夏の亡霊

柴田 莉音

第1話

苦手と嫌いは、似ていて異なると思う。

苦手というのは、できる限り離れたいというもので

嫌いというのは、見るのも嫌だということ──だと思っている。


それを踏まえて、俺は満員電車が嫌いだ。

降りる時は足も首も腕も痛いし、人の体臭ほどキツイものはない。

顔を上げれば、憂鬱そうな表情や苛ついた目と合う気がする。だから顔を上げない。

スマホをスクロールしても、特に見たいものは無く、時間を確認し続けるだけになっている。

時折届くクーポンは、未読のままで使う機会を失っていた。コンビニ行った時に見せてればもう少し安くなったのに、そんなことを考えて画面を閉じかけた時、身体に軽い衝撃が走った。壁に体がぶつかる。じんわりとした痛みが腕を走った。

それと同時に鳴ったのは、小さな舌打ちの音。


「すみませ、ん」


口から出た謝罪の言葉は舌打ちよりも小さかった。

下を向いていた顔をあげて声の主を見る。40代くらいのおじさん。くたびれたスーツに、湿った前髪。


出た言葉とは反対に、自分は悪くない。ぶつかってきたお前が悪い。そう思っている、だから出た言葉は条件反射だった。

それに、まるで俺が謝るのが当然かのように返事もしない事にも腹が立つ。声にだしていうのはみっともない。俺はこんな舌打ちしてる奴と同じじゃない。


言葉に出さずに心の中で苛立ちを消費しようと試みるが、考えれば考えるほどに、収まらない。

誰かにこの事を言えば少しは落ち着くはずだ、そう思いトーク画面を開いて…そのままアプリを閉じた。

冷静に考えればわかる。

こんなことを言われてどうなるのか、ただ相手にも迷惑なだけだろ。

その後は考えなくてもわかる。短気だと、良いお笑い草だ。


……ここはいつも通り、裏垢に呟けばいい。リアルの知り合いなんかいないんだから、きっとそっちのがマシだ。


『おっさんに舌打ちされた。

いや。ぶつかってきたのお前だろw

自分がうまくいかないからって若者に八つ当たり辞めてくださーいww』

ひとつ呟くのに数秒もかからない、イライラしているから余計に早くうち終わる。

『つうか体臭やば。夏なんだから汗ケアぐらいしろよw』

『職場でも家庭でも居場所なさそw』


苛立ちの限り、思いつく罵詈雑言を並べては投稿する。

誰も見てないし、本人に繋がる訳でもない。

安心して吐き出すことが出来る。そう思うと心が楽になるのを感じた。いいねもリポストも勿論付かない。

けど、それが居心地がいい。


次の駅名を告げるアナウンスが流れては、亮汰は画面から車窓へと視線を上げた。自分が乗ってきた駅よりも多くのビルと店が並んでる。店といっても商店街なんかとは比べ物にならないくらい、ひとつひとつがデカイ店。看板ですら存在感を放っている。

黄色の板は錆びて、所々剥がれたオレンジが見えていた。色褪せたカラフルな文字は、なんとか『カラオケ』と読める。

普通なら気付かずに素通りするような看板も、自分が働く場所だと思うと否が応でも目で追ってしまう。


今日のシフトは…野田さんと店長が一緒か、と思い出せばやっぱり憂鬱になる。

美人な同僚もいないのだから、どっちにしろ嬉しくなることもないのだけど、やっぱり口うるさいおばさんよりは同世代や大人しい人のが気が楽だ。


店長と2人きりならばまだマシだが、そこに口うるさく気も強い野田さんが入ると、完全に尻に敷かれた店長が言いなりになり、野田さんが終わったあと愚痴が始まる。

シフトを変えて欲しいものの、変えて欲しい理由をオブラートに包む方法は思い付かず、かと言って適当な理由で口を開き続ける勇気は持てない。


この間も、「声が小さい」「笑顔がない」なんて理由で長々と怒られた。怒っている相手と目を合わせられないから余計に怒鳴られる、ネチネチとまるで蛇に首を絞められているかのようだった。横にいる店長は忙しいふりしてこちらを向こうともしない、ただ野田さんに同意を求められれば目を泳がせ曖昧に笑って頷く。


実際に締められた訳でもないのに、思い出しただけで喉がキュッとしまり苦しくなってしまう。息が詰まる苦しさに心臓が痛みを訴える。そして、自分は悪くない。そう思ってもスマホに書いた言葉は『死にたい』だった。


死にたい、なんて、おはようよりも書いている。何かあったら死にたいと書く、それはもう癖になっているのかもしれない。こうすると少し呼吸をするのが楽になる。本当に死にたい訳じゃない、例えるならおまじないと同じようなものだった。


「痛いの痛いの飛んでけ」なんていう子供騙しと同じようなもの。それの大人版だった。

それでも、誰かに言えば面倒なメンヘラのレッテルを貼られかねないからこうやって呟く。誰にも見せるつもりがないから、それで平気だと思っていた。


なのに、駅へと止まった電車から降りる途中でスマホを落とし、そのうえ知らない人に拾われるなんて思わなかった。

有り得ない話じゃないのに、想像していなかった。

こんなことを想像して生きていく人間はそもそも変態だろ、なんて恥ずかしさを消したくて心の中で呟きつづける。


「落としましたよ」


春のそよ風のような声だった──。そう言えば気持ち悪いポエマーだと思われるかもしれない。それでも、そう例えるしかないほど穏やかで綺麗な声だった。

俯いていた顔を思わず上げてしまうほどに、綺麗で優しい声。でも綺麗なのは声だけじゃなかった。拾う際に耳から落ちた髪をまたかけ直す、その仕草をする指先ひとつまで白く綺麗で、艶やかな黒い髪は他の何よりも美しく凛として見えた。


少なくとも、テレビで見る芸能人よりも綺麗に見えた。

可愛い、なんて言葉は似合わない綺麗さ。

もし、白雪姫がこういう美しさを持っていればお后だって諦めが付いたのかもしれない。

無言で固まってる姿に痺れを切らしたのか「あの?」と控えめな声がまたかけられた。


「すみません、、ありがとうございます」


頭の中はお喋りなのに、口から出る言葉は1/10以下だ。文字制限は着いてないはずだというのに。

受け取ったスマホは下向きだった。

画面は付いたままだが、内容を見られていない可能性が出てきた。それに、一瞬の事だ、だから大丈夫だ。なんて自分の脳みそに誤魔化しをいれる。


──それに、知り合いでもないのだからSNS自体と変わりない。そう思えば幾分気が楽だったら、

誰かに伝わることもない、伝わっても知らない相手だ。

今恥ずかしいだけで、長くは持たない。


受け取ったスマホの電源を落としている間に、先程の女の人は居なくなっていた。暗くなった画面に指先が触れ、時刻だけが無情にもバイトの時間を示しだした。

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