『午前0時の深呼吸』
さんたな
第1話 『完璧な鎧と、ため息の成分』
午前六時。目覚まし時計が鳴るよりも早く、高嶺怜子(たかみね・れいこ)は目を覚ました。
重い。体が鉛のように重い。
ここ数年、すっきりと起きられた朝など一日たりともなかった。
「……よし」
怜子は自分自身に小さく掛け声をかけ、ベッドから這い出した。
洗面台の鏡に映るのは、疲れ切った五十五歳の素顔だ。目元のくすみ、口元の陰り。
彼女は手際よくスキンケアを施し、丁寧にファンデーションを重ねた。
白髪の一本も見逃さずまとめ上げ、糊の効いた白衣に袖を通す。
これは「化粧」ではない。「武装」だ。
帝都大学病院・看護部長。五百人の看護師を束ねるトップとして、私は今日も完璧でなければならない。
午前九時。
西病棟のナースステーションは、戦場のような忙しさだった。
「部長! 305号室の患者様からクレームです! 食事が冷たいと……」
「部長、来月のシフトですが、鈴木さんが急遽退職したいと……」
「部長、会議の資料の確認をお願いします!」
四方八方から飛んでくるトラブルの種。
怜子は一つ一つ、冷静かつ的確に指示を出していく。
「食事は配膳車の保温機能の故障かもしれないわ、すぐに点検させて。鈴木さんの件は私が後で話を聞くから、退職届は預かっておいて。資料はここ、数字が間違っているわ。直して」
完璧な采配。
部下たちは「さすが部長」「部長がいれば安心」と安堵の表情で散っていく。
だが、怜子の内側では、動悸が止まらなかった。
ホットフラッシュ。首筋を伝う嫌な汗を、スカーフで隠す。
(しんどい……)
誰かに代わってほしい。少しでいいから、座りたい。
そんな弱音は、喉の奥で飲み込むしかなかった。
回診の途中、廊下のベンチで一人の研修医が、患者の老婆と話し込んでいるのを見つけた。
桜井遥人(さくらい・はると)。二十六歳。
今期の研修医の中で、最も不器用で、要領の悪い男だ。
「えー、梅干しですか? 僕も好きっすよ。おばあちゃんの手作り?」
「そうだよぉ。先生にもあげたいねぇ」
楽しそうな笑い声。
怜子は足を止めた。
他の医師や看護師が分刻みで動いている中、彼だけ時間が止まっているようだ。
「……桜井先生」
怜子が声をかけると、遥人はビクッとして立ち上がった。
「あ、高嶺部長! おはようございます!」
「……今は回診の時間ではありませんか? 指導医の先生が探していましたよ」
怒鳴りはしなかった。ただ、静かに諭した。
遥人は「うわ、やべっ!」と頭を抱えた。
「すみません! トメさんが寂しそうだったんで、つい話し込んじゃって……」
「患者様の傾聴も大切ですが、あなた自身の業務もこなさないと、チームに迷惑がかかります」
「はい……おっしゃる通りです」
遥人はシュンとして、トメさんに「また来るね」と手を振って走っていった。
その後ろ姿を見送りながら、怜子は小さくため息をついた。
彼のようなタイプは、大学病院には向かないかもしれない。
けれど、トメさんの表情は、薬を飲んだ時よりもずっと穏やかだった。
効率と、優しさ。
どちらが正しいのか。最近の私は、効率ばかりを追い求めて、大事な何かを摩耗させている気がする。
その夜、午後八時。
怜子は残業を終え、誰もいないエレベーターホールでボタンを押した。
ふぅ、と長く重い息が漏れる。
肩の荷が重すぎて、背骨が痛みそうだ。
「……お疲れ様です」
背後から声がした。
振り返ると、私服に着替えた遥人が立っていた。リュックを背負い、手には缶コーヒーを持っている。
「あ、桜井先生。お疲れ様です」
「部長、今帰りですか? 遅いっすね」
「ええ、少し残務が」
彼は無遠慮に近づいてくると、怜子の顔をじっと覗き込んだ。
「……部長、顔色悪いですよ」
「え?」
「なんていうか……電池切れ寸前のスマホみたいな顔してます」
失礼な例えだ。でも、的確すぎて反論できない。
「大丈夫です。いつものことですから」
「いつも? じゃあ、いつも無理してるんですね」
遥人は缶コーヒーのプルタブを開けると、それを怜子に差し出した。
「これ、どうぞ」
「いえ、結構です。私の分も買いますから」
「いいから。……糖分摂らないと、倒れますよ」
彼は半ば強引に、温かい缶を怜子の手に握らせた。
微糖のコーヒー。
その温かさが、冷え切った指先からじんわりと伝わってくる。
「……部長って、すごいですよね」
「何がですか?」
「全部一人で背負ってる感じで。……俺なんか、自分のことだけで精一杯なのに」
エレベーターが到着し、扉が開く。
遥人は乗らずに、ドアを押さえてくれた。
「あんまり頑張りすぎないでくださいね。……日本の医療が崩壊する前に、部長が壊れちゃいますから」
彼はニカっと笑った。
その笑顔には、裏表も、媚びへつらいもない。
ただの、年下の男の子からの、純粋な労り。
怜子は一瞬、言葉に詰まった。
「ありがとう」と言うべきか、「余計なお世話よ」と突き放すべきか。
迷っている間に、扉が閉まりかけた。
「……おやすみなさい、部長!」
閉まる扉の隙間から、彼が手を振るのが見えた。
密室になったエレベーターの中で、怜子は手の中の缶コーヒーを見つめた。
温かい。
ただの百三十円の缶コーヒーが、どうしてこんなに温かいのだろう。
鏡のような扉に映る自分の顔は、相変わらず疲れていた。
でも、その表情は、朝よりもほんの少しだけ柔らかくなっている気がした。
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