第20話 偶然? 運命?


 ここ数日、アレックス様の館に顔を出していない。それどころか、アレックス様とはまともに顔を合わせてすらいない。

 クロエさん曰く、彼はいまとても多忙なのらしい。毎日朝から王都の中心まで足を運んで、帰ってくるのは夜なんだとか。


 ──会いたいな……。


 部屋のベランダから月夜を眺めなら、ぼんやりとそんなことを思ってしまう。

 正直言うと、少し寂しい。

 憎まれ口でも毎日のように聞いていた声が聞けないのは、なんだか物足りない感じがする。

 別に、彼のことが恋しいわけじゃない。あのひねくれた物言いや、皮肉の裏にある優しさに慣れてしまっただけ。

 そういう人が、他にいないから。だから、ちょっとだけ会いたいと思ってしまうだけなんだ。


 ──次ちゃんと会うときには……髪飾り、つけてみようかな。


 宝石箱から取り出した薔薇の髪飾りを月明かりにかざす。夜空に浮かぶどんな星よりも、薔薇の中に閉じ込められた光がいちばん綺麗に見えた。


 *


 アレックス様に会う時間が減った代わりに、ヴィンセント様とお会いする機会が増えていた。

 たとえば、一昨日のこと──。


 この日、私は王都でも評判の茶葉専門店に訪れていた。

 小規模な店だが、取り揃えられている茶葉の種類は王都一。その奥には、購入前に香りや味を確かめられる小さな喫茶スペースが併設されている。

 クロエさんに教えてもらって以来、私はすっかりその場所が気に入っていた。

 今日も、季節限定の茶葉を試すために席に腰を下ろしたところで──。


「いい香りですね」


 かけられた声に、ティーカップを持つ手がぴたりと止まる。視線を向けると、ヴィンセント様がにこやかな表情で立っていた。


「シェリルさんもお買い物ですか?」

「あっ、はい」

「いいお店ですよね。俺も茶葉はこの店でしか買わないんです」

「このお店を知っちゃったら、もう他に行けなくなりますよね」


 あはは、と少し乾いた笑いがこぼれる。


 ──どんな偶然なんだろう……。


 数日前に温室で会ったばかりなのに、またヴィンセント様と鉢合うとは。私と彼は、行動パターンが一緒なのだろうか。それにしては、タイミングまで同じだなんて。

 などと少し疑わしげに思っていたのが、たぶん顔に出ていたのかもしれない。


「でも、ほんとうにシェリルさんとはよくお会いしますね」


 私に同調するように、ヴィンセント様はどこか照れたように苦笑いを浮かべていた。私は慌てて笑顔に変えて、声を弾ませる。

 

「ほっ、ほんとですよ! すごい偶然ってあるんですね」

「そうみたいですね」


 くすっと喉の奥で笑ったヴィンセント様は、ひと呼吸分の間を置いて「でも……」と呟いた。

 そして、わずかに腰をかがめ、視線の高さを私に合わせる。伸ばされた指先は私の頬を撫でるようにかすめ、一束の髪をすくい上げた。


「偶然ではなく……運命、だとしたら?」


 作り物みたいに完璧な笑顔と、乱れのない所作。やはり彼が幼少期に思い描いていた“かっこいい男像“は、王子様みたいな男性を指すのだろう。

 かくいう私はというと──硬直していた。もちろん、彼の不意打ちの仕草と言葉のせいだ。

「運命」なんて言葉をさらりと口にできる人、ヴィンセント様以外ではロイド様くらいしか思い浮かばない。けれどロイド様が向けるのは、いつだってアンナ様だけ。

 だから、私にそんな王子様みたいな言葉をかけてくれる人がいるなんて、夢にも思わなかった。

 

「すみません、俺にも彼女と同じものを試飲させてくれますか?」


 はらりと髪の毛から手を離した彼が、通りかかった店員に声をかけた。


「いい香りなので、俺も気になってしまいまして」

「……はいっ! すごく! いい香りですよ!」


 流れるように私の正面に腰を下ろしたヴィンセント様は、軽やかに脚を組む。その軽やかさとは反対に、私は壊れかけのおもちゃみたいに、ぶつ切りの言葉しか出てこなかった。

 

「俺たち、似た者同士かもしれませんね」

「あ、はい! そうですね!」


 頭が熱くて、思考もまともに働かない。声が裏返りそうになるのを必死に抑えているうちに、店員がティーカップを持ってきた。


「これはいい……。香りだけじゃなく、味も渋みがなくて飲みやすいですね」

「はい、私も気に入りましたっ!」


 ずっと言葉尻が固い。無理やり翻訳した言葉みたいに、感情が入っていかない。緊張と、彼の言動に脳内の処理が追いつかいせいだ。

 ヴィンセント様はそんな私を見て、くすりと目を細めた。


「そんなに緊張しないでください。俺が悪者みたいじゃないですか」

「あ、全然そんなつもりは……!」

「冗談です、わかってますから。俺が悪者だなんて、シェリルさんは思ってないですよね」


 その瞳から、一瞬だけ確認と賛同を求めるような気配が漂った気がした。

 私は「もちろんです」と短く返したけれど──“悪者“というよりは“色事師いろごとし”のほうが近いような、なんて内心で思っていたのは秘密だ。

 

「もしかして、俺のこと、少しは異性として意識してくれてます?」

「えっ……!? いや、そんな……!」


 たじろぐ私に、彼はさらに追い討ちをかける。

 

「シェリルさんは、どうしたら俺のこと好きになってくれますか?」

「どうって言われましても……」


 口をつぐんでしまう。

 こんな容姿端麗な人に王子様みたいな告白されて、さらには、こんなふうに詰め寄られたら。誰だって好きになってしまうはず。

 なのに──どうしてだろう。

 ヴィンセント様には、好意以上の感情を抱けそうになかった。頬が熱くなるのは、驚きと動揺のせいで、たぶんそこに“恋”の色は混じっていない。頭では完璧な人だとわかっているのに、心の芯は動かない。

 まるで、「心はもう誰かのことでいっぱい」みたいな。


 ──誰かって、誰……?


 ふと、誰かの姿が浮かんだ。大きくて骨ばった指先、広い胸元、蒼い瞳──そして、黒くて長い髪。


 ──まさか、そんなはず……!


 全貌を思い出すよりも前に、私は首を振って残っていた紅茶を飲み干した。

 そのかたわらで、ヴィンセント様の顔から笑みが消える。彼の周囲の空気が、冷えて濁りきった紅茶のようにざらりと苦く感じられた。

 

「……まだ……りそうだな」

「えっ?」


 呟くよりも小さい声はよく聞き取れなくて、思わず顔を見やる。

 けれど目の前にいたのは、いつもの優雅な微笑みをしているヴィンセント様だった。


「いえ。シェリルさんが振り向いてくれるまで、俺は待ちますから」


 穏やかな声色。ほんの一瞬前の冷たさは、私の思い過ごしだったのだろうか。

 いよいよ言葉が詰まったとき、店員の控えめな声が割って入った。


「申し訳ございません。他にも試飲されたいお客様がいらっしゃって……そろそろお席を……」

「あ、そうですよね! すみませんでした!」


 私は勢いよく椅子から立ち上がる。

 

「この紅茶の茶葉、買わせてもらいます」

「ありがとうございます。ご用意いたしますので、お支払いをしてお待ちください」

「はい」


 どこか逃げ出すような気持ちで会計に向かった。そんな私を追い越すように、ヴィンセント様が横から入ってくる。

 

「シェリルさん、ここは俺は」

「とんでもないです……! 私が欲しいものですし!」

「買い物の邪魔してしまったお詫びだと思ってください」

「そっ、そんなことは……!」


 言い淀んでいる間に、差し出された硬貨の音が小さく鳴った。


「お待たせいたしました。お品物です」

「俺のほんの気持ちですから、受け取ってください」

「……ありがとうございます」


 手渡された紙袋を抱えると、ヴィンセント様は満足そうに微笑んだ。


 *


 その日の夜。

 買ってもらった茶葉で紅茶を淹れたけれど──煮出しすぎたせいか、お店のときよりほんの少し、苦味が強く感じられた。

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