The headless chicken
きょうじゅ
首がないんだよ
ヒベルニアは妖精の住まう地であると人々は古くから信じていた。辻でつむじ風に出会えばそれを妖精の仕業であると信じて挨拶をし、夜が来れば家畜の乳を窓辺に置いて妖精たちにおすそ分けをする。村外れの一軒家に住む羊飼いの青年オスカーも、そのようにして日々、素朴な暮らしを送っていた。
ヒベルニアの妖精たちは、かつて神であったという。神であった頃の彼らは、ダーナ神族と呼ばれていた。しかし、ミレーと呼ばれる種族――すなわち、今の言葉で言うところの人間――たちとの争いに敗れた彼らは大地の下の異界に姿を消し、やがて力も本来の姿も失って小さな妖精たちへと変じていき、時折地上に彷徨い出るようになったのだという。
「きょうは羊たちがよく乳を出したからな。今夜は奮発するか」
オスカーの普段の夕餉はパンとチーズだけの質素なものであったが、その日は干し肉を少し煮て、スープを作った。温かいスープと肉の味に舌鼓を打っていると、不意に、戸をノックする音が響いた。とんとん、とんとん、と。
「はい?」
「御在宅でしょうか」
「ええ。鍵などありませんから、どうぞ」
くぐもった男の声であることは分かったが、こんな夜中に誰だろうか、とオスカーは訝しんだ。この家は街道からは外れており、旅人が突然訪ねてくるような場所には建っていない。村人の誰かであるのならまず声で分かる。と、そこで扉が開いた。
開かれた扉の前に立っていたのは、鎧姿の騎士。いや。それは、首のない、マントを纏った甲冑であった。
「ま、さか……デュ……デュラ、ハン……!?」
オスカーはこの地の生まれであるから、もちろん知っている。デュラハンは、ヒベルニアの妖精の中では最も忌まれ恐れられるもの。訪れる先の家にまもなく死者の出ることを告げる、死神の一種である。
「ひ、ひぃぃぃっ!」
ヒベルニアにはデュラハンに関する多くの伝承がある。扉を開けてデュラハンをいざない、その桶の血を浴びせられた者はまもなく死ぬとされていたし、デュラハンから逃げ延びることができれば助かるという言い伝えもあるにはあるが、もう相手は家の中につかつかと入ってくるところだし、どう考えても逃げられそうもない。オスカーはスプーンを取り落とし、震え上がった。
「お、お助けを! ご勘弁を! まだ死にたくないっ!」
「オスカー様」
オスカー様? 恐怖に包まれたオスカーの心の中に、一点の疑念が生じた。自分は確かにオスカーだが、デュラハンにオスカー様などと恭しく呼ばれる筋合いは何一つない。自分は特に何がどうということもない、村の羊飼いであるに過ぎない。
「おお、オスカー様。どうぞ、こうべを御上げ下さい。どうぞ、リアムによくお顔をお見せください」
どうも、自分が知っているデュラハンというものとは何か勝手が違うようだ、とさすがにオスカーも思った。なのでとりあえず、頭を上げた。リアムと名乗るデュラハンを、伏し目にちらりと見る。このデュラハンは喋るが、口があるわけではない。がらんどうの全身甲冑の、その頭部のない首の部分から、うろに響くような音が鳴る。
「おお、なんとお懐かしい。このリアム、あなた様に再びお仕えすることのできる日を、ずっと、ずっと心待ちにしておりました」
オスカーには、リアムが何を言っているのかまったく分からない。デュラハンに知り合いなどいない。いないはずだ。曽祖父の代まで家伝を辿っても、この家にデュラハンが奉公していたなんて話は夢にも聞いたことがない。
「あああの。失礼ではありますが、誰かとお間違えでは?」
「お分かりにならないのも無理はありません。ご記憶がないのでしょう。しかし」
リアムは甲冑の空洞に音を響かせながら、もったいをつけて語った。
「あなた様はダーナ族の英雄神オグマの転生せし御身。そして、いまイングランドとの戦乱に荒れるこのヒベルニアを統一し、新たなる王となるべき御方なのです」
な……何を途方もないことを言っているんだ、こいつは……? と、リアムはなお尽きぬ惑乱の中で、そう思った。
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