羽音

@yoghihak

羽音

 久しぶり……急に呼び出してごめん。すこし、話したいことがあったんだ。


 あ、ごめん。今日は喋ってくれて大丈夫。今は平気だから。


 そう、体調が突然良くなって。いや、突然ってほどでもないかな。まあとにかく元気になったよ。


 いや、もう無理なんだ。


 えっと、理由を逐一説明するとややこしいかも。最初から、まとめて話させてもらっていい?


 ありがとう。じゃあ、まずTさんの話をしないとだね。


 ……覚えてる? Tさんのこと。やっぱり、忘れられないかな。死んだ友達のことは。でも、数年たってるし、僕しか知らないだろうこともあるから、少し聞いててくれるとうれしい。


 高二の夏ぐらいに、急にTさんが休み始めたよね。あの快活で朗らかなTさんのことだ、数日で復帰するだろうって僕は思ってて、たぶんみんなもそうだった、というか、珍しくはあるけど正直気にもかけなかったな。


 でも、Tさんは何週間も休み続けた。何かがおかしかった。なのに、先生からの説明も、風の噂も無くて、連絡先を持ってる人もたくさんいたのに、誰も何も知らなかった。まるでこの世から消えたみたいに。


 行事もいくつかあったけど、Tさんはいないままで、そのまま夏休みになった。そんなに広くない街だから、誰かが会っていてもおかしくないのに、ついぞそういう話は聞かなかったね。ああ、ほんとは会ったのに誰にも言わなかった人が居たりするのかな、ちょうど僕みたいに。


 そう。僕は夏休みに一度Tさんに会った。すこし必要なものがあって、それで近くのコンビニに行ったんだ、深夜に。

 ――偶然だった。途中にある小さな公園に見かけたんだよ。薄暗かったけど、それでもなぜかわかったんだ。ベンチに座って項垂れて、頭に手を添えて唸ってた彼は。「あれは、Tさんだ」って。


 迷ったよ。そりゃ心配はしてた。でも僕はそこまで仲が深かったわけでもないし、急に不登校になったTさんを正直訝しんでもいた。だから、「見つけたのが僕じゃなければよかったのに」って結構思ってた。


 それでも、見て見ぬふりは出来ないじゃん? 近くに行って話しかけたよ。こんなところで何してんのって、元気してた?って、なるべく普段通りを心がけてさ。

 結論から言えば、知らんぷりしておくのが賢い選択だったんだろうね。


 僕の声に反応してTさんは顔を上げた。脂汗にまみれて、瞳孔が心臓みたいに収縮したり広がったりしてる頬のこけた顔。恐怖と、焦りと、苦痛が混ざって濁流になったような顔を。後悔したよ。

「ああ、まずいところを見てしまった」って。


 Tさんは臆病で過敏な野生動物みたいだった。目をぎょろぎょろ動かして、僕が何か話したり、足音を立てたりするたびにビクッと首を縮めて、背中を丸め、瞼を固く閉じた。Tさんの鋭敏なセンサーに囚われて、僕はもうなにも出来なかった。数十秒かおとなしくしていると、Tさんは何かに怯えながら僕が来た方へゆっくりと歩き去っていった。

 ――てことは、そのころはまだましだったのかもね。歩けるくらいではあったんだから。


 夏休みにはこの一回きりしか出会わなかった。Tさんの姿があまりにショックで、思い出さないように気を付けてもいたから、当時はそんなに深く考えなかったな。Tさんがどういう目にあっているかを。



 うん、その通り、Tさんは二学期が始まってから数週間したころに、不意に登校してきた。けろっとした顔で、何事もなかったかのように。当然、みんなは集まって問い詰めてた。「ずっと頭が痛かったのが、数日前に突然治った」みたいなことを言ってたっけ。そのことを言うときのTさんの表情が、すごく安堵した感じだったのが印象に残ってるんだ。それを見て、当時の僕も本当に安心したから。


 そうだね。その年の十一月二十日に、Tさんは死んだ。その死について、僕は話さなきゃならない。




 晩秋の寒々しさに隅まで浸されたような部屋で話をしていた。閉め切られたカーテンの隙間から漏れる光が、ただ一つ六畳半を照らしている。

「ちょっと前置きが長すぎたかな。まあ、日が沈むまでには話し終わるから――たぶんね」

 そう言ってペットボトルに口をつける。差し入れた天然水だ。

「Tさんは夏休みにあった時と同じあの公園で死んだ。僕は、学校からの帰り道だった」

 ところどころ息が掠れる、風邪をひいたような小さな声で彼は話した。こんなにも静かでなければ、頭に残らず通り抜けてしまいそうだった。

「出会ったときにはもう日が沈みかけてた。Tさんはまた、薄暗い影を落とす公園のベンチに座っていた」

「僕はもう、夏休みのことについてはほとんど忘れかけてた」

 通報したのは彼だった。

「話しかけた瞬間に思い出したんだ、前にTさんがどんな反応をしたか。怖くて、Tさんの様子を恐る恐る見ていた」

 Tさんの異様な死に様に、当時の彼はずいぶんいろんな人に問い詰められて憔悴していた。

「予想とは違って、Tさんは僕の声に対して特に反応は示さなかった。それに安堵して、落ち着いた途端気付いたんだ」

 彼はうわごとのようにTさんの様子を語っていた。

「がちがちと耳障りな歯のぶつかる音。細かく痙攣する身体。鼻を鈍く刺激する鉄の臭い」

 彼はあることをひときわ繰り返し呟いた。

「Tさんは両の掌で自分の耳を押さえていた。数十秒間か、ずっと」

「突然、その両手が彼の両脇にだらんと垂れ下がって、その両目は、初めて僕の方を向いた。呆けたように口を開けて。数秒したら、その首もかくんと落ちてそれきり動かなかった。押さえが無くなった耳から、洪水のように赤黒い血が溢れ出てきているのが見えた」

「それで、すぐ傍で、羽音が 」

 言いかけて、すこし躊躇したように見えた。吐息が震えている。

「ぶーん、って羽音が鳴った。植え付けられたんだ――脊椎が痺れて、身が竦むような羽音を」

 彼が一番恐れていたのはそれだった。




 彼が幻聴を聞き出したのは、おそらく6月ごろだったと思う。楽し気に人と会話しているとき、真面目に講義を受けているとき、得意な料理をしているとき、彼は不意にびくっと肩を跳ねあげさせ周囲を見渡した。何かあったか聞くと、彼は決まって「虫の羽音が聞こえた」と言うのだった。もともと彼はびびりなところがあるから、多少虫の羽音に怯えたっておかしなことには感じなかった。おかしなことのおかしな由来は、それがだんだんとエスカレートした点にあった。

 最初に、彼は体調を崩しがちになった。顔色は蒼く、歩くと時々その重心の位置を忘れたようにあやうく倒れかけるようになった。実際に、倒れてしまうことや座り込んだこともあっただろう。講義に行けないことも、多々あった。色んな人への、謝罪の言葉が増えた。

 次に、彼はよく人の話を聞き返すようになった。一度や二度「ごめん、今なんて言った?」などと言って、最後には曖昧な笑みを浮かべた。七月中旬のころだった。彼の周りから人々が減っていったのも、このころだ。彼は人を責めなかった。責任は彼自身にあるそうだった。

 終には、彼は一切部屋から出なくなった。すべての音がその悍ましい羽音に聞こえるようだった。窓やカーテンを閉め切った上で、彼は冷房をつけるのを嫌がった。壁には吸音材が貼られ、氷嚢や冷たい水、生理食塩水が常備された。不幸中の幸いで、彼は食事を厭わなかった。むしろ、食事の時間だけはそれについて悩まされることが無い様子だった。恐怖から逃れるために過食をするということもなかった。言わば、彼は不幸でありながら死に至るほどの不幸を得られなかった。それを許さなかったのは、羽音か、彼自身か、あるいは……




カーテンの隙間から漏れる光が橙色を帯び始めていた。そういえば、この極度に刺激の少ない部屋を維持する必要はもう無いのだった。

「Tさんが亡くなってから数年がたって、僕はその死に際を思い出すようなことがほぼ無くなっていた。……のおかげだよ」

「でもあなたは死んでしまう」

「いや、ほんとにありがとうって思ってるんだよ」

 彼は困ったように笑った。無性に腹立たしくて、吐くべき言葉が見つからない、と、思った。

「羽音が頻繁に聞こえるようになっても、……だけは傍に居てくれて、ごはんを食べさせてくれて、洗濯をしてくれて、掃除をしてくれて。こう見ると、まるで僕は赤ちゃんだね」

「あなたはしんでしまう」

「うん、ごめん。でも、申し訳ないって気持ちよりありがとうって気持ちの方がすごく大きいかも。――これも、謝らなきゃかな?」

 言い返したかっただけの言葉は、期待外れに頼りなかった。背凭れも座面もない椅子に座っているみたいだ、と、感じた。

「僕は、もういつ死ぬかもわからない。Tさんは二カ月だったけど、僕は明日かも、もっと先かもしれない。それでも、僕の死に際に立ち会った人はきっとこの羽音を聞くんだろう――だから、……は、もう僕に会っちゃだめだよ」

「あなたは、」

「……には、死んでほしくないんだ」

「あなたは、現実逃避している。元気になったとかいって、私の声が聞こえているふりをしている。Tさんだって学校に戻ってきた後は耳が使えなくなっていて、あなたもそれは知っているはずなのに。自分の耳が駄目になっていることくらいわからないはずないのに」

 何か違うと自覚していた。言いたいことはこれではなかった。でも、これで彼が怒ってくれるならそれでいい気がした。

「……?」

 彼はただただ戸惑っていた。思えば、彼の前で取り乱すのはこれが初めてかもしれないと、冷静な自分がどこかで考えていた。やっぱりひどく不気味だった。




 目の前には墓があった。彼の名前が彫られた墓だ。凍り付くような風の吹きすさぶ園内には、私以外の人がおらず枯れ木のように寂しげだった。水をかけられたばかりですこし黒ずんだその墓石の足元には、数本の花が供えられている。私が供えたものだ。

 結局、私はあれ以降彼に会わなかった。彼が会わせてくれなかった。まったく、意志が弱いのか強いのかよくわからない人だと思った。だから、彼が会ってくれるまで待ってみようと思った。再開は、柩の前だった。

 長い間手を合わせていた。そして――首は反射的に竦められ、背筋は丸まり、迫りくる“何か”に対処しようと身構える。その身の毛もよだつ羽音が、繰り返し頭の中で反響して脳を食い荒らす。“植え付け”が終わった後、私は恐怖と戦慄と、少しの歓喜を覚えた。




 ――ぶーんという耳障りな音で私は思い出から引きはがされた。気付けばそこらじゅうに羽音が満ちていた。散っていく意識の最期、数えきれないほどの羽音が私から飛び立っていくのを感じた。


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