星屑の装丁本

ごんのすけ

ステラと星屑の装丁本

古びた装丁本 上

 ──いいかい、ステラ。絶対に、ぜったいに、遺跡の……へ行ってはならないよ。父様と約束しておくれ。


 病床の父は、男手ひとつで慈しみ愛してくれた父は、彼の装丁本がキラキラと散り去るその最期の時まで、たったひとりの幼い幼い娘を案じる言葉を囁いていた。


 ***


「あたくしは貴女を思って言ってあげているのよ? 探しにゆきなさい、と。だって、ねえ。でなければいつまでたっても依怙贔屓のままですわ。あたくしなら、耐えられない。ねえ、皆様もそう思うでしょう?」


 トゲトゲした言葉に、ステラは身を小さくした。


「サフィールさまのおっしゃるとおりですわ。なんで『本』もないのに、この学校にいるの?」


 くすくす、くすくす。軽やかな鈴のような笑い声は、心の脆い部分を探して突っついてくる。泣いてはいけない。泣いたら、相手が喜ぶだけだから。ステラ・メテオールはブカブカの黒い制服のスカートをぎゅっと握った。


 俯いて耐えていれば、普段なら上級生が呆れ顔でお祖母様学園長を呼んでくれる。情けないが、ステラが日常茶飯事のこれを切り抜ける方法はそれしかないのだ。だって、ステラには、目の前にいるサフィール・ジョワイオーやその取り巻きと違って、『絶対の味方』がいない。


 けれど最悪なことに、いまいるのは学校の外で。

 お祖母様も、お祖母様の『本』もそばにはいない。


 そのふたりがいないところでは知らんぷりを決め込む教師すら、『本』を受け取った子どもたちの誘導で遠くにいる。


 サフィールは栗色のウェーブのかかった質の良い髪を、小さな宝石で飾られたオペラグローブに包まれた手で跳ねるとわざわざステラをのぞき込んで、綺麗な青い目を意地悪く細くした。目を逸らそうにも追いかけられる。


「お嬢様。そのように近づいては、『本無し』のせいで汚れてしまいます」


 嘲りを含んだ声がして、陶器のような腕が間に入ってきた。サフィールの『本』だ。ゲテ装丁本。サフィールの腕にある宝石装丁の本の顕現体は、ステラがこわごわ見上げると、ダイヤモンドの髪を揺らし、サファイアの目を主と同じく意地悪くしていた。


「けれど、ユウェル」


 サフィールが本を撫で、ユウェルの腕に触れながら猫なで声で言う。


「これも貴族としての義務でしょう?」

「ええ、お優しいサフィールお嬢様。けれど、どれだけ施しても動かない愚図もいるのです」


 ステラはちらと背後を見、つばを飲み込んでサフィールを見た。


「け、けれど……私、お父様に言われているの。その……遺跡には、入らないようにって」


 おーぉ……、と取り巻きたちと嫌な笑い方をしながら目配せしたサフィールが、宝石の散りばめられた扇子で口元を隠した。


「メテオール伯もお可哀想に。こんな本もない出来損ないがメテオールのお家を継ぐだなんて……お父上の『本』を継承すらできなかったのでしょう? 貴女を拒んで塵になったと聞いておりますわよ」

「ち、違う……ミラは、お父様と一緒に逝くって、そういったけど、でも、小さな破片でそばにいてくれるって……」


 制服の下に隠したネックレスを握る。父の本は、ひとかけら残ってここにいてくれている。鏡の小さなかけらとして。


「その言葉が、なぜ『貴女を拒んだ』という言葉を否定できる証拠となるというのかしら」


 夏の夕暮れの風が遺跡の古びた香りを運んでくる。


 自分の『本』を得た新入生たちが、『本』と手を取り合って楽しげに笑いながら森を出ていく。


 今日で十歳になるステラより小さな、学園に入学したばかりの子どもたちだ。真っ白の通常装丁、下級の本だとしても、『本』のないステラよりも優れているという証拠だ。あの中からきっと、ゲテ装丁に姿を変える本が何冊かあるのだろう。


 羨ましかった。ステラは、羨ましかった。


 自分の本がある彼ら、彼女らが……この国のみんなが。睦まじい背中を見送ると、サフィールに何を言われたって流さないよう我慢できた涙が零れそうになる。


 母はステラを産んだときに、父は五年前に、天へ帰った。彼らの本も一緒に。


 お祖母様は──大切にしてもらっているが、血は繋がっていない。



 ステラは、寂しかった。



「さあ。貴女も、行きなさい。監督役はあたくしが、しかたないけれど貴女の分まで担います。貴女は小さな子どもたちと同じように遺跡へ行って、本を得るの。……まあ、もしこれでダメならば本当になんの才能もないということになってしまうけれど。ふふ」


 あとでどれだけ酷い言葉を言われてもいい。いまはここから逃げ出したい。


 そう思って駆け出せば、煌めく宝石の壁に行く手を遮られる。屈折で歪んだサフィールが笑う。


「ユウェルの手を煩わせないでくださいな。さあ、早く。行きなさい」


 お父様は駄目って言った。何度も何度も、駄目って。私は覚えてる。小さかったけど、覚えてる。

 ステラはなんとか逃げようとした。足元に咲く小さな花を見つけて、お祖母様の『本』ならこれに伝えれば気づいてくれるかも、と手に取ろうとした。


 取り巻きのひとりの、バカにした声を聞くまでは。


「サフィールさま。少し酷かもしれませんわ。メテオールは先代から落ちぶれていましたもの。父親があれでは、娘だって……」


 ついに、涙が零れた。

 体温と同じそれが冷たく感じるほど、いまのステラの頬は、頭は熱い。


「お父様を馬鹿にしないでっ! 行ってやる。行ってやるわ! 遺跡だって、どこへだってっ! だから謝って! お父様に謝って!」

「あら、何か聞こえました?」

「いいえ? 風の音ではなくて?」


 ぼたぼたと流れる涙を拭うのも忘れ、ステラは踵を返した。背中に嫌なクスクスがぶつかってくるのを感じながら、あれだけ父に『行くな』と言われた遺跡に向かって駆け出した。


 引き止めるように足に絡んだ蔦で盛大に転んで、手にも膝にも擦り傷ができた。滲む赤は涙の膜に歪んでいる。後ろから聞こえる声高な嘲笑と、少なくなってきた遺跡帰りの生徒の訝しげな顔。無視して立ち上がり、喉を鳴らして泣きながら再び走り出す。


 遺跡は、夕暮れの中でただひとりポッカリと口を開けて待っていた。生徒も、年に一度だけここで本を拵えてくれる装丁屋も帰ってしまっていた。


 ステラは途方に暮れていた。啖呵を切ってここに来たけれど、あれだけ「だめだ」と言われていた場所に来ている罪悪感と、そして、小さくない恐怖で体が震えている。


 薄闇の中、遺跡は生きているようだった。苔むし倒れた柱や古い魔術の言葉が刻まれた床、そこから生えだしたうねる木々がざわざわと囁きあっている。遺跡は誘うように息を吸い、その風でステラの震える背中を押している。


 金の髪が遺跡へ靡く。父の言葉が頭を何度も何度も巡っている。



 ──一番星が、輝いた。



『こちらへ』


 声が、聞こえた気がした。

 周囲を見回しても誰もいない。中から戻る子供もない。


 肌を泡立たせながら、耳を擦る。

 怖がりすぎているから、幻聴が聞こえたんだ。そう言い聞かせ、ぱちんと頬を叩いて、ステラは初めて父の言いつけを破った。


 遺跡の中は、薄明るかった。思っていたよりも怖くない。奥へ奥へと進むたびに、光は増していくようだ。本来ならば装丁屋が儀式の準備をするという広間を抜け、手を引かれるように奥へと進む。


 太古の昔から、人と共に歩む『本』の記録だろう。壁に刻まれた壁画と読めない文字も目でなぞりながら、どう歩いたのだろうか。見つけた階段を進んで、いつしか行き止まりまで降りてきていた。


 目の前には、いくつか扉と思しき石壁があった。太陽が刻まれたもの。月が彫り込まれたもの。何も刻まれないもの。ぽっかり口を開けている扉の下にはいくつもの植物が生えている。


 ステラの目は、ひとつの扉に止まった。


「星空だ……」


 きらびやかな天を象るその扉に、無意識に手を添える。そうしてから、自分の血で汚してしまうことに思い至って弾かれるように離れる。


「あっ!」


 赤い血が、みるみる扉に吸い込まれていく。一瞬眩く光ったかと思えば、扉はひとりでに口を開けた。


 遺跡の入り口から夜の風が吹いている。

 ステラの背中を押している。


 恐る恐る足を踏み出し扉をくぐると、その部屋の全貌があらわになった。


 まるで夜空のようだった。

 黒い石だか黒曜石だかでできた天井も床も壁も、星座が巡っている。書かれているのではない。巡っているのだ。ゆっくりとだが、見ていてわかる程度の速度で星は位置を変え、色とりどりに輝いている。まるで宇宙に放り出されたようだった。


 部屋の中央には、書見台がひとつ。


 ひと抱えの大きさの一冊の本が、眠るように置かれている。


 遠目に見ても綺麗な本だった。


 この国では『本』がひとならざる力を宿すのは常のことであったが、その本はまさしく魔法であるかのようだった。夜空を切り取ったような、星の煌めく本に歩みよる。古い。古いが、やはり近くで見ても美しい。サフィールの宝石装丁の本が光を反射するならば、この本は内側から輝いている。部屋の作りと同じように、表紙には星が──巡る星が。


 手が伸びたのは無意識だった。


 内からの輝きは勢いを増し、ステラの腕を這いのぼって全身を包み込む。天にある川がその星屑と共に溢れだしたようだった。驚いて飛び退きそうになったけれど、ステラの手は張り付いたように本から離れない。それどころか、勝手に動いて本を開こうとしている。


 表紙が開いたとき、やっと手が離せた。一歩々々と押されるように退いたステラを包む光はその一筋が彼女とつながりながら、本の上に収束した。


 うねる光がひとの形を作るその瞬間、ステラの首元で何かが動いた。ネックレスだ。父の本、ミラのかけら。鏡のひとかけらが、ステラと人型の光を繋ぐ輝く紐帯を反射して散らす。


 あっけに取られるばかりのステラの耳に、男とも女とも取れる声が聞こえた。


『……たかだか物質級の癖に……邪魔を……』


 ミラのかけらに阻まれた光は、なおもステラを照らそうとしている。胸。心臓のあたりだ。光に質量などないはずなのに、ミラのかけらは重い衝撃を受けたときのように軋む音をさせている。


 何がなんだかわからない。

 わかっていることはひとつだけ。


 このままでは、ミラが砕けてしまう。

 ステラは、そんなの嫌だった。


「や、やめて! 砕けちゃう……壊さないで。大切なの……」


 光は柔らかくなった。そしてゆっくりと、ミラの形の影を残し、再びステラを抱きしめる。


『貴女がそう望むのならば』


 その声とともに、光の奔流は収まったようだ。

 身を固くしながらゆっくりと目を開く。

 目の前には、まるで鏡で映したように、色違いのステラが立っていた。


 いや、立っていた、という表現はおかしかった。彼、もしくは彼女は、ステラが地面に当たり前に立つのと同じように、本の少し上の空間に立っていた。黒い壁、黒い天井──星が巡りを止めて、ただの彫刻となっているそこを背景に、嬉しそうに笑っていた。


 内側から輝くそのひとは、指先の動き一つで本を浮かせると、ふんわりとステラの前に降り立った。


 銀色の髪が揺れている。ステラよりも大人っぽい表情は、夜空のような瞳を揺らして喜びで溢れている。


「貴女を待っていました。ステラ。ワタシのステラ」


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