第36話 空谷聖人の夢

空谷聖人


父としてーー


私は「信じるべき瞬間」を間違えた。


子どもたちの夢が、少しずつ形になっていく――


そんな光景を毎日のように見られることが、私にとっては何よりの幸せだった。


その日も、机に向かい仕事をしていると、携帯が震えた。


妻からだった。


いつもよりも短く、震えた声が耳に刺さる。


「……陸斗が……病院へ運ばれたの……」


言葉の意味を理解する前に、世界が傾いた。


私は家に飛んで帰り、妻と海斗を車に乗せ、雨を切り裂くように病院へ向かった。


廊下を駆け抜けた先、病室の前で──

見知らぬ少女が一人、肩を震わせて泣いていた。

まるで陸斗の痛みまで背負っているかのように。


声をかけると、少女は顔を上げ、涙で濡れたまま頭を下げた。


「……すみません……」


それだけ言うと、逃げるように去っていった。


診察室で医師から聞いた言葉は、

まさに“悲劇の始まり”そのものだった。


――頚椎損傷。

――下半身は動かない可能性が高い。


妻は崩れ落ちそうになり、私はただ支えることしかできなかった。


診察室を出たとき、

廊下の向こうを、棚橋君が走り去っていく姿が見えた。

なぜか、その背中が、胸に焼き付いた。


夜、病室の扉を開けると、

陸斗はいつものように、無理にでも笑ってみせた。


「大丈夫だよ、お父さん。」


その笑顔が、逆に胸をえぐった。


――生きていてくれればそれでいい。


私は必死にそう自分に言い聞かせた。


だが、私は信じきれなかった。


私は、

「もし事実だったら」という恐怖より、

「もし信じて裏切られたら」という臆病さを選んでしまった。


その“たった一滴の疑い”が、

私の人生に長い影を落とすことになるとも知らずに。


数日後。

陸斗を泣かせていた少女――上谷さんが再びお見舞いに来た。

丁寧に頭を下げ、妻の隣の丸椅子に座った。


「昨日はありがとう。無事に帰れた?」


妻が優しく声をかけると、少女はまた深く頭を下げた。


その光景に、少しだけ救われたような気がした。



---


ある朝、職場で聞こえてきた噂話が、耳を撃った。


「空谷さんの息子さん、階段から突き落とされたら 

 しいよ。

 今、SNSで炎上してる。」


陸斗は「自分で転んだ」と言っていた。


だが、SNSの画面には棚橋修也の名前が踊っていた。


見たくなかった。信じたくなかった。


その晩、私は病院へ行き、陸斗に問い詰めた。


「だから、修也は悪くないんだよ。」


陸斗は、柔らかい表情で言った。



「ちょっとふざけてたら、俺が足を滑らせただけな 

 んだ。

 ホントだって、本人が言ってるんだから。

 変な噂信じないでよ。」


……それでも私は、心のどこかで棚橋君を疑ってしまっていた。


だからだ。

次の事件を見たとき、私は“間違った確信”をしてしまった。


――棚橋修也が、交番で発砲。


――三人死亡。


「……罪悪感に、押し潰されたのか……」


そう思いたかったのかもしれない


だが翌日。


校長、監督が自ら命を絶ったというニュースを見た瞬間、自分の浅はかさが恥となって胸を刺した。


何一つ、終わってなどいなかった。


陸斗の「修也は悪くない」という言葉を、どうして信じてあげられなかったのか。


あの日の少女、上谷さんの涙。


走り去る棚橋君の背中。



全部が繋がるのに、時間がかかり過ぎた。



---


年が明けた頃、私は願った。


――これ以上、生徒たちの命が奪われませんように。


だがその願いは、冬の空に溶けるように消え、

一日で十三人もの未来が失われた。


陸斗は、そのひとつひとつに胸を痛め続けた。


その度に、上谷さんと海斗が寄り添って、

陸斗の心をぎりぎりのところで支え続けてくれた。



---


五年半の月日が流れた。


家は、いつの間にか陸斗の身体に合わせて形を変えていた。

それが「前に進む」ということなのか、

私は今も分からない。


ただ一つだけ、確かなことがある。

あの時、信じ切れなかった私の視線が、

陸斗の人生に影を落としたということだ。


海斗はあの事件を機に野球を辞め、普通の高校生活を送っていたが、心のどこかでずっと気にしていたのだろう。


「萌々ちゃん。今度の日曜日にさ、兄ちゃんと3人 

 で甲子園の決勝戦見に行こうよ。


 これは、嫌味じゃないよ。

 もし、僕が野球続けていたらあの舞台に立ってた 

 かもしれないって思うんだ。


 だから、せめて、観戦だけでもしたいなーって。」


その一言で、

海斗がどれだけ自分を抑えて生きてきたのかが、

私には分かった。


——よく、ここまで頑張ってくれた。


決勝戦の早朝。

三人の乗った車が駐車場を出ていく。


2階の陸斗の部屋の窓から、その後ろ姿を見送った。


なぜか私は、窓を閉めることができなかった。


揺れるカーテンが、やけに寂しげに見えた。



---


深夜。

寝室へ向かおうとしたとき、携帯が鳴った。


「……海斗と……萌々ちゃんが……?

 陸斗は?」


声が震えていた。

私は飛び起き、妻を呼び、雨の道を走った。


ワイパーがガラスを引っかく音だけが響く。


嫌な想像が頭の中で膨らむ。

景色は滲み、妻の震える手だけがやけに鮮明だった。


私はその手を握りしめた。


「大丈夫だ」

それは、妻にではなく、自分に言い聞かせた言葉だった。


だが次の瞬間、

横から突き上げるような衝撃が車体を襲い、

世界が真横に滑り落ちた。


鉄の軋む音。

割れるガラス。


私は必死で妻に手を伸ばした。

妻は薄く目を開け、微かに笑った。


「……あなただけでも……

 陸斗の……そばに……」


その声が、雨に溶けていく。


世界が音を失った瞬間、

妻と私の体温も消えていった…



---


「陸斗、海斗。

 お前たちがプロになって対戦する時、

 父さんと母さん、特等席で見せてもらうからな。」


「楽しみねぇ。

 私は期待せずに待ってるから、無理しないで 

 よ?」


「大丈夫!待っててよ!海斗、いけるよな?」


「えー……僕、自信ないよー……」


夕暮れの風が吹き、

家族の笑い声が、空へ溶けていった。



雨の降りしきる国道。

トラックと、潰れた一台の車。


壊れたヘッドライトに照らされた闇だけが、最後まで私たちを見届けていた。




第37話へ続く

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