第2話 特別

 この国はずいぶん長い間、ひどい状態だった。

 国民を省みない国王や王妃、王女たちと、彼らと癒着した貴族たちが民に過剰な税をかけ、金や労働力を搾取し、貧困に喘ぐ民が国中にあふれていた。

 見目の良い女たちはさらわれ、年頃の男は無理矢理徴兵されて無償で強制労働を強いられる。

 オルバーやニコラスたちが生まれたのは国の外れの貧民街で、そこは衛生的にも最悪で多くの子供が感染症などで命を落としていた。

 生まれたときから国がそんな状態だったのだ。希望など抱くはずもない。

 反乱を計画したのも壮大な理想や野望があったわけじゃない。ただ、自分たちから搾取するだけ搾取して省みようともしない国王たちに復讐したかっただけだった。

 まともな指導者も作戦も持たない反乱が成功した理由はたったひとつ、国王たちを守るはずの国王軍の大半が無理矢理徴兵されて強制労働を強いられていた若者たちだったからだ。

 彼らも王族や貴族のことを憎んでいた。国王たちに家族を奪われたり、殺されたりしたものもいた。

 未来の展望などなく、ただ憎らしい王たちを自分たちの手で八つ裂きにしてやりたいという思いだけで起こした反乱が成功したあと、新しい王が誰になるのか明確に決めていなかったし、そのあとどうすればいいのかはっきり道を示せる人間もいなかった。

 反乱軍にいた若者のほとんどが、文字の読み書きすら出来ないような貧しい身分の人間だったからだ。

 漠然とした理想こそあっても、その理想をどうやって実現したらいいのか、明確な方法を知っている人間がいなかった。

 そんな自分たちの目の前にハーティス・ミディアが現れたのは、たぶん幸運だったのだろう。

 国王――いや今となっては愚劣な先王と言うべき男が王座に就いたとき、邪魔な存在として辺境の地に幽閉した弟王子の一人娘。

 先王が王座に就いたのがニコラスたちが生まれる前だったため知らなかったが、元々先々代の王が世継ぎに指名したのは弟王子のほうだったそうだ。

 色狂いでろくに国政を学びもしないで遊びほうけていた先王と違い、弟王子はとても勤勉でまじめで誠実であり、国民からの人望も厚かった。しかし、弟王子は庶民出の側室の息子だった。

 当然先々代の王の妃や側近たち、貴族たちがこぞって反対し、王位争いは先王が勝利。

 先々代の王が病で早世したのをいいことに、先王は弟王子とその家族を辺境の地の屋敷に幽閉した。そして自分に逆らうもの、弟に味方するものは例外なく処刑すると触れを出し、実行した。

 最初こそ弟王子を慕い、彼を王にと推す人々が起こした内乱もあったが、圧倒的な武力で鎮圧され、参加者のみならずその家族郎党までもが惨たらしく処刑されてからは誰も逆らえなくなった。

 しかもそのときに「国を乱した諸悪の根源」として弟王子とその妻までもが処刑されたのだ。

 国民の希望は潰えたも同じだった。

 彼らの一人娘が無事だったのは、幽閉されていた屋敷で彼らの身の回りの世話をしていた数少ない使用人が、彼女に男の格好をさせ、自分の息子だと偽って隠したからだ。

 それから彼女は庶民の子として、男として生きていた。屋敷に幽閉されておらずとも、貧しい辺境の村にこもって生活していたなら世間知らずでもおかしくはないし、男のような振る舞いをしていることにも納得がいく。

 とはいえいつまでも「庶民の子」であるという嘘は通用しなかった。

 誰もを魅了するようなあの美貌と、恵まれすぎたスタイルから十八歳のときに女性であること、弟王子の一人娘であることも露見した。

 反乱が起こっていなければ即殺害されていたか、好色な貴族に飼われていたか、あるいは他国の王に献上されていたかもしれないが、ちょうどそのタイミングで反乱が起こったためにそれどころではなくなったのだろう。

 とはいえ正体が露見するのがもう少し遅かったら、身代わりになどされなかっただろうが。

 なにはともあれ、ハーティスは名君と名高かった先々代の王と、彼によく似ていたと言われた弟王子の才能を引き継いだのか、とても優秀だった。

 文字の読み書きは出来ても国政に関しては素人のはずだったが、城の書庫にあった書物をものすごい速さですべて読破し、政治や経済の知識を独学で身につけ、最小の作業で最大の効果が出るように采配した。

 女性らしいドレスを嫌ってまるで男のような衣装をまとい、専門の知識を持つプロですら舌を巻くような優秀すぎる頭脳と豊富すぎる知識量であっという間に反乱軍の若者たちをまとめあげ、新政府の基盤を作り上げてしまった。

 最初こそ王族を嫌っていた連中も、今ではすっかりハーティスに心酔している。というか最早女神か天使のように崇拝しているやつらばかりだ。

 その理由の多くは彼女の圧倒的なカリスマと人の上に立つ器量、人の心を引き付ける魅力と、疑いようのない王としての資質だが、それ以外にも理由はある。

 ハーティスは女扱いされるのを嫌っていて、男に媚びるなんてもってのほかだった。王族として扱われるのも嫌がった。だから「王家の血を継ぐもの」として偉ぶることもなく、貧しい生まれのニコラスたちを見下すこともバカにすることもまったくなかった。

 気安く呼び捨てで名を呼んでも嫌がらず、まるで男友達のように気さくに接してくる。

 自分たちの身分や出自に関係なく、対等な人間として扱い、仕事をすれば正当な評価を与えてくれるハーティスを慕うなというほうが無理だった。

 おまけに女とは思えないくらいに強いのだ。さすがにもう逆らおうなんて思えない。

 それでも最初は反発心もあったんだ。



「これ。

 ぜんぶ目を通して頭にたたき込んどけよ」

 彼女がそう言って十冊ほどの分厚い本をニコラスの前に置いたのは、出会ってから十日ほど経ったころだっただろうか。

「…なにこれ」

「政治と外交関係の書物。国政に携わるならこの程度の知識は頭に入れてもらわねえと困る」

「いや、そんなのやらなくていいじゃん。出来るやつがやれば」

「その“出来るやつ”が今この城に何人いると思ってんだ?

 出来ないなら学べばいいんだ。わからなかったら教えるから」

「ちょ、待てよ。オレは文字の読み書きも出来ねえし、おまえみたいな教養もなにもねえんだ。

 王族サマと一緒にすんなよ!」

 今まで国政を担っていた大臣や官僚もみんな逃亡した。いたとしても先王と癒着していた欲深いやつらなんて使えない。

 となったら城を制圧した元反乱軍の連中がやるしかないが、みんな文字の読み書きすら怪しいようなやつらばかりだ。

 なぜそんなやつらにわざわざ学ばせようとするのかがわからなかった。

「おまえがやればいいじゃないか。

 おまえならなんでも出来るし、優秀で…」

「その大嫌いな“王族サマ”一人に国の実権を握らせていいって思うのか?」

「…っそれは」

「オレは王になる気はねえし、オレがいなくなったら立ちゆかなくて潰れちまうのも困る。

 国政なんて一人で回すもんじゃねえし独裁政権なんてろくなもんにならねえんだよ。

 同じだけの権力を複数の人間が持っていたほうがいい。それには多くの人間が同じだけの知識を持ってないと話にならねえんだ。

 知識のない人間は、知識のある人間に騙されても気づけねえからな。

 だいたい、人任せにする気ならどうして反乱を起こした?

 なにひとつ責任を持てないなら反乱なんか起こさなければよかっただろう」

「っおまえになにがわかるんだよ!

 オレたちが今までどんな暮らしをしてきたか――」

「わかんねえしどうでもいいね。

 不幸自慢をしたいなら余所でやれ。

 おまえらの苦境をバカにする気はねえし否定もしねえよ。

 だがな、仮にも反乱を成功させた以上は責任を取れと言ってるんだ。

 責任を取らずにやるべきことを放棄するなら、てめえらもあの愚王となんら変わんねえんだよ」

 まるで自分たちの過去を否定された気になってつかみかかったら、即座に手を払われ、逆に胸ぐらを掴まれて凄まれた。

「『国や国民はおもちゃじゃねえ。

 自分たちがどんなに苦しい思いをしてるかわかんねえのか』」

「…っ」

「そう、あの国王たちに思ったことがあっただろう?

 だがな、今も貧困に喘いでる民たちからすりゃあ、反乱を起こしたのに責任もとらず人任せにしてるやつは、…同じように思われる。

『なんだ。あの王となんにも変わらねえ』ってな」

 ハーティスはぱっと手を離して嘲るように言った。

 なにも言い返せなかった。ぐうの音も出なかった。

 確かに今もなお苦しんで、救いを待っている民からすればどちらも同じに思えるだろう。

 むしろ反乱が起こってやっとあの国王がいなくなって、これから暮らしが良くなると期待したのになにも変わらなかったら、その分絶望するかもしれない。

「確かに今までは学ぶ余裕なんかなかっただろうな。

 だが今はどうなんだ?

 おまえの言う通り、学べる環境も金もないのに“なんで出来ない”ってバカにするやつは頭がおかしいさ。

 ただな、学べる環境も金もあって、なのにやらないのはただの怠慢だ。

 おまえたちが今までにどんな苦しい境遇にいたかはオレにはわからねえしそれを否定する気もバカにする気もねえ。

 生まれた環境は自分じゃ選べないしな。

 それはおまえたちにはなんの責任もないことだ。

 ただ、いつまでもその境遇を言い訳に使うのはやめろ。

 オレは貧しい生まれだから、卑しい身分だからって免罪符にしてなにも努力しねえなら、おまえたちはいつまで経ってもただの負け犬だ」

 ハーティスはそれだけ言って手を離し、自分に背を向けた。

 ただ、日々の苦しさから逃れたくて、自分たちを虐げることしかしない先王に復讐したくて、それだけで。

 反乱を成功させた先を考えていなかった。

 憎い国王を殺せばぜんぶうまくいくと思っていたんだ。

 その後どうすればいいかなんて、なんにも考えていなかった。

 あのときハーティスを殺していたらどうなっていたんだろう。導いてくれる彼女がいなかったら、きっと、オレたちもいつかは破滅していたのかもしれない。

 もしあのとき「おまえになにがわかる」と文句を言ってなにもしなかったら、彼女は自分を見限っていたかもしれない。

 オレたちがただ「わからない出来ない知らない」と言ってやろうとしなければ、彼女は失望して切り捨てるだろう。

 でもオレたちが「学びたい」と、「知りたい」と言えばきっと彼女はなんでも教えてくれる。

 ハーティスは厳しいけど、正しい。正しくて強い。

 そして身分や出自に関係なく、自分たちを信頼してくれる。

 ――だからみんな、彼女をまるで神様のように崇拝するのだとわかっていた。



「うあー………腕が痛ぇ」

「お疲れさん。

 しばらく休憩していいぞ」

 反乱を成功させ、ハーティスと出会ってから一月ほどが経過したある日の昼過ぎ。

 あれからハーティスに政治や経済のことを片っ端からたたき込まれたおかげで、ニコラスたちもある程度の仕事はこなせるようになった。

 ハーティスはスパルタだが頭ごなしに怒ったりはしないし教え方もうまく効率的だ。飴と鞭もうまいし。

 ま、金や下心でしか動かなそうな貴族に任せるよりはこっちのほうが安心は安心だしな、とも思う。

 貴族たちはもちろんうるさく騒いでいるが、ニコラスたちを率いているのが先々代の王の二番目の王子の娘とわかっているため、表向きは従ってくれる。

 ハーティスがあえて“唯一の王族”として存在感を強く主張し、先頭に立っているのは貴族たちや他国の王族を鎮める意味もあったのだろう。

 唯一の王家の血を継ぐ娘がトップに立っていれば、問題が起こらない限りは様子を見るしかなくなる。彼女が矢面に立ってくれるおかげでニコラスたちは欲深い貴族たちに非難されることもない。

 ほんとうに非の打ち所がないというか、生まれながらに人の上に立つ器量があるんだなあと思わされる。

 まして“傾国の美”という言葉がふさわしい美貌の持ち主だ。たいていの人間は彼女のあの麗しい花のかんばせで微笑みかけられれば、虜になって従順に頷いてしまうだろう。

 ハーティスは自分が人からどう見られるかも、魅せ方や使いどころも熟知していて、人心を操るのもすごく巧みでうまい。

 そりゃあ打算と欲にまみれた貴族連中を手のひらで転がすなんて朝飯前だろう。

 おかげで元反乱軍――現国王軍のメンバーは大半がハーティスの親衛隊である。ニコラスたちも言わずもがなだが。

 いや、唯一例外はいるんだけど。

「ニコラス」

「あ、サンキュ…」

 書類の積み上げられた机に突っ伏していたら、目の前にカップが置かれて顔を上げる。

 机のそばには慣れた手つきで紅茶を入れるハーティスの姿があって、やっぱり綺麗だなあなんて見惚れてしまう。

 陽射しを受けてまぶしく煌めく金色の髪と、海のように澄んだ碧い瞳、雪のように真っ白で滑らかな肌と、伸びやかな手足は女性らしい稜線を描いていて、まるでよく出来た人形のように完璧だ。

 いっそ神様がその手で自ら造り上げたんじゃないかと思いたくなるほど、非の打ち所がない。

 おまけに女性らしい服装は嫌だと言って、年中男らしい服装をしているから逆にその恵まれすぎたスタイルを強調する結果になってしまっている。

 きゅっとくびれた悩ましい腰のラインや男の目を奪う綺麗な形の足、豊かで形の整った胸も男もののブラウスに包まれているせいで、逆に存在感を強く主張しているというかいやらしく見えるというか、目に毒というか。

 しかも男として育てられたからなのか本人が自分の見た目に無頓着なのだ。というか、女の自覚に乏しい。

 半端なく強いし、王としての資質は比類ないほど高く素晴らしいのに、なぜか妙なところで危なっかしい。

 やっぱり辺境のちいさな村に押し込められ、男として育ったのがまずかったんだろうな。

 王族らしい高慢さや気位の高さがまったくないのは好ましいんだけど。

「そういえば、あのバカはどうしてるんだ?」

「…あー、」

 ハーティスがふと思い出したように口にした言葉に、ニコラスは苦笑するしかない。

 天使のような麗しい容姿をしておいて、ハーティスは誰より口が悪い。

 だからあだ名のような調子で「バカ」と言ってくるし、その程度は日常茶飯事で悪意もない。彼女にとってはそれがコミュニケーションらしい。

 本気で嫌悪している相手にはとんでもなく汚い罵詈雑言を言い放ったりするので、「バカ」はむしろだいぶ親愛の情が込められている。

 話題が逸れたが、彼女がよく名前代わりに「バカ」と呼ぶ男というと限られている。要するに未だになにも学ぼうとせず、ハーティスを認めようとしない「例外」だ。

「おい、邪魔するぜ」

 そのタイミングでノックもなく入室してきた大男を見上げ、ハーティスが気分を害した様子もなく「噂をすればなんとやらだな」と笑みを浮かべてつぶやいた。

 唯一ハーティスを認めていない「例外」であるマルク・オルバーは大股でずかずかとハーティスに近寄ると、書類の積み上げられた机越しにハーティスを見下ろす。

「オレ様と今から勝負しろ」

「断る。

 やらなきゃならねえ仕事が山積みなんだ。

 おまえの相手なんぞしてる暇はねえ」

「今、休んでるじゃねえか」

「おまえバカか?

 ぶっ続けて作業してたから休憩取ってるだけだろうが。

 その休憩時間に余計疲れることしてどうすんだよ」

「べつにいいじゃねえかどうせたいして時間かからねえんだから!」

「へえ。

 それはつまり、数分足らずでオレに負けるという自信があるからか」

「んなわけねえだろ負けるのはてめえのほうだ!」

 椅子に腰掛けたまま優雅に足を組んで紅茶のカップを傾けるハーティスの横顔は涼しげで、恐ろしい形相で凄むオルバーにまったく怯えていない。

 そもそも彼女は最初からそうだった。

 手枷を嵌められ、周囲を大勢の男たちに囲まれていたにもかかわらず平然としていたのだ。その状況からイニシアチブを奪い返すだけの力があるのに、今更オルバー単体に怯えるはずもない。

 とはいえ、仲間の自分たちですらキレたオルバーは怖いのだ。なのにまったく怯えるどころか気にした様子もないハーティスって肝が据わりすぎというか、強心臓すぎないか。

「言っとくがオレは認めねえぞ!」

「オレは自分を王族だと思ってねえしそう扱われたくもねえ。

 おまえたちや国民の心情も配慮して『新王』だとはぜったい名乗らねえようにしてる。

 オレが先頭に立ってやってるのは小うるせえ貴族や他国を黙らせるためだ。

 オレが一度でも“王族”の名を笠に着たことがあったなら言ってみろよ」

 これは考えるまでもなく「NO」だ。ハーティスがそんなことをした覚えは一度たりともない。

 王族に良い印象を抱いていない自分たちや国民への配慮から、ハーティスは「自分が王になる」とかいう発言は一切しない。公の場で「唯一の王族」という立場を主張するのはひとえに貴族や他国を牽制するためだ。

「っオレが気に入らねえのはそれだけじゃねえんだよ!

 女の下につくのも嫌なんだ!

 オレ様より強いやつがいていいはずがねえんだよ!それも女が!」

 オルバーの反論にニコラスは思わず顔をしかめてしまったが、ハーティスの表情はまったく変化しない。

「女なんてもんはなあ、男のヤる道具だろーが!

 そんなやつが男の上に立ってるのを認められるかってんだ!」

 オルバーはこういう男だ。

 女なんてセックスの道具くらいにしか思っていない。男尊女卑というより、ただただ弱いものが嫌いなのだ。

 まして先王の王妃やその王女が好き勝手やっていたせいで苦しい思いをしてきたのだから、なおさらに王族の女に良い印象など抱いているはずもない。

「…おまえさ、“極度の女好き”っていうの半分正解で半分不正解だろ?」

「…っ」

 オルバーの罵声を黙って聞いていたハーティスは、不意に腕を組んで静かな口調でそう告げた。

 オルバーは驚いて息を呑んだが、ニコラスもそれは同様だ。

「ほんとうは“女”って生き物が嫌いで仕方ない。

 色と美貌を武器にして男に媚びる、そういう浅ましい女の性根が許せない。

 おまえ、ほんとうは女が疎ましくてしょうがねえんだ。

 だから女を犯して支配したがる。自分より下の存在だって、男がいなきゃ生きていけないような弱い生き物なんだって言いたいから。

 この国の元王妃や元王女のせいも多分にあるだろうが、それ以外にもなにかあったんじゃねえか?

 そういう、女を疎ましく思うような出来事が」

 ハーティスが嘲笑うように口の端をつり上げて言った瞬間、オルバーが机の上に積み上がった書類を腕でなぎ払い、ハーティスの胸ぐらを掴み上げた。

「黙れ。

 それ以上言ったらぶち犯すぞ!」

 宙を舞った書類が床に散らばる。その書類を靴底で踏みつけ、オルバーは獰猛な獣のようにうなった。

 けれどやはりハーティスの表情は変わらない。

 冷静沈着なまなざしでオルバーの怒り狂った顔を見上げると、軽く息を吐いた。

 そして胸ぐらを掴むオルバーの手に、そっと自分の白く華奢な手を重ねる。

 女のか細い手で男の腕をほどくことは不可能なはずなのに、いともたやすくオルバーの手は彼女から離れた。

 オルバーが驚くより早く、ハーティスは羽根のように軽い動きで机の上に跳び乗ると、そのまま躊躇なくオルバーの胸元を蹴り飛ばす。

 完全に無防備な状態だったため、オルバーは吹っ飛ばされて壁に叩きつけられた。

 ハーティスはふわ、と上着の裾をひらめかせて軽い足取りで床に降り立つ。ニコラスは状況についていけず、凍り付いたままだ。

「…さっきのことに関しては謝るよ。

 過去のことを詮索したって意味がねえ。

 おまえがなにが原因でオレを疎ましく思おうが、そんなのおまえの勝手だ。

 オレがとやかく言うことでもねえし、知る権利もねえ。

 それに関してはオレが悪かった」

 壁に背を預ける体勢で座り込んだままちいさくうめきながら、オルバーは顔を上げてハーティスを見上げる。

 目の前に立ったハーティスの表情は静かで、怒っている様子はない。

「だがな、物に当たるのはやめろ。

 てめえが散らかして踏みつけた書類は、オレだけがまとめたものじゃねえんだ。

 踏みつけられて使えなくなったものを書き直すだけでも時間がかかる。

 ただでさえ今は時間がないんだ。

 たかが一分一秒だと言うなよ?

 そのたかが一分一秒の差で命を落とすような環境にいたのは、おまえたちだろう?」

 淡々とした口調で責めるでもなく言われれば、オルバーも即座に反論は出来ない。

 多少の差こそあれど、反乱を主導したのは結局、それだけ自分たちの置かれた過酷な環境と、その原因を作った王たちが許せなかったからだ。

「あと、安心しろ。

 オレは王になる気はねえ。

 このまま放置したらおまえらが自滅するのが目に見えたから手を貸してるだけだ。

 国として十分やっていけるようになったらおまえらのお好みの王を選んでどうにかしろ」

 ハーティスはこともなげにそう言って、散らばった書類を拾い始めた。

 ニコラスはなんと言ったらいいかわからなかった。

 どこからどう見ても女好きで好色なオルバーが、ほんとうは“女嫌い”なのだとこの短い付き合いで見抜いたこともすごいが、ハーティスは自分が「女だから許せない」と否定されたことに関してはまったく怒らなかった。

 王になる気などないのだとはっきり言い切ったことも驚きだ。国民への配慮もあったのだろうが、「新王」と名乗らないことはそういった意味もあったのか。

 ニコラスはなんだか複雑になった。

 出会ったときに彼女が「自分が王になる」と言っていたらきっと反発した。「許せない」とすら思っただろう。でもそれはハーティスのことをなにも知らなかったからだ。

「王族の女」というだけで元王妃や元王女と同じに違いないと決めつけていたからだ。

 だから今はちがう。ハーティスの人となりに触れ、ハーティスがどれほど優秀なのか、王にふさわしい器の持ち主なのかを知って、彼女が新王になればいいと思うようになった。

 けれど彼女にはその意思はないらしい。それは「自分たちが望まないだろうから」なのだろうか。

 オルバーは茫然としたまま、彼を一瞥もせずに書類を集めているハーティスの横顔を見つめていた。

 まるで、信じられないものを見るような目で。

 そう、“信じられないもの”だろう。

 女神か天使のようにうつくしいのに、比類ない身体能力を持ったオルバーですら勝てないほどに強く、悪魔のように賢く狡猾で、けれど出自や身分に関係なく仲間を信頼する。

 王族という地位に欠片の興味もなく、女として扱われることも好まない。

 オルバーが知っているどの女ともあまりに違いすぎて、信じられなかった。




 ハーティスが自室として使っているのは城の奥にある、一番安全かつ豪奢な部屋だ。

 ハーティスは特にこだわりはなかったのだが、ニコラスたちに「この部屋を使えばいい」と言われた。その部屋が元は国王の部屋だと知って、ハーティスは「自分に使わせていいんだろうか」と少し疑問に思った。

 元の世界の“彼ら”ならべつにおかしな行動ではない。自分がひどく慕われていたのは自覚している。

 しかし、この世界の“彼ら”は自分のチームメイトではないのだ。

 男だったハーティス・ミディアを知らない、自分を“唯一の王族の娘”だと思っている元反乱軍のメンバーたち。

 彼らからすれば自分は憎らしい存在のはずだ。だからその状況を打開するために努力は惜しまなかった。

 そもそも元の世界の“彼ら”だって最初は自分を認めなかったのだ。だからこそ自分の力を示し、行動で仲間の信頼を勝ち得てきた。

 世界が異なり、環境も異なってしまったが、ニコラスたちの性格はハーティスの知る“彼ら”とほぼ変わりないことは十分わかった。

 だからその信頼を勝ち得るために努力はした。それに世界が異なるとはいえ仲間が過酷な環境におかれていたと知れば、手を貸してやりたくはなる。仲間には寛容なタイプなのだ自分は。

 だからいずれどうにか方法を探して自分が元いた世界に帰るとして、それまでに彼らだけでも十分やっていけるだけの環境と体制を整えることにした。

 荒れ果てた国内の情勢を立て直し、インフラを整備し、国をまとめる立場になった仲間たちに必要な知識と教養を与えて、あとはもう少し国が立ち直ってからどこかの強国と同盟を組めればいいんだが。

 それにしてもやっぱりここは自分のいた世界じゃないな。世界地図を見ても知らない国ばかりだし、大陸の形もちがうし。

 なんでここに来てしまったのか。性別すら変化してしまったのかはまだわからない。

 でも夢でもないみたいだし、なにがどうなってるんだか、と考えながら天蓋つきの豪華な寝台に寝転び、そのまま目を閉じる。

 毎日やること尽くめで疲労していたためすぐにでも眠れそうなくらいだったが、そうしなかったのはかすかな気配を感じたからだ。

 扉のほうじゃない。鍵はかかってるし、見張りもいる。

 バルコニーのほうだ。ここは八階だが、身体能力に優れたものならば下から登ってこれるだろう。

 そんなことが可能で、かつそんなことをやりそうな人間に心当たりがあったからこそ、ハーティスはあえて眠っているふりをした。

 足音も気配も完全に殺されている。野生の獣のように完璧だ。そうしなければ生きていけないような環境にいたのだろう。

 白いシーツの波に身をゆだねて動かないハーティスは、完全に無防備な状態に見えたはずだ。

 なるべく寝台を軋ませないようにゆっくりと、その巨躯がのしかかってくる。

 横向きになっていたハーティスの身体をそっと仰向けに倒して、男の大きな手がゆったりとした衣服にかかる。


「さすがにそれ以上やったら、本気で去勢するぜ」


 これ以上は止めないとやばいな、と思ったから目を開けて言ったら、相手の身体が大仰に跳ねたのがわかった。

 室内は薄暗い。窓から差し込む青白い月明かりのおかげで、かろうじて自分に覆い被さる大男の顔が見えた。

「夜這いとは、おだやかじゃねえな。

 オルバー」

「………起きてたのかよ」

「むしろ、オレの今の状況で心底安心して熟睡出来るほうがおかしいと思わねえか?」

「……そうだな」

 ハーティスに覆い被さった体勢のまま、オルバーはわずかに眉を寄せて肯定する。

 城内の者はほとんどがハーティスを認めているが、オルバーという例外はいるし、城外でも同じだ。貴族連中は本音ではハーティスを邪魔に思っている。そんなやつらが混乱に乗じて刺客を送ってこないとも限らない。

「…その割に、てめえは気にした様子がねえけどな」

「恨まれるのは慣れてるんだ。

 …あと、こういう風に襲われるのも割と慣れてる」

「…なんだよ。

 もう何度も男にヤられてたのか?」

「まさか。

 ぜんぶ未遂に決まってんだろが。

 おまえですら勝てないようなオレが、そこらの男におとなしく犯されるとでも?」

 おまえですら勝てないような、の部分を強調して言えばオルバーもそれ以上疑ったりはしなかった。

 悔しそうな、複雑そうな顔で押し黙ってしまう。

 まあ、襲われかかったのは今回を除けばぜんぶ男だったときなんだが、とは口には出さない。

 同性愛に寛容な国だったせいか、男だったときから同性にも異様にモテたため、男に下卑た視線や欲望を向けられるのは慣れている。今更いちいち驚く気にもなれない。

「…惜しい女だよな。おまえ。

 これだけ破格の美女のくせに、…自分のことを女だと思ってなさそうだ」

「そうだな。

 オレが好んで女になったわけじゃねえ」

「…女としての悦びを知れば、変わるんじゃねえか…?

 なあ…?」

 オルバーは更に身をかがめると、寝間着代わりに着ていた白いブラウスから覗いた長い足にわざとらしく触れる。

「男に抱かれる快楽を知らねえから、そんなことを言うんだ。

 …オレが教えてやろうか?」

 陶器のように肌触りの良い滑らかな肌を撫でながら、オルバーはハーティスの形の良い耳に口を寄せてささやく。

 オルバーの手が裾から入り込み、やわらかな双丘にたどり着くと愛撫のように撫で上げる。

「下着もつけずにいるなんて、ほんとうはこうされるのを待ってたんじゃねえのか…?

 なあ…?」

 確かにブラウス一枚だけで下着は身につけていないが、それは単純にハーティスが元々男で、女物の下着を身につけることに抵抗があったからだ。

 さすがに人前に出るときは仕方なく身につけているが、寝ているときくらいはそれらから解放されたかった。

 ということをオルバーに言っても意味がないし、言う気もない。

「昼間のオレの推測は、当たってたみてえだな」

「…なんだと…?」

「『女を犯して支配したがる。自分より下の存在だって、男がいなきゃ生きていけないような弱い生き物なんだって言いたいから』

 そう言っただろう?

 それが事実だからおまえはこうしてオレを犯しに来たんだ。

 オレを犯して穢して自分に逆らえないようにして、自分のほうが強いって主張したがってる」

「ちがうっつってんだろ…っ!」

「ちがう?

 ならなぜ怒る?

 事実じゃなければ鼻で笑って否定すりゃいい。

 余裕をなくして怒るのは、事実だって認めてるようなもんだ。

 あんな風に指摘されたあとで夜這いしに来れば、オレの推測を肯定するようなもんだってわからなかったのか?」

「…っそれ以上言ったらマジで犯すぞてめえ…!」

「オルバー」

 激情に染まった顔でうなる獣のように凄んだオルバーは、不意に紡がれた静かな声に息を呑んだ。

 ただ名前を呼ばれただけなのに、まるで魂ごと掴まれたような、そんな声に聞こえた。

 ハーティスの碧い瞳は出会ったときと変わらない、恐怖も媚びもなにも映っていない、真っ直ぐな色だ。

「オレは、おまえの嫌いな女と同じに見えるか?」

「………っ」

「身体で男を籠絡することしか能が無いような、容姿と家柄しか誇れるものがないようなくだらない女に見えるか?」

「……………………」

 オルバーは目を見開いたまま、何度か口を開いて、結局なにも言えずに閉じる。

 嘘でも言えなかったのだろう。「そう見える」なんて。

「オレのことは女だと思うな。王族だとも思うな。

 オレもそう思ってないし、そう思われたくもない」

「……………王になる気がないって、あれは本気か?」

「ああ。なんなら誓約書を書いてもいい」

「…じゃあ、なんで」

 どうして自分たちに手を貸す。オルバーはそう言いたかったのだろう。

「…おまえたちを放っておけなかったから」

「………っ」

 結局、理由なんてそれだけだった。

 世界が異なろうと、自分の知っている“彼ら”ではなかろうとも、どうしてもオルバーたちを放っておけなかった。

 自分には関わりないと放置して、立ち去ることが出来なかった。

 それだけ、“彼ら”は自分にとって特別な存在だったのだ。

 ハーティスの顔に浮かんだ切なげな、やさしい微笑みは、この暗がりでもオルバーの目にちゃんと届いたらしい。

 オルバーは呼吸を失い、目を奪われたようにそらせなくなる。

「……わけがわかんねえやつだな。おまえ」

「そんなのお互い様だろう?」

「……それもそうだ」

 わずかにオルバーの口元に笑みが浮かぶ。自嘲のようにも見えた。

 この世界のオルバーたちの過去になにがあったのか知らないし、わざわざ詮索する気もない。

 ただ、放っておくことも出来ない。

 自分はなんだかんだで、“彼ら”には甘いということをよく自覚していた。


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