新宿ダンジョン公社・運営管理部の日常

花柳響

第1話 深夜残業のデバッガー

 午前二時四十三分。

 空調のファンが唸りを上げる重苦しい音が、湿った石壁に反響している。

 カビと埃、それに微かなオゾン臭が混じり合った独特の空気は、新宿駅の地下通路よりもずっとたちが悪い。換気システムが正常に稼働しているはずの「新宿ダンジョン」十五階層だが、淀んだ空気まではどうにもならないらしい。

 首筋にへばりつくワイシャツの襟を指で引き剥がし、肺の奥まで侵食してくるような冷気を吐き出す。

 目の前で、ゼリー状の半透明な塊が、ぶよん、と不快な音を立てて震えた。

 スライムだ。ファンタジーRPGなら最弱の雑魚モンスターとして愛嬌すら感じさせる存在かもしれないが、ここ「現実」のダンジョン管理において、これほど鬱陶しいオブジェクトはない。

 分裂、増殖、そして粘液による汚損。冒険者にとっては経験値稼ぎのボーナスステージでも、清掃業者と施設管理担当にとっては、ただの残業確定フラグでしかない。

「……規定値オーバー。湧きすぎだろ」

 誰に聞かせるわけでもない独り言が、石畳の床に吸い込まれていく。

 視界を埋め尽くす青白いゲル状の群れ。通常なら一区画に三体程度のリポップレートが設定されているはずだが、今の状況はどう見ても五十を超えている。完全にバグだ。

 安物の革靴のつま先で、足元にすり寄ってきた一匹を軽く蹴り飛ばす。水風船のような弾力と共に数メートル先へ転がっていったが、ダメージ判定は発生しない。こちらの攻撃力がゼロだからだ。そもそも、戦うつもりなんて毛頭ない。

 俺、工藤連次くどう れんじの仕事は「討伐」ではない。「処理」だ。

 電気、ガス、水道に次ぐ第四のインフラとして、ダンジョンがこの国に定着して半世紀。かつてのような未知への冒険心や、一攫千金を夢見るロマンは、とうの昔にコンクリートと条約によって舗装された。

 今やダンジョンは、マナエネルギーを供給する巨大な発電所であり、希少資源の採掘場であり、そして俺のような社畜が死んだ魚のような目で徘徊する「職場」に成り下がっている。

「ふあ……」

 あくびを噛み殺し、胸ポケットからスマートフォンを取り出す。

 画面の光が、隈の浮いた目の奥を刺すように眩しい。バッテリー残量は一八パーセント。俺の体力ゲージといい勝負だ。業務連絡用アプリ『D-Slack』のアイコンには、既に二桁の赤いバッジがへばりついている。見たくもないが、無視すれば後で始末書を書かされる。

 親指でアイコンをタップすると、未読の山が雪崩れ込んできた。

『15階層C区画にてスライムの異常増殖を確認。至急対応求む』

『本日中の報告書、まだですか?』

『経理部より:先月のタクシー代の領収書、不備があります』

『鬼瓦部長:工藤、悪いが追加で20階層の光源チェックも頼めるか?(スタンプ:土下座するゴリラ)』

 既読をつけずに画面をスワイプして閉じる。

 胃の腑が鉛を飲み込んだように重くなった。カフェインの過剰摂取でキリキリと痛む胃壁をさすりながら、もう一本、温くなったエナジードリンクのプルタブに指を掛ける。

 プシュ、という間の抜けた炭酸の音が、静まり返ったダンジョンに響いた。化学調味料の甘ったるい味が喉を通り過ぎ、脳髄へ微かな覚醒を送り込んでくる。

「……やってらんねえ」

 虚空に吐き捨てた言葉は、またしてもスライムの粘着質な移動音にかき消された。

 こいつらは愚痴を聞いてはくれないし、かといって襲ってくるわけでもない。ただシステムのエラーとしてそこに存在し、睡眠時間を削り取っていく。

 安全第一と書かれたヘルメットの顎紐を締め直し、ネクタイを少しだけ緩める。

 さて、仕事を始めようか。

 英雄が剣を振るう華々しい戦場ではない。誰にも賞賛されず、誰の記憶にも残らない、地味で退屈な「メンテナンス」の時間だ。

 足元の感触が、にちゃりと不快な音を立てる。

 三千円で買った革靴の底が、スライムの分泌液で溶け始めているかもしれない。経費で落ちるだろうか。いや、前回も「消耗品費」での申請は鬼瓦部長に却下された。理由は「歩き方が悪い」だったか。理不尽な組織の論理を脳内で反芻しながら、群れの中心へと歩を進める。

 視界を埋め尽くす青いゲル状の壁。普通の人間なら悲鳴を上げて逃げ出す光景だろうが、あいにくこちらは恐怖を感じるほど精神のリソースが余っていない。

「……対象オブジェクト、増殖プロセス異常。自己複製ループの書き換えミスか」

 右手に持った業務用のタブレット端末を指先で弾く。

 画面に走る文字列が、目の前の怪物を「生き物」としてではなく、単なる「数値の羅列」へと分解していく。本来、ダンジョンというシステムは厳格なルールで管理されている。階層ごとのマナ濃度、出現するモンスターの種類、そして個体数。すべては公社が定める「環境維持基準」に基づいてプログラムされた挙動だ。

 だが、システムあるところにバグあり。何らかの要因で変数が狂えば、こうして本来ありえない異常事態が吐き出される。

「きゅう、きゅ!」

 一匹のスライムが、威嚇するように体積を膨張させた。

 酸性の粘液が飛沫となって作業着のズボンに跳ねる。じゅっ、と繊維が焦げる匂いが鼻をついた。

「ああ、もう。クリーニング出したばっかなのに」

 ため息と共に、眼鏡の位置を人差し指で押し上げる。苛立ちよりも、徒労感だけが深く沈殿していく。

 モンスター討伐? そんな野蛮なことはしない。剣で斬れば分裂するし、魔法で焼けばガス爆発のリスクがある。そもそも、こいつらをいちいち「殺して」いては、定時までに帰れるわけがない。

 それに、俺の戦闘能力スペックは一般人並みか、それ以下だ。ゴブリンに殴られれば骨が折れるし、オークと正面からやり合えば三秒でミンチになる自信がある。

だが、「逃げる」ことと「隠れる」ことに関して言えば、俺はプロ級だ。

 新人の頃から、配管の点検中に何度も魔物に追われ、そのたびにダクトの隙間や瓦礫の影に滑り込んでやり過ごしてきた。戦わないからこそ磨かれた、徹底した「生存スキル」。現場で生き残るために必要なのは、腕力ではなく、危機を察知して一目散に退避する判断力だ。

 俺がやるのは、もっと事務的で、根源的な「処理」だ。

「……アクセス権限、確認」

 呟きと共に、意識のギアを切り替える。

 網膜に映るスライムの群れが、青白いワイヤーフレームの構造体へと変貌した。核となる部分に、赤く点滅する不正なコード。あれが暴走の原因だ。

 血管を流れる血液が、冷たい水銀に入れ替わるような感覚。心拍数は変わらない。体温も上がらない。ただ脳の処理領域だけが、異常な速度で「世界」を記述するソースコードを読み解いていく。

 ユニークスキル《論理復元ロジカル・リストア》。

 対象の存在定義を、システム上の「初期値」へと強制的にロールバックさせる権限。どんなに強力な魔物でも、どんなに強固な魔法障壁でも関係ない。システム上に存在する限り、それは書き換え可能な「データ」に過ぎない。

 スライムたちが、本能的な危機を察知したのか、一斉に波打った。数百のゲルが津波のように押し寄せてくる。粘液の生臭い臭気が、鼻孔を強烈に刺激する。

 けれど、動かない。

 逃げる必要も、構える必要もない。ただ、右手をだらりと下げ、親指と中指を重ね合わせるだけ。

「……はぁ、帰りたい」

 渇いた唇から漏れた本音が、トリガーとなる。

 乾いた音が、地下空間に響いた。

 パチン。

 指を鳴らす音。それだけだ。派手な閃光も、轟音もない。

 しかし、その瞬間――世界から「色」が落ちた。

 押し寄せていたスライムの波が、コマ送りのように静止する。次の瞬間、それらは内側から弾けることも、溶けることもなく、フッ、と。まるで最初から存在しなかったかのように、虚空へと掻き消えた。

 数百体いた群れが、瞬きする間に、規定値である「三体」だけを残して消滅する。残された三匹のスライムが、何が起きたのか分からないといった様子で、ぽかんと震えている。

「……処理完了。正常値オールグリーン

 タブレットの画面に表示された「解決」の文字を確認し、再び大きなあくびを噛み殺した。

 静寂が戻ったダンジョンに、空調の音だけが虚しく響いている。

 画面上の進捗バーが100%に達し、「送信完了」のポップアップが浮かぶ。これで、一件落着。

 英雄的な凱旋も、報酬の金貨もない。あるのはサーバーログに残る「バグ修正:1件」のテキストデータと、深夜割増の残業代だけだ。

 生き残った三匹のスライムが、仲間がいなくなったことに気づく様子もなく、壁面のパイプにへばりついて苔を食み始めた。そのパイプの中を流れているのは、水でもガスでもない。高純度の液状マナだ。

 壁の向こう側から、ドクン、ドクンと重低音が響いてくる。まるで巨大な心臓の鼓動だ。このダンジョン全体が、東京都心の電力の約四割を賄う巨大な臓器として機能している証拠でもある。

 俺たちが管理しているのは、ファンタジーな迷宮ではない。一千四百万人の生活を支える、薄皮一枚で破裂しかねない巨大なエネルギー炉だ。もしここでの「処理」を怠れば、地上では大規模な停電が起き、信号が止まり、病院の機器が停止する。

 だから、俺のような冴えない作業員が、こうして地べたを這いずり回っている。

「……英雄なんて、要らねえんだよ」

 誰に言うでもなく呟き、空になったエナジードリンクの缶を握り潰す。

 世界を救うのは、聖剣でも禁呪でもない。地味で、退屈で、誰からも感謝されない「メンテナンス」の積み重ねだ。少なくとも俺は、そう信じてこのクソみたいな仕事を続けている。

 首を回すと、ゴリ、と嫌な音が鳴った。

 凝り固まった筋肉が悲鳴を上げている。限界だ。これ以上は、俺というシステムのほうがバグを起こす。ヘルメットを脱ぎ、脇に抱えた。湿気でペタリと額に張り付いた前髪を指で払うと、ひんやりとした空気が肌を撫でる。

「帰ろう」

 踵を返し、職員専用の通用口へと向かう。重たい安全靴を引きずる足取りは、ゾンビよりも遅いかもしれない。頭の中は、駅前のコンビニで買うビールの銘柄と、泥のように眠れる布団の感触だけで満たされていた。

 通用口の重厚な鉄扉が見えてくる。あの向こうには、エレベーターがある。地上まで直通で三十秒。そこから更衣室で着替えて、タイムカードを切れば、ようやく「今日」が終わる。

「お疲れ、俺」

 鉄扉のカードリーダーに社員証をかざそうと、右手を伸ばした。

 電子ロックの解除音を待ちわびる、その一瞬。

 ビーッ! ビーッ! ビーッ!

 鼓膜を突き破るような警報音が、通路の静寂を切り裂いた。

 赤いパトランプが回転し、薄暗い石造りの回廊を禍々しい色に染め上げる。

「……は?」

 伸ばした手が、空中で凍りついた。

 懐の端末が、狂ったように振動を始める。画面に表示された文字を見るまでもない。この音は、通常のエラーじゃない。

『緊急警報:最深部エリアにて規定外エネルギー反応を検知』

 無機質なアナウンスが、ささやかな帰宅願望を無慈悲に踏み砕く。

「……嘘だろ」

 目の下のクマが、ひきつるように痙攣した。

 どうやら、神様もダンジョン公社も、俺に安眠を与えるつもりは微塵もないらしい。

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