第四章 雷光の勇者
第12話 嵐の前、その静けさの中で
雷雲が、森の上に低く垂れ込めていた。
昼のはずなのに色は褪せ、地面に落ちる影だけが濃い。風は止み、枝葉は微動だにしない。鳥の影すらない。
「……静かすぎるな。嫌な世界だ」
カイ・ヴァルダーは、肩まで伸びた黒髪を乱暴に払いつつ、巡回路の先を睨んだ。言葉はいつも通りの刺々しさだが、その視線は仲間三人の背中を寸分違わず追っている。
ティリアがくるりと振り返った。風の気配を読みながら歩く癖は今日も健在だ。
「はいはい、いつも通り“嫌な予感がする”でしょ? カイの嫌味天気予報は当たるんだか当たらないんだか、よくわかんないけどさ」
「当たるに決まってんだろ。外れたら、お前が代わりに責任取るか?」
「え、やだ」
軽口が空気に小さく響く。しかし、響いた瞬間に吸い込まれるように消えた。声が森に馴染まず、反射すら返ってこない。
ガランがわずかに眉を寄せた。
「……音の返りがない。ここまで静かなのは異常だ。前線地帯でも、森はもっと生きている」
「生きてるなら、こうはならん。死んでるんだよ。空気が」
カイが乾いた声で言うと、ミーナが一歩前に出た。治癒士らしい静かな気配をまといながら、地面に掌をかざす。
「……魔力の流れが、途切れてる。血の気が引いたみたいに、冷たい」
ティリアが肩をすくめた。
「ちょっとさ、あたしたち、今日の任務“いつも通り”って聞いてきたんだけど。これ絶対いつも通りじゃないよね?」
「お前が言う“いつも通り”は信用ならん。そもそも――」
カイは言いかけて口を閉じた。
そこだけ、空気が固まっていた。
森の奥に、薄い膜のような違和感。目では捉えられないが、確かに“何かの縁”が揺れている。音はなく、気配だけがある。生き物のそれではない、もっと冷たい、もっと硬質な何か。
カイは仲間三人の立ち位置を再確認した。ティリアの足の運び、ガランの盾の角度、ミーナの呼吸速度――全部が普段通り。だが周囲だけが普段ではない。
「……離れすぎるな。三歩以内に収めろ」
「え、なんで? いつもは五歩で――」
「三歩だ。言ったら守れ」
ティリアは口を尖らせながらも、距離を詰めてくる。
ガランは無言で頷き、ミーナは小さく歩幅を調整した。
雷雲が、さらに低くなる。空と森の境界が沈み込み、気圧だけが存在を主張した。
ティリアがぽつりと呟く。
「ねえ、カイ。……あんた、なんか、見えてる?」
「見えてたらこんな曖昧な顔してねぇよ」
「曖昧って自覚あるんだ」
「黙れ。お前が喋ると空気が軽くなる」
「褒められてる?」
「殺気が薄れるから黙れと言ってんだ」
ガランがふっと息を吐く。
「二人とも、こんな時に喧嘩するな。……いや、していたほうがまだ安心か」
「だろ。静かにしてたら死ぬ気配しかしないだろうが」
カイの声は軽いが、目は笑っていない。
森の奥に、また“何か”が揺れた。音ではなく、魔力でもなく、ただ存在だけがひずみのように振動する。生き物の呼吸ではない。自然の理にも属さない。
――理屈では説明できない“嫌な気配”が確かにそこにあった。
ミーナが小さく首を傾げた。
「……カイ。この気配、どこから?」
「前でも後ろでもない。森全体だ。包囲されてるようで、そうでもない。中心がない」
ティリアが顔をしかめる。
「中心がないって……敵って、普通“どこか”にいるでしょ?」
「そういう常識とは相性悪そうだな。今日の相手は」
風はまだ吹かない。枝も鳴らない。雷雲だけが重く圧し掛かってくる。
カイはほんの一瞬、仲間を横目で見た。
ティリアは不安を笑いで誤魔化し、ガランは盾を握りしめ、ミーナはその指先をわずかに震わせている。
――この静けさの理由は、まだ姿を見せていない。
カイは歩みを止め、森の奥に向かってただ一言を落とした。
「……来るぞ。まだ姿は見えないが、“いる”」
ティリアが息を呑む。
ガランが盾を構える。
ミーナが治癒魔力を薄く展開する。
だが、敵は姿を現さない。
森は静寂を保ったまま、時間だけが重く蓄積していく。
カイは低く呟いた。
「嵐の前ってのは、こういうもんだ。……誰よりも静かで、誰よりも嫌な顔をしてる」
雷鳴の予兆すらない空の下、四人はただ、まだ見ぬ脅威の“影”だけを感じながら歩み続けた。
その影が、本物の災厄であることを
誰も、まだ知らなかった。
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