第27話 本当の王子様は


 ──ほんとうに、アンナ様を愛しているんだ。


 海のように深く、凪のように穏やかで揺るがないアンナ様への愛情。

 知らなかった二人の過去に胸が打たれた。きっと私とアレックス様よりも、ずっと大きな障害や弊害があったはずなのに──それでもロイド様は、まっすぐに想いを貫いたんだ。

 

「身分の違いも立場の違いも、ほんとうにその人を思う気持ちがあるなら関係ないよ」

「だけど……私にアンナ様ほどの器量なんて……」


 気づけば、俯いたまま呟いていた。

 アンナ様のように可憐で、聡明で、まっすぐに誰かを支えられるほどの力なんて──私には、きっと備わっていない。

 すると、ロイド様は少しだけ笑って首を振った。

 

「シェリルは先日の結婚記念パーティーで踊ったこと、覚えてる?」

「はい」


 忘れるはずがない。みんなに迷惑をかけたくなくて懸命に覚えて、アレックス様の指導を受けて、そして彼に導かれて。

 たぶん、あの頃から私はアレックス様のことが好きになっていたんだと思う。彼の手の温もりも、視線の輝きも、全部が心に焼きついて離れなかった。

 

「シェリルとアレックスのダンス、とてもかっこよくて、優美だったよ。僕だけじゃない。踊り終えたあとの、みんなのあたたかい拍手や眼差し……。シェリルには、あれが批判や非難に見えた?」


 問いかけるロイド様のやさしい瞳の中には、確かな強さがある。

 慰めるだけの言葉じゃない。逃げ道ではなく、ちゃんと前を向かせようとする大人の眼差しだ。


「……いいえ」


 私は小さく首を横に振った。

 あの瞬間の光景がよみがえる。会場いっぱいに響いた拍手。みんなからの賛辞。そして、「見事だった」と微笑んでくれたアレックス様の顔。

 どこを探しても、冷たい視線なんてひとつもなかった。

 

「シェリルはもう立派な淑女だよ。逆境さえ跳ね返してしまう強さだってある。誰よりも誠実に努力してきた。それをみんなちゃんと見ている。あとは、自分を許すだけだよ」


 胸につっかえていた大きくて硬くなった氷が、ゆっくりと溶けていくのを感じた。

 もう一度、アレックス様と向き合いたい。今度こそ──逃げずに、素直に。

 自身に誓うように胸の前で手のひらを握りしめたとき、ロイド様がやさしく笑った。


「弟も、昔から不器用だったんだ」

「……はい。知ってます」

「でも根はまっすぐでさ。ちょっと回り道するけど、嘘はつかない。だからその分、シェリルが引っ張ってやってほしいな」


 冗談めかして笑うロイド様の声につられるように、ふっと肩の力が抜けた。

 

「あの人を引っ張るなんて、骨が折れちゃいそうです」

「はは、期待してるよ」


 彼の微笑みに合わせるように、一筋の風が吹き抜けた。光を受けた黒い髪がそよぎ、サファイアを散りばめたような蒼い瞳は万華鏡みたいにきらきらと発色する。


 ──やっぱり、ロイド様は王子様みたいな人だなあ。

 

 小さい頃からずっと、私の憧れの人。

 ふと、幼少期の記憶が狭霧さぎりのように浮かんだ。

 白い寝台、知らない世界が閉じ込められた絵本、一輪の薔薇の香り。そして──震える手で渡した、小さな指輪。

「結婚してね」という願いは届かなかったけれど。私は、もっと大切な気持ちに気づいた。

 だからこそ、抱いていた“憧れ”に、きちんと区切りをつけるときがきたんだ。


「……ロイド様」

「うん?」

「昔、私が寝込んでいたときに……指輪を渡したこと、覚えてますか?」

「指輪?」


 ロイド様が少し首を傾げる。


「はい。病弱だった頃、毎日のようにロイド様は本を読んでくれましたよね。それに、薔薇を持ってきてくれたり……。ほんとうに嬉しかったんです。すごく感謝しています」

「……シェリル?」

「あの日々がなかったら、今の私はいません。だから、指輪のことも……」

「待って、シェリル」


 ロイド様の顔には、わずかな戸惑いが滲んでいる。その視線が、少し遠くを探すように細められた。

 

「たしかに、僕も何度もお見舞いに行ったよ。でも、そのほとんどが『今日はもうお休みになられている』って断られてたんだ。どうやら、すでに誰かが先に来ていたみたいだった」

「……え?」


 耳を疑うような言葉に、笑っていた顔がそのまま固まった。


 ──そんなわけ……。


 あの優しさ、あたたかさ、黒い髪、蒼い瞳──朧げな記憶に残っているのは、ロイド様のはず。

 なのに、そうではないのなら──私の“憧れ“は、いったい誰に向いていたのだろう。

 

「後から聞いたんだ。毎日のように通っていたのは……アレックスだったって」


 彼の名前が耳に触れた瞬間、息が止まった。

 そして、胸の中で何かが音を立てる。ぼんやりとした記憶は、時間が巻き戻るように色を取り戻していく。

 白い寝台、窓辺から差し込む淡い光。眠る私の手を包み込んでくれた手のひら。読んでくれた物語。薔薇の香り。

 それから──指輪を受け取ってくれたときの、春の陽だまりみたいな笑顔。


「……アレックス、様が……」


 記憶の断片が重なったときには、すでに涙が頬を伝っていた。

 私の気持ちはずっと昔から彼に向いていたのだと、ようやく気づいた。


「改めて聞くよ。シェリルも、ほんとうはアレックスとの関係を解消したくないんだよね?」

「……はい」

「なら、行かなきゃ」

「はいっ……!」


 涙を拭いて、立ち上がる。


「ありがとうございます、ロイド様。お話しできてよかったです」

「もう大丈夫だね。僕は、ずっと二人の味方だよ」


 その言葉に背中を押されるように、私は草原を駆け出した。あの日々を照らしてくれた光を、今度こそ自分の手で掴みにいく──そんな感覚だった。

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