それでも俺はAIを使わない

@ningensanka

第1話:プロンプトを打つな

エンターキーを叩く音が、静まり返った会議室に乾いた音を立てた。 ッターン。 無駄に強く、少しばかりの自嘲を込めて。


俺、高村健たかむら けんの目の前には、愛機であるThinkPadが開かれている。 画面上には、Chromeのタブが54個。メモリ消費量はとうにレッドゾーンだ。だが、これこそが俺の脳内そのものだった。


「……高村さん。そろそろ、現実リアルのメモリも整理しませんか」


対面に座る編集者の松島が、冷めたコーヒーのような目で俺を見ている。 彼は手元のiPad Proを指先で滑らせながら、まるでバグ報告をするように言った。


「今回の原稿、遅れていますね。検索履歴ログを見る限り、また『人力マイニング』ですか」


「取材と言ってくれ。俺は、情報の深層を掘っているんだ」


俺は胸ポケットから電子タバコを取り出した。吸い口の赤いランプが点滅している。充電切れだ。 チッ、と舌打ちし、モバイルバッテリーにケーブルを突き刺す。この充電を待つ4分間だけが、俺に残された人間的な空白だ。


「深層、ねえ」 松島は鼻で笑った。 「Googleの検索結果の20ページ目までめくることを、あなたはそう呼ぶ。でもね、高村さん。それ、効率が悪すぎるんですよ。AIに要約させれば3秒です」


「AI? あの確率論で言葉を吐き出すオウムのことか?」


俺は充電中のタバコを指で弄びながら、低い声で吐き捨てる。


「いいか、松島。生成AIは『受動』だ。口を開けて待っていれば、それっぽい餌を放り込まれる。だが検索は『能動』だ。俺が選び、俺が掘り、俺が繋ぎ合わせる。そこには文脈コンテキストという血が通うんだよ」


俺の持論。 予測変換すら切ったキーボードで紡ぐ、最後の抵抗。 デジタルネイティブ第一世代としての、歪んだプライド。


しかし、松島の表情はピクリとも動かない。 彼はiPadを俺の方に向けた。そこに表示されていたのは、俺の近著の売上グラフではない。 とあるWebサービスの管理画面だった。


「能動的、とおっしゃいますがね」 松島が淡々と言う。 「あなたが検索窓サーチボックスに打ち込んでいる単語。それ、AIへの『プロンプト』と何が違うんです?」


「……は?」


「Googleという巨大なアルゴリズムが整理整頓した庭で、あなたは遊ばされているだけだ。検索エンジンのアルゴリズムに依存して書くのと、LLM大規模言語モデルに依存して書くの。本質的には同じ『他力本願』でしょう」


言葉が詰まる。 反論しようとして、喉の奥で乾いた音がした。 図星だったからではない。あまりにも暴力的な正論だったからだ。


松島は畳み掛ける。


「読者はね、作家が汗水垂らして検索順位の圏外から拾ってきた情報なんて求めてないんです。欲しいのは『最適解』と『エンタメ』だけ。プロセスに価値を見出すのは、作り手のエゴです」


「エゴで悪いか。それが作家だ」


「ええ、悪くはない。ただ……」


松島はiPadを閉じ、残酷なほど優しい声で言った。


「そのエゴに、これ以上のコストは払えません」


空気が凍りついた。 会議室の空調の音だけが、ブォーと虚しく響く。 充電中だった電子タバコのランプが、緑色に変わった。満充電だ。だが、俺の手は動かない。


「……どういう意味だ」


「次回の契約更新はありません、ということです。高村さん」


松島は立ち上がり、ジャケットの埃を払った。


「あなたの文章は、コストパフォーマンスが悪すぎる。今、うちの編集部では新人賞の一次選考をAIに任せています。そして、あなたの新作のプロットをそのAIに読ませたところ……評価は『D』でした」


「AIに、俺の何がわかる」


「少なくとも、今の読者のニーズはわかっていますよ。残念ですが、これは決定事項です」


松島は一礼もせず、会議室を出て行った。 残されたのは、俺と、タブが開きすぎてフリーズ寸前のThinkPadだけ。


俺は震える手で、電子タバコを口に咥えた。 深く吸い込む。 偽物のメンソールの味が、肺に染み渡る。


「……ふざけるな」


吐き出した煙は、白く濁って消えた。 俺はPCの画面を見る。 検索窓には、書きかけのワードが残っていた。


『小説家 生き残り方 検索』


カーソルが点滅している。 まるで、俺の人生の残り時間をカウントダウンするように。


その時、スマホが震えた。 通知画面には、同期のライバル作家・佐伯さえきの名前。 そして、メッセージが一件。


『よう化石。今夜、空いてるか? 面白い新人が入ったんだ。紹介するよ』


俺はスマホを握りつぶしたくなる衝動を抑え、画面を裏返しにした。 検索しても、この絶望の脱出ルートは見つからない。


俺はまだ気づいていなかった。 この瞬間こそが、俺という人間が「データ」として加工され始める、最初の一歩だったことに。

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