第二話 当たり前の世界

「我が隊は中将閣下の合図で突撃する! いいか、焦るな! 確実に魔獣を狙え!」


 車内に、部隊長の怒号が響いた。

 ――エルデンハイム帝国、北方領。


「すでに第一・第二分隊は攻撃を開始しているとの報告が入っている!」


 ウィルが所属するのは第三分隊だ。

 泥濘む道を走り抜け、前方で交戦中の部隊と合流を目指す。

 起伏の激しい地形に車体が激しく揺れ、座席に押しつけられた兵たちは互いに顔を見合わせる。

 誰もが初陣。落ち着かぬ様子で拳を握りしめていた。

 ウィルもまた緊張していたが、その表情は他の者よりもずっと冷静だった。


「よし、到着だ! 後方から順に降りろ!」


 第三分隊の面々は野営地に到着すると、次々に車外へ飛び出し、素早く整列した。

 昼のはずなのに、空は重い雲に覆われている。

 周囲を見渡せば、すでに戦闘を終えた第一分隊の兵たちが治療を受けていた。

 欠損した腕。抉られた胴。息絶えた者を運ぶ担架。

 ――地獄そのものだった。

 その光景に息を呑みながら、第三分隊はただ立ち尽くす。


「全員、降車完了だな!」


 部隊長の声が響く。


「先ほど閣下の使者がお越しになった。命令は――全力突撃だ! 弾薬の補充、魔法詠唱の準備、しっかり確認しろ!」


 アトラス大陸は、魔法が広く浸透した地である。

 魔法は戦場から生活にまで行き渡り、自動小銃の弾丸や、魔力を送り込むことで刃を光らせる剣など、様々な形に姿を変えてきた。

 ウィルたちは支給された銃剣と、腰に帯びた魔法刀の最終チェックを行っていた。

 焦りと震えが止まらない。

 それも当然だ。全力突撃――それはつまり、状況が切迫しているということ。

 初陣を華々しく飾れるのは、ほんの一握りの選ばれた者だけだ。

 彼らは違う。ただの一兵士に過ぎない。

 分隊長はそのことをよく分かっているのだろう。

 震える兵たちの間を歩き、声をかけて回る。


「心配するな! 俺も一緒だ!」

「魔獣なんて、案外あっけないもんかもしれんぞ!」


 そう言って励ましてはいるが、分隊長自身も理解していた。

 この戦いが死と隣り合わせであることを。

 そこへ、血にまみれた中将の側近が馬を駆って現れた。


「第三分隊! 出撃せよ! 左方の森を抜けて突撃せよ!」


 出番だ。

 第三分隊は馬を駆る分隊長の背を追い、総勢五十名で森へと突入した。

 ぬかるんだ獣道を越え、さらに奥へ。

 やがて空気は重く、鼻を刺す屍臭と血の匂いが充満する。

 誰もが息を殺し、ただ前へ進む。


「ヴォオォオオオォォォォ!!」


 魔獣の咆哮が森を震わせた。

 鼓動が耳を打つ。

 地面が震えるたび、心臓が締め付けられるようだ。

 森を抜けた先には、広い空き地があった。

 その中央に――いた。

 魔獣。

 イノシシに似た姿だが、纏う気配は紛れもなく魔そのもの。

 体長は四メートルを優に超え、膨れ上がった巨体は濃紫に染まっている。

 顔までは見えない。だが、人を噛み砕く音が確かに響いた。

 おそらく鋭い牙が血肉を裂いているのだろう。

 分隊長が深く息を吸い、叫ぶ。


「――第三分隊!突撃ぃぃぃぃぃぃ!!!」


 その咆哮を合図に、第三分隊は一斉に駆け出した。

 もう、逃げることはできない。

 各々が武器を構え、叫びとともに突撃した。

 魔獣の左脚へ、銃剣が突き刺さる。

 魔力を込めた一撃――痛みはあるはずだ。

 だが魔獣はすぐに気づき、後ろ脚を振り上げる。

 ピクッと動いた瞬間、ウィルは退避した。

 しかし間に合わなかった兵もいた。

 振り払われた衝撃で数名が森の奥へ吹き飛び、骨が砕ける鈍い音が響いた。


「はぁ……はぁ……くそっ……!」


 ウィルは額の汗をぬぐい、銃剣に再び魔力を込める。


「再突撃だ! 中将閣下の詠唱が終わるまで時間を稼げ!」


 視線を前に向けると、中将が側近に守られながら詠唱しているのが見えた。

 ――大魔法だ。

 詠唱の長さからして、一撃で吹き飛ばすつもりなのだろう。

 分隊長の号令とともに再び突撃。

 しかし、刃は刺さっても、肉を裂いても、魔獣は怯まない。

 次の瞬間、地をなぎ払うように巨大な尻尾が薙ぎ払った。


「――っ!」


 ウィルの目の前で仲間が引き裂かれる。

 飛んできた彼らの体が直撃し、ウィルも地面に叩きつけられた。


「がはっ……は……はぁ……」


 息ができない。

 土の味がする。耳の奥で、誰かの悲鳴と骨の砕ける音が混じっていた。

 ――これが、魔獣。

 ウィルは震える手で地を掴み、木にすがって立ち上がる。目の前では、魔獣が咆哮とともに炎を吐き出した。


「ウィル軍曹! 避けろぉぉぉ!!」


 分隊長が飛び込み、ウィルを押し倒す。

 二人は森の中へ転がり込み、分隊長は立ち上がって詠唱を始めた。


「我、いかなるものの盾とならん。この身、魔法とともに――

 防御魔法『イージス』!」


 燃えさかる炎の波が迫る。

 透明な盾が展開し、轟音とともに衝突。

 熱が空気を裂き、光がすべてを白く染めた。

 だが――魔獣の炎は、人間の魔法とは比べものにならない。

 大きく展開していた盾は、徐々に縮み、ひび割れていく。


「分隊長! そのままじゃ焼けちまう! 俺はいい、避けてくれ!」

「避けるわけには……いかんさ……! 俺は……この隊の隊長だ……部下を守る義務が……ある! だから――」


 その言葉が終わるより早く、炎が彼を包み込んだ。

 光と熱の中で、分隊長の姿が音もなく消えていく。


「くそっ! くそっ! くそぉっ!」


 魔法という万能の力があっても、結局――何も変わらない。

 失うことばかりだ。

 ウィルは森を飛び出し、魔獣の側面から反対側へ駆け抜けた。

 考えている暇などない。もはや賭けるしかなかった。

 ――あの大魔法が完成すれば、この魔獣を倒せる。

 それを信じるしかなかった。

 だが、詠唱が遅い。あとどれくらい持ちこたえられる?

 魔獣の足下越しに、中将とウィルの視線が交錯する。

 中将は何も言わず、首を二度縦に振った。


「……あと、二分だ!」


 動け――神経のすべてを叩き起こせ!

 銃剣を突き立て、すぐに離脱。弾丸を撃ち込みながら、魔獣の注意を引く。

 視線を、どうにか自分に向けさせる。あと一分半――。

 魔獣が、確かにウィルを見た。


「来いよ、デカブツッ!」


 炎に焼かれ、喉は潰れかけていたが、それでも叫んだ。

 ――そうだ。俺を見ろ。俺に集中しろ。

 側近たちも、若き軍曹の戦いを息をのんで見守っていた。

 体は痛みで軋み、血を吐くたびに視界が滲む。

 それでも止まれない。

 もう――誰も失わせないために!

 尻尾が薙ぎ払われ、右腕が掠め飛んだ。半分が欠損している。

 痛みを感じる暇もなく、ウィルは歯を食いしばった。


「……あと三十秒か」


 笑ってしまう。滑稽だ。

 銃剣を捨て、腰の刀を抜く。

 魔力の斬撃を放つが、もはや力は尽きかけている。

 残る魔力は、ほんのわずか。


「我、いかなるものより速くたらん――疾走魔法『ハヤテ』!」


 脚に魔力を込め、地を蹴った。

 風を切り裂き、魔獣へ一直線。仲間の声が、背中を押してくれる気がした。

 正面衝突の軌道。

 魔獣が咆哮とともに突進してくる。

 ――引き込め。ギリギリまで。ここだ!

 ウィルはその場で飛び上がり、空中へ。刀に残りの魔力をすべて注ぎ込む。

 閃光のような斬撃が放たれ、魔獣の片目を裂いた。

 黒い血が噴き出し、巨体がのけぞる。


「よくやった、若いの! ようやくだ!」


 中将の声が響く。

 彼の周囲を囲っていた結界が解け、杖が高く掲げられる。


「大魔法――ジェネシス・レイ!」


 轟音とともに、世界が閃光に包まれた。

 魔獣は悲鳴を上げる間もなく、光の中に消えた。

 ただ、黒い影を地に焼き付けて。


「……あれが大魔法ジェネシス・レイ。魔を消し去る、究極の光――か」


 戦いは終わった。だが、心は何一つ晴れなかった。

 二十五歳になっても、世界は変わらない。

 魔なるものと人間――互いを滅ぼすまで、争いは終わらないのか。

 ウィルは空を仰ぎ、呟いた。


「……あなたは、今どこにいますか? ――全盲の魔女よ」

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