第26話 私の王子様
走って、走って、どれくらい経ったのだろう。
視界の端に広がる緑がようやく自分の家のそばの草原だと気づいたとき、膝から力が抜けた。
草の上に崩れ落ちると、抑え込んでいた涙と感情が堰を切ったようにあふれ出した。
「なんで、あんなこと……言っちゃったの……」
しゃくり上げながら呟く声が、風にさらわれていく。疎ましいくらい心地よい日差し。草葉がそよいで、光を受けてきらきらと輝いている。
いつもなら大きく腕を伸ばして、寝転がって、空を見上あげているはずなのに──まったくそんな気分になれなかった。
泣いて、放心して、また泣いて。
──アレックス様の……ばか。
ううん、違う。本当にばかなのは、私のほうだ。
ちゃんと伝えればよかっただけなのに。
どうしてあんな言い方しかできなかったんだろう。
口に出した言葉のひとつひとつが、胸に刺さったまま離れない。温室で見た彼の顔が何度も脳裏に浮かんで、そのたびに痛みを増していく。
──もし、もう二度と会えなかったら……。
そう思った瞬間、目からまた大粒の涙がこぼれた。
ふと鳥のさえずりに混じって、草の擦れる足音が近づいてきた。それは目の前で止まり、俯いていた視界に影を落とす。
顔を上げると、涙で滲んだ視界の向こうにぼんやりと黒髪と蒼い瞳が見えた。
「……アレックス、様?」
「ごめんね、シェリル。弟じゃなくて」
思い描いていた人よりも穏やかな声色。はっと焦点を合わせれば──立っていたのは、どこか申し訳なさそうに微笑んでいるロイド様だった。
「……ロイド様! すみません……!」
恥ずかしいところを見られてしまったと、慌てて涙を拭う。
「隣、いいかな?」
「……はい」
ロイド様は草を払うように手を軽く動かしてから、丁寧な所作で腰を下ろした。背筋の通った姿勢も、指先の動きも、一つひとつの動きが洗練されていて目を引かれる。
それは飾り立てたものではなく、彼の生まれ持った品性や品格みたいだった。
「シェリルが僕をアレックスと間違えるなんて、初めてだね」
「……ほんとうに、申し訳ないないです」
「謝ることないよ。間違えるくらい、心がいっぱいいっぱいなんでしょ?」
ロイド様は、すべて見透かしたように続ける。
「アレックスと喧嘩したんだね」
「……どうしてですか?」
「シェリルが泣く理由なんて、今は弟のことしか浮かばないから」
やさしい微笑みだった。
ロイド様なら、このやるせない気持ちをわかってくれるかもしれない。昔から変わらず、あたたかい笑顔をくれる王子様みたいな人。
だけど──それは、憧れだったんだと今ならわかる。もちろん、その中には少なからず好意もあったかもしれかい。それでも、アレックス様を想う気持ちは、“憧れ“なんて淡いもので片付けられるようなものではない。
苦しくて、痛くて、そして目を逸らせないほどに愛おしい。好き以上に、私は彼に恋をしていたんだ。
それに気づいたのは、失いかけてからだったけれど。
「私……アレックス様に関係の解消を持ちかけたんです。そしたら、喧嘩になっちゃって……。言いたいこと、思ってることちゃんとあったのに、全然素直になれなくて」
「アレックス、怒ったでしょ?」
「……はい」
「弟も素直じゃないからなあ」
ロイド様は苦笑いをこぼしたけれど、それはアレックス様のことをよく知る人のものだった。
「シェリルも、ほんとうは解消なんてしたくないんじゃない?」
「……でも、アレックス様の幸せを思うなら、このまま一緒にいちゃいけないって。私よりも、もっと彼に相応しい女性がいるはずで……。それに、私とでは身分も立場も違います。アレックス様を苦しませてしまうのなら……別れたほうがいいって」
言いながら、喉がきゅっと締まった。
彼の幸せを願って選択してはずなのに、どうしてこんなにも胸が痛むんだろう。
「僕は、シェリルと別れるほうが弟はずっと苦しいと思うけどね」
「……それでも、非難や批判をされてしまうのはアレックス様なんです。そんな思いをさせたくないんです」
「身分や立場の違い、か」
ロイド様は目を細め、風に髪をなびかせた。その横顔はどこか遠い記憶を見つめているようだった。
「シェリルには言わずにいたけれど……実は、アンナの家も決して上級貴族といえるものではなかったんだ」
「え……?」
「アンナは、辺境の小領地を治める家の出身でね。身分は高くなかったけれど、誇り高くて、誰よりも自分の考えを持っていたんだ。僕の一目惚れだったよ」
「そう、だったんですか」
おっとりとして、誰にでもやさしいアンナ様。
けれどロイド様が話す彼女の印象は、それとはまるで違っていた。別の物語の主人公のように凛として、強い──そんな印象を受けた。
「最初はきっぱりと断られたよ。ううん、断られ続けた、かな。『あなたとは住む世界が違う。迷惑をかけるだけです』って」
「それ……」
「そうだね、今のシェリルみたいな感じだった」
ロイド様は懐かしむように笑った。
「両親にも反対された。けれど、僕は引かなかった。逢瀬を重ねるうちに、少しずつ距離が近づいていって……やがて、アンナのほうからも心を開いてくれた。それから彼女は、礼儀作法を覚えて、舞踏も学んで、僕に相応しい女性になろうと懸命に努力してくれたんだ」
やさしい口調で語られる彼の思い出。声色には懐かしさと、確かな愛情を感じられた。
「耳に届かない周囲の反対もあったかもしれない。それでもアンナは折れなかった。やがて両親も彼女を認めてくれるようになって、結婚することができたんだ。何があっても絶対に彼女を守ろうって、あのとき、そう誓った」
堂々と言い切ったロイド様の真剣な顔つきに、わずかな微笑が戻る。
「なんて、惚気話になっちゃったね」
その笑みには少しの照れと、気高い誇りが混じっていた。
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