抱きしめ返してもこなかった。
まるで、隣に荷物が置いてあるのを気にしない人のように彼はただそこにいた。
◆
変化は徐々にしかし確実に進んでいった。
真司がわたしの服装にコメントしなくなった。
以前は「その髪型いいね」とか「今日のスカート似合ってる」とか、よく言ってくれたのに。
「ねえ、この服どうかな。新しく買ったんだけど」
わたしは彼の前でくるりと回ってみせた。
彼は一瞬わたしを見て、すぐに視線をスマートフォンに戻した。
「いいんじゃない」
「……いいんじゃない、って」
「似合ってると思うよ」
その言葉には温度がなかった。
まるで「今日は晴れだね」と言うような、単なる事実の確認。
わたしは鏡の前に立って、自分の姿を見つめた。
胸元が少し開いたブラウス。
ウエストを強調するタイトスカート。
以前の彼なら、絶対に目を離さなかっただろう。
そして、ふとわたしは気づいた。
わたしは誰のためにこの服を選んだのだろう。
自分のため?
それとも、彼に見てもらいたかったから?
その問いに答えが出せないまま、わたしはクローゼットの扉を閉めた。
◆
会社でも変化は起きていた。
わたしの勤める出版社は比較的女性が多い職場だ。
編集部には女性編集者が何人もいて、以前はそれなりに華やかな雰囲気があった。
でも法案の施行後、その空気は変質していった。
「最近、会議で発言しづらくなったと思わない?」
同僚の美香がランチタイムに愚痴をこぼした。
「わかる」
わたしは頷いた。
「前はちょっと笑顔で話せばなんとなく話を聞いてもらえた感じがあったのに」
「そうそう。今は完全に『で、根拠は?』『データは?』って感じ」
美香は溜息をついた。
「いや、それが正しいのはわかるんだけどさ」
わたしも同感だった。
以前の職場には言葉にできない「余白」があった。
女性であることで得をしていたとは言いたくない。
でも確かに何かが変わった。
男性社員たちの視線がわたしたちを「同僚」としてしか見なくなった。
それは平等なのかもしれない。
でもその「平等」はわたしが想像していたものとは違っていた。
◆
ある日、企画会議で自分の提案が却下された。
「桐島さん、この企画はターゲット層の分析が甘いです」
上司の佐々木さんは淡々と言った。
「市場調査のデータをもう一度見直してください」
「はい……」
わたしは引き下がった。
以前なら、もう少し食い下がれたかもしれない。
「この企画には可能性があると思うんです」と情熱を込めて話せば、少なくとも検討の余地は与えてもらえた。
でも今は違う。
数字とロジックだけが評価の基準。
それ以外のものは一切考慮されない。
「能力主義ってやつだね」
後輩の男性社員、田中くんが会議後に話しかけてきた。
「まあ、フェアっちゃフェアだけど」
彼の言葉に悪意はなかった。
むしろ、純粋な感想だったのだろう。
でもわたしは何も言い返せなかった。
フェアであることと生きやすいことは同じではない。
そんな当たり前のことにわたしは今さら気づいていた。
◆
真司との関係はまるで水が蒸発するように薄れていった。
彼が悪いわけではない。
彼は相変わらず優しかった。
わたしの話を聞いてくれるし、困っていれば助けてくれる。
でもそれだけだった。
「真司、週末どこか行かない?」
わたしは努めて明るく提案した。
「うーん」
彼はカレンダーを確認した。
「土曜は山田と約束があるんだよな。日曜は?」
「日曜でもいいけど……」
「日曜か。まあ、いいよ。どこ行きたい?」
「海とか……」
「海ね。天気次第かな」
彼の口調には何の感情もなかった。
賛成でも反対でもない。
ただ、スケジュールの調整をしているだけ。
わたしは聞いてしまった。
「ねえ、真司。わたしと出かけるの、楽しみ?」
彼は少し考えてから答えた。
「楽しみっていうか……べつに嫌じゃないよ」
嫌じゃない。
その言葉が胸に刺さった。
「じゃあ、行かなくてもいいってこと?」
「そういう意味じゃないけど」
彼は困ったような顔をした。
「凛子が行きたいなら行くよ。俺は凛子との約束を優先するし」
「でも真司自身はどうしたいの?」
「どうしたいって言われても……」
彼は本当に困っているようだった。
「正直、どっちでもいい。凛子が決めてくれたらそれでいい」
どっちでもいい。
その言葉の残酷さを彼は理解していなかった。
いや、理解できなくなっていたのだ。
◆
わたしは次第に自分を責めるようになった。
もしかして、わたしに魅力がないからではないか。
もっときれいになれば、彼の気持ちは戻るのではないか。
馬鹿げていると頭ではわかっていた。
彼の変化は薬のせいであって、わたしのせいではない。
でも感情は理屈では割り切れなかった。
ダイエットを始めた。
メイクを研究した。
新しい服を買った。
真司はそのどれにも反応しなかった。
「凛子、なんか最近忙しそうだね」
彼は心配するような口調で言った。
「無理しないほうがいいよ」
「無理なんかしてない」
わたしは嘘をついた。
「ただ、ちょっと自分磨きしたいなって思っただけ」
「そう。まあ、凛子の好きにすればいいよ」
好きにすればいい。
その言葉はかつては「応援してるよ」という意味だった。
でも今は「興味がない」と同義だった。
◆
美香が会社を辞めた。
「もう疲れた」と彼女は言った。
「毎日毎日、数字で評価されて、成果を求められて。前は『頑張ってるね』って声をかけてくれる人がいたのに今は誰もいない」
彼女の言葉はわたしにも痛いほどわかった。
「どうするの、これから」
「女性だけの会社に転職する」
美香は少し明るい声で言った。
「最近増えてるでしょ、女性オンリーの企業。そっちのほうが居心地いいかなって」
わたしは驚いた。
「そんなのあるの?」
「あるよ。というか、もはや主流になりつつある」
彼女はスマートフォンで求人サイトを見せてくれた。
確かに「女性専用」を謳う企業が並んでいた。
「男と女で、完全に世界が分かれてきてるんだよね」
美香は少し寂しそうに笑った。
「これが男女平等の行き着く先なのかな」
わたしは何も言えなかった。
かつてわたしが望んでいた「平等」はこんな形ではなかった。
◆
ニュースでは離婚率の急増が報じられていた。
「法案施行後、離婚件数は前年比で三〇〇パーセント増加しています」
キャスターの声は相変わらず淡々としていた。
「一方で、高齢者の離婚率には大きな変化が見られません。専門家は長年連れ添った夫婦には性欲以外の絆が形成されているためと分析しています」
性欲以外の絆。
その言葉が頭の中でリフレインした。
真司とわたしにはそれがあるのだろうか。
七年間付き合ってきた。
大学時代から、苦楽を共にしてきた。
でもその「絆」は本物だったのか。
わたしは自分に問いかけた。
彼がわたしを好きになったのはわたしの何が理由だったのだろう。
わたしの人間性?
信頼性?
それとも──
考えるのが怖くなって、わたしは思考を止めた。
◆
真司の友人、山田くんが結婚した。
相手は同僚の女性で、職場結婚だという。
「山田、結婚したんだ」
わたしは驚いて言った。
「この時期に珍しいね」
「ああ」
真司は別段興味なさそうに答えた。
「子供が欲しかったらしい」
「子供?」
「うん。人工授精で」
わたしは絶句した。
「でもそれって……結婚する必要ある?」
「まあ、法律的に親権とか相続とかの問題があるからな。事務手続き上、結婚しといたほうが楽らしい」
事務手続き。
結婚が事務手続きになっていた。
「山田くんは奥さんのこと好きなの?」
「好き?」
真司は少し考えた。
「まあ、嫌いではないんじゃない? 一緒に仕事してて、信頼できる人だって言ってたし」
信頼できる人。
それは友人の評価であって、恋人の評価ではない。
「山田くん、幸せなのかな」
「幸せかどうかは知らないけど、不満はなさそうだよ」
不満がない。
それが今の世界における最高の評価なのかもしれない。
◆
わたしは真司に聞いてしまった。
「ねえ、わたしたちも結婚する?」
彼は少し驚いたような顔をした。
「結婚? ああ、そういえばそういう話になってたね」
「……忘れてたの?」
「忘れてたわけじゃないけど、あんまり意識してなかった」
彼は悪びれもせずに言った。
「で、どうする? 凛子が結婚したいなら、してもいいよ」
してもいい。
その言葉のあまりの軽さにわたしは息が詰まった。
「わたしがしたいなら?」
「うん」
「真司はしたくないの?」
「したくないわけじゃないけど……」
彼は首をかしげた。
「正直、結婚する意味がよくわからないんだよな」
「意味?」
「いや、凛子と一緒に暮らすのは別にいい。でもわざわざ届けを出して、式を挙げて、周りに報告して……そこまでする必要があるのかなって」
わたしは泣きたくなった。
でも泣いても意味がないことはわかっていた。
彼はわたしを傷つけようとしているわけではない。
ただ、純粋に疑問を口にしているだけなのだ。
「凛子?」
彼がわたしの顔を覗き込んだ。
「どうした? 気分悪い?」
「……ううん、なんでもない」
わたしは無理やり笑顔を作った。
「ちょっと考えさせて」
「わかった。急がなくていいよ」
急がなくていい。
以前なら、彼のほうが急かしてきたのに。
「早く凛子のことを奥さんって呼びたい」なんて、笑いながら言っていたのに。
◆
職場で新しいプロジェクトが始まった。
女性向けファッション誌のリニューアル企画。
わたしはチームリーダーに抜擢された。
「桐島さん、期待してますよ」
編集長は言った。
「女性誌はこれからの主力商品ですから」
確かに女性向けメディアは活況を呈していた。
男性の視線を気にしなくなった女性たちが自分自身のためにおしゃれを楽しむようになったからだ。
でもそれは本当に「解放」なのだろうか。
わたしは疑問を感じていた。
リニューアル会議で、わたしは提案した。
「読者アンケートを取りませんか。今の女性たちが本当に求めているものを」
「いいですね」
チームメンバーの女性編集者たちが賛同した。
アンケート結果は予想外だった。
「自分らしく生きたい」という回答が最多。
でもその内訳を見ると複雑な気持ちになった。
「男性の評価を気にしなくていいのは楽」という声。
「でもなんだか物足りない」という声。
「誰かに『きれい』って言われたい」という声。
わたしたちは誰のためにきれいになりたいのだろう。
自分のため?
それとも、誰かの視線のため?
その問いに答えは出なかった。
◆
山田くんの奥さん、恵美さんと話す機会があった。
真司が友人の集まりにわたしを連れて行ってくれたのだ。
──いや、「連れて行ってくれた」という表現は正確ではない。
「凛子も来る?」と聞かれたから、わたしが「行く」と答えただけだった。
恵美さんは穏やかな女性だった。
「桐島さん、真司くんとはうまくいってますか?」
彼女は静かに尋ねた。
「……まあ、なんとか」
わたしは曖昧に答えた。
「そうですか」
恵美さんは微笑んだ。
「私も最初は戸惑いました。山田が変わってしまって」
「恵美さんも……?」
「ええ。でも慣れましたよ」
彼女はお茶を一口飲んだ。
「期待しなければ、失望もしませんから」
期待しない。
その言葉はわたしの胸に重く響いた。
「恵美さんは山田くんのこと好きですか?」
わたしは思わず聞いてしまった。
失礼な質問だとわかっていた。
でも聞かずにはいられなかった。
恵美さんは少し考えてから答えた。
「好きとか嫌いとか、もうよくわからないんです。ただ、山田と一緒にいることに不都合はないし、子供も欲しかったから」
不都合はない。
子供が欲しかった。
それが今の世界における結婚の理由だった。
「子供は……楽しみですか?」
「そうですね」
恵美さんは微笑んだ。
「私の子供ですから。私が育てます」
「山田くんは?」
「山田は……まあ、必要なことはしてくれると思います。でも期待はしていません」
期待しない。
その言葉を恵美さんは二度目に口にした。
わたしは自分がまだ期待していることに気づいた。
真司が変わってくれることを。
以前の彼に戻ってくれることを。
でもそれは叶わない願いなのだ。
◆
ある夜、わたしは真司に抱きついた。
彼はソファでニュースを見ていた。
わたしは後ろから彼の首に腕を回した。
「凛子?」
彼は驚いたようだった。
「どうした?」
「……べつに」
わたしは彼の首筋に顔をうずめた。
「ただ、こうしていたかっただけ」
彼は少し困ったような声を出した。
「うん。いいけど」
その「いいけど」の後に続く言葉をわたしは待った。
「嬉しい」とか「俺もそうしたかった」とか。
でも彼は何も言わなかった。
ただ、テレビのニュースを見続けていた。
わたしの腕は彼の首に回されたまま。
彼の体温を感じているのに心は遠い。
涙が出そうになった。
我慢した。
泣いても彼は困るだけだ。
「真司」
「ん?」
「わたしのこと好き?」
彼は少し考えた。
「嫌いじゃないよ」
「嫌いじゃない、じゃなくて」
わたしは声を絞り出した。
「好き、かどうか聞いてるの」
彼は本当に困っているようだった。
「好きって……どういう意味?」
「どういう意味って……」
「いや、凛子のことは大切だと思ってる。信頼してるし、一緒にいて不快じゃないし」
不快じゃない。
その言葉がわたしの心を切り裂いた。
「でも前みたいに『好きだ』って言える感じとは違うんだよな。なんていうか、感覚がよくわからない」
彼は申し訳なさそうに言った。
「ごめん。うまく説明できなくて」
「……いいよ」
わたしは彼から離れた。
「わかった。もう寝るね」
「ああ。おやすみ」
彼は普通に言った。
何も変わらない様子で。
わたしは一人でベッドに入った。
枕に顔を押しつけて、声を殺して泣いた。
◆
翌朝、わたしは鏡の前に立った。
目が腫れていた。
メイクで隠そうとして、ふと手が止まった。
誰のためにメイクをしているのだろう。
会社のため?
真司のため?
自分のため?
わからなくなっていた。
以前は真司に「きれいだね」と言われるのが嬉しかった。
彼の視線を感じるのが嬉しかった。
でも今、その視線はない。
彼にとってわたしは「不快じゃない同居人」になっていた。
それでもメイクをする意味はあるのか。
わたしは自分が何のために生きているのかわからなくなっていた。
◆
会社で新しい企画が持ち上がった。
「女性だけの街」を特集する記事。
実際にいくつかの自治体で実験的に始まっている計画だという。
「取材に行ってきてください」
編集長はわたしに命じた。
わたしは電車を乗り継いで、その街を訪れた。
郊外に作られた新興住宅地。
住人はすべて女性だった。
「ここでは自分らしくいられるんです」
案内役の女性は誇らしげに言った。
「男性の視線を気にする必要がありませんから」
街を歩いた。
カフェがあった。
書店があった。
ジムがあった。
すべて女性だけで運営されていた。
「素敵な街ですね」
わたしは言った。
本心だった。
確かに居心地は良さそうだった。
でも同時に何かが欠けているような気もした。
「男性は……一切来ないんですか?」
「業者さんとかは来ますけど、住人にはなれません」
案内役の女性は当然のように言った。
「でもそれで困ることはありませんよ。必要なことは全部、女性だけでできますから」
必要なこと。
その言葉が引っかかった。
愛することは「必要なこと」に入るのだろうか。
◆
帰りの電車で、わたしはぼんやりと窓の外を眺めていた。
隣の席には若いカップルが座っていた。
二人とも女性だった。
手を繋いで、楽しそうに話している。
「最近、女性同士のカップル増えてるよね」
以前、美香が言っていた。
「男がダメなら女に行くしかないじゃん」
冗談めかして言っていたけれど、実際にそういう選択をする女性は増えているらしい。
わたしはどうだろう。
女性を好きになれるだろうか。
考えてみたけれど、想像できなかった。
わたしが好きなのは真司だった。
以前の、わたしを熱い目で見てくれた真司だった。
でもその真司はもういない。
今いるのはわたしを「不快じゃない同居人」として扱う真司だけだった。
◆
家に帰ると真司がキッチンに立っていた。
「おかえり。夕飯作っといたよ」
彼は振り返らずに言った。
「ありがとう」
わたしはテーブルについた。
並べられた料理を見た。
野菜炒めと味噌汁と白米。
栄養バランスの良い、地味な食事だった。
「おいしそう」
「そう? 適当に作っただけだけど」
彼は向かいの席に座った。
「いただきます」
「いただきます」
黙々と食べた。
会話がなかった。
以前は食事中にいろんな話をしたものだった。
今日あったこと。
見たニュース。
くだらない冗談。
でも今はただ咀嚼の音だけが響いていた。
「ねえ」
わたしは口を開いた。
「今日、面白い取材に行ってきたんだ」
「へえ」
彼は箸を動かしながら言った。
「どんな?」
「女性だけの街っていうのがあってね。住人が全員女性なの」
「ああ、聞いたことある。最近増えてるらしいね」
「真司はどう思う?」
「どう思うって?」
彼は首をかしげた。
「べつにいいんじゃない? 住みたい人が住めば」
いいんじゃない。
その言葉にわたしは何かを期待していたのだと気づいた。
「凛子がそういうところに住みたい」と言ったら寂しいとか、そんな反応を。
でも彼にはそんな感情はないのだ。
「そうだね。いいと思う」
わたしは食事を続けた。
味がわからなかった。
◆
その夜、わたしは長い間眠れなかった。
隣で真司は規則正しい寝息を立てていた。
彼の寝顔を見つめた。
穏やかな顔だった。
何の悩みもなさそうな、平和な顔。
かつて、この顔を見るのが好きだった。
彼が眠っている間、わたしはよくその顔を眺めていた。
「こんな顔で眠れるなんて、真司は幸せ者だね」とからかったこともある。
彼は「凛子がいるからだよ」と答えた。
今、彼は同じように眠っている。
でもその理由は「わたしがいるから」ではない。
ただ、疲れたから眠っているだけ。
わたしの存在は彼の睡眠に何の影響も与えていない。
涙が頬を伝った。
また泣いている。
最近、よく泣く。
でも泣いても何も変わらない。
彼は変わらない。
世界は変わらない。
変わったのはわたしだけ。
いや、変われないでいるのがわたしだけなのかもしれない。
◆
翌週、わたしは実家に帰った。
母に会いたかった。
父と母はもう三十年以上連れ添っている。
法案が施行されてからも、二人の関係は変わらないように見えた。
「あら、凛子。どうしたの急に」
母は玄関で迎えてくれた。
「ちょっと顔見たくなって」
わたしは曖昧に答えた。
リビングに入ると父がソファでテレビを見ていた。
「おう、凛子か。久しぶりだな」
「うん。お父さん、元気?」
「ああ、元気だよ。お前は? 真司くんとはうまくいってるのか?」
その質問にわたしは答えられなかった。
「……まあ、なんとか」
「そうか」
父はそれ以上聞かなかった。
母がお茶を淹れてくれた。
「凛子、なんか元気ないわね」
母は心配そうに言った。
「そんなことないよ」
「嘘おっしゃい。母親には分かるのよ」
わたしは苦笑いした。
「……ちょっと真司とのことで悩んでるの」
「そう」
母は驚かなかった。
「あの法律のこと?」
「うん」
「そうよね」
母は溜息をついた。
「世の中、大変なことになってるものね」
「お母さんとお父さんは大丈夫なの?」
「大丈夫よ」
母は微笑んだ。
「お父さんはもともとそんなにアレな人じゃなかったから」
「アレって……」
「ほら、なんていうか」
母は声を潜めた。
「あんまりそういうことに執着しない人だったの。だから、変わってもあんまり変わらない感じ」
「そう……」
「でも若い人たちは大変よね」
母は真剣な顔になった。
「あなたの年代だとまだそういうのが大きかったでしょう?」
わたしは頷いた。
「うん」
「真司くん、どんな感じなの?」
わたしは言葉を選んだ。
「……わたしのこと『嫌いじゃない』って言ってた」
「嫌いじゃない?」
「うん。好きかどうかはわからないけど、一緒にいて不快じゃないって」
母は黙った。
しばらくして、小さく息を吐いた。
「それは……つらいわね」
「うん」
わたしは泣きそうになった。
「つらいの。すごくつらい」
母がわたしを抱きしめてくれた。
子供の頃にそうしてくれたように。
わたしは母の胸で泣いた。
◆
帰りの電車で、わたしはスマートフォンを眺めていた。
SNSには相変わらずいろんな声があふれていた。
「これでやっと安心して暮らせる」という声。
「男なんていらない」という声。
「昔の世界に戻りたい」という声。
「これが本当の平等だ」という声。
どれが正しいのか、わたしにはわからなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
わたしは幸せではない。
この世界で、わたしは幸せではない。
それは真司のせいではない。
彼は何も悪くない。
世界が変わっただけ。
わたしが望んでいた方向に変わったはずなのにわたしは幸せではない。
皮肉だと思った。
女性の権利を守るための法律がわたしから何かを奪っていた。
◆
家に帰ると真司がいた。
「おかえり」
彼は言った。
「お母さん、元気だった?」
「うん、元気だった」
「そう。よかったね」
彼は自分の部屋に戻っていった。
わたしは一人でリビングに立っていた。
以前なら、彼は「どんな話した?」とか「お土産なに?」とか聞いてきたのに。
今は「よかったね」で終わり。
それ以上の関心がない。
わたしはソファに座って、天井を見上げた。
これから、どうすればいいのだろう。
真司と別れる?
でも別れてどうなる。
他の男も同じなのだ。
女性だけの世界に行く?
でもそれが本当に望みなのか。
わからない。
何もわからない。
ただ、このままではいられないことだけは確かだった。
◆
その夜、わたしは真司に話しかけた。
「ねえ、ちょっと話があるんだけど」
彼はスマートフォンから顔を上げた。
「なに?」
「わたしたちのこと」
彼は少し身構えたようだった。
「うん」
「結婚、どうする?」
「結婚か」
彼は考え込んだ。
「正直、俺はどっちでもいい。凛子が決めてくれ」
「わたしが決めるの?」
「うん。凛子の人生だし」
わたしは息を呑んだ。
「真司の人生でもあるでしょ」
「まあ、そうだけど」
彼は淡々と言った。
「俺は凛子と一緒にいても、いなくても、たぶん同じように生きていくと思う。だから、凛子が望むほうを選べばいい」
同じように生きていく──その言葉がわたしの胸に突き刺さった。
「わたしがいてもいなくても、同じなの?」
「そういう意味じゃなくて……」
彼は困ったような顔をした。
「いや、正直に言うとそうかもしれない。凛子がいなくなったら寂しいかって聞かれたら、よくわからない」
寂しくない。
彼はわたしがいなくなっても寂しくない。
「……わかった」
わたしは立ち上がった。
「ちょっと考える時間がほしい」
「わかった。急がなくていいよ」
彼は普通に言った。
急がなくていい。
その言葉すら、今のわたしには辛かった。
◆
わたしは窓辺に立って、夜の街を眺めた。
明かりが点々と灯っている。
あの明かりの下で、どれだけの人が同じことで悩んでいるのだろう。
かつてわたしは思っていた。
男の性欲がなくなれば、世界はもっと良くなると。
女性は解放され、対等な関係が築けると。
でも現実は違った。
性欲がなくなった男たちは女性に対して「フラット」になった。
それは「対等」ではなく、「無関心」だった。
彼らはわたしたちを同性を見るのと同じ目で見るようになった。
能力があれば認める。
信頼できれば付き合う。
でもそれ以上の感情はない。
「好き」という感情が消えてしまった。
わたしたちはそれを望んでいたのだろうか。
少なくとも、わたしは望んでいなかった。
わたしが望んでいたのは性犯罪のない世界であって、愛のない世界ではなかった。
でもその二つは不可分だったのかもしれない。
男の女に対する欲望と愛情と暴力衝動は同じ根から生えていたのかもしれない。
一つを取り除けば、すべてが消える。
わたしたちはそのことを知らなかった。
いや、知っていたのに目を背けていただけなのかもしれない。
◆
翌日、会社で会議があった。
女性誌のリニューアル企画の進捗報告。
わたしはプレゼン資料を準備していた。
「次号の特集は『自分のための美しさ』です」
わたしは説明した。
「誰かに見せるためではなく、自分が心地よくあるための美容を提案します」
編集長は頷いた。
「いいですね。時代に合ってます」
時代に合っている。
その言葉がわたしの胸に重くのしかかった。
会議が終わって、わたしは自分の席に戻った。
パソコンの画面を見つめた。
「自分のための美しさ」。
その言葉をわたし自身は信じているだろうか。
鏡を見た。
今日もメイクをしている。
誰のために?
真司のためではない。
彼は見てくれない。
会社の人のため?
女性ばかりの職場で、誰がわたしの外見を評価するというのか。
自分のため?
そう思おうとした。
でも心のどこかで疑問が残っていた。
わたしは本当に自分のためだけに美しくなりたいのか。
それとも、誰かの視線があってこそ、美しさは意味を持つのか。
答えは出なかった。
◆
その週末、わたしは一人で街を歩いた。
真司は友人と出かけていた。
「一緒に行く?」と聞かれたけれど、断った。
男友達との集まりにわたしがいても意味がない気がした。
ショッピングモールを歩いた。
服屋を覗いた。
かわいいワンピースがあった。
手に取って、鏡に合わせてみた。
以前なら、すぐに買っていただろう。
真司に見せたら喜ぶかな、と思いながら。
でも今はその動機がない。
彼は喜ばない。
「いいんじゃない」と言うだけ。
結局、何も買わずに店を出た。
カフェに入って、一人でコーヒーを飲んだ。
周りを見渡すと女性のグループが多かった。
楽しそうに話している。
男性の姿は少ない。
いや、いるにはいるけれど、女性と一緒にいる男性はほとんどいなかった。
世界が分断されている。
男の世界と女の世界に。
わたしはその境界線の上に立っていた。
どちらにも属せないまま。
◆
帰宅すると真司がいた。
「おかえり」
「ただいま」
「どこ行ってたの?」
「ショッピングモール」
「そう。なんか買った?」
「ううん、見ただけ」
「そっか」
それで会話は終わった。
以前なら、「何見たの?」「今度一緒に行こうか」と続いたのに。
今はそれ以上の関心がない。
夕食を作った。
一人で作るのは慣れていた。
彼も時々作ってくれるけれど、当番制みたいなもの。
「料理してくれてありがとう」という言葉はない。
「俺も作るよ」という申し出もない。
ただ、効率的に家事を分担しているだけ。
食卓についた。
「いただきます」
「いただきます」
黙々と食べた。
また、会話がなかった。
「ねえ」
わたしは口を開いた。
「今日、友達とどこ行ったの?」
「バーベキュー」
「楽しかった?」
「まあまあ」
「誰が来てたの?」
「山田と佐藤とあと大学の後輩」
「へえ」
わたしは興味を持とうとした。
「何の話したの?」
「仕事の話とか。あと投資の話とか」
「投資?」
「うん。山田が最近始めたらしくて」
会話はそれだけだった。
彼は詳しく話す気がないようだった。
以前なら、誰がどんな面白いことを言ったとか、こんなハプニングがあったとか、事細かに教えてくれたのに。
今は必要最低限の情報だけ。
それ以上はわたしに共有する必要がないと思っているのだろう。
◆
食後、わたしはソファでぼんやりしていた。
真司は自分の部屋にこもっている。
スマートフォンを眺めていた。
SNSを開いた。
タイムラインにはいろんな投稿が流れていた。
「彼氏と別れた。でも解放された気分」
「一人のほうが気楽」
「女友達とのほうが楽しい」
みんな、前向きなことを書いている。
わたしだけが後ろ向きなのだろうか。
コメント欄を見た。
「わかる!」「私も!」という同意の声。
でもその中に一つ、気になる投稿があった。
「前向きなふりをしてるけど、本当は寂しい。誰か、わたしを好きになってくれないかな」
いいねの数は少なかった。
でもわたしはその投稿に強く共感した。
前向きなふりをしている。
解放されたふりをしている。
でも本当は誰かに愛されたい。
その気持ちは消えていなかった。
◆
夜中に目が覚めた。
隣で真司が眠っている。
彼の寝顔を見た。
穏やかな顔。
何の悩みもなさそうな顔。
わたしはこの人を愛している。
その気持ちはまだ残っていた。
でも彼はもうわたしを愛していない。
いや、「愛する」という概念自体が彼からは消えてしまったのだ。
わたしは静かにベッドを抜け出した。
リビングに行って、窓の外を眺めた。
夜の街は静かだった。
明かりはほとんど消えている。
みんな、眠っているのだろう。
幸せな夢を見ているのだろうか。
それとも、わたしと同じように眠れない夜を過ごしているのだろうか。
涙が頬を伝った。
また泣いている。
でも泣くしかなかった。
この気持ちを誰にも話せなかった。
母に話したら心配をかける。
友人に話しても、同じ悩みを抱えている。
真司に話しても、彼は理解できない。
わたしは一人だった。
この世界で、わたしは完全に一人だった。
◆
翌朝、鏡の前に立った。
目が腫れていた。
また泣いたから。
メイクで隠そうとして、ふと手が止まった。
今日は休日だ。
どこにも行く予定がない。
メイクをする必要がない。
でもメイクをしないと自分が自分でないような気がした。
わたしは化粧をした自分しか知らなかった。
素顔の自分を長い間見ていなかった。
鏡をじっと見つめた。
そこにいるのは疲れた女だった。
目の下にクマがある。
肌は荒れている。
以前は真司に「きれいだね」と言われるのが嬉しくて、肌の手入れを欠かさなかった。
今はその動機がない。
わたしは誰のためにきれいでいるのだろう。
自分のため?
本当に?
その問いにまだ答えが出せなかった。
◆
午後、真司がリビングに出てきた。
「今日、どこか行く?」
彼は聞いた。
「……べつに」
わたしは答えた。
「そっか。俺は買い物に行ってくる」
「何買うの?」
「日用品。シャンプーとか」
「わたしも行こうか?」
「べつにいいよ。一人で行ける」
彼はそう言って、出かけていった。
一人で行ける。
当然だ。
でも以前なら「一緒に行こう」と言ってくれた。
買い物帰りにカフェに寄ろう、とか。
今はその提案がない。
わたしと一緒に行く理由がないから。
◆
彼がいない部屋で、わたしは一人で座っていた。
テレビをつけた。
ニュースが流れていた。
「女性専用都市計画、政府が正式に承認」
キャスターの声が聞こえた。
「この計画では居住者を女性のみに限定した自治体が設立されます。すでに数万人の女性が移住を希望しており……」
わたしは画面を見つめた。
女性だけの都市。
そこに行けば、この苦しみから解放されるのだろうか。
男の視線を気にしなくていい。
愛されたいと思わなくていい。
でもそれは本当に「解放」なのか。
それとも、「諦め」なのか。
わたしにはその区別がつかなかった。
◆
夜、真司が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
彼は買い物袋を置いた。
「シャンプー、凛子のも買っておいたよ」
「ありがとう」
「いつも使ってるやつでよかった?」
「うん、いいよ」
彼は気が利く。
そういうところは変わっていない。
でもその「気が利く」は同居人としての配慮でしかない。
「凛子が好きだから」ではなく、「一緒に住んでるから」という理由。
それがわかっているから、「ありがとう」と言いながらも、胸が痛んだ。
「真司」
わたしは呼んだ。
「ん?」
「わたし、やっぱり考えたいの。わたしたちのこと」
彼は少し真剣な顔になった。
「うん」
「このまま一緒にいても、わたしは幸せになれないかもしれない」
「……そうか」
彼は静かに言った。
「凛子がそう思うなら、そうなんだろうな」
「真司はどう思う?」
「俺は……」
彼は少し考えた。
「凛子が幸せならそれでいい。凛子が一緒にいたいなら一緒にいるし、別れたいなら別れる」
「それって……」
わたしは声を絞り出した。
「真司自身の気持ちはないの?」
「気持ち?」
彼は首をかしげた。
「正直、よくわからないんだ。凛子と一緒にいるのは悪くない。でもいなくなっても……たぶん、困らない」
困らない。
その言葉がわたしの心を砕いた。
「じゃあ、わたしは真司にとって何なの?」
「何って……」
彼は困ったような顔をした。
「長い付き合いの、大切な人?」
「大切なの?」
「大切だと思うよ。でもそれが『愛してる』という意味かどうかはよくわからない」
わたしは目を閉じた。
涙がこぼれそうだった。
「わかった」
声が震えた。
「少し、一人で考える時間がほしい」
「わかった。凛子の好きにしていいよ」
好きにしていい。
その言葉が最後の一撃だった。
◆
その夜、わたしは一人でベッドに入った。
真司は別の部屋で寝ている。
わたしがそう頼んだから。
暗闇の中で、天井を見つめた。
これからどうすればいいのだろう。
真司と別れる?
でも別れても何も変わらない。
他の男も同じなのだから。
女性だけの世界に行く?
でもそこにも愛はない。
あるのは友情と連帯とそして諦め。
わたしが欲しいのはそういうものではなかった。
わたしが欲しいのは誰かに愛されること。
「好きだ」と言われること。
熱い視線で見つめられること。
でもそれはもう、この世界には存在しない。
法律がそれを消してしまった。
わたしたちが望んだ法律が。
皮肉だと思った。
女性を守るための法律が女性から何かを奪ってしまった。
安全と引き換えに愛を失った。
それは正しい選択だったのだろうか。
わたしにはわからない。
ただ、今のわたしは幸せではない。
それだけが確かだった。
◆
窓の外が白み始めていた。
夜明けが近い。
わたしは一晩中眠れなかった。
ベッドから起き上がって、窓辺に立った。
空が少しずつ明るくなっていく。
新しい一日が始まる。
でもわたしには何も変わらない。
昨日と同じ一日が始まるだけ。
真司に愛されない一日。
誰にも愛されない一日。
涙が頬を伝った。
もう何度目かわからない。
でも泣くしかなかった。
この気持ちをどうすればいいのかわからなかった。
◆
朝食を作った。
トーストと目玉焼きとサラダ。
真司が起きてきた。
「おはよう」
「おはよう」
二人で食卓についた。
「いただきます」
「いただきます」
黙々と食べた。
また、会話がなかった。
でも今日はそれでよかった。
話す気力がなかった。
「凛子」
真司が口を開いた。
「ん?」
「昨日の話だけど」
「うん」
「俺、凛子に不満はないよ。それだけは言っておきたかった」
不満はない。
その言葉は優しさなのだろう。
彼なりの。
「ありがとう」
わたしは小さく言った。
「わたしも、真司に不満があるわけじゃないの。ただ……」
「うん」
「寂しいの」
真司は黙った。
「真司のせいじゃないってわかってる。でも寂しいの。すごく」
「……そうか」
彼は静かに言った。
「ごめん。俺にはその気持ちがわからない」
「うん。わかってる」
わたしは微笑んだ。
悲しい微笑みだった。
「わたし、少し実家に帰ろうかな」
「そうか」
「しばらく、離れてみたいの」
「わかった。凛子の好きにしていいよ」
好きにしていい。
また、その言葉。
でも今回は怒りを感じなかった。
ただ、深い悲しみだけがあった。
◆
荷物をまとめた。
必要最低限のものだけ。
玄関で、真司が見送ってくれた。
「じゃあ、行くね」
「ああ。気をつけて」
「うん」
わたしは振り返った。
「真司」
「ん?」
「元気でね」
「凛子も」
それだけだった。
ハグもキスもない。
ただの挨拶。
同僚に対するような、フラットな挨拶。
わたしは歩き出した。
振り返らなかった。
振り返ったら、泣いてしまいそうだったから。
◆
電車に乗った。
窓の外を眺めた。
景色が流れていく。
わたしの人生も、こうやって流れていくのだろうか。
何も変わらないまま。
誰にも愛されないまま。
スマートフォンが鳴った。
真司からのメッセージ。
「着いたら連絡して」
短いメッセージ。
心配してくれているのだろう。
でもそれは「愛」ではない。
同居人への配慮。
わたしはメッセージを閉じた。
◆
実家に着いた。
母が迎えてくれた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
わたしは母に抱きついた。
「どうしたの?」
「……少し、休みたいの」
母は何も聞かなかった。
ただ、わたしを抱きしめてくれた。
子供の頃にそうしてくれたように。
わたしは母の胸で泣いた。
声を上げて泣いた。
こんなに泣いたのはいつ以来だろう。
母は何も言わなかった。
ただ、背中をさすってくれた。
◆
実家で過ごす日々。
何もしなかった。
本を読んだり、テレビを見たり。
母と話したり。
父は相変わらずのんびりしていた。
「凛子、元気出せよ」
彼なりの励ましだった。
「うん」
わたしは曖昧に答えた。
母と二人きりになったとき、わたしは聞いた。
「お母さん、後悔してない?」
「何を?」
「お父さんと結婚したこと」
母は少し考えてから答えた。
「後悔はしてないわよ。いろいろあったけど、トータルで見れば幸せだったと思う」
「幸せ、か……」
「凛子は真司くんと結婚したら幸せになれると思ってた?」
「……わからない」
わたしは正直に言った。
「わからなくなった」
「そう」
母は優しい目でわたしを見た。
「幸せって、人からもらうものじゃないのかもしれないわね」
「え?」
「自分で見つけるものなのかも」
わたしは黙った。
その言葉の意味を考えていた。
◆
夜、窓辺に立った。
実家の窓から見える景色は子供の頃と変わっていなかった。
同じ街灯。
同じ道路。
同じ夜空。
でもわたしは変わった。
子供から大人になった。
恋を知った。
愛を知った。
そして、失った。
星を見上げた。
きれいな夜空だった。
誰かと一緒に見たら、もっときれいなのだろうか。
いや、そうじゃないのかもしれない。
一人で見ても、きれいなものはきれいだ。
母の言葉を思い出した。
「幸せは自分で見つけるもの」
もしかしたら、そうなのかもしれない。
誰かに愛されることだけが幸せではない。
自分で自分を愛すること。
自分の人生を生きること。
それが幸せなのかもしれない。
でもまだわからない。
まだ、その答えは出せない。
◆
翌日、わたしは近所を散歩した。
子供の頃、よく遊んだ公園。
今は誰もいなかった。
ブランコに座ってみた。
少し漕いでみた。
風が気持ちよかった。
ふと笑えた。
こんな単純なことで、少し気分が良くなった。
誰かに見せるためじゃない。
誰かに褒められるためじゃない。
ただ、風が気持ちよかっただけ。
それでいいのかもしれない。
そう思った。
◆
でも夜になるとまた寂しくなった。
一人でベッドに入ると真司の存在を思い出す。
彼の体温。
彼の寝息。
もう感じられないもの。
涙が出た。
また泣いている。
でも泣くしかなかった。
この気持ちは簡単には消えない。
たぶん、ずっと消えない。
それでも生きていかなければならない。
この世界で、この現実の中で。
◆
一週間が過ぎた。
わたしは少しずつ、元気を取り戻していた。
完全ではない。
でも少しずつ。
真司に連絡した。
「元気にしてる?」
「ああ、元気だよ。凛子は?」
「うん、少しよくなった」
「そうか。よかった」
短いやり取り。
でもそれでいいのかもしれない。
今はそれでいい。
◆
母に相談した。
「わたし、どうすればいいと思う?」
「それは凛子が決めることよ」
母は言った。
「真司くんと一緒にいたいなら、いればいい。別れたいなら、別れればいい」
「でもどちらが正解かわからない」
「正解なんてないわよ」
母は微笑んだ。
「人生には正解がないの。ただ、選択があるだけ」
選択。
その言葉が胸に響いた。
「わたしは……」
声が震えた。
「愛されたいの。でもこの世界ではそれは無理なんだよね」
「そうね」
母は静かに言った。
「でも愛されることだけが愛じゃないのよ」
「え?」
「愛することも、愛なの」
わたしは黙った。
「凛子は真司くんを愛してる?」
「……愛してる」
「なら、それでいいじゃない」
母の言葉が心に染み込んだ。
愛することも、愛。
わたしは真司を愛している。
それは彼が変わっても変わらない。
それはわたしの気持ち。
わたしだけのもの。
誰にも奪えないもの。
でもそれだけで生きていけるのだろうか。
愛されない愛を抱えて、生きていけるのだろうか。
わからない。
まだわからない。
空を見上げた。
曇っていた。
灰色の雲が空を覆っていた。
わたしの心も、こんな感じなのかもしれない。
晴れることもあれば、曇ることもある。
今は曇っている。
でもいつか晴れるのだろうか。
わからない……わからないことばかりだった。
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