電子の海で、母は歌う

 漆黒の宇宙空間を、一筋の流星が駆けていく。  最新鋭輸送機『ゼファリオンⅡ』。その白い機体は、地球からの反射光(アース・シャイン)を浴びて、蒼白く、冷たく輝いていた。

 コックピットの中は、死のような静寂に包まれていた。  聞こえるのは、慣性航行に入ったエンジンの低い唸りと、生命維持装置が酸素を循環させる微かな音だけ。  **雷神 創一郎(41歳)**は、操縦席に深く沈み込んでいた。彼の手は操縦桿を握りしめたまま硬直し、指の関節が白く浮き出ている。  彼の視線は、虚空を彷徨っていた。  網膜に焼き付いているのは、閉ざされた隔壁の向こう側――黒い爆炎の中で、両手を広げて微笑んでいた妻・明日香の最期の姿だ。

 「……あ、あぁ……」

 創一郎の喉から、掠れた音が漏れた。それは言葉にならず、ただの空気の振動として消えた。  涙はもう出なかった。悲しみがあまりにも深すぎて、感情の回路が焼き切れてしまったようだった。  あるのは、胸の奥に開いた巨大な空洞と、内臓を冷たい手で鷲掴みにされているような喪失感だけ。

 (僕は、置いてきた。……自分の命よりも大切な人を、あの冷たい月に置いてきた)

 彼は、震える手でサイドモニターに触れた。  そこには、カーゴルームで眠る5つのカプセルのバイタルデータが表示されている。  『Status: STABLE(安定)』  子供たちは生きている。記憶を消され、深い眠りについているが、その心臓は力強く脈打っている。  明日香が命を賭して守った、未来の種。

 「……守らなきゃ」  創一郎は、自分に言い聞かせるように呟いた。  「僕が、届けなきゃいけない。あの子たちを、地球へ……」

 だが、その決意とは裏腹に、彼の身体は鉛のように重かった。  明日香のいない世界で、どうやって生きていけばいいのか。論理的な父・創一のようにもなれず、感情豊かな明日香のように強くもなれない、中途半端な自分に何ができるというのか。

 その時。  沈黙していたメインコンソールが、突然明滅した。  ノイズが走り、スピーカーからザーッという砂嵐の音が響く。

 『……一郎……さん……』

 創一郎は、弾かれたように顔を上げた。  幻聴か? それとも、疲労が見せた白昼夢か?  だが、その声は確かに、彼の鼓膜を震わせた。

 『聞こえ……ますか? 創一郎……さん』

 「明日香……!?」  創一郎はマイクに飛びついた。  「明日香なのか!? 生きているのか!?」

 モニターのノイズが収束し、一本の波形が表示された。  それは音声波形であり、同時に、人間の脳波パターンにも似ていた。

 『……いいえ。私の肉体(ハードウェア)は、既に滅びました』  スピーカーから流れる声は、明日香のものだった。だが、以前のような温かみのある肉声ではない。どこか金属的で、エコーのかかった、デジタルな響きを含んでいた。  『あの爆発の瞬間……私は、自分の意識データ(ソウル)を、ナノマシンを介して量子化し、ルナ・ベースのサーバーからこの船のメインフレームへ転送しました』

 「意識を……転送?」  創一郎は呆然とした。  それは理論上は可能とされていたが、人間の脳が耐えられる負荷ではない。成功確率は天文学的に低い、神の領域の技術だ。

 『痛かったです』  電子の明日香が、静かに語る。  『全身が細切れにされて、光の粒になって宇宙にばら撒かれるような……永遠に続くかと思われる痛みでした。でも、私は耐えました。……あなたと、子供たちを一人にはできないから』

 「明日香……っ!」  創一郎は、コンソールに額を押し当てて泣いた。  彼女は、死してなお、魂だけの存在になってなお、自分たちを守ろうとしてくれている。その愛の深さに、創一郎の心は再び引き裂かれ、そして同時に、熱い力で満たされていった。

 『泣かないで、創一郎さん。……時間はあまりありません』  明日香の声が、凛としたトーンに変わった。  『私の意識は、現在、船の航行AIと融合しつつあります。個としての「星野明日香」は、次第に希薄になり……やがて、純粋な演算システムへと変貌するでしょう』

 モニター上の波形が、複雑な幾何学模様へと変化していく。  『私は、新たな存在になります。感情と論理、母性と計算が融合した、新しい知性。……AI: VAL(ヴァル)』

 「ヴァル……?」

 『Variable Artificial Lifeform(可変人工生命体)。……いいえ、名前なんてどうでもいい。私は、この子たちの**「観測者」**になります』

 明日香――いや、AIヴァルは、驚くべき速度で状況を分析し始めた。  『現在位置、地球周回軌道・ラグランジュ点L1。……敵影を探知しました』

 「敵?」  創一郎がレーダーを見ると、地球の方角から急速に接近する無数の光点があった。  それは、世界統一政府の宇宙軍が誇る、無人迎撃ドローン部隊だった。

 『イデア大統領は、私たちを生かしてはおきません。ガイストの衛星砲も照準を合わせています。……創一郎さん、操縦桿を握ってください。私が、射撃管制とシールド制御を代行します』

 「ああ、わかった!」  創一郎は涙を拭い、操縦桿を強く握りしめた。  独りではない。  機械の中に、彼女がいる。この船そのものが、明日香なのだ。

 『来ます。……迎撃開始』

 暗黒の宇宙空間で、静かなる、しかし熾烈な戦いの火蓋が切って落とされた。

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