無知パンチ

あだむ

本編

  汚れひとつない、雲のように真っ白な天井を僕は見ていた。

 身体を起こし窓際へと向かい、カーテンをそっと右へスライドさせて隙間から外を見た。窓の外には大きな湖が広がっていた。畔の桟橋にはそれぞれにピンクや黄色のスワンボートが停留している。今日はあのうちのどれかに乗るんだ……この部屋で一夜を過ごしたユッコと一緒に。

 カーテンを閉め、美しいユッコの寝顔を見た。

 ヘッドボードに置いていたスマートフォンを取った。パスコードを解除すると、開いたままになっていたFacebookのページが目に飛び込んでくる。10年以上前、一時期大流行したSNSだ。基本的に本名で登録しなければならない仕様になっている。

 「黒羽裕子」

 黒い太字で表示されたユッコの本名の上部にあるのは、円形に切り取られたプロフィール写真だ。丸い枠の中で微笑むのは、金色に染まったショートカットの若い女性だった。つぶらで黒目がちな瞳の横には、やけに色が濃く見えるホクロがひとつ、ポツリと佇んでいる。

 僕はもう一度ユッコの寝顔を覗いた。その目元にホクロはない。

 一ヶ月前、初めて盃を交わした居酒屋で、ユッコの整ったキツネ目と黒いロングヘアに見惚れていたことを思い出した。


 とあるターミナル駅で僕らは初対面を果たした。

「アプリで、こうやって会ったりするのって、何人目ですか?」

「え、1人目ですよ。康二郎さんもそうですよね?」

「……あぁ、まぁ、そりゃ……そうなのかな?」

 ユッケジャンが美味しいらしいですよ、とクチコミサイトを読んだというユッコに連れられて入った焼肉屋で、僕らは肉を注文せずにユッケジャンとサイドメニューと酒をひたすら注文した。ユッコの顔が美しくて、僕はユッケジャンよりも彼女の顔を肴についつい飲みすぎてしまった。途中までは他人行儀に「裕子さん」と呼んでいたが、酔いが回ったせいで、僕は

「ユッケジャンにちなんで「ユッコ」って呼んでいいですか?」

 と馴れ馴れしく迫ってしまった。そして、ユッコもそれに応えてくれた。

「じゃあ私はジローちゃんって呼ぶね」

 この時、僕はユッコと一生を添い遂げたいと確かに思ったのだ。その美しい顔が見せる色々な表情を、ずっと眺めていたいと思った。次の週には、僕らは富士河口湖のホテルを予約していた。


 僕はFacebookの写真と寝息を立てるユッコの顔とを見比べた。画面に映る「黒羽裕子」のプロフィールページには「私立雲仙学園に在学していました。中野区在住。栃木県宇都宮市出身」という経歴がそのまま金髪の写真の下に表示されている。間違いない、これは正真正銘ユッコのFacebookだ。

 投稿写真のページを表示する。10年以上前の写真のすべてにコメントがついている。そのコメントのほとんどの主は「佐藤美香」という人物だった。

 佐藤美香のプロフィール写真には、僕の目の前にいるユッコの黒髪と顔がある。整ったキツネ目に今より少し短いセミロングヘアの黒髪。そして、口元にホクロが佇んでいる。経歴は、黒羽裕子と同じく私立雲仙学園に在学していました。中野区在住。栃木県宇都宮市出身」だった。

 金髪でつぶらな瞳と泣きボクロの「黒羽裕子」と、ユッコの顔をした口元にホクロがある「佐藤美香」。どっちが本物なんだ。今、目の前で眠るユッコは一体誰なんだ?

 検索なんてするんじゃなかった。僕はひどいSNS中毒に悩まされていた。知り合う人の名前を検索し、その人のSNSにたどり着くと読める限りの過去の投稿を執拗に読み込んだ。Xを数分に一度開いては様々な人のオープンな発言に打ちひしがれた。僕はユッコと一生を添い遂げる覚悟を決めた。本来はその覚悟だけであとは死ぬまで何もいらないはずだったのだが、ユッコの過去がどうしても気になってしまったのだ。Facebookなんて古代遺跡のようなSNSで本名を検索した。

 どういうことなのか、確認せずにはいられなかった。ユッコのハンドバッグの口をゆっくりと開く。音を立てないように中を物色する。化粧ポーチをどかすと、ピンク色の二つ折りの財布が姿を現した。色とりどりのカードの中から運転免許証を探し出す。カードがパンパンに詰まっているからか、なかなか免許証を引き出すことができず、爪を使って出そうとしたら爪と指先の間の肉に免許証の角が入り込んでしまい悶絶した。

 免許証には「黒羽裕子」の名前とユッコの切れ長の目がしっかりプリントされていた。やっぱり、目の前で熟睡しているユッコの方が本物なんだ。しかし、Facebookの昔の写真はどういうことなのだろう。

 免許証をカード入れに押し込もうとして、免許証の裏にもう一枚、カードが重なっていることに気づいた。それを指でつまんで引き抜いたその時、

「んージローちゃんどしたのー」

 と、眠気まなこをぶら下げたユッコが身体を起こしてきた。僕はとっさにユッコの財布を落としてしまった。その音のせいか、ユッコの目がパチリと開いた。

「ん?今何時?」

「えっと……9時」

「ぎゃっ!バイキング終わっちゃうじゃん!ね、足元の浴衣とって!」

 僕は慌てて浴衣を拾ってユッコに渡した。

「あー、ブラ!ブラ!もういいや!昨日ジローちゃんに取らせた私が悪い」

 と、呟いて素早く浴衣の帯を締め、ハンドバッグを手に取り、床に落としたまま放置してある僕の浴衣を拾ってこちらへ放り投げた。

「ほら、ジローちゃんも早く!」

 僕はユッコにバレないようにゆっくりと足でユッコの財布をベッドの下に向けて移動させていた。

「何してんの?結んであげよっか?」

 ユッコが足を90度に曲げてベッドに乗り上げ、雪が積もった尾根をピッケルなしで登るクライマーのような足取りで僕の方へ向かってくる。ユッコが僕の隣に降り立った瞬間、僕は左足で財布をベッドの下に押し入れた。


「玉子料理に負けちゃいけないよね」

「負ける?」

「ホテルのバイキングってさ、トレイを取ってサラダバーを過ぎたら玉子料理がずらりと出迎えてくれるじゃない?スクランブルエッグ、オムレツ、目玉焼きって」

「そうね。つい取りすぎちゃうところだ」

「そうそう。そこで欲を出しすぎると……」

 ユッコはペンギンのように膨らんだ僕の腹を指差して笑った。朝食というよりも最後の晩餐という勢いで、僕はどんどん食べ物を胃に詰め込んだのだ。満腹感を通り越して苦痛ではあるが、歯を見せて笑うユッコの顔が見れたなら本望だ。

 ユッコもおかわりをするために席を立った。その背中を見送ってユッコの免許証と重なっていたもう1枚のカードに思いを巡らせた。もう1枚も確かに免許証だった。全面を目にしたわけではなかったが、名前に「佐藤」と書かれていたことと、黒髪ロングの写真だったのは見えた。

 どうして名前の違う免許証を持っているんだ?あれはなんだ。

 腹をさすりながら椅子の背もたれに全体重をかけると、レストランを行き交う宿泊客にぶつかりそうになりながらこちらへ走って来るユッコの姿が見えた。慌てた顔も可愛いな、なんて思っていると、ユッコはテーブルに着くなり、ハンドバッグの中身をテーブルの上に出していった。テーブルの上に飛んだドレッシングの上に化粧ポーチを置いてしまうくらい焦りながら。

「ない、ない」

 数十分前に財布を押し込んだ左足が少しだけ冷えたように感じた。

「財布がない」

「……ほんと?大変だ」

 喉の奥に味付け海苔が何重にも貼り付けられたかのように声帯が満足に震えてくれなかった。

「部屋のカードキーが入ってるのにー!」

「もう、そのまま……」

「今日使うあれも、財布に入ってるの」

「あれって……あれ?」

「そう、白鳥のボートの上でやるやつ」

 僕は身を乗り出し、ユッコの右手を握った。そのまま立ち上がり、ユッコを引っ張るように歩き出す。そして、フロントの従業員に声をかけた。決して良客とは言えないであろう僕らに満面の笑みを浮かべてくれた。


 窓の外にホテルの駐車場が見える。車へ向かう人の群れがおもちゃ箱からこぼれるビー玉のように散らばっていく。みんな楽しそうだ。日々の気分転換のための旅行なのだろう。人生を謳歌している。それが無性に羨ましかった。羨ましさを噛み殺して、財布を探すユッコに話を切り出した。

「Facebookを見たんだ。あれがユッコの素顔なの?整形とか、したのかな?差し支えなければ、教えて欲しい」

 僕はベッドの下から拾い上げた財布をユッコに差し出した。

「このままじゃ、一緒に逝けない。ユッコに出会えて、一緒に一ヶ月間過ごして、ようやく、死ぬ勇気を持てたんだ。ユッコのことを全部知ってから死にたい」

 差し出した財布をユッコが何も言わずに受け取る。僕は目を伏せた。

「全部、知りたい?」

 僕は頷いた。彼女の美しい顔は今どんな表情をしているのか。見たい思いと見たくない思いが交差しながら、僕はカーペットを見つめた。

「今日のあれね、本当は1人分しか用意してなかったの」

「え」

 財布のチャックを開く音がする。視線を上げるとユッコはベッドに腰を下ろして錠剤の入ったチャック付きのビニール袋をサイドボードの上に放った。

「ジローちゃんに渡すのは本物の睡眠薬。私が飲むのは、ただの風邪薬」

「え、え」

 ユッコの手には、どこから出したのかネイルハンマーが握られている。

「白鳥ボートに乗って、湖の真ん中で一緒に薬をゴックンして、飛び込む。ジローちゃんはそのまま沈んで、私はもう一度ボートに乗って、事故を装う」

「……いや、ちょっと」

 ユッコがビニール袋の中の錠剤をネイルハンマーでゴリゴリと押しつぶした。

「でも考えて見たら絶対にバレるからやめたの」

 ネイルハンマーに潰され、錠剤が粉末へと変わっていく。

 落ち着いた顔は少しだけアンニュイに影っていてこんな状況でも見惚れてしまう。ユッコがハンマーから手を離して、財布から免許証を2枚取り出した。同じ顔の、名前の違う2枚の免許証。

「そっくりでしょ?私の彼女なんだけどさ」

「え」

「ジローちゃんが殺したんだよ?覚えてるよね?」

 ユッコがスマートフォンの画面を僕に向けた。見覚えのあるXのアカウント画面だった。

 どうしてユッコがそのことを知っているんだ

「映えしか気にしない不味そうな料理ばっかで彼氏かわいそう」「こいつの彼氏もこの女と一緒でつまんなさそ」

 ユッコが覚えのある文を読み上げる。

「あなたが書いた文だよね。しかも嘘の内容を拡散してくれたのが炎上しちゃって美香は家も会社も特定されたんだよ?誰が会社に来るかわからなくて怖いって会社も辞めて家も引っ越した。外に出たくない、眠れない、何も食べたくないって。あなたのせいで美香、壊れちゃった。開示請求をして訴えたけど裁判もなかなか進まなくて。毎日部屋に引きこもって泣いて、それで死んじゃった」

 ユッコが寂しそうに微笑んでいる。

「私が裁判を引き継ごうと思ってたけど……結婚してないから出来なかった。どうせ死ぬならあなたを殺してからにしようと思って、あなたのこと調べたんだよね」

「どうやって?」

「開示請求が通った時点で住所も本名も分かるよ。それにFacebookも残ってたし。毎日近くであなたを見てた。電車で隣に座ったこともあったよ?」

 こんなに美しい顔に、どうしてその時は気づかなかったのだろう。

「そしたらあのマッチングアプリやってるじゃん。ご丁寧に自殺志願者用のタグまで付けてるしさ。美香を自殺させた奴が死にたがってるってなに?笑っちゃった」

 ユッコと出会ったマッチングアプリは、廃れて過疎状態になったアプリだった。運営も放置状態で、迷惑行為や通報機能もろくに機能していない。だから、自殺志願者同士が特定のタグを暗号にして出会えるアプリだった。例えば「深夜の森で星を見ましょう」とか。

 粘り気のある唾を無理やり飲み下す。記憶の断片が次々と脳裏に浮かんでは口の中の乾きを助長する。

 長年付き合った恋人に振られた。仕事でも大きなミスをしてかして窓際の部署へと追いやられた。そんな時、とある投稿を目にした。鼻につく文章だった。顔出しこそしていないものの、小綺麗な室内をバックにした手料理写真やナイトルーティンの投稿。難関資格試験に合格したとか、仕事でチームを纏めるのが大変だけどやりがいがあるとか。恋人との同棲生活の楽しさ幸せさを隠しきれていなくて……それでいて、僕と同い年。なんでばっかり。こいつは幸せで、僕は不幸せ。なんでなんだよ。気がつけば、毎日数時間おきに投稿を確認しては嫌がらせの投稿をしていた。拡大した写真に反射した社員証から、大手の会社勤めだと知った。

 

「痴漢冤罪の疑いをかけられて電車内で騒がれて警察を呼ばれました。社員証を見たので勤め先と名前は分かってます。警察を呼ばれる前にXをしてたのを見てました。女のアカウントはこれです。何度も冤罪騒ぎを起こしてるって警察の人が教えてくれました。注意喚起拡散希望」

 と社名を匂わせる投稿をしたらバズってしまった。

 いい気味だと思った。

 半年後、訴状が自宅に届いた。親のスネをかじっていたから、家族に瞬く間に知れ渡った。なぜか、職場にも広まった。僕が生きるための場所はこの世には残されていなかった。

「私の顔、可愛いでしょ。もう美香に会えないと思ったら寂しくて、どうせならって美香と同じ顔にしたんだ。ふたりで家を買うために貯めたお金で美香の顔に整形したの」

 ユッコが僕をまっすぐに見た。

「ジローちゃんの大好きな顔だよ。あなた、顔しか褒めないじゃん。だから振られたんでしょ?X見たよ」

 元カノと比べるまでもなく美しい顔が微笑む。

「不思議だよね。ジローちゃんと実際に会ったら生きる気力がグンと湧いたの。絶対にこいつを殺してやろうって。これ見て」

 ユッコがスーツケースを開いた。中には真新しい工具が綺麗に収められていた。ロープ、ガムテープ、釘、ビニールシート、ノコギリ。

「ジローちゃんが死にたくないって言い出しても、絶対に殺せるように用意したの」

 錠剤を粉砕したハンマーを掲げて眺めている。

「でもやめた。財布をなくした時、ジローちゃんのことを殺さなくて済むってホッとしちゃったんだよね。あ、あなたのことは今も殺したいと思ってるよ。でも、美香になった自分の顔を見てたらさ、あなたなんかのために死ぬのが馬鹿らしくなっちゃった。美香が生きられなかった分まで、美香として、美香の顔で生きるんだ。美香の顔で罪は犯せないよ。ねえ、なんで誹謗中傷なんかしたの?」

「……羨ましかったから」

「へえ。同性同士だかあらけっこう大変だったんだよ。親の目とか。そんなの認めない、子供はどうするんだ!とか。だから、ジローちゃんが思うほど、私たちキラキラしてたわけじゃなかったんだ。だからこそ、幸せアピールをしてたんだ。表面的な幸福ってそんなもんだよ、きっと」

 今まで見た中で、とびきりの笑顔を僕に向ける。

「ジローちゃんも整形したら?まあ、内面の醜さは整形しても顔に出るけどね」


 <了>



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無知パンチ あだむ @smithberg

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