第37章 —記録と不在—
朝の廊下は、いつもより静かだった。
台車の音がない。
吐く音もない。
静かすぎて、逆に昨日の夜が嘘みたいに思える。
湧は点滴の時間より少し早く廊下に出た。
出た理由はひとつ――御影の部屋の前を、ただ通りたかった。
通りたいのに、足が止まる。
扉の中央に、白い紙が貼られていた。
「立入禁止」
たった四文字。
それだけで、椅子の“欠け”が公式になる。
背後で梨々香が足音を忍ばせて近づいてきた。
「……貼られちゃった」
声が掠れている。
湧は頷くしかできない。
そのとき、看護師が角から現れた。
何も言わず、二人を見て、視線だけで“戻れ”を示す。
湧は梨々香の肩にそっと手を置いた。
引っぱるのではなく、逃げる方向を共有するために。
梨々香は小さく息を吸って、湧の袖を掴んだ。
昨日より少し強い。
ラウンジに戻ると、真砂が新聞のような紙を広げていた。
読んでいるふり。だが目は紙の上にない。
桜子はカップを口元に運びながら、視線だけで周囲を数えている。
看護師の位置。扉の数。人の動線。
湧が椅子に座ると、真砂はページをめくるふりのまま、声を落とした。
「……加藤くん、今朝の貼り紙、見た?」
湧は一瞬ためらって、頷いた。
「……見ました」
桜子が、淡い口調で言う。
「“立入禁止”って便利ですよね。説明しなくていい」
麻衣がいない席が、言葉を重くする。
梨々香が目を伏せた。
真砂は紙面を指でなぞりながら、まるで独り言みたいに続けた。
「御影さん、昨夜もう一度運ばれた。
運ぶ音が二回鳴った。……一回目と違って、戻る手順がない」
湧は背中が冷えるのを感じた。
真砂は視線を上げずに、言った。
「捜査としては“見に行く”しかない。
でも見に行けば、手順が増える。だから――手順の外側から拾う」
桜子が頷いた。
「記録。人の動き。鍵の音。日時のズレ。
全部、証拠になる」
湧は思った。
この二人は、何もしていないんじゃない。
動けない代わりに、見えるものを全部拾っている。
そういう気配だけが、静かに伝わってきた。
服用確認が始まった。
二錠。口腔確認。
白い粉――胃粘膜保護剤。
昨日の麻衣の“濁り”が頭をよぎる。
湧は粉を飲み込み、胃が焼ける感覚に歯を食いしばった。
数分後、別の参加者が――咳き込み、えずき、膝を折った。
吐しゃ物は白く濁り、泡立ち、胃酸の匂いが鼻を刺す。
看護師が近づき、淡々と言った。
「捨てないでください。記録します」
吐いた本人が震えながら言う。
「……き、汚いから……」
「汚いではありません。情報です」
“情報”。
その言葉が出ると、医療ではなく別のものになる。
桜子が小さく息を吐いた。眼鏡の奥の目が冷える。
「……提出が“普通”になってる」
真砂が低く言う。
「効かない薬を追加して、吐かせて、記録する。
これ、改善じゃない。選別だ」
誰が、何を。
言い切らないのに、全員の喉が乾く。
昼前、またモニターが点いた。
南雲の顔。
穏やかな声。
だが――今日は違った。
画面右下の日時表示が、今日の日付になっていた。
その瞬間、桜子が目を細めた。
真砂の指が紙を止める。
湧も気づく。
“ズレ”が直った。
直ったのが、怖い。
桜子が小声で言う。
「……昨日までのズレ、向こうも気づいたってことですよね」
真砂が頷く。
「誰かが騒いだ。麻衣さんだ」
湧の胃が沈む。
麻衣の怒りが、ただの怒りではなく“向こうを動かした”のだと気づいてしまう。
南雲の声が滑らかに流れる。
『体調の個人差が出ています。
不安にならず、手順を守ってください』
“守ってください”。
その語尾が、なぜか昨日より硬い。
桜子が、カップの影に口元を隠して囁いた。
「……今日から“直した”。つまり今日からは、もっと隠す」
午後、点滴の列が終わった頃。
篠崎が廊下を急ぎ足で通った。
いつもの“主任”の歩幅じゃない。焦りが混じっている。
真砂が動いた。
遅れて桜子も、自然な動きで付く。
湧は反射的に立ち上がりかけたが、梨々香が袖を掴んだ。
「……だめ。湧くんまで、呼ばれる」
その言葉が、湧を椅子に縫い付けた。
湧は梨々香の指先を包むように握り返した。
「……大丈夫。俺は行かない」
梨々香は頷く。
それだけで、二人の間に“信頼”が一つ増えた。
廊下の角の向こう。
真砂の声が、ほんのわずか漏れた。
「篠崎さん。御影さんの件で確認したい」
篠崎の声が返る。震えてはいない。だが、硬い。
「……個別のことは」
「個別じゃない。立入禁止の貼り紙は“手順”だ。
手順なら説明できるはずだ」
沈黙。
その沈黙の後に、篠崎が小さく言った。
「……ここでは、言えません」
“言えません”。
それは拒否ではなく、恐怖の言い方だった。
桜子が、優しい声で重ねた。
「篠崎さん。私、医療側の人間ではないですけど……
吐血してる人を“記録”だけで終わらせるの、普通じゃない」
また沈黙。
篠崎が、絞り出すように言う。
「……白鷺先生が、管理しています。
私たちは、手順を回すだけです」
手順を回す。
人を回すみたいに。
真砂が、決定的に踏み込んだ。
「御影さんは生きてるのか」
篠崎の息が止まる音がした。
返事は、数秒遅れてきた。
「……生きています。
でも……“戻れる状態”じゃありません」
桜子が小さく息を呑む。
真砂は、そこで引いた。
引いたのは怖いからじゃない。これ以上は篠崎を壊してしまうからだ。
「……分かった。
篠崎さん、あなたの立場も分かった」
篠崎が、ほとんど聞こえない声で言った。
「……お願いです。
あの扉の中に、入らないで」
その“お願い”は、保身ではなく、警告だった。
夜。
湧が眠れずに天井を見ていると、廊下の奥から台車の音がした。
きぃ……。
そして、今日は違う音が混ざった。
――小さな機械音。
録音の再生みたいな、短いノイズ。
次に、かすれた男の声。
『……やだ……』
御影の声だった。
湧は息が止まった。
声は続く。
『……やめろ……』
短い。
切れている。
まるで“記録の一部”だけが再生されたみたいに。
その後、すぐに女の声が重なる。落ち着きすぎた声。
「記録、良好。……続けましょう」
台車の音が遠ざかる。
梨々香の声が壁越しに届いた。
「……今の、聞こえた?」
湧は喉の奥が痛くなるのを感じながら答えた。
「……聞こえた」
梨々香が掠れた声で言う。
「御影さん……まだ、生きてるのかな」
湧は答えられない。
答えたら、どちらでも怖い。
そのとき、湧の手を――梨々香がそっと握った。
暗闇の中で、温度だけが確かだった。
「……私、湧くんがここにいてくれて、よかった」
湧は息を吐いて、握り返した。
「……俺も」
その一言は、慰めじゃない。
この先、二人で進むための約束だった。
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